今日はうれしいお知らせがひとつ。
教室から、今年度初の志望校合格者が出ました!
トップバッターは高校3年生。
大学受験生でした。
とある大学のAO入試を受験。
面接と小論文のみの入試ということで、僕のもとに小論文を訓練しに来ていました。
はじめは「ホントに受験生かな」と思うほどに知識も技術も足りていなかった。
ほんのわずかな時間で、急ピッチで追い込んだので、本人はきつかっただろうし、表面的な対策になってしまったと思う。
試験日が近づいても何となく伸び悩み、あれやこれやのポイントを全部押し込めようとして上手くいかなくなり、同じような指摘を何度も何度も。
でも、最後までねばり強く取り組んでくれました。
いやーとにかくめでたい。
うれしそうな声で「合格しました」と報告してくれたのですが、やはりその言葉を聞く間際は「ゴクリ」とのどがなってしまいそうなほど、息を飲んで耳に意識を集中していました。
やっぱりうれしい報告は何度もらっても、うれしい。
うれしい、よかったね、という思いとともに、自分のやってきたことが間違ってないのだと、僕自身が評価してもらえたように感じる。
だから、やっぱり今でも講師をやっているのだろう。きっと。
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彼と僕の付き合いは、ほんの2~3ヶ月の間でしたが、様々刺激を与えることはできたと思います。
作文や小論文を書くってのは、その技術があれば良いというものではない。
書く内容なり、想いなり、そういったものが合わさってはじめて、その人らしい素敵な文章ができあがるのです。
作文が苦手な多くの人、そもそもそういう作文が苦手な人を量産している学校の先生自身が、そういう大事なところを素っ飛ばしている。
実にモッタイナイ。
「書く」は「書く」だけで成立するものではない、「読む」と密接に関わる。
そればかりではなく、当然「話す」「聞く」とも連動している。
スピーチのための原稿作成とか、「書く」「話す」がつながったものですね。
だから、書くための内容(知識)もどんどん増やさなければいけない。
その意味では読書や新聞などが重要な役割を担っている。
政治、経済、文化、思想、哲学、宗教、教育…
さまざまな事象を受け取り、吟味し、適確な形で表現(発信)する。
作文はそういった人間の根幹部分に関わる重要な能力であり、作業なのだ。
読解力を鍛え、様々な文献や人物とコミュニケーションを図り、難しい局面にも果敢にチャレンジできるようになるため、一番手っ取り早く、入試やテストなどの成績のためだけではなく、一生涯に渡って使える力が作文(表現・発信力)なのだ。
学校の先生が教えてくれない?
たしかにそれはもう不幸としか言いようがない。
ならば、その中で自分は何ができるのか、どうしなければならないのか。
ぜひ今一度お考えをまとめていきましょう。
最後までお読みくださってありがとうございました。