作文・読解力など国語力向上 学習塾ラーニング・ラボ横浜天王町教室のスタッフブログ! -15ページ目

作文・読解力など国語力向上 学習塾ラーニング・ラボ横浜天王町教室のスタッフブログ!

作文・小論文・読解力など国語力UPのための塾。横浜市保土ヶ谷区にある学習塾ラーニング・ラボのスタッフブログです。教室での出来事、教育ニュース・新聞記事・書籍についてのコメント、当塾オリジナルの「基礎講座」で作成した生徒の作品なども発表します。


今夏は、ほぼひと夏をかけて、「輪読」を実践してきました。

受講生のみなさんにレジュメをつくってきてもらったりしましたので、慣れない作業になかなかに苦戦した人も多かったでしょう。


この単元の最後に夏休みの宿題の定番として「読書感想文」を書いてもらいましたが、濃い内容の本を読み、濃い内容の授業を受けたからか、みなさんいつもとはまた違った内容の作品を仕上げてくれました。

全部をご紹介したい気持ちは山山なのですが、今回は「君たちはどう生きるか」という本を受けての感想で、多分にプライベートな、個人的な体験がふんだんに盛り込まれた感想文なので、すべてを審らかにすることはかないません。

というわけで、素敵な作品の中から、その1部、1節をご紹介することにしました。

  
   「輪読」からの「読書感想文」生徒作品


ぜひご感想をお聞かせください。

また、小中学生の親御さん、あるいは彼、彼女を指導している先生方、ぜひともこの本をきっかけに、「友情」「正義」などについて考える時間を設けてみて下さい。

「小中学生には難しい」

などといって避けるなんてもったいない。

多少難しくたって、それぞれ自分なりに何かを感じられるものです。

さらに、この本ではより身近な事として考えられるように、主人公コペル君を中心とした物語が展開されているので、自分の日常と置き換えて考えやすいはずです。


ぜひぜひ、おすすめです!!


教室内の「きょうの出来事」ではありませんが、

本日2014年9月12日朝刊一面には、重大なニュースが報じられていましたので、

注目しないわけにはいきません。


東京電力福島第一原発事故のいわゆる「吉田調書」について、

朝日新聞が「所員の9割が署長命令に違反して撤退した」と報じた記事が

誤報であったことを認め、記事の取消を発表、謝罪会見を開いたとのことです。


また、同時に、8月5日のいわゆる従軍慰安婦報道に関する記事の取消に際して謝罪がなかったことに対しても「謙虚であるべきだった」と謝罪したとのことです。



福島第一原発事故では、事故当時の吉田所長はまさに命を懸けて事に当たっていたわけです。

もちろん所員たちも。

この報道によって誤った情報が、国民だけでなく、諸外国の報道機関が朝日新聞の報道を引用したことで、世界中に拡散されたのです。

今回の取消および昨日の政府の事故調査委員会の調書の公表によって、ようやく故人の名誉は回復されたことになります。



いわゆる従軍慰安婦報道に関しては、近年の韓国の動きやそれに動かされた米国の一部の動き、さらには国連の動きなどをみると、やはり朝日新聞の報道がかなり重要なファクターとなっているのは、多くの人が認めているところです。


こちらも日本国内だけでなく、諸外国でも関心の高い話題であり、

両記事とも日本の国益、日本人の尊厳を損するに値するような、重大な誤報だと言えるでしょう。


改めて僕たちは、メディアというものとの接し方を考え直さなければなりません。

今回の誤報は、そういうことを朝日新聞が、改めて身を持って示したという1点では唯一評価できるでしょう。


日本人は欧米などに比べるとメディア、特に、マスメディアに対しての信頼度が高い傾向があるようです。


実生活の中でも、まぁ最近は減ってきたようにも思いますが、

「テレビで言ってたよ・・・」
「新聞に書いてあった・・・」


ということを自分の意見の確たる証拠とする人がいます。


もちろん、あらゆる新聞やテレビがダメなわけではないので、

自分の主張の根拠の一つとして挙げるのは良いでしょう。

大切なのは、

 「テレビや新聞で言っていたこと」が、
  すなわち「正しいこと」ではない。



ってことを思わなければいけない、ということです。


まさにメディアリテラシーの必要性がここにあるわけです。



もちろん、メディアが「正しい」「事実」を報じることは、

究極の使命であろうと思われますが、

必ずしもそうはいかないこともあるでしょう。


さらに、メディアの大きな使命の一つが、

「権力チェック」

です。


政治家、国家というような権力者が、国民の代表として職務に当たっているか、

権力を乱用していないかをチェックすることがメディアに与えられた、

大きな使命であります。


当然、政治家や行政組織などへのチェックは厳しくなる。


しかし、そうしたある種の緊張関係があるからこそ、

完ぺきではない人間が、すぐに悪さをしてしまう人間が、

より安定した世の中をつくることにつながっていくわけです。


権力者である政治家などが、その力を使って国民の、国家の不利益となることがないように、メディアは厳しくチェックするわけです。

時に過剰なまでの報道で。



私たちは、通常個人の力だけではアクセスできないようなニュースを新聞やTVなどのいわゆるハイクオリティーな媒体で入手します。

最近はインターネットなどで、そうではないソースからの情報にも簡単にアクセスできるようにはなりましたが、それでもやはり日本では新聞やテレビの影響力は大きいというのが現状でしょう。

マスメディアの情報を受け、世論を形成し、世の中の流れを変えていく行動をとる。

ある意味で、一般の国民が身近な政治参加、政治的な行動をするための大きなきっかけとなるのが、メディアなのです。

だから、メディアは国民の味方という見方もできます。


しかし、だからこそ、今回のような誤った事実を拡散するような報道は、いけません。

もちろん間違ってしまうことは、不完全な人間にとっては当たり前に起こりうる事態ですから、そのことだけを持って非難するのは、少々心が狭すぎる。

でも、その間違えに対しては、謙虚に、迅速に対応しなければいけないでしょう。

特に、朝日新聞の報道とあっては、単に一個人の誤った言動とは比べ物にならない程の影響力があるのです。




さてさて、あなたは今回の朝日新聞の誤報、どう受け取りしましたか?

そもそも、これら記事が報じられた時に、どのように受け取っていましたか?


「朝日新聞が言うんだったら、それが『正しい』のだろう」

と鵜呑みにしてしまってはいませんか?


仮に、正しい事実が報道されていたとしても、一度「自分」で確かめてみる、
あるいは、疑ってみるという姿勢は非常に重要です。

もちろん、自分ですべての事件を取材するわけにはいきません。



では、どうすれば、良いのでしょうか。





答えのひとつは、僕らが行っているオリジナル授業「基礎講座」で、小中高生が実践しています。

とっても簡単、単純なことで、小中学生でもできること。

だから、オトナの私たちができないはずがない。



 「自分の子どもには、将来、変な情報に踊らされず、
 自分の頭で価値判断ができる人間になってほしい」


そうお考えの親御さんがきっとたくさんいらっしゃると思います。


朝日新聞という日本を代表するような新聞社でさえも、先のような状況になり得るわけです。

情報化社会といわれて久しい昨今。

もっともっとたくさんの誤報に僕たちは踊らされているのかもしれません。


 「子どもたちにはそうした情報にもみくちゃにされても、
 強く、しなやかに生きていってほしい」


僕もそう思っています。


でも、そのために必要なことは、何も特殊な勉強や訓練ではありません。

きっと大変身近で、単純で、でも大切なこと、当たり前のことを当たり前に行っていくことが何より大切なはずです。


だから、「受験で有利」「学校の成績が上がる」なんて物差しだけではかった勉強なんて、本来、二の次三の次であるはずなんです。


学ぶべきこと、磨くべきことは、他にももっともっとあるんです。


残念ながらそうしたことを学ぶ環境は、現在の日本には少ないのかもしれません。

やっと公教育でも、そうした意識は出てきているようですが、まだまだ一部の心ある先生の取り組みがあるというのが実際のところのような気がします。



だから、僕が子どもたちにしてあげられることは、そうした学びの場として当塾の「基礎講座」がもっともっと活きた豊かな場となるように磨き上げること。


多くの人が塾に通っているのだから、その場が単に学校の授業のくり返しのようなだけのものでは、モッタイナイ。

学校では不足する学習のフォローももちろんですが、そうではない刺激をいっぱい受けて帰ってもらえる場。

そんな学び場がもっと増えていかなければいけないと、改めて思い直しました。






夏休みも終わり新学期が始まり早1週間。

中学生はもうそろそろ定期試験直前というところでしょうか。

夏休みはしっかりと復習できましたか?


夏休みの宿題でそれどころではなかったって?



毎年生徒の夏休みの宿題の進捗具合を確認したり、なかなか一人でははかどっていかない課題のサポートをしたりしていると、ふと自分が小中学生だった頃を思い出します。

「こんなに一生懸命宿題やっていたかな」


いつもすぐに宿題を終わらせて、1ヶ月以上の休みを謳歌してやると意気込むくせに、結局直前まで宿題が終わらずに残る始末。

生徒たちには、

「7月中に宿題終わらせるんだよー」

と言いつつ、自分は出来ていなかったなーとちょっと心に引っかかるものを感じる日々。


さらに、当塾では毎年恒例の「作文講座」があり、通常授業の「基礎講座」でも、やっぱり作文がらみの話題が出やすい。

だから、今年も何本、何十本の作文を添削しましたね。

正直、定番の「人権作文」や「税の作文」は、毎年苦戦させられますが、今年も後半になってHELPを出してきた生徒には、大変手を焼きました。


まぁそもそも中学生くらいで実感を伴って語れることなんて、そうそう多くないのかもしれませんから、作文のネタを探すためにヒアリングしても、けっこう似たり寄ったりの意見が出て来る。

そうなると、こういうパターンはあの子が書いてたし、こっち系で責めるのは、あいつに提案したな、などなど、アドバイスの内容がどんどん狭まってきてしまう。

でも、提出まで時間もないし、手早くまとめさせてしまうのも一つなのか、とか、いろんな葛藤をして夏休み終了を迎えました。


すでに宿題がチェックされ返却されたという生徒もいて、

「作文、どうだった?」

と聞くと、軽くコメント書かれて返されただけだとか。


「うそーん。あんなに苦しんで書いたのに・・・」


自分が書いたわけではないけど、その作品が生み出される過程を具に見てきた当事者の一人としては、何だかやるせない気持ちになったりもします。


結局、何のために作文課題を出しているんだろう!?


やっぱりいつもその言葉がうかんでしまう。


課題が出される時、その前に、文章の書き方やその意味がきちんとレクチャーされているわけでもなく、かといって事後の指導が十分にあるのかといえば、そうではない。

ほんと、何のための宿題なんでしょう。


慣例?
丸投げ?

ついついネガティブな思いがちらついてしまう。


まぁでもそのおかげで私はいつも生徒たちの生の、内なる声に出会えているということもある。

きっかけが学校の宿題だろうと、いや宿題だから、いやいやでも作文ということに生徒は出会い、その作業を通して、何かを感じ、少し大きくなっていく。

その現場に立ち会えることは、やっぱりおもしろい。

もちろん楽しいだけではないから、苦しみを共有しなければいけない時もある。

こちらが勝手にレールを敷いて書かせてしまえば楽なんだけど、それじゃ意味がないから。

だから、なるべく一緒に苦しむ。

それが私の流儀の一つ。


こんな苦労はきっと周囲の人は誰もわからないんだろうな。

いや本人すら宿題の一つが、しかも憎き、憎き大きな敵が攻略できた喜びが大きくて、きっとその過程で感じたものや、学んだことは、一回きれいに吹き飛ぶんだろうな。

クラッカーが弾けるように、「パーン」って。


でも、いいんだ。

私は知っているから、普段は見えない心の底で、実はものすごく真剣に考えているってこと。

私にはわかっているから、勉強が苦手って思われている子だって、ちゃんと手順を踏んであげれば、もの凄く深く、広く、鋭く考えることができるってこと。


だから、いいんだ。


私のささやかな苦労は、そのための一石になってるって思えれば、それでいいんだ。



さてさて、現在「基礎講座」では、初の試み『ディベート』を進めています。
現在はテーマを決めて、チーム分けをして、チーム内での作戦会議を進行中。

これまで個人作業が多く、とくに作文などには力を入れてきましたが、やっぱり口頭のコミュニケーションだって大事。

これまでも『ブックトーク』や『DST:デジタルストーリーテリング』などの口頭発表はやってきましたが、今回は作文で培ってきた「論理的思考」と口頭発表を織り交ぜた実践。


さぁ、どうなることか。

たのしみ、たのしみ。




ここ数日比較的涼しい日々が続いています。

生徒たちの中には長袖を羽織って通塾してくる子もちらほら。


急な気温の変化と、夏の疲れで、若干体が気だるい感じです。

みなさん、体調崩されていませんか?


さて、もう数日たってしまいましたが、

今週の月曜日8月25日に文科省が「全国学力・学習状況調査」の結果を発表しました。

その結果が26日の朝刊1面を飾っていました。


今回の目玉は、47都道府県中最下位の成績であった沖縄県が大躍進をしたことでしょうか。

小学生の「算数A」が最下位から6位になったとのこと。


その要因として、これまで全国TOPクラスの成績を出し続けてきた秋田県と教員の交流を行って、「秋田流指導」を取り入れたと記されています。

平成19年から再開された全国学力調査ですが、それ以降秋田県は常に上位の成績で、教育関係者の間では、一時期「秋田詣」が盛んに行われていました。

国際学力調査のOECD-PISAでも、上位成績を出していたフィンランドが一時期かなりの注目を浴びており、「フィンランド詣」もブームとなっていました。


現在は、その熱も、その当時と比べれば冷めているのでしょうか。

とはいえ、今回、こうして沖縄県が秋田県に示唆を受けて大躍進となったら、今回最下位層にランクした地域による「秋田詣」の復活ということにもなるかもしれませんね。


もちろん、地域の学力が、こうしたテストによって全国との比較という形で見られるのは、良いことだと思います。

あるいは、実際に小中学生の保護者のみなさんからすれば、我が子の通う学校や地区の教育状況がどのようなレベルにあるのか、純粋に知りたいと思うのかもしれません。

教育というのは、特に、知育に関しては、外見的な特徴に何か大きな変化が伴うものではありませんから、学習の成果を測るためにテストをするというのは、ある意味当然の流れ。

ただし、このブログでもくり返し書いてきていますが、そのテストが目的となってしまうと、また別の問題をうむことになるわけです。

テストとは、あくまでも学習・指導の成果を測り、今後の学習・指導の改善に資するものでなければなりません。

その意味でテストとはあくまでツールであり、手段であるわけです。


それが、いつのまにかテストが手段ではなく、目的となってしまい、「テストで良い結果をとるための学習」が学習の主役となってしまうわけです。

そうなると、入試などが良い例ですが、「テストで出ることだけを学習する」とか「テストが終わる=学習が終わる」という考えが横行してしまうことになるのです。


これは、モッタイナイ。


もう、悲劇と言ってもいいかもしれない。



全国学力・学習状況調査も、もうそういう対象となってしまっているかもしせませんね。

地域の全体的な学力水準を底上げするというのは、教育行政サイドからすれば重要な施策です。

ですが、その手法が、単にあるテストで結果を上げることにばかり注力されるものであったら・・・

それは本当に学力水準が上がったことになるのでしょうか。


そのあたりはやっぱり今一度よくよく考えておかなければいけないと思います。


それは学校教育(公教育)の現場ももちろんですが、私たちのような私教育の部類に入る塾や予備校などの教育支援機関でも同じことが言えます。



「勉強がつまらない」という人の多くは、テストという存在に辟易しています。

教科書で習うことの多くが、自分とは関係ない世界で、頭の中だけの世界で、つまり、テストの世界の中だけで通用することだと思っている人もいます。


教科書で習うことも、日々のテストや入試で問われる知識も、実は、自分の身近な生活につながることなのに・・・

教科が分かれていて、同じ世界のことを説明しているのに、それぞれを別のものだと思っている人もいます・

理科と社会、国語と英語、国語と数学、数学と理科・・・
一緒に考えるとより楽しく、より実感を伴って、より深く理解できるのに・・・


学校ではなかなか難しいんでしょうね。

以前「総合的学習」というものがありましたが、現在は「ゆとり」の反省からか、なりを潜めています。


さらに塾でも教科がきっちり分かれていて、講師も「文系」「理系」などできっちり分かれていると、なかなか教科横断的な話ができない人もいるでしょう。

そういう人の方が多いのかな。

そうなると、多くの児童生徒たちは、いつまでたっても、どこにいっても、教科書的・テスト的な学習を延々と続けなければならないことになります。

運が良ければ、心ある、力ある先生に出会えて、良い刺激をもらえるかもしれない。


そうでなければ、単に教科ごとに学習して、テストを受けて、受験をして、「つまんないけど、やんなきゃいけないものだから」と勉強を続けていく。

それで、大学生かなんかになったら、これまでのようなみんな一律の教科もなく、何となく単位はとれちゃうから、ここぞとばかりに勉強しなくなり、遊び呆けてしまう・・・



もうこれは悲劇です。




そうならないように、少しでも。

自分のまわり、自分の目の届く範囲だけでも、その大きな流れに抗い続けていきたい。

私たちが出会った子どもたちのうち、その何割かだけでも、そういう学習の価値に気づき、将来自分の子どもや次の世代へ、そうしたメッセージを発する存在になってくれれば良い。

それがわたしたちの気の遠くなるほど長期的な社会貢献の一つなのでしょう。


心ある方、私たちの思いに共感して頂ける方、ぜひ一緒にがんばりましょう。


そういう在り方の先にしか、この国の未来はないとさえ思っています。





全国学力・学習状況調査の話題から、ここまで随分と熱っぽくなってしまいました(^_^;)


そういえば、我らが神奈川県がどうだったのかというと・・・


微妙。


ほとんど平均かそれ以下といったところです。


横浜や川崎などの大都市部では全国平均以上だったようですが、県全体でみれば、多くのもので平均以下だったようです。


「神奈川県民、がんばれ!」


でも、それは単にこのテストで良い点とれってことではないよ。


ちゃんと自分の弱点が分かって、克服する努力ができるかどうかってこと。



私たちもそのお手伝いがちょっとはできるのかな。


一緒にがんばりましょう。




ずいぶん更新をさぼっていました。

お盆休みもあり、夏期特別講座などもあり、何となく気忙しい8月を過ごしていました。
(完全な言い訳(^_^;))

休み前の新聞などを整理している時に、何となーくめくったページにこんな記事がありました。


「日本の高校生 科学に関心低め」

という見出しの記事。

2014年8月7日(木)の読売新聞朝刊の記事です。

正直「またかー」という思いもあります。


日本の学生の理科離れなんてのは今にはじまったことではありません。

それどころか、活字離れや「分数の計算ができない大学生」なんてのは、

ここ数年の日本の教育や青少年を語るうえで、避けては通れないワードとなってしまっています。


何とも嘆かわしい限り。


この記事では、理科が「社会に出たら必要なくなる」という理由から、興味関心が低い状態にあることが国立青少年教育振興機構の調査でわかったとあります。

日米中韓の4か国比較らしいので、その中で日本が一番低いという結果だということですから、世界的に見てどうなのか、というのは何ともいえないところです。

だたし、とはいえ、関心の低さの表れとして「社会に出たら必要なくなる」というのは、何とも短絡的、打算的な学習観ではありませんか?


記事では、明石要一さんのコメントが紹介されていますが、
日本の学生は学年が上がるごとに理科離れが進む傾向があり、
その原因として、暗記など受験向けの学習が中心となっていくことで、
科学への探求心が薄れていっているのではないかとされています。


たしかに、この部分は大きくうなずける部分があります。


時期的に夏休みの宿題などが話題となりやすいですが、
多くの場合、主要な教科(国算数理社など)では、ドリルや問題集などの、
やはりテスト向けの学習課題が多く出ているようです。

最近はわりと活動的な課題も増えてきているようですが…。

自由研究などは任意の課題となっていて、
必修の課題でなければやらないという人もちらほらいます。


でも、ちょっと待ってください。

こういう時期だからこそ、じっくりと自分でものを考えて、
課題を設定して、調査研究、観察などを行うことは大変重要な経験値となります。

しかし、多くの人がそうした課題を「わずらわしいもの」と感じ、
やってもやらなくてもどちらでも良いと言われればやらないというものとなってしまっています。


モッタイナイ!!



まぁそれもこれも、普段から科学的現象や社会的現象に興味関心を持って、今自分の取り組んでいる学習が、どんなことを理解し、説明するものであるのか、そうした学びが進められていないからこそ起こることなのでしょう。

それはそれぞれの児童生徒のせいというよりは、やはり指導者側、つまり大人の問題であると思います。


単なる知識の暗記、テストのための学習ばかりが重視される日々の学習。

「そんなつもりはない!」

という方も多くいらっしゃるとは思いますが、
結局、定期テストがあり、入試があれば、
そうしたテストの呪縛から逃れることはできない
というのが現実なのかもしれません。

だからこそ、必要以上に、日々の学習の意味づけ、価値づけをしなければ

「社会に出たらこんなもの必要ない」

なんて安易に学びの機会を切り捨ててしまうことになってしまう!

そんなのもったいなさすぎる!!


そうは思いませんか?






学習塾ラーニング・ラボのオリジナル講座「基礎講座」では、

6月の下旬から「輪読」を行ってきました。


素材は・・・

『君はどう生きるか』(吉野源三郎著/岩波文庫)


です。

全部で10章に分かれていますので、1人1章を担当し、毎回レジュメを作って来るという課題付。


慣れない作業ではありましたが、受講生のみなさんは、毎回個性的なレジュメを作成してきてくれました。


くわしくは、当塾公式ホームページでご覧下さい。

「輪読」から「読書感想文」のページはこちら↓ 
 http://learning-labo.st-community.jp/?p=2867




さてさて、気付けばもう7月も終わり。

小中高生のみなさん。

宿題は終わっていますか?

まぁ7月中に終わらせなければいけないというルールはありませんが、

夏休み終了間際に大慌てになるよりも、早め早めの行動を取っておいた方が

良いのは当然っちゃあ当然ですよね。



7月も終わりに近づいてきた今週。

作文(人権や税金、「私」について)や読書感想文の「HELP!」が舞い込んできています。


今ならまだまだ、本を読んだり、考えをまとめたり、情報を集めたり、作業時間が十分に取れます。

これがお盆過ぎになってしまったら・・・。


考えるだけで恐ろしいです。


もちろん、その時期でもお助けはしますが、

やっぱり余裕をもって臨んだ方が良いに決まっています。


ですから、まだ作文読書感想文に手を付けていない方は、

ぜひ「あとでやるからいいやー」ではなくて、

「ホントにあとで、自分でできるの?」と、

一度自問自答してみて下さい。


その時、ヤバイかも!?と思ったら、その時点で「SOS」を出すことが肝心です。




今日、ラーニング・ラボの「基礎講座」では、

読書感想文を書くための準備をしています。


6月の下旬から、ある一冊の本を「輪読」してきて、

今日、その本が読み終わりました。

最後のしめは、やっぱり「読書感想文」でしょ!?

ってことで、受講生には、このパートの〆に読書感想文を書いてもらっています。


読書感想文ってどんな文なのか、

何を書いていくものか、

誤解している人がけっこういるようで、

基礎講座」では、そのあたりから解説しています。

もちろん、夏の特別講座「作文・読書感想文書き方講座」でも、そういった説明をします。


作文が苦手な方、夏休みの宿題に作文読書感想文が出ている方、

その課題にまだ手を付けていない方、あとで自分で出来そうにもないなという方、

ぜひ、お早めにご相談ください。




さてさて、夏休みに入って早1週間。

みなさんいかがお過ごしですか?

わたしは先週、治りにくいと評判の夏風邪を引いてしまいました。


だいぶ良くなってきた昨日、

何だか一段と暑さの質が変わったような気配。


午前中から夏期講座の授業を行い、22時過ぎに教室を出たのですが、

帰りの電車内の冷房の強さに体が暑いんだか寒いんだか、

寝不足の体はどうやら悲鳴を上げている様子。

帰宅した時にはもうヘロヘロでこれはさすがにエアコンのお世話にならないとマズいかな、と。


今年初めてスイッチを入れたエアコンからは何だか変なかほりのする風がもうもうと。

ヤバイ、ヤバイ、掃除していなかった。

というわけで、さっそく汗だくになりながら、エアコン掃除しました。


ちゃんと掃除道具は準備していたんですよ。

その道具とはこちら↓



エアコン洗浄スプレー。

しかも中身は「水(電解アルカリ水)」。

エアコンの中に洗剤成分をかけるのってどうなんだろうと、

以前から洗浄スプレーを敬遠してきたのですが、

とはいえ、いちいち業者さんにお願いするのもどうだろう、と。


というわけで、「水」から生まれた洗浄スプレーてやつを使ってみました。


エアコン内部の状態は実際のところどうなったのかはわかりませんが、

少なくともフィルターもこのスプレーで洗浄してみたところ、

落ちるわ、落ちる。


今までスポンジ的なもので洗っていましたが、

何となくフィルター繊維の中が黄ばんだままというか、

うーん、もう一息なんだけど、という感じでした。


が、このスプレーの噴射力で一気に繊維の中の汚れまで落としている様子。

スッキリキレイになりました。


これで今日から熱帯夜もなんのその!?



みなさんはもうエアコンのお世話になっていますか?

まだこれからがという方、掃除をまだしていなかったという方、

ぜひお試しください。



さて、当塾学習塾ラーニング・ラボでは、夏期講座が開始しています。

受験生を中心に授業前後、授業のない日なども自習する生徒の姿が見られます。

全員7月中に学校の夏休みの宿題は終わらせようと頑張っています。


まだ宿題に取り掛かっていないという人、まだ大丈夫だろうと思っていると、あっという間に夏休みは終わってしまいますよ。

特に、作文などじっくり取り組みたい課題は要注意ですね。

読書感想文人権作文税の作文など、夏休みの宿題の定番ですが、

多くの人が作文の書き方を習っていなかったり、と苦手な分野のようです。

実は、文章のルールとちょっとしたコツを学んでおけば、比較的簡単に、それなりの作品が作れるものです。


作文に不安を抱えている方、ぜひご一報ください。

作文・読書感想文書き方講座」も開催しておりますが、個別に作文の指導をすることも可能です。

ただし、これだけはお気を付けください。

提出間際にSOSを出されても、どうにもならない場合があります。

手遅れにならないうちに、お願いします。


そして、夏の宿題をパッぱと終わらせて、充実した夏休みを過ごしましょう。

普段はなかなかできないことも、自由に時間を使える長期休業中ならできることがあります。

そうした「実体験」が、「学び」という点からは大変重要なものです。

単に教科の成績がちょっと上がる以上に、みなさんのこれからを支える重要な土台となります。


暑い日々が続きそうですが、しかし、涼しい部屋の中でこもり切って、

ネットやスマホ、ゲームなどに熱中し過ぎるのは、もったいなさ過ぎますよッ!!


ぜひ「外」にも繰り出してみて下さい。

もちろん熱中症には十分気をつけて。




2014年7月7日の読売新聞夕刊の一面に、

「小中高でがん教育」

という見出しが躍りました。


日本人の死因1位である「がん」への理解を子どもの頃から深めていくために「がん教育」を推進していこうと教育内容の検討会が設置されたようです。

現在「保健」の時間に生活習慣病などとともに取り上げられているようですが、がんに焦点を絞った授業はまだまだ少ないとか。


もちろん、この手の教育が多くの人が通う「学校」という場で教えられるというのは、意味のあることだとは思います。

とはいえ、がんに限らず生活習慣に関わるものは、文字通り「実生活」と密接に関わるものです。

学校の授業という場で伝達されることが、児童生徒たちにどれだけインパクトがあるのか。

その点はきちんと考えおかなければ、単なる知識の一つとして与えられる程度では、彼・彼女の生活場の悪習慣を見直したり、意識的に生活に活かすことにはつながらないでしょう。

最悪の場合、単にテストに出されるから一応覚えるというその他多くのコンテンツと一緒になってしまう。

それじゃあせっかく「イイコト」する意味がなくなっちゃいます。



まぁそもそも、学校にあれもこれも求める動きはどうなんでしょう、というのが私の意見。

何かあると、「小さいうちから、若いうちからの教育が重要だ」なんて言われることも多くあります。

もちろん「三つ子の魂・・・」ということわざもありますが、それって乳幼児期に母から教えらえることなわけで、小学生ではもう遅いということもあります。

となると、幼稚園からとか、生まれてすぐから、とかドンドン早期化していく場合もあります。

いやいや、そもそも家庭で、家族の中で培うべき「文化」ってことが重要なのに。

すぐに「教育コンテンツ化」してしまうのは・・・。


何でもかんでも「知育化」してしまうのもどうなんでしょう。

「体で覚える」とか「心で感じる」ことももっともっと重要視されても良いでしょう。


それこそ、がんについての知識がつめこまれて終わりであるくらいなのであれば、
体の作り方などを実技を交えて行う「体育」をもっと充実させた方がどれだけ効果的か。

イスに座る姿勢や立ち居振る舞いなどの「所作」などは、
日本文化の中には古くから伝統的に組み込まれている、いわばお家芸。

そうしたことを「体で覚える」方がどれだけ有益か。



みなさんはどう思われますか?



さて、本日(といってももう昨日ですが)7月7日は「七夕」ですね!

みなさんはどんな願いを短冊にしたためたのでしょうか!?


七夕といえば、願い事を書いた短冊を笹の枝に結わいて・・・
というのが一般的になっていますが、そもそも七夕ってどんなお祭りなんでしょうか。

といいつつ、七夕のルーツはまた別機会に、として、
今日はそういう「お祭り」や「年中行事」のルーツって意外に知られていませんよねって話。


現在の日本でも行われている「祭り」や「年中行事」というのは、
基本的には土着の信仰や宗教などその土地に住む人たちの精神性と深く結びついていることが多くあります。

お盆やお彼岸などもそう。

日本の場合は稲作によって生活の糧を得てきたわけだから、
当然、その祭りというのは、農耕儀礼がベースになっている場合が多い。

さらに大元には、神道的な精神性が色濃くあるとされています。

神道に仏教などが習合し、民間・土着の信仰などとも習合しながら、
明確に「絶対神」を崇めるような形ではなく、
生活様式とも密接に関わりながら習俗が定着してきました。


ただし、これは周知のことではありますが、
主に先の戦争(大東亜戦争/太平洋戦争)後、日本の生活様式が劇的に変化したことで、そこに結びついて伝承されてきた精神性が、きちんと伝わらなくなってきてしまったわけです。

特にコンクリートジャングルの中で生まれ育ち、一生のほとんどをそういう環境の中で過ごす人にとっては、木々や田畑が茂る中で自然に対峙し、自然の恵みを享受することに対する畏怖の念などは、そもそも実感を伴って抱けるものではありません。

そうした中でも、祭りなどは、日常では体験できない、そうした「崇高なるもの」や「神秘」とつながる場/時であります。

しかし、最近はそうした祭りもただのイベントの一つ、「バカ騒ぎ」の場/時となってしまっている向きがあります。



日本人の精神性として、宗教的なものでさえも、柔軟に受け入れ、微妙に習合を遂げていくという特性があると言われています。

そうした柔軟な受容の態度で、様々な宗教にルーツを持つお祭りを行事として取り入れたりもしています。

まぁ現代はストレスフルな社会ですから、お祭りなどで日常という「タガ」を外すというのは、大変実利的でもあります。

昔から祭りというものの要素にそうした非日常性というのもあったのでしょう。


しかし、現在はあまりにも節操がなさすぎる気もするのです。


クリスマスなどはもうだいぶ定着してしまっていますが、
近年勢力著しいのが、ハロウィン。

私が幼少期にはほとんどなかったことですが、
近年はそこら中で仮装パーティーが繰り広げられています。

日本も農耕民族という側面がありますから、
収穫祭という意味では理に適ったことなのでしょうが、
実際のところ、イベントと化したお祭りは単なる経済原理で動いていることもしばしばということをもっと認識しておく必要がありそうです。

例えば、バレンタインのチョコなんてのもある菓子メーカーの販売戦略の一つだとも言われています。


ハロウィンなどで、収穫祭という本来の意味が欠片もなく、単なる仮装パーティーをするくらいなら、日本にも昔からある「新嘗祭」などもきちんと復活させる方が、私たちの生活様式を見直し、私たちの理に適った祭り・行事とすることができるような気がします。


・・・と、偉そうに言ってみましたが、私自身もそうした理に適った祭りをしているわけでも、生活が送れているわけではないのですが。

自戒の念を込めて。


でないと、例えば、この手のことが生活の中で伝承されたり、実感できないと、すぐに学校などで「教え込まれる」教育コンテンツになり下がってしまうんですね。

最近の「伝統的文化」に対する動きなども、生活の中での伝承はもはや難しいからこそ、「せめて学校で」という形になってしまうのではないでしょうか。


もちろん学校で扱われることが悪いわけではないのですが、
もともと生活の中でのことなのに、何でもかんでも「学校で」という流れが安易に出来てしまうのはどうなんでしょう。
学校も教員も簡単にパンクしちゃいます。


そんな話題に関連して、1つ新聞記事を見つけました。


それについては、また別の記事で。


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