作文・読解力など国語力向上 学習塾ラーニング・ラボ横浜天王町教室のスタッフブログ! -14ページ目

作文・読解力など国語力向上 学習塾ラーニング・ラボ横浜天王町教室のスタッフブログ!

作文・小論文・読解力など国語力UPのための塾。横浜市保土ヶ谷区にある学習塾ラーニング・ラボのスタッフブログです。教室での出来事、教育ニュース・新聞記事・書籍についてのコメント、当塾オリジナルの「基礎講座」で作成した生徒の作品なども発表します。

今年も以下の要領で「冬期特別講座」を開催します!

冬期特別講座概要
■期間
 12月15日(月)~1月9日(金)
 ※12月29日(月)~1月4日(日)は年末年始のお休みです。

■対象
 小学校3年生~高校3年生
 ※小学校低学年・高卒生はご相談ください。

■教科
 国語・算数/数学・英語
 ※その他の教科(理科・社会など)をご希望の方はご相談ください。

■受講料
 小学生 4コマ  8,500円 ~
 中学生 4コマ  9,500円 ~
 高校生 4コマ 11,000円 ~
 ※5コマ以上の受講料は教室までお問い合わせください。

■教材費
 1教科につき 800円
  ※高校生や別途指定テキストを使用する場合は別。


◆本講座は学習効果を考え、1教科につき4コマ以上の受講をお願い
 しています。

◆授業日程は、個別に予定を伺ったうえで設定します。
 習い事や年末年始の予定を考慮したスケジューリングが可能です!

◆本講座と同時または受講後のご入会には特典がございます。
 ※詳細は教室までお問い合わせください。

◆高校・大学入試に向けた「作文」「小論文」「面接シート」などの
 添削指導、一般の方の文章作成のフォローなどもお気軽にご相談
 ください。国語教育・文章作成のプロ講師が仕上げまで完全個別
 サポート致します!


お申込み、ご不明点等は教室までお願いします。
【連絡先】
 ■☎045-337-3155
 ■ラーニング・ラボ公式ホームページ
   http://learning-labo.st-community.jp/

最近の教育思潮を語る上で、
「主体的」「批判的」というワードは欠かせないでしょう。

平成20年版の学習指導要領でも「生きる力」の名のもとに、
「思考力」「判断力」「表現力」の重視が唄われています。

この学習指導要領改訂にも大きな影響を与えたといわれているのが、
昨今、新聞でも一面を飾るほどのニュースバリューのある、
OECDが実施している国際学力調査である「PISA」。

日本では、このPISAの結果を受けて、
「PISA型読解力」などというものまで誕生したほどの熱狂ぶり。

このPISAというのは、もともとOECDの教育プロジェクトである、
「DeSeCo」というものが大元になっているものです。
この中で、現在のような国際社会で活躍する人材の能力について、
「キーコンピテンシー」というものが提言されています。

その中の中核をしめるものが「批判的思考力」なんですね。


私たち日本人からすると、「批判」と聞くと、
どうしても「否定」的なニュアンスを感じ取ってしまいます。

ここでいう「批判」とは、もちろんそうした意味合いがないわけではないですが、
むしろ「熟考」つまり「懐疑的視点」という意味合いの方が強いように感じます。


様々な情報が飛び交い、様々な文化的背景を持った人たちとの交流がある、
そういう現代社会で、強く、しなやかに「生きる力」として、
必須の力とされているのですね。


PISAについて言えば、日本では「読解力(Reading Literacy)」の国際順位の変化で注目を浴びたので、その後「PISA型読解力」などというものも登場する程ですが、それって今まで言われてきた「読解力」と何が違うのってところは整理しておかないといけませんね。

簡単に言えば、両者の違いは、「主体的」か「受動的」かということ。

主体的に他者と批判的に関われる力が「PISA型読解力」。
先生や誰かの解釈が正解として扱われるような古典的な読解が従来の「読解力」。

つまり、今までの国語の授業と言えば、
教科書の本文を先生が解説し、
それがそのままその文章の「正解」となってきたわけですね。

そういう受動的な「読解指導」だけでは、
今日重要な「批判的」「主体的」学習は展開できないってことで、
ここ数年「PISA型読解力」などを始めとして、
学習指導要領では「言語活動」が重視されてきているのです。


もちろん、こうした視点を持った授業がこれまでの日本の国語の授業で皆無だったかと言えば、決してそうではない。

全体としてみれば「読解指導」というのが主流となってきたといわれていますが、生徒が「主体的」に、「批判的」なまなざしを持って臨める授業だって確実に実践されてきています。

まぁ数としては少数なのかもしれません。

心ある、力ある先生だけがなし得たものなのかもしれません。



と、大学院時代に研究室の先生からこんな話を聞いたことがあります。



知り合いの先生が高校の教員をしていた時のこと。


高校の国語といえば、芥川龍之介の「羅生門」はド定番の作品。
何かの単元が終了した後に、

「じゃあ、次の時間から『羅生門』な」

というと、クラスの生徒たちから大ブーイング。

「えぇー、やだー!」

その先生は、何で『羅生門』が嫌なのか分からなかったのですが、
そんなにみんなが嫌だというのも逆に面白いと思って、
生徒たちにこんな提案をしてみたそうです。

「そんなに『羅生門』の授業が嫌なら、
 なんで『羅生門』が嫌なのか、
 『羅生門』を自分たちが学ばなくても良い理由を
 納得できるように説明してもらおう。
 先生が納得できる説明ができたら、
 みんなが言う通り『羅生門』は授業をしないことにします」


生徒たちは、一単元授業がなくなるということで、
躍起になって先生を納得させるための準備に取り掛かったようです。

実際にはグループをつくって作業を進めることになったようですが、
そういう目的の活動ですから、生徒たちの意見交換も活発に行われたようです。

ある意味で、自分たちにとっての『羅生門』の無意味さ、無価値さを見出そうという作業ですから、その過程で、実際には『羅生門』を隅々まで読んでいるんですね。

「ここの表現が・・・だよね」
「そもそもこの設定ってどうなの?」
「あそこでなんで・・・になるわけ?」
「てゆーか、単純に暗いんですけどー」

…などなど玉石混淆ではあっても、普段先生から一方的に文章の解釈を「おしつけ」られている生徒たちからすれば、その活動のなんと「主体的」「批判的」であること。

結局この先生は『羅生門』の授業を行わないことにしたらしいのですが、
しかし、実際には授業をやったのと同じか、
それ以上の有意義な時間となったわけです。

つまり、『羅生門』の授業を回避するために行った活動が、
実際には、ごくありふれた『羅生門』の授業以上に、
生徒たちに『羅生門』を読ませることになったわけです。



逆説的な授業とでも言うのでしょうか。

いやいや、この先生、大変上手なのせ方ですね。

こういう先生であれば、通常の授業でも魅力的なことやっていそうですけどね。


さて、この事例から、いくつか大切なことが分かります。

まずは、教科書を聖典化しないことの大切さ。

もちろん教科書はたくさんの「先生」たちが苦労して作っているものだから、悪いものであるはずがない。

ただちょっと「キレイ」に出来過ぎているだけ。

だから、その教科書は「絶対」の存在ではなくて、それすら「批判」の対象であっても良いわけですよ。

そういう視点があるかないかって実は相当デカい!

だって教科書「を」教えるのではなく、教科書「で」教えるのですから。


これは、「古典」についても同じことが言えますね。

「古典」というとどうしても「聖典化」しやすい存在。


何百年、何千年と残ってきたものには、それだけで価値がある…


それはそうなんだけど、でも、それをどう価値づけるというか、意味づけて自分のものとしていくかは、それはその時代の人間が、誤解を恐れずに言えば「好き勝手」に行っていけば良いこと。

「絶対にこう」という解釈を押し付けられても、

「え?だからなに?それっておいしいの?」ってこと。

ちょっと極端ですが。


やっぱりそういう視点があるかないかってことがとても重要だってことで、
この「そういう」ってのが「批判的」ってものと重なるんですね。

これって現代でいえば、マスメディアに対するものと一緒ですね。

そもそも文章だって「メディア」といえばメディアですから、
当然、文章にだって、

「これって本当?」
「だから何なの?」
「だからどうしたっていうの?」

と、疑問符を突きつけてみることは重要なことです。

最近はことさら「メディアリテラシー」などといって、
マスメディア(新聞やテレビ)やネットなどに対して、
「批判的」視点を持とうという動きも盛んですが、
何も新聞やテレビに限定して考える必要なんてないんです。


「教科書にもメディアリテラシーを!」


ということです。

最近は、教科書の中でこのメディアリテラシーについて単元があったりしますから、何とも奇妙な感じですね。

メディアリテラシーを発揮して捉えるべき教科書に、メディアリテラシーの重要性が説かれている部分がある…

そんな逆説的なものにこそ価値があるのだから、
むしろ「素敵」な教材って考えないといけませんね。



さてさて、ちょっと長くなってしまいましたが、
あなたの学び、あなたのお子様の学びと比べてどうでしょうか?


あなたやあなたのお子さんは、
単なるドリルの反復練習だけの学習していませんか?

もちろん学習や記憶において反復練習は基本中の基本。


でも、それだけじゃあ大切なことは学べないこともあります。

テストはできるようになっても、
肝心の生活上の問題は解決できないかもしれない。
社会で活きていく力は身につかないのかもしれない。


一生懸命に勉強している時こそ、
ちょっと逆転の発想をしてみては?
逆から眺めていると、
悩んでいたことが案外スッキリ見えるってこともあります。

ぜひおためしあれ。



最後に、そもそも「受動的」にも学習していない人に。
まぁそういう人に限って、

「そんなことして何になるの?」
「こんなこと生活の中で使わないでしょ?」

なんてこと言ってきます。

そんな屁理屈で勉強から逃れようとする者には、
こう言ってあげてください。

「たしかに今までの生活の中で、台形の面積を求めたことは一度もないよ。
 でも、その求め方を知っているかいないか、実際に求められるか否か、
 というのは雲泥の差。
 『(上底+下底)×高さ÷2』っていう幼稚園生から見れば
 途方もなく複雑な計算ができるってことは、
 それだけ使える「頭」になってるってことなの。
 勉強はそういう「頭」にするためにやることなの。」

ってね。

それでも納得しない駄々っ子ちゃんみたいな子には、もうこういうしかないですね。


「『そんなことして何になるの?』だって?

 いやいや、じゃあ、そんなこともできずに何になるの?」





勉強しないから塾へ。
塾に行けば何とかなる。

大手の塾に行けば何とかしてくれる。
集団形式の塾に行けば、周りがやっているから緊張感があって、
競争意識も芽生えてやるようになる。


先日、知人のママ友がこんなことを言っていたらしい。

「うちの子あんまり勉強に熱心じゃなくて、ボーっとしてるし、
 集団形式の塾とかに入れて、周りに刺激された方が良いのかな。
 従妹が大手の集団塾に入って、勉強するようになってね。
 うちの子もそうしたら勉強するようになるのかなって。」


本当にそうだろうか。

いや正確にはそれで良いのだろうか。


塾人としては塾を否定するつもりは毛頭ない。
むしろ頼りない学校、意志のない教員に任せるくらいなら、
私たちが彼、彼女たちの学習を全面的にバックアップしようとさえ思っている。


塾で授業を受けることで、
学校の授業だけでは十分に理解できなかったところを
再度復習できる。
もちろん逆もしかり。

ひとまずは塾に通うことで、内容面+学習時間が確保できる。
その意味で塾に行くことには意味がある。


しかし、問題はそのあと。

その効果を持続的に発揮していかなければならない。


塾で学習時間が確保でき、内容面の理解を支える授業があることで、
一時的には良くなる。

でも、次第に塾の授業時間が日常と化し、
それ以上の学習をしないとしたらどうなるか。

もはやそれだけではレベルアップは図れなくなる。


大手の集団形式の学習塾では、
毎回大量の宿題が課され、
そのノルマを達成する事で効果が持続するという例もある。

もちろん学習においても反復練習は重要で、
それこそ大量の宿題はある意味で必要なものかもしれない。

ただし、それによって学習自体が苦になり、
ただただ辛いだけの作業と化してしまっては元も子もない。


しかも、大量のノルマを何とかこなし、
テストの点数もそれなりに維持し、
入試などを乗り切ったその先に、
果たしてその彼、彼女はその後、
自ら課題を発見し、自ら学習を続けていくのだろうか。


大学生になると途端の勉強しなくなるというあの現象は、
こうした「ノルマ達成型学習」「テストのための学習」の弊害ではないか。

大学では、もちろん専攻にもよるが、
高校までのようなペーパーテストがない場合もある。
授業によっては出席と年に2~3回程度のレポートだけで評価される場合もある。
しかも、出席が足りないとかレポートを出さないとか、
よっぽどのことがない限りたいていは単位がもらえてしまう。
そうなれば、やはり自ら進んで学習しないという人も現れるだろう。

もちろん大学生全部がそうだというわけではない。
または同じように授業には積極的に参加せずとも、
その時間自分の学習を進めるという人もいる。

この違いは、それまでの学習の在り方が大きく影響しているように思う。



これまで様々な子どもたちとともに学んできましたが、
特に、大量のノルマ宿題をこなし、「できる」状態だけど、
実はよく「分かっていない」という子どもに、
毎年一定数出会います。


宿題をやっている。
机に向かって勉強している。
テストでそれなりの結果が出ている。



これらはどれも「良い」ことだとたいていそう世のオトナは判断するでしょう。

我が子がこんな状態だったらどれだけ良いか、と
多くのお母様方がお思いになることでしょう。


でも、その行動の理由が、

「先生に(親に)怒られるから」
「テストがあるから」
「入試があるから」
「みんながやっているから」


というものであったらどうなのでしょう。

それは裏を返せば、

「先生が(親が)怒らなければ勉強しない」
「テストがなければ勉強しない」
「入試がなければ勉強しない」
「みんながやっていなければ勉強しない」


ってことにはならないでしょうか。


それって果たして意味のある勉強なのでしょうか。

もちろん完全に無意味なものではないのでしょうが、
そうした勉強によって、近い将来学習を自ら放棄することになるのだとしたら…


少なくともそういう子ども達を見てきた立場からすれば、
単にテストが良いというだけで、単に良いとされる学校に入ったというだけで、
手放しには喜べないのです。


塾は活用の仕方次第で、毒にも薬にもなります。

子どもの可能性を広げ、伸ばし、
自ら課題を発見し、解決する力を持つ人へと成長する…
そんなキッカケを得られる学びの場をぜひ見極めてください。


集団だからいい。
大手だから安心。

そんなのただの迷信。

塾に行かなくたってきちんと学んでいる子はいるし、
個人経営の小さな塾の方が、魅力的な指導をしている場合も多々ある。

最終的には自分が「強く」なることが目的ですから、
大手だろうが、中小だろうが、集団だろうが、個別だろうが、
「ソンナノカンケーナイ」って言えるように学ぶことが、
一番大事なことだと思うのです。


こんな発言していると塾人としてどうなのかと思われてしまうかもしれませんが、
くり返し言いますが、私は塾を否定するつもりは毛頭ありません。

むしろ推奨派です。

いまや多様な価値が渦巻く現代社会で、
学校の勉強だけで何とかなると考える方がキケンでしょう。

様々な価値に触れる場があってしかるべきだと思います。

その一つとして、塾がそういう場になれると子どもたちにとっても効果的、効率的な学びが展開できると思うのです。




だから、どうかお願いです。

少し長い目で見て、お子さんの学習について考えてみてください。

とりあえず塾に入れれば良いとか、
大手の塾に行っておけば間違いないとか、
みんなが行ってるからとか、
それだけの理由で安易に塾を選ばず、
じっくり考えてみて下さい。

そして、塾に通うとなっても、
根本の大事な部分を見守り続けて下さい。

「勉強しなさい!」
「宿題やりなさい!」
「なんでこんな点数しか取れないの!」

…ではない、その先にこそ、子ども達にとって本当に価値ある学びがあるはずです。


とはいっても、塾人としては宿題はきちんとやってもらわないと困るんですけどね(笑)



さてさて、この「宿題」の問題もとっても大きな問題。

近々言葉にしてみたいと思います。


その際にはぜひまたお読み頂ければうれしいです。




「いいね」または「コメント」お待ちしています。



2014年11月25日(火)

本日の読売新聞朝刊の社説で、
「学習指導要領」について言及がなされていました。

次回の指導要領改訂に際し、下村文部科学大臣が中教審に諮問したことを受けて、いくつかの点で意見を述べています。


昨今の教育事情の一つとして、いわゆる「脱ゆとり」があります。

それについては一定の成果を出しているともいえるでしょう。

社説にもある通り、しかし、依然として学習意欲が諸外国と比べて低いという調査結果などもあり、そうした根本的な、若い世代の知への接続をどうしていくかという問題は厳然と私たちの目の前にあります。

さらに社説では指摘されていませんでしたが、
そこに大きく関わるであろう「入試」の問題についても、
私たちのような存在ももちろんですが、
広く議論が求められるテーマです。


そもそも人間には、本来的に「知的欲求」があります。
「好奇心」といっても良いかもしれません。

「なんで?なんで?」

って、多くの人が幼少期に言ってきたはずです。
それこそオトナに嫌がられるほどに。

しかし、いつの間にか学ぶということ、知るということが、
「お勉強」となり、何となく憂鬱なものになってしまう。

そのうち「テストがあるから勉強する」ということになり、
逆に「テストがないと勉強しない」とか、
「テストに出ないことは勉強しない」とか、
そういうさみしいことになってしまう。

このあたりちゃーんと考えていかないと、
これだけ刺激が溢れる世の中では、
誰も教科書を開いて、一生懸命学ぼうとしなくなってしまうでしょう。


だから、英語教育の充実とか早期化とか、
日本史の必修化だとか、
そんなこんなは実は枝葉のことなのかもしれない。

学ぶこと、知を得る事を善しとする者にとって、
それによって自分が磨かれ、
視界がクリアになる経験がある者にとって、
英語だろうが、日本史だろうが、世界史だろうが、
きちんと意義のあること、
何より自分にとって価値あることだと感じることをしないわけがない。

いや、もちろん自ずから出来ることではないかもしれないけど、
周囲のオトナからサジェスションがあれば、
きっとそれなりの反応が出来るのでしょう。

単に「めんどうくさい」とかってぼやくだけではないはず。



最近は、学習指導要領の改訂や、
神奈川県で言えば、高校入試の変化によって、
学校などでも「書く活動」が増えてきたり、
いわゆる「言語活動」のような学習も
増加しているような気がします。

それ自体はきっかけはどうあれ、
大変喜ばしいことだと思います。


指導要領にも「生きる力」と明言されている通り、
かつての受験型学力などを超え、
変化の激しい国際化・情報化社会において、
社会に対応し、社会で活躍できる人材の育成が、
昨今の日本の教育の大きなテーマとなっています。

その意味で、単にテストの答えられるだけのせまい学力ではなく、
実生活の場での「言語活動」に根差す学びは非常に意味のある
行いだと思います。


私たちラーニング・ラボの根本理念も、

受験で終わらない学力の育成
社会で活きて働く力の育成


です。


ですから、基本的には国の文教政策と軌を一にするといえます。

ただ、ここでよく整理しておきたいのが、
この「生き力」「社会で役に立つ力」ってやつなんです。

こういう表現すると、何となく実利的というか、
ある知識がそのまま何かの役に立つという直線的なイメージがついてしまいます。

いや、もしかすると多くの人が、そうした直接的に役立つものをイメージしているのかもしれません。

そうだとしたら、私たちが考える「生きる力」とは、コトバは同じでも、その指している内容は違うといえます。


だって、社会生活の中で必要なものって、
学んだことが直接「使える」という知識だけではないから。

たとえば、四則の計算などは、買い物のレベルで必要なものですが、
じゃあ中学生が取り組むような方程式や関数が不必要かと言えば、
決してそうではない。

論理的な考えに直結するものです。

しかし、知識として、技術として、
かの計算やグラフなどを実生活でそのまま使うわけではない。


学校の、教科の勉強にも、もちろん受験勉強にだって、
きちんとそういう意義があるわけです。

「学校でやっている勉強はたいして役に立たない」
なんてことを平気で言っている人は、きっとそういう大切な部分を
すっぽり抜かして、単に問題が解ければそれで良い、
という勉強をしてきたのでしょう。

「テストのための学習」の弊害がここにあるわけですね。


だから、「社会で役に立つ」っていうのが、
本当にそのまま「直結」しているもの、というのであれば、
そんな直接的、単線的な力を教育目標にするなんて、
ちょっとアンビリーバボーです。


日常生活では、もっともっと有象無象の
何ともとりとめのない、ドロドロした部分に、
時に論理的に、時に感情を十分に考慮し、
時に批判的に、時に強引に、
時に無視したりして、
そうした「しなやか」な思考活動で対処しなければならないことが山のようにある。
というか、そんなことばっかりだと思う。

「理」だけで、スパスパ割り切れる世界であれば、
きっともっと平和で、でも何となく味気ない世界が
目の前には広がっているはず。


もちろん否応なく世界は変化していくし、
その変化がとてもはやい現在、
英語が必須であれば、早いうちから学ぼうという動きは、
ある意味で当然のこと。

でも、それなら、学習者がそこにちゃんと意味を感じられるような担保がなければ、きっとまた単なる「テストのための学習」がくり返されるだけで、肝心の意欲や関心は一向に高まらないでしょう。
それだけでなく、たいして成果も出ないまま、何となく時間ばっかりが過ぎちゃうってことになるでしょう。



・・・と、大変ネガティブな発言を繰り返してしまいましたが、
教育の端っこの方で活動する私自身も、
たとえ微力であってもそうした意味のある学びを着実に現していきたい・・・
と、けっこう前向きに考えています。



あなたはどう思いますか?



わたしはもう「学習者」の期間が終わったから関係ない?

わたしには子どもがいないから関係ない?

わたしの子どもはもう大きくなったから関係ない?


教育はこの先10年後、20年後、下手したら100年後の社会を創ることにも等しいのかもしれません。

だって、社会は「人」が創るものだから。


10年後、20年後の世の中のことであれば、
決して自分とは関係ないことではないはずです。


ぜひみんなで考えていきましょう。

教育(次世代の育成)を通して、この先の国や地域、世界、社会のことを。







2014年11月25日(火)
本日の読売新聞朝刊に、

「ネット依存 大人に拡大」
「スマホを手に四六時中」


という見出しの記事が掲載されています。

以前から「ネット依存」などについては話題となっていましたが、
スマホが爆発的に普及した昨今、「ネット依存」の進行は
さらに加速しているのでしょう。


あなたはいかがですか?


先日、ある小学生からおもむろに、

「先生このアプリやってみて」

とスマホを渡されました。

見るとそのアプリは「スマホ依存度」を計ってくれるもの。

いくつかの質問によって、依存度を採点してくれるのですが、
私は「50%」でした。

とはいえ、いつも出かける時には財布と携帯は必ず確認し、
ちょっとした空き時間には何とはなしに画面を確認しています。

立派な「依存症」なのでしょうか。

いまでは時間を確認したり、
仕事のメールを確認したり、
その他、様々なことでスマホを使っています。
もうこれなしの生活は考えられないほど。


記事には、SNSなどの事例が中心となっていましたが、
ゲームやその他アプリの使用状況からすれば、
スマホを使用している多くの人が、
「依存」状態なのかもしれませんね。


気をつけなければ。


今では、なにやらSNSを場に「いじめ」などもあるようです。

現実の空間の息抜きの場としてのネット世界は
もうないのかな。



記事には宇都宮市の読書サークルが行っている

「スマ断(スマホ断食)読書会」

なるものが紹介されていました。

文字通り、スマホの電源を切って読書を楽しむ会だとか。


私の場合は、読書は読書で楽しんでいるので、
あえてスマホの電源を強制的に切る必要は、
今のところありません。
が、スマホやタブレット端末で読書をしている場合は
どうなんでしょう?


電子書籍といえば、先日受験生と一緒に読んだ文章に、

「電子書籍が普及しても紙の本はなくならないだろう」

という主張がありました。

内田樹さんの『街場の文体論』です。


内田さんは本書で、
紙の本の重量感や手触り、掌の上の本のバランスの変化、など、
明確に意識されない、そういったシグナルに反応し、
私たちは本の読み方を微調整していると語っています。

さらに、私たちが読書する目的は、
単に最新情報を取得することだけでなく、
ワクワクしながら時間も忘れてその世界に没頭することとも。

確かに、私自身も、タブレット端末で読書したり、
紙媒体の資料をデータ化して「いつでもどこでも」
見られるようにしています。

だって便利だから。


それでもやっぱり私も紙の本はなくならないと思う。

いや、より正確にはなくなってほしくない。


便利さだけでない「なにか」が紙の本にはあるんですね。

内田さんのようにうまく説明できるコトバを
今の私はまだ持っていませんが。

いつかきちんとコトバにしたいと思います。


それにしても、便利さを獲得するために
人間が創り出したものに、
人間自身が翻弄されてしまうなんて、
何とも皮肉なものです。

スマホだけでなく、そうした話題は事欠かないですね。

これだけ技術が進歩した世の中では、
なかなか道具を適切に使う側になるのは難しいかもしれません。

でも、だからこそ、きちんと賢く使う側でいたいものです。



さぁ、あなたはどうでしょうか?

スマホがない生活は考えられませんか?

うっかりスマホを忘れて外出した時、
ソワソワして落ち着かなくなったりしていませんか?












『過保護』

このコトバがよくネガティブな印象で語られるのを耳にします。

「過保護な親が多くなった」
「過保護に育てるとわがままになる」
「過保護に育てられたから自分で決める力が弱い」

などなど。

もちろんそういう一面がないとは言えない。

でも、過保護ってのはそんなに悪いわけでもない。

たとえば、スポーツや芸術分野で才能を発揮している人で、
幼少期から特定のものに取り組んできた人の親御さんは、
多くの場合「過保護」だろう。

物心つくかつかないかのうちから、
スポーツや芸術的な活動をするというのは、
そこにどれだけ自分の意志があるのか。

もちろん生活の中に様々なメディアがある昨今では、
そういったものから影響を受けて、
自ら「やりたい」と望む場合もあるだろう。

しかし、多くの場合は、親のすすめや、
口車にのせられて始めてみたというのが多いのでは。

いざやってみたら、どんどん伸びていって、
上手くいくから楽しくなり、
楽しいから好きになり、
好きなものだからずっと続けてこれた・・・。
だから結果が出せた、というのがホントのところのように感じます。


幼少期の物心つくかつかないかの時に、
何かをやるってことは、
やっぱり多くの場合そこには親の影響が大きくあると思います。


我が子の才能を信じ、
我が子の才能が開花するように、
時に厳しく、時にやさしく、
生活のすべてで彼、彼女の成長を支える。

時にそれは、経済的な支援あるいは投資かもしれない。
時にそれは、自分の仕事や生活のすべてを変えることかもしれない。

ある意味、これが究極の「過保護」でしょう。


そう考えれば「過保護」ってそんなに悪いものではないって気がしませんか?


もちろん何かの専門家ではない親が、
子どもの才能を見抜き、支援をするというのは、
もしかしたら大きな錯覚から始まることなのかもしれない。

才能を信じ、生活のすべてを捧げても、
その道でうまく才能を開花させ、発揮させることが
叶わないということもあるでしょう。

それでも「我が子のため」って言動は、
それ自体ある種の必然性を持っているものだし、
結果思い通りのミライにはならなくても、
そこで費やしたモノやコトはきっと無駄にはならないでしょう。


そして、何より注意しておきたいのは、そうした「過保護」では、
決して自分で自分の意志を決める力は弱まらないということです。

先のような「過保護」では、
そもそも本人が何かを無理矢理にやらされている
という状態はないわけです。

もちろん初めの一歩はある意味で無理やりだったかもしれない。
でも、その道を極めようと、親が「過保護」になるくらいに
なっているのであれば、そこに本人の意思がないというのは
逆に不自然。
もし自分の意志がないところで「過保護」が成り立っているなら、
そうしたものはやっぱりどこかで破たんするでしょう。

本人は基本的にはそれが「やりたい!」という状態で、
親はそれが上手くできるように、
ハードルをうまく超えられるように、
陰に陽に支援するのだ。

だから、そんな環境で育つ子どもに
自分で決める力が弱いなんてことはない。
もちろんわがままってのも違う。
むしろ、そうした環境を、生活をバックアップしてくれた親への感謝を自然に持てる子どもになるに違いない。


だから、何となく親が決めていることに強いられて、
無理矢理何とかかんとか頑張らせられている状態は、
「過保護」とは全然違う。

そういう状態は「過干渉」というのがふさわしいだろう。

「過干渉」は、文字通り、親が何でもかんでも口出して、
決めていってしまうということだ。

だから、自分で自分のことを決めるという力も、
当然弱くなる。


この「過保護」と「過干渉」の違いを
オトナはちゃんとわかっておかないといけない。

子どもに関わる仕事をしているものとして、
自分の子どもに関わるのではなくても、
これはとても大事なことだ。


多くの場合、両者の区別がついていないことが多いように思う。
しかも、「過干渉」というのは、
何となく「あれもこれもやってくれて親切」という印象にも
なりかねないから、愛情をもって突き放していることや、
良かれと思って手を出さないことが逆に誤解を受けることもある。

もちろん学習の場合、学校の成績や入試など、
短期的に結果を求められる場合もあるので、
本当ならここで手を出さない方が良いという場面でも、
致し方なく手を出すこともある。
それが求められる時もある。

かなりの葛藤があるけど、
しかし、何が「正しい」かなんて
究極のところは分からないのだから、
大事なのは、手を出そうが出すまいが、
それを当人がきちんと受け止められるようにすること。

今その場ですぐにではなくても。


それだけはきっと正しいことだと思う。



だから私たちは、今日も口も出すし手も出す。


「過干渉」にはならないように。
大切な彼、彼女を「過保護」に育てます。





『プロフェッショナル』

言わずと知れたNHKの人気?番組。

毎回さまざまな分野の「プロ」の「仕事の流儀」が
一時間にギュギュっと凝縮された大変素敵な番組です。

気付くとたまに翌週の放送がなかったり、
少し前からやや不定期刊放送のようになっていて、
見るタイミングというか録画のタイミングを外したりしています。

今日?昨日?は、前日に録画用ハードディスクの中身を整理していたときに、番組表をチェックして録画しておきました。


バイオリニストの五嶋みどりさん。

正直、バイオリンとかクラシック音楽とか、
そういった方面にはたいへん疎いので、
今日の回はどうだろう、という想いで映像を見ました。


いやはや音楽のことはよく分かりませんが、
何となくこの人スゴイなって感じは分かるというか感じる。

「なにが?」「どこが?」

って言われてもきちんとコトバにして説明できないけど、
やっぱりスゴイ感じがする。

理屈は分からなくてもそういう響きって
何らかのメッセージを直接身体に届けてくれるんだ。



何よりこの番組で一番好きなところ、最後の「プロフェッショナルとは」の部分。


今日も今日でグッときました。


「感情に振り回されず、仕事(与えられたもの・選んだもの・頂いたもの)に向かって情熱を注ぐこと」


私なんて感情に振り回されてばかり。

あなたはどうですか?

感情はとても大事なものだけど、それに振り回されてしまうのはプロとしては失格なんですね。

いやー、それは分かっちゃいるけど・・・ねぇー


さらに、ニクイのは「感情に振り回されず」でも「情熱を注ぐ」って。

感情って言ってしまうと、プラスもマイナスもいろんなドロドロしたものが含まれると思いますが、そういったものにいちいち振り回されていては、たしかに良い仕事はできませんね。

しかし、「情熱」という、おそらくポジティブでパワフルな力というのは、存分に注ぎ込んで良いものだし、それがない「仕事」って、それは本当の仕事と言って良いのだろうか。


情熱を注いでいるつもりが、自分の我欲に走ってしまっている、
なんてこと、講師であれば何度か経験あるのでは!?

先生って人種はけっこうしゃべりたがりな人多いと思うので、
つい良かれと思って、あれもこれも、あんなこともこんなことも、
あることないこと、ほんとのことうそのこと、
いろいろ伝えようと思ってしまうものです。


だから精一杯の自戒の念を込めて。


明日からもまた、感情に振り回されずに、
情熱を注いでいこう。

そう、まさに「冷静と情熱のあいだ」
そのゾーンを、時にクールに、時にホットに、
自在に行き来できる・・・
そんな素敵な仕事人でいよう。






さて、夏休みが終わり、2学期制の学校では前期が終わりました。

あっという間。

成績が出され、それぞれ成果があがったところ、
課題がみつかったところ、様々だと思います。


そんな今日この頃。

ラーニング・ラボでは、オリジナル授業「基礎講座」にて、
『ディベート』を行ってきました。

初の試みで、当初はどうなるかと不安な気持ちも少々ありました。

が、やはり、これまで意見文などを通して、
論の運び方や伝達のポイント、
反論の仕方や、そもそも論理的に考えるってこと、
そういった基礎的なことを様々な実践を通して学んできていますので、
思いの外、良い展開をしてくれたように思います。


もちろん、まだまだ磨かなければいけないことはたくさんあります。
ですが、きちんと自分や自分たちの意見を表明したり、
グループ内で意見交換を活発に進めている様子が見られ、
ちょっと感動。


だって、緊張からかうまくコミュニケーションができていなかった子が、あんなに堂々と自分の意見を言えているなんて。

だって、気持ちが先走って、自分の言いたいことがきちんとことばに乗せられなかった子が、自分なりのテンポだけど、自分なりの表現ではあるけれど、何人もの前でしっかりスピーチできているなんて。

それって大きな、大きな成長です。


※そんなディベート演習の結果の一部は近日ホームページで公開します。
 ぜひ、ご覧下さい。

 ☆☆ディベート内容・結果などはこちらからご覧ください☆☆


小中学生の学習となると、テストや成績の数値についつい目がいってしまいます。
それが良い悪いということではなく、でも、それ以前に、それと同時に大切なことがあるのもまた事実です。

そういう当たり前のことを多くの人はつい忘れてしまうのか、分かっていても目を伏せているのか、あまり話題に上がらないことが多いのも現実です。


だからこそ、わたしたちはあえて大きな声で言いたい。


テストの点数が上昇したわけではないけど、
普段の話すことばや態度が変わってきている。

これって実はものすごく大切なことなんです!


日常のことばや態度が変わることは、学習面にも大きな影響を与えるのです。

だって、学習は日本語で行いますから、
その運用レベルが変わるということは、
それだけ効果的、効率的に学習が進められることになるのです。


私たちの「基礎講座」のコンセプトの一つである、
そういった影響を受講生たちに確実に与えられているようで、
大変うれしく思います。



受講生のみなさん。
今回のディベートの結果を受けて、
講師たちからのアドバイスを受けて、
次の『闘い』に備えてください。

この体験を、この体験から得たことを
次にどう活かすのか、他の何にどう応用するか・・・


そのくり返しの先に確かな成果が実るのです!

その一生けんめいな今の積み重ねこそが、
「ミライノジブン」をつくるのです!

昨日、帰宅して夕食を準備している時に、
久しぶりにとあるテレビ番組をかけていました。

「マツコ&有吉の怒り新党」

マツコ・デラックスさんと有吉さんの毒舌ともとられるけど意外に正論を言っているトークや夏目さんの冷静なツッコミなど、あの三人の絶妙な掛け合いが何とも言えず、以前はよく見ていました。

ちょうど、仕事から帰って夕食とかぶることが多い時間帯ってのもありますが。


今日は、たいへん僕の琴線に触れるようなコメントがあったので、ちょっと触れておきたいと思います。


トークテーマというか、視聴者のハガキの内容は、
「芸能人の円満離婚」について。

ひとしきりトークが進み、話題は芸能レポーターなどのインタビューについて。


そこで指摘されたのが、

「使う言葉が直接的になっている」

「行間を読んだりする作業ができなくなってきているのでは」

ということ。


それには、SNSなどが普及したことで少ない文字数の中での表現が日常的になったことが影響しているのではないかとの分析も。


なるほど、確かに。


自分の思いや考えを言葉で表現する時、
そのすべてを言語化するわけではない。

だけど、伝わるのはコトバだけだから、
その「言葉」を捉えて人はそのメッセージを受け取る。
・・・「受け取る」というか勝手に「解釈」する。

あるいは、直接面と向かってコトバを発した場合と、
文字だけで伝える場合とでもその伝わり方などは大きく変わる。

それがコトバというメディアを媒介にしたコミュニケーションの
基本なんだけど、だから「誤解」が生まれることもあるわけです。

だから、ボディーランゲージなどのノンバーバルコミュニケーションというものも発達する。
だから、どうせ誤解するならそれは面白く「誤読」をしようと文学などでは「創造的誤読」などということも言われている。


そういうコトバの特性や僕らが日常的にあまり意識的にはならないようなコトバの使い方に注目することは非常に大切なことだと思います。

もともとコトバの使い方が巧みな人はいます。

「もともと」ってのはおかしいかもしれませんが、これまでの育ってきた環境がそうさせているんだろうなという人はいます。

逆に、なんでそういう表現になるかな、と思ってしまう人もいます。



ここで話題となっている「行間を読む」とか「ニュアンス」を感じ取るというのは、これはこれで重要なことではありますが、ここではそれ以上に大切なことを指摘しておきたい。


そもそも、何かをコトバで表現するときに、コトバはそのすべてを表現しきれるわけではないという、ある意味で当たり前のことを今一度自覚したい。


コトバが自分の思いのすべてを過不足なく表現できるものなら、どれほど楽なことでしょう。

「言いたいことはいっぱいあるのに、どう伝えればこの思いが伝わるのか」

多くの人がそうした悩みに一度や二度ぶつかったことがあるのではないでしょうか。

あるいは、自分は正確に伝えられたと思っていたのに、相手はぜんぜん違う受け取り方をしていて、誤解されてしまった、などという経験も多くの人にあるのではないでしょうか。


コトバはそもそも僕らの思いのすべてを表現してくれるものではないのです。

さらに、何とかこうとかひねり出したコトバも、相手が自分の思った通りに理解してくれるとは限らないのです。


でも、だからといってコトバに投げやりになったり、絶望するのは全く違う。

だって僕らはコトバ意外にこれほど有効に自分の思いを誰かに伝える方法を持っていないのだから。


だからこそコトバに注意し、なるべく誤解を生まないように、なるべくその思いを正確に伝えるように努力しないといけないわけです。

そうしたコトバの運用能力とでもいいましょうか、そこに注目されることで、世の中のコミュニケーションによる問題の幾ばくかは解決するのかもしれないとさえ思います。


だから、作文を書いている時などに生徒たちにはよく言うことですが、

「自分が分かればそれで良いという文は絶対に書くな」

どれほど頑張って書いても誤解はされる。
でも、じゃあ自分の思うがままに書けばいいじゃんってことになったら、
もはやあなたの思いは誰にも届かない。

どれほど頑張って書いても誤解はされる。
でも、だからこそギリギリまでコトバをつめる作業をしておかないといけない。


いつか自分が恩師に言われたコトバにも似ている気がします。

「コトバの一つ一つ、文の一つ一つのつながりに神経をめぐらせて、
 ギリギリまでコトバを論理をつめていけ」



きっと小中高生で、ここまで文章に「けち」をつけられながら作文を書く人たちもめずらしいのでしょう。

でも、それは絶対に将来の財産になる。

だって、オトナになったら誰も注意してくれないもん。

単に誤解されて面倒くさい方向に流れていっちゃうか、
あっさり却下されておしまい。

損するのはやっぱり自分なのです。




だから、心を鬼にして、今日も生徒たちの文章に「けち」をつけます。



そして、何より、その刃はそのまま自分にも向かっているものだと自覚せねば。





 できなかったら、できるまでやる!
 できるようになったら、完璧にできるまでやる!
 完璧にできるようになったら、何度でも完璧にできるまでやる!



見るとはなしにつけていたテレビから、こんな素敵な言葉が耳に入ってきました。

すでにご覧になった方もいらっしゃるかと思います。

声の主は、2014年ソチオリンピック男子シングル金メダリスト、
日本男子フィギュア初の金メダリスト、
ショートプログラムで公式大会世界最高得点かつ史上初の100点超えを達成した日本が世界に誇るトップアスリート、

羽生結弦選手


このコトバが羽生くん自身が語ったものなのか、ライターさんが書いたものなのか、真意の程は定かではありませんが、しかし、偉業を成し遂げた羽生君にもおそらくこういう想いがきちんとあるのでしょう。

いやいや、コトバでいうのは容易いけれど、それをコトバ通りに実践することはとっても難しい。

それをやれた人こそが、きっと一流の人になれるのでしょう。


それは何もスポーツの世界だけのはなしではなくて、
勉強でだってまったく同じことがいえます。


まずは「できるようになるまでやる」。
もちろん「できなかったらできるまでやる」。
正しい方法で、正しい手順で。
そして、「完璧にできるまでやる」

単純だけど一番大切なこと。
スポーツの話だと多くの人がこのことを何の疑いもなく、
一生懸命に成し遂げようと日々練習をする。

これって勉強でもまったく同じなのに、
勉強の話だと多くの人がこのことをなかなか実践できない。

いや、ここまでは多くの人がやっているのかもしれない。

でも、多くの人が継続して結果を出せていないのは、なぜ?

きっとその先がないから。


「何度でも完璧にできるまでやる!」


このままだとただのパクリだから、
勉強というフィールドでアレンジを加えるなら、こんな感じ。


「いつでも、どこでも、何度でも完璧にできるまでやる!」


きっと多くの人が体験したことがあるんじゃないですか。
一度やった問題、問題集はすでにクリアしたものだと思って、次の問題、問題集へ進む。


もちろんたくさんの、多様な問題を解いていくというのは、
学習において重要なことではあります。
が、基礎となる知識を記憶していくには、
何といっても、同じことをくり返すのが肝心。

よく教室で、

「先生、これやったことある」
「先生、別の問題ちょうだい」

という声を聞く。

でもそういう時によく言うのは、

「じゃあ今、ここで完璧に解いてみて」
「できたら、新しい問題をやろう」

たいていは完璧にはできないんですけどね。


だからやっぱり、

「いつでも、どこでも、何度でも完璧にできるまでやる!」

ってことが大事なんだ。


スポーツだって、勉強だって肝心なところは一緒。

肝心要の基礎の部分。

地味で、続けるのが嫌になってしまう作業。

その基礎をどれだけ体に沁みこませるか、それが大事。



さぁ、単語覚えるの面倒くさいとぼやいてる君。

何度も何度も同じ計算をすることに飽き飽きしている君。

君がその作業を「いつでも、どこでも完璧にできる」と胸を張って言えるなら、違うステージに進もう。

でも、そうではないのなら、少しでも不安があるのなら…
きっとそれは君がまだまだやることが残されている証拠。


「できないなら、できるまでやる!」


近道なんてない。

たとえあったとしても、大事なことをただ飛ばすだけの近道なら、きっともうその先はない。

苦しいかもしれないけど、一緒にがんばろう。

「完璧にできるまで」



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