小中高生のみなさん
小中高生の保護者のみなさん
少しでも良い学びをひらくために、
「教育」とか「学習」に興味関心のある方、
ぜひ最後までご覧ください。
私たちが唯一絶対、正しいとは思いません。
私たち自体がある一つの価値でしかありません。
ただ、こうした思いを持った方に対して、
正面切って対応する場は残念ながらまだまだ少ないのは確か。
こうしたお考えを持った方、ぜひお越しください。
遠方の方には、状況に応じて、個別に手段を講じますので、
必ずしも定期的に「通う」という考えにとらわれずに、
お気軽にご相談ください。
寒い日が続いております。
今日、横浜の空には雪が舞っております。
お体にお気をつけください。
特に、受験生!
本番までもう2週間切りました。
体調崩して最後の仕上げができないなんてことにならないように。
最近、学校教育の現場でも「作文」などを中心に、表現活動が注目されてきています。
学習指導要領の改訂にともなって、各教科にわたって「言語活動」を重視することが明記
されているからという理由もあります。
また2000年前後から、様々な「学力調査」によって、日本の児童生徒は、作文、
特に、「自分の意見を論理的に述べること」が苦手であることが示され続けてきたことも、
こうした流れを作った要因と考えられます。
そこで今回は、多くの日本の児童生徒が苦手な、
そして、かつて日本の児童生徒であった多くの人が苦手だった
「作文」の中でも、特に「意見文」の書き方についてまとめてみました。
「作文」はどんな内容、形であれ、「自分の意見を書く」ことが多いわけですから、
「意見文」の書き方が分かっていれば、色々な文章作成場面で応用がききます。
なお、今回紹介する「書き方」は、「意見文」というタイトルのもと解説していますが、
「小論文」にもそのまま使えるものです。
小中学生だけでなく、高校生、大学受験生、社会人入試などで作文・小論文が必要な方、
ぜひご覧ください。
さらに、単に「作文の書き方」という技術的な話だけでなく、
そもそもこうした文章を書くことにどんな意味があるのか、
根本的に必要なことは何なのか、といった考え方の部分にも触れました。
学校で「作文」の課題は出されるけど、「書き方」は教えてもらえていない人、
また「書き方」は聞いたことがあるけど、何で「作文」をやらなければいけないのか
といった大切だけど省かれてしまう話を聞きたい方、ぜひじっくりご覧ください。
【作文(意見文)書き方講座―その1】
「作文の書き方指導」「作文の添削」「読解力向上」
などについてご関心のある方はぜひ学習塾ラーニング・ラボの「基礎講座」をご活用ください。
詳細はホームページをご覧ください。
【学習塾ラーニング・ラボ公式ホームページ】
http://learning-labo.st-community.jp/
【学習塾ラーニング・ラボサブHP】
※スマホの方はこちらの方が見やすいです!
http://www.omisejiman.net/learning-labo/
「デキルヤツ」の特徴。
周りのせいにしない。
周りというのは、環境とか人間関係とか。
どんな環境でも、そこから何かを吸収できる人。
そういう思考回路を持った人はやっぱり強い。
勉強でも一緒。
「○○があったから」
「□□がないから」
「あの先生は○○だから」
「先生が□□してくれないから」
などなど。
よく聞くこの手のフレーズ。
きっと「デキルヤツ」は発しない言葉でしょう。
この手の発言が多い人に限って、
自分がやるべきことをやらずに、
文句ばかり言ってたりする。
そういう人のそういう発言が、
実は自分が成長する機会を自分で潰すことにつながる。
しかも、自分のことだけならまだしも、
周りに対するネガティブな発言ですから、
当然、周りにも負の影響を与えることもある。
そういう手がかかる、スピーカー的な人の対処に、
教師たちの目や手が必要以上に浪費されるから。
世に言う「モンスター」という人たちだけではなく、
「自分がやるべきことを果たす前に、他人に文句をつけるタイプ」
の人も同じような傾向があるように思う。
いつも自分のやるべきことを粛々と頑張っている人が、
そういう人たちの影で、何かにつけ貧乏くじを引かされるようなこと、
あってはならないことだけど、現実にはたくさんあるようです。
ちょっとその手のお話を聞いて、
ふと思い出したのが、
お正月に地上波で放送されていた映画のこと。
『鈴木先生』という映画。
同名のマンガが原作で、
テレビドラマにもなっているようです。
私はドラマは何話か見た程度ですが、
原作を読んで、大変刺激を受けました。
ちょっと他の学園ものとは違う印象です。
学校を舞台にしたお話だと、
何となくお説教臭かったり、
道徳的で、「良い子」的。
もちろんこのお話もそういう色合いがないわけではない。
でも、「熱血教師」が「良い子ちゃん的な解」を出す
だけのものとは微妙に違う。
映画で印象的だったのは、
学校に卒業生が訪ねてくるシーン。
少々「ヤンチャ」な元生徒が先生に相談があるというのだ。
鈴木先生は自分を頼って来たのかと思っていたが、
卒業生が話をしたかったのは別の先生。
その生徒が帰り際に、
「鈴木先生を訪ねてくる教え子っているの?」
というような言葉を発する。
それを聞いていた在校生からも、
「今の図星じゃない!?」
と皮肉を言われる。
文字で書くと何とも味気ない印象ですが、
たいへん重要なシーンです。
ぜひご覧頂きたい。
そもそも鈴木先生は、
そうした「手のかかる」子たちよりも、
「普通の子」に手をかける先生なのだ。
しかも、「直接」「派手に」分かるようなものではなく、
生徒自身が自ら「解」にたどり着けるように仕掛ける。
この映画でのメインとなる大きな事件が解決し、
無事にエンディングを迎えるのだが、
その事件解決の流れの中で鈴木組の生徒たちは、
ひときわその存在感を放つ。
一見派手さのない「普通」の生徒が、
きちんと自分の為すべきことを行い、
自分の、自分たちの「解」を見出そうとする。
そうした光景を目の当たりにし、
先に鈴木先生に皮肉を言った生徒が、
「きっと鈴木先生の教え子は、みんなそれぞれで頑張っているんだろうね」
「だから、先生を頼って来ないんだ」
というような発言をする。
これって実に重要なことだと思う。
実際の教育現場では、とかく「デキルヤツ」と「デキナイヤツ」に目が向けられがちだ。
特に、派手で、目立つヤツが表面的には教師と対立しながらも、
結局は、教師の時間を一番使っていたりする。
物言わず、きちんとやるべきことをやる人に、
光が当たらないのは大問題だ。
もちろん大多数の人を同じ尺度で一律に測ろうとする「テスト的教育」にも大いに問題はある。
自分が教育という営みの隅っこ生きている理由の幾ばくかはやっぱりそこにある。
入試の合格、定期テストの100点なんて、
本当に大事にしないといけないことがちゃんとわかっていれば、
ちょっとしたきっかけでどうにでもなる。
入試の合格や定期テストの100点だけが、
目的になっているような勉強ばかりの人は、
入試がなくなり、テストがなくなった時、
何を目指して「学ぶ」のでしょうか。
だから、かつて、多くのそうした人が、
大学をレジャーランド化させたのでしょうね。
勉強なんて必要ないって、
ちゃんとやろうともせずに、
そうしたレールから外れた人は、
では、自分は他に何ができるのか、
何をしていきたいのか、
きちんと見出せるのでしょうか。
たいへんなお節介だというのは重々承知。
でも、私たちは、「きみ」が成長するためのきっかけとなりたいのです。
それは時に反面教師のような存在になることかもしれない。
でも、私たちをきっかけに「きみ」が何かに気付き、
何かを解放させて、何かを創造していけるのなら、
私たちは、鬼でも蛇でも良いとさえ思う。
だから、どうか色んなことを学んで吸収しようという気持ち、
姿勢だけは忘れないでほしい。
どんな環境でも、どんなことでも、どんな人からでも、
きっと何かは学べる。
自分が学ぼうという意思を持つ限り。
誰かが何とかしてくれると思ったらダメ。
その瞬間、それは自分の人生を放棄したにも等しい。
それだけは絶対にダメだ。
たとえ、学校の教科の勉強であっても、
誰かに頼りきったり、ましてや「デキナイ」ことを
誰かのせいにするなんて絶対にダメだ。
特別な事情がない限り、学校での、
少なくとも中学校までの学習は、
多くの人がみんなクリアしたいものだ。
やってやれないことはない。
答えがちゃんと出せる問題なかりだ。
なのに、できないというのは「デキナイ」のではない。
「正しい」方法で「やっていない」だけなんだ。
さぁ君はどちらを選びますか?
「たとえ辛く苦しい時があっても、
自分の頭で自分の行く道を考え、決める人生」
か、それとも、
「いつもグチグチ文句を言いながら、
自分の頭では何も考えず誰かに決められた人生」
か。
答えは「きみ」自身が導き出すしかない。
私たちは、そのためのお手伝いをすることしかできないんだから。
「塾」という世界に身を置いていると、
当然、テストの点数とか入試の合否など、
『実績』というものに敏感な方に
お会いする機会が多い。
もちろん自分自身がそういうものを意識しない、
といったらウソになる。
塾人としては、ある意味当然のこと。
だけど、塾に通うという時に、
あまりに考えもなしに、
実績などの「派手な数字」に、
あるいは成績の良い人が言っている塾に、
安易に入ってしまうという人もまだまだ多いようです。
私自身、中学1年生の頃はごく平凡な成績でした。
中2の2学期、高校入試を意識し始めた時に、
成績が急上昇し、それ以降は何人もの人に、
「どこの塾に行ってんの?」
と聞かれたものです。
中学生になって姉の紹介で中規模の塾に通っていたのですが、
とある事情で、その塾がなくなってしまいました。
しかも、中3に進級する直前、高校入試がいよいよこれからって時。
その後、本部教室の教室長の先生が自分で教室を開くということで、
私はそこでお世話になることにしました。
というのも、最初は地元の教室に通っていたのですが、
その教室の雰囲気というか、先生に不信感を持つことがあり、
本部の教室に通うことにしたのです。
地元から電車に乗って5駅も離れた場所に、
週に2回通いました。
とてもめずらしい生徒だったと思います。
自分が講師の立場になってからも、
電車で5駅も離れたところに通う生徒は、
あまり出会ったことがありません。
最終的には高校入試はその塾で迎えましたし、
大学生の時には講師のアルバイトをさせてもらうなど、
大変お世話になりました。
それもこれもやはりその先生がいたからこそ。
とはいえ、地元からだいぶ離れた塾ですから、
テスト前の対策授業はその地域の学校に合わせていて、
微妙にテスト範囲が違うことも多々あり、
テスト前は塾を休んで、家で自分でやることも多かったんですね。
それでも、私はその教室が、その先生が、
自分にとって刺激を与えてくれると思える存在だったから、
高校入試も、講師デビューもその先生のもとで成し遂げたんですね。
この先生がいなかったら、
今の、講師としての私はいなかったでしょう。
とても厳しい先生でしたが、
分かりやすい解説、適確なアドバイスで
普段部活で忙しくしていた私も、
きちんと継続的に結果を出すことができました。
でも、「塾はどこに行ってるの?」って聞かれ、
丁寧に答えても、この塾に来る人は一人もいませんでした。
中には「そんな塾行ってて平気なの?」とか、
「そんなとこ行ってないでうちの塾くれば?」とか、
中学生ながら、みんなブランド志向が強いんだな、
と思わされましたね。
近くて、大手で、実績がある、などの付属品がないと、
なかなか踏み込めないのは、仕方ないことかもしれない。
でも、これだけは言える。
実績も何にもない出来立てホヤホヤの塾だったけど、
「本気」の先生がいて、その先生のもとで、
「自分で」「自分のための」学習をちゃんとやろうと、
そういう意志が持てれば、オール5に近い成績をとって、
県下最高位と言われるような進学校にだって行けるんです。
ブランド志向な彼、彼女と同等かそれ以上の結果が出せているんです。
それは、何も私に特別な才能があったわけではありません。
その塾に特別な仕掛けがあったわけではありません。
ごくごく当たり前のことを、当たり前にやっただけなんです。
もちろん、その先生は私にとって十分に特別な存在で、
その塾は十分に特別な存在です。
でもそれは、先生や私自身が特別なのではありません。
先生の熱意と、それに呼応して私がやるべきことをやった、
という「当たり前のこと」が成立したに過ぎないのです。
だから、よく「良い方法在りませんか?」と、
裏ワザのようなものを求める質問が来るたびに、
ちょっと悲しい気持ちになる。
「あそこの塾では○○先生のテスト問題がもらえるよ」
「○○先生の過去問をやって点数が上がった」
などと聞くと、それでこの先本当に大丈夫かな、と
とてもとても心配になってしまいます。
もちろんそういう学びをきっかけに良い成長をする人が
いることも知っています。
だから全否定するつもりはない。
でも、学校のテストって限られた範囲の、
しかも自分が直接習った先生の授業の振り返りです。
安直に楽な方法を求め、効率だけを優先して、
テストをやり過ごすような勉強をして、
それで本当に良いのでしょうか。
「学び」という行為は、もっともっと大事なもの。
その意味を度外視するような言動はやっぱり残念で仕方ない。
どんな塾を選ぶのか、
それはもちろん人それぞれ。
どんな答えを出すのか、
正解はない。
だから、一番大事なのは、
どんな環境であろうと、
それを「活かす」ように「学ぶ」こと。
どんなに良い(とされる)塾でだって、
どんなに良い(とされる)先生に習ったって、
それを活かすも殺すも、やっぱり自分次第なのです。
本当はもっと違う世界で生きてみようとも思っていた。
けれど、こうやって本当は面白いはずの学びが捻じ曲げられ、
身体に沁み込まされてしまった彼、彼女が心配でならない。
少しでも、学ぶことの楽しさとか、学ぶことの本当の苦しみを、
その幾ばくかを伝えるべきだと思ってしまった。
私はもう少し、このままここにいます。
だから、
「そんなこと当然でしょ!?」って、
どうか私をふみつけにして、君はきちんと自分の輝きを取り戻してほしい。
新年あけましておめでとうございます。
といっても、もう年が明けて1週間以上経過してしまいましたね。
いよいよ受験シーズン本番です。
明日私立中学の入試という生徒もいます。
来週はセンター試験もあります。
県公立高校入試は来月ですが、
とはいえ、もうあと1ヶ月少々です。
今年は、私立中学の帰国子女入試、一般入試、
公立中高一貫校入試、そして、県公立高校入試と、
さまざまな入試を迎える生徒がいます。
これまでの頑張りをきちんと発揮できるように、
あとひと踏ん張り。
最後の総仕上げをしていきましょう!
今年は昨年末からインフルエンザの感染が広がって、
例年になく、周囲でも感染した人がいます。
せっかくのお正月休みを病気療養で終えてしまったという人もいらっしゃたのではないでしょうか。
かくいう私はインフルエンザにこそかからなかったものの、
疲れと寒さで、年末年始は若干体調が下降気味。
はっきりと悪くなれば自信をもって横たわれるのですが、
動けないわけでもなく、なんとなくだるーい日々を送っていました。
元気にお過ごしですか?
特に受験生諸君は、ここでインフルエンザにでもなってしまっては、
ラストスパートに急ブレーキがかかってしまうかもしれません。
十分に警戒して、ガシガシ勉学に励んで下さい。
では、2015年、今年もよろしくお願い申し上げます。
先週は講師の一人がインフルエンザに
かかってしまい、もう、てんやわんや。
ホンマモンの師走を最後の最後にガチっと味わいました。
授業の変更等、ご迷惑をかけてしまった皆さま、
申し訳ありませんでした。
急な日程変更にも嫌な顔一つせず、ご快諾くださった皆さま、
本当にありがとうございました。
何とか、2014年の授業を全て終えることが出来ました。
年が明ければ、いよいよ受験直前!
受験生諸君は、年明けから実践的な受験対策がはじまります。
日本人たるもの、お正月はお節料理、お雑煮、初詣…
いろいろありますので、大みそか、元日は家族親戚とゆっくり過ごしましょう。
お年玉も忘れずにもらいましょうね

でも、気づいたら明日から学校じゃん、
なんてことには決してならないように、ね!
冬休みの宿題が出ている人は、
すぐに、今すぐに終わらせてしまいなさい。
「まだいいや!」なんて思っていたら、
あっという間に終わっちゃうよ。冬休みなんて。
では、当塾は本日から1週間、1/4(日)までお休みさせて頂きます。
新年一発目は1/5(月)です!
また来年も元気な姿を見せて下さい。
全国的にインフルエンザの感染がひろがっているようです。
皆さま十分に気をつけてお過ごしください。
みなさま、良いお年をお迎えください

先日記した記事(「とりあえず「塾」!?:http://ameblo.jp/learning-labo/entry-11957026560.html)
の最後に「宿題」についてふれていましたので、
今日は「宿題」にまつわるお話。
「宿題」について、印象的な出来事を一つご紹介したいと思います。
以前勤めていた塾の生徒の話。
ふだんから真面目に授業や宿題などに取り組んでいる優秀な生徒。
このままいけば志望校に対する内申点もまずまず、
といった矢先。
入試直前、後期(2学期)の成績がガクッと落ちてしまった。
急いで保護者と本人と3者面談を行いました。
その成績では志望校を変える必要が出て来たからです。
夏休み明けから11月までの間、
テストや提出物などについては、
これまで通り、やれていたんです。
これといって大きな原因が分からず、
「心当たりはありますか?」
と尋ねると、お母様からこんな答えが返ってきました。
「この子、夏休みの国語の宿題を提出しなかったらしいんです。」
えッ!!
マジかッ!!
「やりきれない宿題があるならいいなって言ったじゃんか」
「どんな宿題だったの?」
・・・意を決したようにその生徒は話し始めました。
「国語の宿題で、絵本を創るってやつなんですけど、
そんなのできないと思ってやりませんでした。」
「でも、それで成績下がってしまって、志望校に行けないかもしれないんだよ。
難しかったのか?それなら助けるって言ったでしょ。」
「いや、たぶんやろうと思えばできたと思う。テキトーでもいいなら、
別に難しいってわけではないです。」
「ならなんでやらなかった!?」
「・・・」
「いや、いまさらこんなこと言ってもはじまらないんだけど、
せっかくここまで積み重ねて来たのに、もったいないじゃん。」
「…すみません。でも、俺、絵本なんて創れません。
俺、受験生ですよ。今、志望校に向けて勉強してるんです。
やりたいこと見つけたから、そのために有利な学校行こうって。
ちゃんと勉強してるんです。
それなのに、夏休みの大事な時間を使って、絵本なんて。
なんで今なのって思って。」
「・・・」
たしかにこの生徒の言い分も一理ある。
その絵本の課題だって、提出した後になにかフィードバックされるわけでもなく、ただ単に提出したことで評価がつくという、何の意図がある宿題か分からないタイプのものだったようです。
この生徒にしてみれば、自分で目標を決めて、
それに向かって努力している時期に、
たとえ学校の課題で、それはそれで意味があるもの
なのかもしれないけど、「今じゃなくてもいいじゃん」って
ものに割く時間はない、と思ったのだろう。
それはそれで当然といえば当然の思いだ。
夏休みの定番の「読書感想文」だって、
もちろんちゃんと意味のあるものだって、
今なら分かる。
でも、授業の内容の延長としての宿題でも、
ましてや「書き方」を教えてもらうわけでもなく、
さらには、書いたものへのフィードバックもない。
そんなの「宿題」として何の意味があるのか!?
単に、先生への忠誠を誓わせるツールでしかない、とさえ思えてしまう。
もちろん同じことをしていても、
先生によっては、別のとらえができるのでしょう。
力のある先生は、単に「恒例」ってだけで宿題は出さないでしょう。
これが宿題の大きな問題点のひとつです。
宿題はもちろん大切な行いだ。
でも、それが学習を生徒に丸投げするだけのものであれば、
その宿題をやることで、その生徒に一体どれだけの成長があるのでしょう。
なぜその宿題が今必要なのか、
宿題をやったあとにどんなフォローがあるのか、
そういう考えもなしに、
ただ単に「決まり文句」として、宿題を出してはいないか。
指導者たちは今一度考えてみても良いのではないでしょうか。
この読書感想文に関しては、
先日、姉からこんなエピソードを聞きました。
息子の保護者面談に行った時のこと。
直前に「読書感想文」の課題があり、
自分一人ではできないから、
姉が付きっきりで、(半分くらい姉の感想を入れて)
無理矢理書いて提出したということがあったようで。
そのことについて、担任から、
「大丈夫でした。私でもそうすると思います。
助かりました。」
と言われたそうです。
もちろん、学習は学校だけの閉じた世界でやるべきものではないですから、
家庭学習の課題として作文を出すのは別に不思議なことではありません。
でも、きちんとした指導もなく、
やりたくてもやれないという状態のまま宿題だけだされ、
結局やれないと怒られ、親が半分やると感謝される…
これってどうなんでしょう。
まぁ学校の先生も、何人も何十人も相手にしていますから、
一人ひとりまできちんと見切れないということも分かります。
だったら、だったで工夫しないと。
せめて提出されたものに、
「ここはこう言う風に書くと良い」
とか、
「こういう時はこうするといいよ」
とか、今回はそれで良かったとしても、
次回につながる指摘をしていなければ、
何度課題を出したとしても、
結局いつも同じステージから出発することになり、
いつまでたっても一人じゃ書けない、やれないまんま。
そうなればやっぱり宿題って中身はともかく、
出すことに意味がある、なんて不健全極まりないものになってしまう。
そうだとしたら、先の生徒の行動は一概に責められない。
きちんと自分で考え、行動しているのですから、
たいした考えもなしに宿題を出した教師の行動よりは、
ずっと主体的であり、意義深いことです。
ちなみにその生徒、ちゃんと勉強は進められていたので、
(いわゆる実力はあるけど内申がないタイプ)
私学のオープン入試を勧めました。
本人もお母様も納得されて、
急遽路線変更し、本番一発勝負に挑むことになりました。
結果は、見事というか、当然というか、合格。
晴れて希望する進路を歩みだすことができました。
だって、もう自分の頭で考えて行動できていて、
もちろんきちんと努力を積み重ねられていたんですから、
入試で結果が伴わないわけがない。
あの夏に、絵本をしぶしぶ作っていて、
成績が落ちずに迎えていた入試を経た彼と、
現実の彼と、きっと今の彼の方が輝いているのでしょう。
勝手な想像ですが、
そう確信をもって言えます。
これをご覧のあなたはお分かり下さると思いますが、
だから、宿題をやらないでいいというつもりは毛頭ありません。
やるべきことはきちんとやるべきです。
でも、どうしてもってとき、
自分はどう行動するのか…
社会生活では、時にやらない、
拒否することの方が、良いという場合もあります。
そういったとき、最良の選択ができる「頭」をつくっていくこと、
それこそが大事なことだと思います。
そのためにこそ宿題を使ってほしい。
単に「めんどくさい」なんて理由は言語道断。
即却下です。
でも、その宿題にどんな意味があるのか、
意味が分からない宿題があった場合、
出題者に素直に疑問を投げかけるのは、
自分の「頭」がある意味正常に働いている証拠かも。
そんな風に考えたとき、
「宿題をやっている」=「良いこと」
ではないのかもしれないと思いませんか?
必要な復習として出された宿題であっても、
ただ単に「ノルマをこなす」がごとくやるだけでは、
実はあんまり意味がないこともあります。
あなたは大丈夫ですか?
宿題はきちんとやれていたとして、
単に「こなす」だけになっていませんか?
賛否両論あるネタです。
何かお感じになられたら、
ぜひご意見、ご感想をお聞かせください。
お待ちしています。
昨日の授業。
中3の社会、公民の授業中のこと。
とある生徒がこんな質問をくれました。
「先生。どうして若者は選挙に行かないのですか?」
「どうすれば若者は選挙に行くんですか?」
ここでいう「若者」よりも若者な彼女には、
選挙権を持っているのに、それを行使しない「若者」は
どう映っているのでしょうかね。
私自身は成人し、投票権を持ってから迎えた選挙は、
国政も地方も全部投票所に足を運んでいます。
だから、はっきり言って「若者」の気持ちは分かりませんね。
いろいろ理由付けをしたって、
結局のところ、意識が低いってことでしょう。
「応援できる立候補者がいない」
などというもっともらしい理由でさえ、
実は選挙に行かない理由にはならないでしょう。
だって「白紙投票」という意思表示の仕方があるわけですから。
そんなこと言うときっと、
「だったら行かなくても一緒じゃん」
なんて言われてしまうんだろうな。
まぁ実際白票は無効票だから、
だれか「まし」な人に入れるとか、
その当たりも意識があれば、
おのずからとるべき行動は見えてくるのでは!?
仕事だったとか、
もともと旅行の予定が入っていたとか、
そういう理由もあるのでしょうか。
でも、これだって「期日前投票」があるわけですから、
もっともらしく聞こえても、
それだって単なる屁理屈にしか聞こえない。
私だってこれまでに投票日と旅行の日がかぶったことがある。
しかも、海外。
だからちゃーんと区役所に「期日前投票」に行って、
それから海外へと旅立ちましたよ。
そう。
これってもうほんとに意識の問題なんですね。
だから意識があれば、
少なくとも「国」とか「地域」とか「社会」とか、
そういうものをきちんと身近なものとして、
自分のこととして考えようとしている人は、
投票に行くのでしょう。
どんな個人的な理由があれども。
だから意識がない人というのは、
「国」とか「地域」とか「社会」とか、
ホントは自分の身近な話題なはずなのに、
どこか別世界のことのように感じてしまっているのでしょう。
それには「教育」とか「メディア」の問題も大きく関わっている思う。
無味乾燥な「公民」とか「現代社会」という授業で、
無味無臭な感じの教科書を使って、
「テストのため」のような動機で学ぶ知識は、
きっと自分の血肉とはならないのでしょうね。
何か事件があったとき、
自分の権利が侵害されたり、
重大な損失をこうむるようなことがなければ、
政治の話題はどこか別世界のもの扱い。
でも、そういう時が来たときに声を上げても遅いってこともある。
政治家や政策の悪口をいうのなら投票に行けばいい。
投票に行って「主権者」として、堂々と文句を言えばいい。
不満があって、変えたいって思うことがあるなら、
そういう方向に動かなければ何も変わらない。
もちろん一人では何も変えられないかもしれない。
でも、みんなが同じように思うことで、
でも昔ながらのやり方で何となくそうなっちゃってることって
けっこうあるものです。
そういうのをみんなが「変えようよ」って思えば、
実際に変えられる、そういうルールで社会や国は運営されているんです。
もちろんみんながみんな政治家になれるわけでも、
政治的な活動ができるわけでもない。
でも、それなら自分の意志を
自分の代わりに現実にする人を見つけないと。
あるいは、作らないと。
「主権者」は自分なのに、
誰かに頼りきりになったり、
誰かにだけ責任を押し付けたり、
それってどうなのでしょうかね。
投票なんてほんの数分で終わる作業です。
そんなことさえせずに、文句言うだけ言って、
何か事が起こったときには助けだけは求める!?
…なんか、ちょっとカッコ悪くないですか?
我が生徒はこんな話をしているんですから、
選挙権を持ったら、ちゃんと投票に行くんだろうな。。。
(ちょっと不安なのは何故?)
夏休みの宿題のド定番
「読書感想文」
毎年たくさんの方苦しんでいるのを見て、
当塾では「夏期特別講座」として、
『作文・読書感想文書き方講座』を開いてきました。
今回は、その授業をベースに動画版の講座を作成してみました。
なんとも季節はずれなタイミングでのリリースとなってしまいましたが、やっと重い腰をあげられたので、何とか年内に形にすることはできました。
まぁ作文や感想文なんて宿題になっていなくてもどんどん書いて「文章力」を上げておくと、いざという時に助かります。
本当にそれが必要な時、それはそれが本当に必要ではないときの練度によってきまる!
スポーツも勉強も。
練習でやれていないことが本番でできるはずがない。
今回は全3回の講座でまとめています。
それぞれ10分前後ですので、
ぜんぶ通してみても30分程度です。
ぜひ参考になさってください。
あ、講座の中でもお話していますが、
この講座を見て読書感想文を書いてみたという人は、
ぜひメールで送ってください。
添削させて頂きます!
では、とりあえず「第1回」をどうぞ~
『読書感想文の書き方講座‐第1回』
※続きは当塾公式ホームページでご覧ください。
http://learning-labo.st-community.jp/?p=2996
先日から保護者面談を行っています。
学習面で成果の出ている子、伸び悩んでいる子、
様々ですが、貴重な意見交換の場となっています。
そんな中で、たいへんうれしい知らせがありました。
それも一人の生徒だけでなく、複数の生徒から。
塾の講師が喜ばしい知らせと言えば、
テストの点数が上がったとか、
成績が上がったとか、
その手の話題が多いのでしょう。
もちろん僕だってそういう話題が
うれしくないわけがない。
きちんと努力した成果として、
そうした結果が出てきたのであれば、
これ以上のことはない。
でも、それだけではなくて、
ここで学んだことが実生活の場で、
しっかりと活きてきていることが感じられた時、
やっぱり単純にうれしい。
そういう知らせを受けたときの方が、
何倍もうれしい。
特に、この塾では、オリジナルの「基礎講座」で、
いわゆる教科の学習ではなく、
そういう枠を取り外した中で、
主に、言語活動を重視した実践をくり返しています。
「自分の思いをコトバにのせて届けるには、
どうすればいいのか?」
「ある人はこのニュースにこういう意見を示しているけど、
私はどうなのか?」
などなど。
「国語」の学習としても大事なことだけど、
それがテストとか成績とかをゴールにせず、
実生活の場で活きるように・・・
そんな思いでやっている授業。
だから、具体的に実生活の場で、
これまでなかった行動が見えた、という
ような報告をしてもらえると、
たまらなくうれしい。
やっぱりやっていて良かったって素直に思える。
僕らがここに存在している意味が
きちんとあったのだと、
素直に実感できるポイント。
新聞を読んだり、ニュースを見たり、
これまであんまりなかったことが、
見られるようになった。
しかも、それだけでなく、
その事件や意見に対して、
自分はどう思うのか、
家族はどう思っているのか、
そうした発言が出てきているとか。
実際に、「基礎講座」の授業中にも、
NIE(Newspaper In Education)を
実践しています。
特定の記事にクローズアップしたり、
投書の意見に対して自分の意見を表現したり、
時に、あるテーマに基づいて、
自分で新聞を作ったり…。
そうした取り組みが授業の中での出来事として
閉じたものとせずに、活かしている。
これ以上うれしい報告があるのでしょうか。
また、比較的内気な子が、
積極的に発言するようになってきたり、
何か有志で行う活動に手を挙げ、
積極的に参加したり…
ここで取り組んでいることが、
何か「自信」のようなものを、
積み重ねているのかもしれません。
家でも学校でもない、
第3の居場所。
これも当塾ラーニング・ラボが
大切にしているコンセプト。
ここに来ることが、
ここでの実践が、
家とも学校とも違う形で、
自分を解放することにつながっているのであれば、
やっぱりこれもこれ以上にうれしいことはない。
12月ももう中盤。
1週間そこそこで冬休み。
慌ただしい中でも、
だからこそ、
ふっと気持ちが温かくなるひと時でした。
さぁ明日からもまた頑張ろう。
そうだ。
週末は「衆議院選挙」+「最高裁判事国民審査」ですね。
選挙権をお持ちの方はぜひ1票を投じに投票所へ。
「選挙の大義がない」とか、
「選挙費用がもったいない」とか、
「どうせ自分の1票では何も変わらない」とか、
そんなネガティブな理由ばかり探していても仕方ありません。
投票は、僕たち国民が政治に対し、
直接物申す大切な出来事です。
選挙に行かずに政治の文句を言っている人は、
ぜひ当塾で「公民」の授業を受けて下さい。
日本は間接民主制をとっていますから、
実際に政治を行っている人は別世界の人、
という印象があるかもしれません。
でも、あくまでも私たち一人ひとりが
政治的な視点を持って、
国や地域、自分たちの生活のことを
考えていかなければ何も良くなりませんよね。
政治に不信感があるなら、
為政者の政策に異論があるならば、
きちんと自分が政治的視点を持って
ルールに則って変えていかなければいけません。
そうではないのに、
ただ大声で文句を言うだけなんて、
誰かが何とかしてくれると思ってしまうなんて、
それはただのルール違反。
さぁ、みなさん日曜日は最寄りの投票所へ、GO!