先日記した記事(「とりあえず「塾」!?:http://ameblo.jp/learning-labo/entry-11957026560.html)
の最後に「宿題」についてふれていましたので、
今日は「宿題」にまつわるお話。
「宿題」について、印象的な出来事を一つご紹介したいと思います。
以前勤めていた塾の生徒の話。
ふだんから真面目に授業や宿題などに取り組んでいる優秀な生徒。
このままいけば志望校に対する内申点もまずまず、
といった矢先。
入試直前、後期(2学期)の成績がガクッと落ちてしまった。
急いで保護者と本人と3者面談を行いました。
その成績では志望校を変える必要が出て来たからです。
夏休み明けから11月までの間、
テストや提出物などについては、
これまで通り、やれていたんです。
これといって大きな原因が分からず、
「心当たりはありますか?」
と尋ねると、お母様からこんな答えが返ってきました。
「この子、夏休みの国語の宿題を提出しなかったらしいんです。」
えッ!!
マジかッ!!
「やりきれない宿題があるならいいなって言ったじゃんか」
「どんな宿題だったの?」
・・・意を決したようにその生徒は話し始めました。
「国語の宿題で、絵本を創るってやつなんですけど、
そんなのできないと思ってやりませんでした。」
「でも、それで成績下がってしまって、志望校に行けないかもしれないんだよ。
難しかったのか?それなら助けるって言ったでしょ。」
「いや、たぶんやろうと思えばできたと思う。テキトーでもいいなら、
別に難しいってわけではないです。」
「ならなんでやらなかった!?」
「・・・」
「いや、いまさらこんなこと言ってもはじまらないんだけど、
せっかくここまで積み重ねて来たのに、もったいないじゃん。」
「…すみません。でも、俺、絵本なんて創れません。
俺、受験生ですよ。今、志望校に向けて勉強してるんです。
やりたいこと見つけたから、そのために有利な学校行こうって。
ちゃんと勉強してるんです。
それなのに、夏休みの大事な時間を使って、絵本なんて。
なんで今なのって思って。」
「・・・」
たしかにこの生徒の言い分も一理ある。
その絵本の課題だって、提出した後になにかフィードバックされるわけでもなく、ただ単に提出したことで評価がつくという、何の意図がある宿題か分からないタイプのものだったようです。
この生徒にしてみれば、自分で目標を決めて、
それに向かって努力している時期に、
たとえ学校の課題で、それはそれで意味があるもの
なのかもしれないけど、「今じゃなくてもいいじゃん」って
ものに割く時間はない、と思ったのだろう。
それはそれで当然といえば当然の思いだ。
夏休みの定番の「読書感想文」だって、
もちろんちゃんと意味のあるものだって、
今なら分かる。
でも、授業の内容の延長としての宿題でも、
ましてや「書き方」を教えてもらうわけでもなく、
さらには、書いたものへのフィードバックもない。
そんなの「宿題」として何の意味があるのか!?
単に、先生への忠誠を誓わせるツールでしかない、とさえ思えてしまう。
もちろん同じことをしていても、
先生によっては、別のとらえができるのでしょう。
力のある先生は、単に「恒例」ってだけで宿題は出さないでしょう。
これが宿題の大きな問題点のひとつです。
宿題はもちろん大切な行いだ。
でも、それが学習を生徒に丸投げするだけのものであれば、
その宿題をやることで、その生徒に一体どれだけの成長があるのでしょう。
なぜその宿題が今必要なのか、
宿題をやったあとにどんなフォローがあるのか、
そういう考えもなしに、
ただ単に「決まり文句」として、宿題を出してはいないか。
指導者たちは今一度考えてみても良いのではないでしょうか。
この読書感想文に関しては、
先日、姉からこんなエピソードを聞きました。
息子の保護者面談に行った時のこと。
直前に「読書感想文」の課題があり、
自分一人ではできないから、
姉が付きっきりで、(半分くらい姉の感想を入れて)
無理矢理書いて提出したということがあったようで。
そのことについて、担任から、
「大丈夫でした。私でもそうすると思います。
助かりました。」
と言われたそうです。
もちろん、学習は学校だけの閉じた世界でやるべきものではないですから、
家庭学習の課題として作文を出すのは別に不思議なことではありません。
でも、きちんとした指導もなく、
やりたくてもやれないという状態のまま宿題だけだされ、
結局やれないと怒られ、親が半分やると感謝される…
これってどうなんでしょう。
まぁ学校の先生も、何人も何十人も相手にしていますから、
一人ひとりまできちんと見切れないということも分かります。
だったら、だったで工夫しないと。
せめて提出されたものに、
「ここはこう言う風に書くと良い」
とか、
「こういう時はこうするといいよ」
とか、今回はそれで良かったとしても、
次回につながる指摘をしていなければ、
何度課題を出したとしても、
結局いつも同じステージから出発することになり、
いつまでたっても一人じゃ書けない、やれないまんま。
そうなればやっぱり宿題って中身はともかく、
出すことに意味がある、なんて不健全極まりないものになってしまう。
そうだとしたら、先の生徒の行動は一概に責められない。
きちんと自分で考え、行動しているのですから、
たいした考えもなしに宿題を出した教師の行動よりは、
ずっと主体的であり、意義深いことです。
ちなみにその生徒、ちゃんと勉強は進められていたので、
(いわゆる実力はあるけど内申がないタイプ)
私学のオープン入試を勧めました。
本人もお母様も納得されて、
急遽路線変更し、本番一発勝負に挑むことになりました。
結果は、見事というか、当然というか、合格。
晴れて希望する進路を歩みだすことができました。
だって、もう自分の頭で考えて行動できていて、
もちろんきちんと努力を積み重ねられていたんですから、
入試で結果が伴わないわけがない。
あの夏に、絵本をしぶしぶ作っていて、
成績が落ちずに迎えていた入試を経た彼と、
現実の彼と、きっと今の彼の方が輝いているのでしょう。
勝手な想像ですが、
そう確信をもって言えます。
これをご覧のあなたはお分かり下さると思いますが、
だから、宿題をやらないでいいというつもりは毛頭ありません。
やるべきことはきちんとやるべきです。
でも、どうしてもってとき、
自分はどう行動するのか…
社会生活では、時にやらない、
拒否することの方が、良いという場合もあります。
そういったとき、最良の選択ができる「頭」をつくっていくこと、
それこそが大事なことだと思います。
そのためにこそ宿題を使ってほしい。
単に「めんどくさい」なんて理由は言語道断。
即却下です。
でも、その宿題にどんな意味があるのか、
意味が分からない宿題があった場合、
出題者に素直に疑問を投げかけるのは、
自分の「頭」がある意味正常に働いている証拠かも。
そんな風に考えたとき、
「宿題をやっている」=「良いこと」
ではないのかもしれないと思いませんか?
必要な復習として出された宿題であっても、
ただ単に「ノルマをこなす」がごとくやるだけでは、
実はあんまり意味がないこともあります。
あなたは大丈夫ですか?
宿題はきちんとやれていたとして、
単に「こなす」だけになっていませんか?
賛否両論あるネタです。
何かお感じになられたら、
ぜひご意見、ご感想をお聞かせください。
お待ちしています。