『鈴木先生』ー「ふつう」の子が「ふつう」に輝けるように | 作文・読解力など国語力向上 学習塾ラーニング・ラボ横浜天王町教室のスタッフブログ!

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作文・小論文・読解力など国語力UPのための塾。横浜市保土ヶ谷区にある学習塾ラーニング・ラボのスタッフブログです。教室での出来事、教育ニュース・新聞記事・書籍についてのコメント、当塾オリジナルの「基礎講座」で作成した生徒の作品なども発表します。


「デキルヤツ」の特徴。

周りのせいにしない。

周りというのは、環境とか人間関係とか。


どんな環境でも、そこから何かを吸収できる人。

そういう思考回路を持った人はやっぱり強い。


勉強でも一緒。

「○○があったから」
「□□がないから」

「あの先生は○○だから」
「先生が□□してくれないから」

などなど。

よく聞くこの手のフレーズ。

きっと「デキルヤツ」は発しない言葉でしょう。

この手の発言が多い人に限って、
自分がやるべきことをやらずに、
文句ばかり言ってたりする。

そういう人のそういう発言が、
実は自分が成長する機会を自分で潰すことにつながる。

しかも、自分のことだけならまだしも、
周りに対するネガティブな発言ですから、
当然、周りにも負の影響を与えることもある。

そういう手がかかる、スピーカー的な人の対処に、
教師たちの目や手が必要以上に浪費されるから。


世に言う「モンスター」という人たちだけではなく、
「自分がやるべきことを果たす前に、他人に文句をつけるタイプ」
の人も同じような傾向があるように思う。

いつも自分のやるべきことを粛々と頑張っている人が、
そういう人たちの影で、何かにつけ貧乏くじを引かされるようなこと、
あってはならないことだけど、現実にはたくさんあるようです。


ちょっとその手のお話を聞いて、
ふと思い出したのが、
お正月に地上波で放送されていた映画のこと。

『鈴木先生』という映画。

同名のマンガが原作で、
テレビドラマにもなっているようです。

私はドラマは何話か見た程度ですが、
原作を読んで、大変刺激を受けました。

ちょっと他の学園ものとは違う印象です。

学校を舞台にしたお話だと、
何となくお説教臭かったり、
道徳的で、「良い子」的。

もちろんこのお話もそういう色合いがないわけではない。
でも、「熱血教師」が「良い子ちゃん的な解」を出す
だけのものとは微妙に違う。


映画で印象的だったのは、
学校に卒業生が訪ねてくるシーン。
少々「ヤンチャ」な元生徒が先生に相談があるというのだ。

鈴木先生は自分を頼って来たのかと思っていたが、
卒業生が話をしたかったのは別の先生。

その生徒が帰り際に、
「鈴木先生を訪ねてくる教え子っているの?」
というような言葉を発する。

それを聞いていた在校生からも、
「今の図星じゃない!?」
と皮肉を言われる。

文字で書くと何とも味気ない印象ですが、
たいへん重要なシーンです。
ぜひご覧頂きたい。


そもそも鈴木先生は、
そうした「手のかかる」子たちよりも、
「普通の子」に手をかける先生なのだ。

しかも、「直接」「派手に」分かるようなものではなく、
生徒自身が自ら「解」にたどり着けるように仕掛ける。

この映画でのメインとなる大きな事件が解決し、
無事にエンディングを迎えるのだが、
その事件解決の流れの中で鈴木組の生徒たちは、
ひときわその存在感を放つ。
一見派手さのない「普通」の生徒が、
きちんと自分の為すべきことを行い、
自分の、自分たちの「解」を見出そうとする。

そうした光景を目の当たりにし、
先に鈴木先生に皮肉を言った生徒が、

「きっと鈴木先生の教え子は、みんなそれぞれで頑張っているんだろうね」
「だから、先生を頼って来ないんだ」

というような発言をする。


これって実に重要なことだと思う。

実際の教育現場では、とかく「デキルヤツ」と「デキナイヤツ」に目が向けられがちだ。
特に、派手で、目立つヤツが表面的には教師と対立しながらも、
結局は、教師の時間を一番使っていたりする。

物言わず、きちんとやるべきことをやる人に、
光が当たらないのは大問題だ。

もちろん大多数の人を同じ尺度で一律に測ろうとする「テスト的教育」にも大いに問題はある。



自分が教育という営みの隅っこ生きている理由の幾ばくかはやっぱりそこにある。


入試の合格、定期テストの100点なんて、
本当に大事にしないといけないことがちゃんとわかっていれば、
ちょっとしたきっかけでどうにでもなる。

入試の合格や定期テストの100点だけが、
目的になっているような勉強ばかりの人は、
入試がなくなり、テストがなくなった時、
何を目指して「学ぶ」のでしょうか。
だから、かつて、多くのそうした人が、
大学をレジャーランド化させたのでしょうね。

勉強なんて必要ないって、
ちゃんとやろうともせずに、
そうしたレールから外れた人は、
では、自分は他に何ができるのか、
何をしていきたいのか、
きちんと見出せるのでしょうか。


たいへんなお節介だというのは重々承知。

でも、私たちは、「きみ」が成長するためのきっかけとなりたいのです。

それは時に反面教師のような存在になることかもしれない。

でも、私たちをきっかけに「きみ」が何かに気付き、
何かを解放させて、何かを創造していけるのなら、
私たちは、鬼でも蛇でも良いとさえ思う。

だから、どうか色んなことを学んで吸収しようという気持ち、
姿勢だけは忘れないでほしい。

どんな環境でも、どんなことでも、どんな人からでも、
きっと何かは学べる。

自分が学ぼうという意思を持つ限り。


誰かが何とかしてくれると思ったらダメ。
その瞬間、それは自分の人生を放棄したにも等しい。

それだけは絶対にダメだ。

たとえ、学校の教科の勉強であっても、
誰かに頼りきったり、ましてや「デキナイ」ことを
誰かのせいにするなんて絶対にダメだ。

特別な事情がない限り、学校での、
少なくとも中学校までの学習は、
多くの人がみんなクリアしたいものだ。


やってやれないことはない。
答えがちゃんと出せる問題なかりだ。

なのに、できないというのは「デキナイ」のではない。
「正しい」方法で「やっていない」だけなんだ。


さぁ君はどちらを選びますか?

「たとえ辛く苦しい時があっても、
 自分の頭で自分の行く道を考え、決める人生」

か、それとも、

「いつもグチグチ文句を言いながら、
 自分の頭では何も考えず誰かに決められた人生」

か。


答えは「きみ」自身が導き出すしかない。
私たちは、そのためのお手伝いをすることしかできないんだから。