2014年11月25日(火)
本日の読売新聞朝刊の社説で、
「学習指導要領」について言及がなされていました。
次回の指導要領改訂に際し、下村文部科学大臣が中教審に諮問したことを受けて、いくつかの点で意見を述べています。
昨今の教育事情の一つとして、いわゆる「脱ゆとり」があります。
それについては一定の成果を出しているともいえるでしょう。
社説にもある通り、しかし、依然として学習意欲が諸外国と比べて低いという調査結果などもあり、そうした根本的な、若い世代の知への接続をどうしていくかという問題は厳然と私たちの目の前にあります。
さらに社説では指摘されていませんでしたが、
そこに大きく関わるであろう「入試」の問題についても、
私たちのような存在ももちろんですが、
広く議論が求められるテーマです。
そもそも人間には、本来的に「知的欲求」があります。
「好奇心」といっても良いかもしれません。
「なんで?なんで?」
って、多くの人が幼少期に言ってきたはずです。
それこそオトナに嫌がられるほどに。
しかし、いつの間にか学ぶということ、知るということが、
「お勉強」となり、何となく憂鬱なものになってしまう。
そのうち「テストがあるから勉強する」ということになり、
逆に「テストがないと勉強しない」とか、
「テストに出ないことは勉強しない」とか、
そういうさみしいことになってしまう。
このあたりちゃーんと考えていかないと、
これだけ刺激が溢れる世の中では、
誰も教科書を開いて、一生懸命学ぼうとしなくなってしまうでしょう。
だから、英語教育の充実とか早期化とか、
日本史の必修化だとか、
そんなこんなは実は枝葉のことなのかもしれない。
学ぶこと、知を得る事を善しとする者にとって、
それによって自分が磨かれ、
視界がクリアになる経験がある者にとって、
英語だろうが、日本史だろうが、世界史だろうが、
きちんと意義のあること、
何より自分にとって価値あることだと感じることをしないわけがない。
いや、もちろん自ずから出来ることではないかもしれないけど、
周囲のオトナからサジェスションがあれば、
きっとそれなりの反応が出来るのでしょう。
単に「めんどうくさい」とかってぼやくだけではないはず。
最近は、学習指導要領の改訂や、
神奈川県で言えば、高校入試の変化によって、
学校などでも「書く活動」が増えてきたり、
いわゆる「言語活動」のような学習も
増加しているような気がします。
それ自体はきっかけはどうあれ、
大変喜ばしいことだと思います。
指導要領にも「生きる力」と明言されている通り、
かつての受験型学力などを超え、
変化の激しい国際化・情報化社会において、
社会に対応し、社会で活躍できる人材の育成が、
昨今の日本の教育の大きなテーマとなっています。
その意味で、単にテストの答えられるだけのせまい学力ではなく、
実生活の場での「言語活動」に根差す学びは非常に意味のある
行いだと思います。
私たちラーニング・ラボの根本理念も、
「受験で終わらない学力の育成」
「社会で活きて働く力の育成」
です。
ですから、基本的には国の文教政策と軌を一にするといえます。
ただ、ここでよく整理しておきたいのが、
この「生き力」「社会で役に立つ力」ってやつなんです。
こういう表現すると、何となく実利的というか、
ある知識がそのまま何かの役に立つという直線的なイメージがついてしまいます。
いや、もしかすると多くの人が、そうした直接的に役立つものをイメージしているのかもしれません。
そうだとしたら、私たちが考える「生きる力」とは、コトバは同じでも、その指している内容は違うといえます。
だって、社会生活の中で必要なものって、
学んだことが直接「使える」という知識だけではないから。
たとえば、四則の計算などは、買い物のレベルで必要なものですが、
じゃあ中学生が取り組むような方程式や関数が不必要かと言えば、
決してそうではない。
論理的な考えに直結するものです。
しかし、知識として、技術として、
かの計算やグラフなどを実生活でそのまま使うわけではない。
学校の、教科の勉強にも、もちろん受験勉強にだって、
きちんとそういう意義があるわけです。
「学校でやっている勉強はたいして役に立たない」
なんてことを平気で言っている人は、きっとそういう大切な部分を
すっぽり抜かして、単に問題が解ければそれで良い、
という勉強をしてきたのでしょう。
「テストのための学習」の弊害がここにあるわけですね。
だから、「社会で役に立つ」っていうのが、
本当にそのまま「直結」しているもの、というのであれば、
そんな直接的、単線的な力を教育目標にするなんて、
ちょっとアンビリーバボーです。
日常生活では、もっともっと有象無象の
何ともとりとめのない、ドロドロした部分に、
時に論理的に、時に感情を十分に考慮し、
時に批判的に、時に強引に、
時に無視したりして、
そうした「しなやか」な思考活動で対処しなければならないことが山のようにある。
というか、そんなことばっかりだと思う。
「理」だけで、スパスパ割り切れる世界であれば、
きっともっと平和で、でも何となく味気ない世界が
目の前には広がっているはず。
もちろん否応なく世界は変化していくし、
その変化がとてもはやい現在、
英語が必須であれば、早いうちから学ぼうという動きは、
ある意味で当然のこと。
でも、それなら、学習者がそこにちゃんと意味を感じられるような担保がなければ、きっとまた単なる「テストのための学習」がくり返されるだけで、肝心の意欲や関心は一向に高まらないでしょう。
それだけでなく、たいして成果も出ないまま、何となく時間ばっかりが過ぎちゃうってことになるでしょう。
・・・と、大変ネガティブな発言を繰り返してしまいましたが、
教育の端っこの方で活動する私自身も、
たとえ微力であってもそうした意味のある学びを着実に現していきたい・・・
と、けっこう前向きに考えています。
あなたはどう思いますか?
わたしはもう「学習者」の期間が終わったから関係ない?
わたしには子どもがいないから関係ない?
わたしの子どもはもう大きくなったから関係ない?
教育はこの先10年後、20年後、下手したら100年後の社会を創ることにも等しいのかもしれません。
だって、社会は「人」が創るものだから。
10年後、20年後の世の中のことであれば、
決して自分とは関係ないことではないはずです。
ぜひみんなで考えていきましょう。
教育(次世代の育成)を通して、この先の国や地域、世界、社会のことを。