過保護と過干渉 | 作文・読解力など国語力向上 学習塾ラーニング・ラボ横浜天王町教室のスタッフブログ!

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『過保護』

このコトバがよくネガティブな印象で語られるのを耳にします。

「過保護な親が多くなった」
「過保護に育てるとわがままになる」
「過保護に育てられたから自分で決める力が弱い」

などなど。

もちろんそういう一面がないとは言えない。

でも、過保護ってのはそんなに悪いわけでもない。

たとえば、スポーツや芸術分野で才能を発揮している人で、
幼少期から特定のものに取り組んできた人の親御さんは、
多くの場合「過保護」だろう。

物心つくかつかないかのうちから、
スポーツや芸術的な活動をするというのは、
そこにどれだけ自分の意志があるのか。

もちろん生活の中に様々なメディアがある昨今では、
そういったものから影響を受けて、
自ら「やりたい」と望む場合もあるだろう。

しかし、多くの場合は、親のすすめや、
口車にのせられて始めてみたというのが多いのでは。

いざやってみたら、どんどん伸びていって、
上手くいくから楽しくなり、
楽しいから好きになり、
好きなものだからずっと続けてこれた・・・。
だから結果が出せた、というのがホントのところのように感じます。


幼少期の物心つくかつかないかの時に、
何かをやるってことは、
やっぱり多くの場合そこには親の影響が大きくあると思います。


我が子の才能を信じ、
我が子の才能が開花するように、
時に厳しく、時にやさしく、
生活のすべてで彼、彼女の成長を支える。

時にそれは、経済的な支援あるいは投資かもしれない。
時にそれは、自分の仕事や生活のすべてを変えることかもしれない。

ある意味、これが究極の「過保護」でしょう。


そう考えれば「過保護」ってそんなに悪いものではないって気がしませんか?


もちろん何かの専門家ではない親が、
子どもの才能を見抜き、支援をするというのは、
もしかしたら大きな錯覚から始まることなのかもしれない。

才能を信じ、生活のすべてを捧げても、
その道でうまく才能を開花させ、発揮させることが
叶わないということもあるでしょう。

それでも「我が子のため」って言動は、
それ自体ある種の必然性を持っているものだし、
結果思い通りのミライにはならなくても、
そこで費やしたモノやコトはきっと無駄にはならないでしょう。


そして、何より注意しておきたいのは、そうした「過保護」では、
決して自分で自分の意志を決める力は弱まらないということです。

先のような「過保護」では、
そもそも本人が何かを無理矢理にやらされている
という状態はないわけです。

もちろん初めの一歩はある意味で無理やりだったかもしれない。
でも、その道を極めようと、親が「過保護」になるくらいに
なっているのであれば、そこに本人の意思がないというのは
逆に不自然。
もし自分の意志がないところで「過保護」が成り立っているなら、
そうしたものはやっぱりどこかで破たんするでしょう。

本人は基本的にはそれが「やりたい!」という状態で、
親はそれが上手くできるように、
ハードルをうまく超えられるように、
陰に陽に支援するのだ。

だから、そんな環境で育つ子どもに
自分で決める力が弱いなんてことはない。
もちろんわがままってのも違う。
むしろ、そうした環境を、生活をバックアップしてくれた親への感謝を自然に持てる子どもになるに違いない。


だから、何となく親が決めていることに強いられて、
無理矢理何とかかんとか頑張らせられている状態は、
「過保護」とは全然違う。

そういう状態は「過干渉」というのがふさわしいだろう。

「過干渉」は、文字通り、親が何でもかんでも口出して、
決めていってしまうということだ。

だから、自分で自分のことを決めるという力も、
当然弱くなる。


この「過保護」と「過干渉」の違いを
オトナはちゃんとわかっておかないといけない。

子どもに関わる仕事をしているものとして、
自分の子どもに関わるのではなくても、
これはとても大事なことだ。


多くの場合、両者の区別がついていないことが多いように思う。
しかも、「過干渉」というのは、
何となく「あれもこれもやってくれて親切」という印象にも
なりかねないから、愛情をもって突き放していることや、
良かれと思って手を出さないことが逆に誤解を受けることもある。

もちろん学習の場合、学校の成績や入試など、
短期的に結果を求められる場合もあるので、
本当ならここで手を出さない方が良いという場面でも、
致し方なく手を出すこともある。
それが求められる時もある。

かなりの葛藤があるけど、
しかし、何が「正しい」かなんて
究極のところは分からないのだから、
大事なのは、手を出そうが出すまいが、
それを当人がきちんと受け止められるようにすること。

今その場ですぐにではなくても。


それだけはきっと正しいことだと思う。



だから私たちは、今日も口も出すし手も出す。


「過干渉」にはならないように。
大切な彼、彼女を「過保護」に育てます。