最近の教育思潮を語る上で、
「主体的」「批判的」というワードは欠かせないでしょう。
平成20年版の学習指導要領でも「生きる力」の名のもとに、
「思考力」「判断力」「表現力」の重視が唄われています。
この学習指導要領改訂にも大きな影響を与えたといわれているのが、
昨今、新聞でも一面を飾るほどのニュースバリューのある、
OECDが実施している国際学力調査である「PISA」。
日本では、このPISAの結果を受けて、
「PISA型読解力」などというものまで誕生したほどの熱狂ぶり。
このPISAというのは、もともとOECDの教育プロジェクトである、
「DeSeCo」というものが大元になっているものです。
この中で、現在のような国際社会で活躍する人材の能力について、
「キーコンピテンシー」というものが提言されています。
その中の中核をしめるものが「批判的思考力」なんですね。
私たち日本人からすると、「批判」と聞くと、
どうしても「否定」的なニュアンスを感じ取ってしまいます。
ここでいう「批判」とは、もちろんそうした意味合いがないわけではないですが、
むしろ「熟考」つまり「懐疑的視点」という意味合いの方が強いように感じます。
様々な情報が飛び交い、様々な文化的背景を持った人たちとの交流がある、
そういう現代社会で、強く、しなやかに「生きる力」として、
必須の力とされているのですね。
PISAについて言えば、日本では「読解力(Reading Literacy)」の国際順位の変化で注目を浴びたので、その後「PISA型読解力」などというものも登場する程ですが、それって今まで言われてきた「読解力」と何が違うのってところは整理しておかないといけませんね。
簡単に言えば、両者の違いは、「主体的」か「受動的」かということ。
主体的に他者と批判的に関われる力が「PISA型読解力」。
先生や誰かの解釈が正解として扱われるような古典的な読解が従来の「読解力」。
つまり、今までの国語の授業と言えば、
教科書の本文を先生が解説し、
それがそのままその文章の「正解」となってきたわけですね。
そういう受動的な「読解指導」だけでは、
今日重要な「批判的」「主体的」学習は展開できないってことで、
ここ数年「PISA型読解力」などを始めとして、
学習指導要領では「言語活動」が重視されてきているのです。
もちろん、こうした視点を持った授業がこれまでの日本の国語の授業で皆無だったかと言えば、決してそうではない。
全体としてみれば「読解指導」というのが主流となってきたといわれていますが、生徒が「主体的」に、「批判的」なまなざしを持って臨める授業だって確実に実践されてきています。
まぁ数としては少数なのかもしれません。
心ある、力ある先生だけがなし得たものなのかもしれません。
と、大学院時代に研究室の先生からこんな話を聞いたことがあります。
知り合いの先生が高校の教員をしていた時のこと。
高校の国語といえば、芥川龍之介の「羅生門」はド定番の作品。
何かの単元が終了した後に、
「じゃあ、次の時間から『羅生門』な」
というと、クラスの生徒たちから大ブーイング。
「えぇー、やだー!」
その先生は、何で『羅生門』が嫌なのか分からなかったのですが、
そんなにみんなが嫌だというのも逆に面白いと思って、
生徒たちにこんな提案をしてみたそうです。
「そんなに『羅生門』の授業が嫌なら、
なんで『羅生門』が嫌なのか、
『羅生門』を自分たちが学ばなくても良い理由を
納得できるように説明してもらおう。
先生が納得できる説明ができたら、
みんなが言う通り『羅生門』は授業をしないことにします」
生徒たちは、一単元授業がなくなるということで、
躍起になって先生を納得させるための準備に取り掛かったようです。
実際にはグループをつくって作業を進めることになったようですが、
そういう目的の活動ですから、生徒たちの意見交換も活発に行われたようです。
ある意味で、自分たちにとっての『羅生門』の無意味さ、無価値さを見出そうという作業ですから、その過程で、実際には『羅生門』を隅々まで読んでいるんですね。
「ここの表現が・・・だよね」
「そもそもこの設定ってどうなの?」
「あそこでなんで・・・になるわけ?」
「てゆーか、単純に暗いんですけどー」
…などなど玉石混淆ではあっても、普段先生から一方的に文章の解釈を「おしつけ」られている生徒たちからすれば、その活動のなんと「主体的」「批判的」であること。
結局この先生は『羅生門』の授業を行わないことにしたらしいのですが、
しかし、実際には授業をやったのと同じか、
それ以上の有意義な時間となったわけです。
つまり、『羅生門』の授業を回避するために行った活動が、
実際には、ごくありふれた『羅生門』の授業以上に、
生徒たちに『羅生門』を読ませることになったわけです。
逆説的な授業とでも言うのでしょうか。
いやいや、この先生、大変上手なのせ方ですね。
こういう先生であれば、通常の授業でも魅力的なことやっていそうですけどね。
さて、この事例から、いくつか大切なことが分かります。
まずは、教科書を聖典化しないことの大切さ。
もちろん教科書はたくさんの「先生」たちが苦労して作っているものだから、悪いものであるはずがない。
ただちょっと「キレイ」に出来過ぎているだけ。
だから、その教科書は「絶対」の存在ではなくて、それすら「批判」の対象であっても良いわけですよ。
そういう視点があるかないかって実は相当デカい!
だって教科書「を」教えるのではなく、教科書「で」教えるのですから。
これは、「古典」についても同じことが言えますね。
「古典」というとどうしても「聖典化」しやすい存在。
何百年、何千年と残ってきたものには、それだけで価値がある…
それはそうなんだけど、でも、それをどう価値づけるというか、意味づけて自分のものとしていくかは、それはその時代の人間が、誤解を恐れずに言えば「好き勝手」に行っていけば良いこと。
「絶対にこう」という解釈を押し付けられても、
「え?だからなに?それっておいしいの?」ってこと。
ちょっと極端ですが。
やっぱりそういう視点があるかないかってことがとても重要だってことで、
この「そういう」ってのが「批判的」ってものと重なるんですね。
これって現代でいえば、マスメディアに対するものと一緒ですね。
そもそも文章だって「メディア」といえばメディアですから、
当然、文章にだって、
「これって本当?」
「だから何なの?」
「だからどうしたっていうの?」
と、疑問符を突きつけてみることは重要なことです。
最近はことさら「メディアリテラシー」などといって、
マスメディア(新聞やテレビ)やネットなどに対して、
「批判的」視点を持とうという動きも盛んですが、
何も新聞やテレビに限定して考える必要なんてないんです。
「教科書にもメディアリテラシーを!」
ということです。
最近は、教科書の中でこのメディアリテラシーについて単元があったりしますから、何とも奇妙な感じですね。
メディアリテラシーを発揮して捉えるべき教科書に、メディアリテラシーの重要性が説かれている部分がある…
そんな逆説的なものにこそ価値があるのだから、
むしろ「素敵」な教材って考えないといけませんね。
さてさて、ちょっと長くなってしまいましたが、
あなたの学び、あなたのお子様の学びと比べてどうでしょうか?
あなたやあなたのお子さんは、
単なるドリルの反復練習だけの学習していませんか?
もちろん学習や記憶において反復練習は基本中の基本。
でも、それだけじゃあ大切なことは学べないこともあります。
テストはできるようになっても、
肝心の生活上の問題は解決できないかもしれない。
社会で活きていく力は身につかないのかもしれない。
一生懸命に勉強している時こそ、
ちょっと逆転の発想をしてみては?
逆から眺めていると、
悩んでいたことが案外スッキリ見えるってこともあります。
ぜひおためしあれ。
最後に、そもそも「受動的」にも学習していない人に。
まぁそういう人に限って、
「そんなことして何になるの?」
「こんなこと生活の中で使わないでしょ?」
なんてこと言ってきます。
そんな屁理屈で勉強から逃れようとする者には、
こう言ってあげてください。
「たしかに今までの生活の中で、台形の面積を求めたことは一度もないよ。
でも、その求め方を知っているかいないか、実際に求められるか否か、
というのは雲泥の差。
『(上底+下底)×高さ÷2』っていう幼稚園生から見れば
途方もなく複雑な計算ができるってことは、
それだけ使える「頭」になってるってことなの。
勉強はそういう「頭」にするためにやることなの。」
ってね。
それでも納得しない駄々っ子ちゃんみたいな子には、もうこういうしかないですね。
「『そんなことして何になるの?』だって?
いやいや、じゃあ、そんなこともできずに何になるの?」