夏休みも終わり新学期が始まり早1週間。
中学生はもうそろそろ定期試験直前というところでしょうか。
夏休みはしっかりと復習できましたか?
夏休みの宿題でそれどころではなかったって?
毎年生徒の夏休みの宿題の進捗具合を確認したり、なかなか一人でははかどっていかない課題のサポートをしたりしていると、ふと自分が小中学生だった頃を思い出します。
「こんなに一生懸命宿題やっていたかな」
いつもすぐに宿題を終わらせて、1ヶ月以上の休みを謳歌してやると意気込むくせに、結局直前まで宿題が終わらずに残る始末。
生徒たちには、
「7月中に宿題終わらせるんだよー」
と言いつつ、自分は出来ていなかったなーとちょっと心に引っかかるものを感じる日々。
さらに、当塾では毎年恒例の「作文講座」があり、通常授業の「基礎講座」でも、やっぱり作文がらみの話題が出やすい。
だから、今年も何本、何十本の作文を添削しましたね。
正直、定番の「人権作文」や「税の作文」は、毎年苦戦させられますが、今年も後半になってHELPを出してきた生徒には、大変手を焼きました。
まぁそもそも中学生くらいで実感を伴って語れることなんて、そうそう多くないのかもしれませんから、作文のネタを探すためにヒアリングしても、けっこう似たり寄ったりの意見が出て来る。
そうなると、こういうパターンはあの子が書いてたし、こっち系で責めるのは、あいつに提案したな、などなど、アドバイスの内容がどんどん狭まってきてしまう。
でも、提出まで時間もないし、手早くまとめさせてしまうのも一つなのか、とか、いろんな葛藤をして夏休み終了を迎えました。
すでに宿題がチェックされ返却されたという生徒もいて、
「作文、どうだった?」
と聞くと、軽くコメント書かれて返されただけだとか。
「うそーん。あんなに苦しんで書いたのに・・・」
自分が書いたわけではないけど、その作品が生み出される過程を具に見てきた当事者の一人としては、何だかやるせない気持ちになったりもします。
結局、何のために作文課題を出しているんだろう!?
やっぱりいつもその言葉がうかんでしまう。
課題が出される時、その前に、文章の書き方やその意味がきちんとレクチャーされているわけでもなく、かといって事後の指導が十分にあるのかといえば、そうではない。
ほんと、何のための宿題なんでしょう。
慣例?
丸投げ?
ついついネガティブな思いがちらついてしまう。
まぁでもそのおかげで私はいつも生徒たちの生の、内なる声に出会えているということもある。
きっかけが学校の宿題だろうと、いや宿題だから、いやいやでも作文ということに生徒は出会い、その作業を通して、何かを感じ、少し大きくなっていく。
その現場に立ち会えることは、やっぱりおもしろい。
もちろん楽しいだけではないから、苦しみを共有しなければいけない時もある。
こちらが勝手にレールを敷いて書かせてしまえば楽なんだけど、それじゃ意味がないから。
だから、なるべく一緒に苦しむ。
それが私の流儀の一つ。
こんな苦労はきっと周囲の人は誰もわからないんだろうな。
いや本人すら宿題の一つが、しかも憎き、憎き大きな敵が攻略できた喜びが大きくて、きっとその過程で感じたものや、学んだことは、一回きれいに吹き飛ぶんだろうな。
クラッカーが弾けるように、「パーン」って。
でも、いいんだ。
私は知っているから、普段は見えない心の底で、実はものすごく真剣に考えているってこと。
私にはわかっているから、勉強が苦手って思われている子だって、ちゃんと手順を踏んであげれば、もの凄く深く、広く、鋭く考えることができるってこと。
だから、いいんだ。
私のささやかな苦労は、そのための一石になってるって思えれば、それでいいんだ。
さてさて、現在「基礎講座」では、初の試み『ディベート』を進めています。
現在はテーマを決めて、チーム分けをして、チーム内での作戦会議を進行中。
これまで個人作業が多く、とくに作文などには力を入れてきましたが、やっぱり口頭のコミュニケーションだって大事。
これまでも『ブックトーク』や『DST:デジタルストーリーテリング』などの口頭発表はやってきましたが、今回は作文で培ってきた「論理的思考」と口頭発表を織り交ぜた実践。
さぁ、どうなることか。
たのしみ、たのしみ。