これまで「原理本体論」の中心的教えは「絶対性」にある事をお伝えしてきました。そして夫婦でその「絶対性」の基準を立てる為には、「心と体の一体化」と「為に生きる」真の愛が必要であるという真の御父様のみ言を紹介しました。更に、その様な「絶対性」を中心とした夫婦の愛の基準こそが、神御自身が私達夫婦に最短距離で降りてこられる直接主管の基準であり、その時神と夫と妻の三者がひとつとなって、神を中心とした真の愛と生命と血統が出発し、神の本来願った創造目的が出発することも話しました。そしてこの美しい神中心の祝福夫婦の愛を、体験でもって子供達に教えてあげるのが、まさに私達祝福中心家庭の親の責任分担であるという真の御父様のみ言も紹介しました。
しかしながら、そのような「心と体の一体化」の基準と「為に生きる」真の愛の基準を中心として、突然に夫婦が愛し合えるようになれるかというと、そう簡単にはいかないでしょうし、自信のある人は少ないでしょう。自分自身が自分の相対者(主体者)と愛するときにどれ程神の霊と愛を直接的に感じているかを考えてみるのも、ひとつのチェックポイントになると思います。実際、真の御父様も「それは簡単にはいかないんだよ。」と言われたのです。そして、「絶対性の基準で愛し合う為には、日頃から正午定着の生活をして訓練しないといけない。」と言われたのです。
それでは、「正午定着」の生活とは具体的にどの様な生活をいうのでしょうか?ほとんどの食口はそれは影のない生活のことであり、負債のない生活のことであるというでしょう。そして、いつも負債のない生活をする為にはどうすればいいのでしょうか?教会の沢山の条件物を捧げて、おびえなくてもいい生活をすればいいのでしょうか?そうではありません。もしそれが「正午定着」の生活の全てであるならば、そのような生活の最終目的にある「絶対性」の愛はひたすら負債を感じないように努力する愛になってしまうでしょう。
「絶対性」を中心とする夫婦の愛は、神の愛の出発であり、結論です。そして神と人にとって最大の喜びの時でもあるのです。そうであるならば、その前にある「正午定着」の生活とは、家庭を持つ前にまず個人としてに神の愛を知る生活ではないでしょうか?夫婦になって初愛を結び、更に永遠に二人で神の愛を実感する前に、まず個人として神の愛を十分に実感する時期が必要なのです。そして、そのような神の愛を実感する男女が、次に夫婦となって愛し合った時、その愛は神から個人に来る見えない無形の愛だけでなく、すでに神の愛を実感する実体の相対者(主体者)を通して来る具体的な愛も感じて、三者が爆発するというのです。
(次号につづく)