聖書の使徒行伝16章には、「イエスを信じれば救われる」という、信仰義認説の元になっている使徒パウロの言葉があります。

 

それは、「先生方。救われるには、どうすればよろしいのでしょう」と尋ねられた時に、パウロが答えた、次の言葉です。

 

「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの全家族も救われます。」(使徒行伝16章31節)

 

このパウロは、生きたイエスに会った事はなく、イエスの使徒達を迫害していた人で、サウロという名前でした。しかし、迫害していた最中に、天から光がさして、「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか」と、霊になったイエスが呼びかける声を聞き、しばらく目が見えなくなる体験をして、改宗しました。

 

私も、今まで、この「信じれば救われる」かのように考える人たちに出会ってきました。そうした人達は、また、メシアとの霊的体験を重んじる傾向があるように見えました。

 

信じるというのは大事で尊い事ですが、それだけで十分であるというのはあり得ません。平日は殺人とか、悪い事をしても、日曜に教会に行き、告白すれば救われるとか、おかしな考え方は間違っている事からもわかります。

 

儒教、易、仏教、禅、神道など、東洋思想などを考えても、「信じれば救われる」というのは異教です。イスラム教の人にとっても異教です。イスラム教では、正しい行いと信仰により救われると教えています。これはユダヤ教にも共通していています。

 

使徒達の中でも、パウロは特殊でした。聖書を研究する人達には、今のキリスト教はパウロ教で、イエス教ではないと言う人たちがいます。聖書を書いた人達にも、パウロの影響が強く見られます。そして、聖書を読む人達は、パウロの信仰の眼鏡をかけて聖書を読むようになりました。

 

使徒達の中で、パウロと対立する考え方を示しているのが、イエスの兄弟と考えられているヤコブで、聖書の中のヤコブの手紙には、「人は行いによって義とされるのであって、信仰だけによるのではない」と書いてあります。

 

しかし結局、キリスト教は、パウロの教えでローマに広がり、イエスは神格化され、世界に広がりました。でも、パウロの教えで宣教が成功したからと言って、パウロの考え方が全て正しかった事にはなりません。

 

文鮮明師もパウロを厳しく批判していました。つまり、文鮮明師はパウロ的考え方を打破しようとしていました。

 

しかし、文鮮明師の弟子には、パウロ神学が大好きで、パウロを強く尊敬する人がいました。キリスト教から来た人達が、初期には多かったので、キリスト教の中にある異教の要素が持ち込まれました。信徒の中には、文鮮明師を信じて祝福を受け教会に属していれば救われるとか、全てを見通す文鮮明師の指示に従えば間違いないとか、自分の行動が倫理や道徳に反しても構わないかのように考える人達がいました。

 

間違った考え方というのは、ガン細胞のようになり得ます。その結果が今起きている事である、と考えられます。