京都の山中で子供の遺体が見つかった事件、死体遺棄の疑いで逮捕されたのは父親でした。何があったのかはまだわかりませんが、痛ましい事です。
私は、死後の世界があると悟った20歳の頃、死後の世界があると誰もが悟ったら、人々の生き方は変わるのではないかと思った事があります。でも今は、人々が死後の世界があると悟っても生き方が本当に変わるのかどうか、わかりません。
死後の世界があると悟った事が、私の生き方が変わるきっかけになったのは、それより以前から、哲学に関心を持ち、意味に関心を持つような傾向があったからではないかと思います。哲学というのは、知性を使って意味を追求します。死後の世界があると悟ったら、当然、その意味を考えました。でも、誰もがそのような傾向を持っているわけではありません。
最近、今まで関心の無かった易とか四柱推命とかにも関心を持つようになりましたが、そのようなものに対しても、メカニズムより、そのような東洋的知恵の意味に関心が向かいます。だから真面目という事になり、遊び心が薄れるので、意図的に遊び心に身を置こうとしたりします。
そんな私だったので、死後の世界があると悟った頃、いくつかの疑問に答えを探しました。例えば、「創造主は存在するのか?」とかですが、「宇宙の根本は、法なのか、愛なのか?」というのも答えを求めていた事でした。そんな事を考えたのは、例えば仏教を見れば、宇宙の法が目につき、イエス・キリストを見れば、愛が目についたからです。
さらに意味を求めるのなら、「現世があり来世があるのなら、現世と来世がある意味は何なのか?」、「誰もが避けられない死を迎えるまでの間、人生が持つ意味とは何なのか?」など、どんどん広がります。
そんな疑問を持って書店や古書街に行けば、あらゆる本があり、あらゆる考え方がありました。
そんな中でも、イエス・キリストは特別に見えました。様々な宗教は、真剣になれば、修道士となり独身生活になるのを見れば、愛には何か特別な意味があると思える中で、イエス・キリストは処女マリアから誕生した事になっていました。科学に反すると思い、クリスチャンにはならなかったのですが、何か特別なものを感じました。
20歳の頃にそんな事を考えていたのは、普通では無かったのでしょうが、還暦を迎える歳になったら、考えるようになるというわけでもないでしょう。一人一人に、目に見えない何かが働いていて、それを今も私は感じています。それは必ずしも幸運とか楽を意味しませんが、手相で見るのなら、確実に開運や強運が出てくるのを経験します。心の向上、善行の積み重ねは、いずれ手相にも反映し、人生にも反映すると思います。
では、心の向上とは何か、善行とは何か、逆に、心の下落とは何か、悪行とは何か、面倒でも考える価値がある事ではないでしょうか?信仰心を持っていても、持っていなくても、自分というものから逃れる事はできないのですから。