神様が人間と父子関係を結ぶことを意図した事に起因していると思うのですが、父母や祖父母になる事は、子供や孫に接しながら、神様の人間に対する思いに接する機会が増える事だと感じます。
では、人はどんな風に成長していくのかと言うと、まず赤ん坊として生まれ、父母に抱き愛され、歩く事や自分の体の動きを学び、友達と遊ぶ楽しさを知り、徐々に知性を発達させ、知的な喜びや情的な喜びを経験する人が多いはずです。
学校生活や大人と接する中で、人生には学歴やキャリアや結婚と家庭生活があるのを知り、社会で成功したり、満足をする事を求めるようになります。お金や環境の大切さも学びます。様々な障害の中でいばらの道を歩む人もいますが、幸せを求める本能のようなものは共通するはずです。
神様が人間と父子関係を結ぶことを意図したのなら、この人間の成長の過程で関わりを持たなければなりません。しかし、この成長の過程において、神様と出会う人は多くはありません。出会う人がいるとすれば、先祖や親に、神様に近づく努力をした人がいるはずです。
聖書の最初に出てくる失楽園の物語は、人間が神様との関係を切ってしまった事を伝える物語です。人間の方から縁を切ってしまうことをしたので、縁を結び直すには、人間の努力が不可欠です。つまりは、人間の責任分担です。
しかし、人が神様の存在に気が付き、縁を結ぶ努力を始めるには、きっかけが必要な事が多いはずです。それは親兄弟や友人の影響であるかもしれないし、霊が見えたり聞こえたりする事かもしれないし、本屋で出会った一冊の本かもしれないし、科学的法則のメカニズムだけでなく意味を考える事かもしれません。
親が信仰を持っているのなら、最初から、「天のお父様!」となるかもしれませんが、それは恵まれた人で、全ての人ではありませんから、きっかけが必要な事も多いはずです。
「何かがある」と気がついて努力する内容は、勉強だったり、考えることや祈ること、また山に登ったり、体を鍛えたり、心身一体を目指す修行のような事かもしれません。そして、「何かがある」から「神様がいる」に転換するかもしれません。
この過程を神様の側の視点から見るとするなら、どうなるでしょうか?人間と父子関係を結ぶことを意図しているのですから、「神様」と呼ばれるより、「天のお父様」と呼ばれたいはずで、呼ばれるだけでなく、神様の愛に対して人間が美しく応えて欲しいはずです。
人が祖父母になれば、孫に対する無条件の愛を経験するようになります。しかし、孫が祖父母に対して「何でも買ってくれる都合が良い人」と思うなら、祖父母の心は踏みにじられるでしょう。つまり、神様が無償の愛を持って人を愛しても、人間が正しく応答できなければ、正しい関係にもならず、神様が誇る事ができる人にもならない事を示しています。
人間を誇りたい神様というのは、聞きなれないかもしれませんが、コーランには、神様がいかに天使の前で人間を誇りたかったかという話が出てきます。
神様との父子関係が根本に意図されているとして、人間が神様が誇れる存在になるというのは、次元が違ってくる内容です。人間の親子関係を考えてもわかる事です。
では、人間が神様が誇れる存在になるというのは、どんな事を意味しているのでしょうか?私は信仰の道を山登りに例える事が多いのですが、山の頂上にたどり着いた状態とはどんな事を意味しているのでしょうか?
結論から言えば、神様の愛と真理と善と義を人間が体現し、神様の権威が人間を通して現れた状態であるはずです。つまりは、神様の主権と呼ばれるものが現れた状態です。神様は物理的存在ではなく、この物質的世界に神様の権威が現れるためには、肉体を持った人間が必要です。その肉体を持った存在である人間が、精神と霊において神様と一つになる中で、この世界に初めて神様の権威が現れるという事になります。
聖書には、人間がするべき事としてはいけない事を十戒としてユダヤ民族に神様が与えた事が記されています。単純に考えても、殺したり、姦淫したり、盗みをしたりするのは「美しい」姿ではありませんし、そのような人で満ち溢れていたら、神様の権威など忘れられた世界です。
神様の主権というのを、カルビンやイランの神権政治のような、独裁や恐怖政治と考えるのは間違っています。神様の主権という概念が登場するようになった始まりは、イエス・キリストの教えであり、それが人間の持つ基本的人権と自由に対する自明の理解としての認識となり、米国の独立宣言として現されました。
独立宣言で全ての人が不可侵の基本的人権を持っているとされている根拠は、「全ての人間は神によって平等に造られている」からです。これを根拠に、王権神授説に基づいて支配していたヨーロッパの王権政治からの独立を宣言したのです。日本でも第二次大戦まで、主権は天皇にあったのが、米国の影響で憲法が変わり、主権が国民になったのです。
つまりは、米国からやってきた民主主義の根底には、創造主である神様に対する信仰があるという事であり、また米国民主主義の礎を築いた人たちは、民主主義が機能するためには、神様を信じる人達の道徳的土台の必要であると信じていました。例えば、ジョン・アダムスは、「米国憲法は、道徳的で宗教的な人達を厳格な対象としてデザインされた。」と言っています。つまり、単純に多数決などの方法を使えば米国憲法の理念は実現するというのではないという事です。
これを単なるキリスト教と解釈するのは違います。米国の独立を導いた人たちは、必ずしも教会に熱心に通うクリスチャンではなく、むしろ理神論者でした。米国で認識された人間の基本的人権と自由が世界に伝播されたのは、その認識がキリスト教会のドグマの範囲を超えた、創造主の定めた法則を示す普遍的真理の要素を持っていたからです。
もちろん、世界中の誰もが神様を信じているわけではありません。でも、民主主義が機能するためには、人々の道徳心や良心が啓蒙されないといけないというのは、皆がわかる事です。
少し難しい内容になりましたが、祖父母が孫を見れば、無限の可能性を持ってよちよちと歩く、愛の対象です。人間というのは、吹けば飛ぶような存在かもしれませんが、神様の目から見れば、人間が正しく育たなければ、神様の理想も願いも成就されない尊い存在だという事になります。
日常の当たり前のような事からも、深淵な事に思いを馳せる機会になると思います。