聖書にある失楽園の物語に暗示された、人間の堕落というものを感じるのに、わかりやすいのは、性に対する罪悪感と秩序の欠如です。
思春期を迎えれば、人は性に目覚めますが、罪悪感を感じたり、あるいは後ろめたさを無視して奔放な性欲の解放に向かったりする例があります。
最近は、ジェンダー・フリーなどの考え方も出てきて、男性と女性の違いを無視しようとしたり、自分の思い通りに性転換をするようになりました。先日も、テレビで、「小さな子供に対する性教育を専門家にお願いすると、ジェンダー・フリーの話から始まるのがすごい」と、芸能人が言っていました。
伝統的には、性は結婚の中で祝われるものであり、ほぼどの伝統文化でも、結婚式は宗教的意味を持った場である、神社や教会でなどで行われました。宗教性の強い地域では、結婚前は純潔を守るのが、今も当たり前とされています。
日本は、世界の中でもリベラルと分類される国ですが、性に関する道徳性は弱いことで知られています。日本での性に関する常識は、世界での常識ではないと考える方が良いでしょう。だまされてはいけないという事です。
性は陰陽に結びついています。東洋哲学は陰陽を土台としています。陰陽とは本来、創造主に由来しているものであり、人間では男性女性に対応します。しかし、被造世界を見るならば、物理的プラスとマイナスから始まって、全てに陰陽が現れており、陰陽を土台として、世界、国、人などの浮き沈みを見ることができる理由もそこにあります。しかし、陰陽五行思想において、人格神である創造主は登場しません。人間にとって、創造主は見つけるのが難しくなっています。
また、人間は堕落しているので、創造主との関係が切れていて、創造主を心の中心にして体を主管するのができなくなっています。人間を見れば、心と体から成り、男性と女性から成っていますが、心の中心である創造主と霊がわからず、肉体だけがあるように思えて、体を主管できず、性の衝動も主管が難しいです。ゆえに、男女の関係も秩序が乱れやすく、不倫したり、結婚そのものが難しかったりします。「下半身は別人格」と言ったりする人もいるではないですか?
男性は男性としてのあるべき姿がわからず、家庭で暴力を振るったりすれば、男女差別撤廃が大事な事であるように語るのが、説得力を持ちます。この思想の根本は平等思想ですが、平等思想は行き過ぎると破壊をもたらします。男性と女性は、精神的にも肉体的にも、異なるように創造されています。異なっているので、互いが補い合う事ができるのです。
その補い合いが最も大切になるのは、子育てです。厳しいだけや甘やかすだけにしたら、問題が起きるのは見えていますが、一人の人が厳しいと同時に無限の愛を表現できるでしょうか?一般的に、男性は規律や基準を教えるのに向いており、女性は限りない愛で子供を包むのに向いています。つまり、男性と女性は役割が違うように意図されているという事です。
世界の人の神様に対するイメージを見るのなら、とても厳格な方というイメージと、限りない愛を持った方というイメージに大別されます。その創造主に対応しているのが、人間の男性と女性です。
しかし、人間世界は堕落のゆえに混乱しました。例えば、古来から、両性具有を理想視し、男女の区別を超越した全体性や完全なる状態を理想と見る概念は、世界にありました。錬金術の、一人の人間が男性でもあり女性でもある絵などはそれを示しています。でも、それは人間の堕落による、昔からの混乱の故です。
プラトンの「饗宴」では、かつて人間は球体で男女が背中合わせに結合した完全な存在であったと語られます。両性具有は「分断される前の完全な姿」の象徴とされました。あるいは、ユングの心理学においても、両性具有的考え方があります。
男性的性質と女性的性質は創造主の中にあるので、その男性的性質と女性的性質が一つになった状態を理想と感じるのは理由があるのですが、創造において、その神様の男性的性質と女性的性質は、人間においては、男性と女性として分けられました。もちろん男性の中にも、女性的性質があり、女性の中にも男性的性質があるのですが、それぞれの人が男性か女性として創造されています。そして、一つとなるとは、結婚のことであり、それは子供を神様と共同創造する事として意図されています。分かれたものが一つとなり、創造をなすのです。
そのような創造主の意図に従う事ができるようになる時、人間は神様の息子娘となって、性も結婚も、聖なる次元に転換されるのです。これは説教ではなくて、そのように創造されているという事を自分が発見するためのきっかけとなる内容です。
韓国では、出生率が0.8です。人口が維持されるための出生率は2.07です。韓国では伝統的な家庭観が壊されています。国の存亡が議論される事態を迎えています。日本の出生率は1.15です。男性と女性というものに対する見方を、平等に焦点を合わせるのか、役割に焦点を合わせるのかは、思想的であり、かつ、現実的な問題です。