訂正
訂正
前回のエッセイの後段で、「繰り返し」の文化を言っているのは、ウォール・ソインカとしているのは、筆者の単純ミスで、実際の著者は、1984年当時で、エール大の助教授で、英語学と比較文学専門のジェームズ・A・スニードという人物でした。ここにお詫びして訂正します。
ケイズケイスの近況8
ケイズケイスの近況8
もうそろそろこのへんで、このコントラバーシャル(議論の余地の多い)な議論をやめにしたい。例によって反響もないし、店の客の多くも、まあそういう観点もあってもいいかな、という程度だ。誤解、曲解は覚悟の上だが、ただし、もうひとつだけ言っておかねばならないことがある。これまでの私の言説(ディスコース)からは、あたかも英語の発声が、すべてのジャズのフレーズをかたちづくっているかのようにとられるかもしれないが、それは、それこそ誤解である。英語の子音の構造が、ジャズのフレーズにおいて重要な要素であることは論をまたないが、もちろんそれだけで出来上がったものではない。もう一つ重要な要素は、黒人がもともと身体にもっているリズム感だ。特にそれは言語学的には、西アフリカの言語であるヨルバ語である。アフリカ人で初めてのノーベル賞作家であるウォーレ・ソインカが言うように、あるいはまた、ジョン・コルトレーンの伝記作家であるシンプキンスが指摘しているように、主に西アフリカから拉致されたアメリカにおける奴隷から現代へと続く黒人は、濃厚にヨルバ語のイントネーションを残している。それは例えば、チャールズ・ミンガスのインタビューを聞けばよくわかる。彼は、アメリカ南部のなまりがある英語をしゃべっているのだが、そのイントネーションは黒人独特のもので、その抑揚は、奥深くダイナミックで、話すこと自体にリズムが感じられる。ジャズのフレーズは、このヨルバ語のイントネーションに基づいたものだとも言えるのである。こう見てくると、ジャズは、英語とヨルバ語からなるハーフ(混血)音楽ともいえる。すなわちジャズは、ヨーロッパ文化とアフリカ文化の混血なのだ。とすると、いよいよわれわれ日本人は関係ないのかというと、そうでもない、と思いたい。
上述のソインカは、ヨーロッパ文化に対立するアフリカ文化の概念は、「繰り返し」と「切断」にあると説明している。ヨーロッパは、ルネッサンス以後、直線的な「進歩」という概念で現代へとつながっている。これには必ず「終わり」と「始まり」があり、どこか物語じみている。翻って、アフリカの伝統である「くりかえし」と「切断」では、すべてが「そこ」にあって、いつでも始まり、いつでも終わる。太鼓などのパーカッション楽器で「繰り返される」リズムがあってはじめて、いつでも始まり、いつでも「切断」することのできる即興演奏が成立している。これは、「進歩」というリニア(直線的)な概念でとらえられるヨーロッパ文化とは著しく異なった文化である。直線(リニア)に対して、「円環」であるともいえる。これはわれわれアジアの考え方でもある。英語という「窓」、あるいは「手段」(ツール)を通して、アフリカ的な「繰り返し」と「切断」を共有することができる。このことは、ジャズがインターナショナルな音楽であることのひとつの要因である、と私は思っている。
ケイズケイスの近況7
ジャズをやるのに何故英語なのか、という点にもう少しどびつこくこだわってみたい。英語の子音の発音がシミュレーションされているのは、リード楽器のソロを聴くと最もわかりやすいのではないか? これは、自分がソプラノサックスを演奏するので、どうしてもそう意識してしまうのかもしれないのだが、
フレーズをかたちづくる際、リードを舌でアタックする、つまり「タンギング」する箇所が、英語の子音の箇所である場合が多いような気がする。楽譜で言えば、スラーの箇所とそうでないところだ。スラーは、周知のとおり、タンギングしないで、指のポジションを変えるだけで、フレーズをつくるのに対し、そうでない箇所では、舌でリードをアタックして、音節をつくる。もちろん、これは子音だけに対応したものではないだろうが、スラーとの組み合わせでできあがるフレーズを聴いていると、どうもそんな感じなのだ。もちろん、強調音という意味合いをもたせる場合もある。
こうしてできあがるジャズの即興演奏のフレーズで、典型的に、ある種パターン化されたものがあって、一番わかりやすいのが、わが師コルトレーンのそれである。トレーンは、テーマ的に高音の一音を吹いて、それから、低音のほうへ降りてゆく際、アルペジオのようにコード内の音を細かく吹きながら、上記のスラーとタンギングの組み合わせでフレーズをかたちづくる。それが、ある種の「くせ」のような感じで、人間がしゃべるとき、人によって独特の言い回しや、口ぐせのような決まり文句をはさんだりするが、ちょうどそんな感じである。この「口ぐせ」はコピーしやすい。このため、世の中には多くのいわゆる「コルトレーン派」が存在する。私もたぶんそのうちの、つまり一万人くらいの一人であろう。そんなことはどうでもいいのだが。逆に、英語的に、スラーとタンギングの組み合わせでフレーズをつくっているにもかかわらず、まったくコピーできないもう一人のジャズの巨人が存在する。ソニー・ロリンズである。トレーンとは対象的に、ロリンズのソロは、完全に気まぐれで、全然予想がつかない。彼の即興ソロは、彼のみがもっている詩情で、まさに「ここで一度かぎり」の美しいフレーズを瞬間的に創造する。しかも彼のタンギングには、色々なニュアンスがあって、演奏ごとに微妙に使い分けている感じで、皮肉や、怒り、嘆きといったさまざまな感情を見事に表現している。これは、他の楽器の演奏者、例えば、ピアニストなどは嫉妬をおぼえるほどではないのだろうか?もちろん言うまでもないが、ピアノはピアノで微妙な感情表現を行えるテクニックがあるのだろうが。
どうも話がそれたようだが、要するに私が言いたいのは、トレーンにせよ、ロリンズにせよ、彼らがかたちづくるフレーズは、当たりまえだが、英語の子音と母音の組み合わせ、楽譜上で言えば、スラーとタンギングの組み合わせで出来上がっているということだ。
どうもここまで書くと、私はいかにも「英語至上主義者」のように聞こえるが、以下二つの事柄を紹介して、読者諸賢の判断を乞いたいと思う。一つは、最近、店にやって来たお客さんの一人にコンピュータエンジニアがいて、彼が言うには、コンピュータの世界では、シングルビットが優勢で、マルティビットがだんだん隅(すみ)に追いやられるようだ、とのことである。これはどういうことかというと、「シングルビット」とは、英語で書かれるソフトのことで、「マルティビット」とは、英語以外の言語で書かれたソフトのことである。コンピュータソフトは、基本的に英語をベースに発展してきているので、英語以外の言語は、マルティビットに置き換えるしかなく、おそらくスピード、互換性に問題があるのであろう。これは、OSのTRONをつぶしたアメリカの陰謀なのか? 私はコンピュータについてはほとんど無知なので、よくわからないが、こうした事情は、ジャズの世界と似ているのだろうか?
もう一つは、これもやはり最近、ロシア同時通訳者の米原万里の本を貸してくれたお客さんがいて、その本を読んでいると、米原が言うには、日本人は伝統的に、世界の強国からの影響を受けてきた歴史があって、現在はもちろん、世界最強の国、アメリカであって、その言語、すなわち英語でほぼすべて世界中の情報を得ている。英語というフィルターを通して情報を得ているが、これは片手落ちというか、危い。もっと他言語を直接摂取する努力をすべきであるという主張だ。一例として、サミットにおける国際会議の同時通訳の場合、英語以外の国の元首へたいして、日本の首相が発言すると、一旦それは英語に訳され、それから、ドイツ語、ロシア語、イタリア語等の他の言語へ訳されるという手順を踏むのだそうである。
やはり英語一辺倒はやばいのか? もう一つのエピソード。最近私はたまたまベトナムへ出張したのだが、ベトナム航空の機内誌を読んでいると、ベトナム初のジャズマンが紹介されていて、彼はもっとベトナム古来の民俗音楽をジャズ的にアレンジして、新しいジャズを創造したいと発言していた。(ちなみにこの機内誌は、ベトナム語と英語で書かれていて、当然ながら日本語の記載はなかった)
みなさんはどう思われます?
ケイズケイスの近況6
ケイズケイスの近況6
さて、翻訳権無視のモームの翻訳が終わって、何の反響もないまま、また私の駄文のコーナーとなった。ところでモームの著作は、現在洋書店で入手できるものはすべて読んでしまったので、やむなく近所にある古書店に行って、原書だろうと、翻訳ものであろうととにかくモームを探したところ、意外にも、翻訳本が見つかった。なんのことはない、新潮社から昭和34年に全集が出版されていた。彼の書くものはとにかく面白い。この年になったからなのだろうか?
閑話休題。ケイズケイスの近況といったところで、さしたることもないまま時が過ぎてゆく感じだ。最近私は、来店されるお客さんの一人にシンガーソングライターがいて、その人の一曲をジャズ風にアレンジして、私のソプラノサックスと共演してみようという企画をたてている。とりあえず、明日ベースを加えた三人が集まる予定だが、集まるという確たる保証もない。また当然、そのセッションがうまくいくという保証もない。ただ、日本式ジャズ道というようなものではなく、オリジナルな音楽をやりたいと思っている。「日本式ジャズ道」とはなんぞや。ご存知ない方のため、念のためご説明申し上げると、この言葉は、あるアマチュアのベーシストが言ったのであるが、彼はアマチュアといっても、祇園のジャズクラブでプロと共演するほどの腕前なのだが、彼が言うところのいわゆる、バップスタイルで、スタンダードを忠実に演奏することで、それからはずれたり、あるいはコードを知らなかったりすると、ちぇ、こんなスタンダードのコード進行も知らないの、といって馬鹿にする態度のことである。自分たちが忠実に再現しようとしている純粋なジャズからはずれるのは駄目であるということなのだ。こういう態度は、おうおうにして、再現することに力点が置かれるため、ジャズの最も本質的な部分、すなわちオリジナリティが失われているということになりかねない。日本独特のコピー文化に堕す危険性があるのだ。平たく言えば、「カッコイイ」と感じるところが、完全にジャズのイディオムとコード進行を再現する部分なのか、あるいは、演奏者自身のコンテクストにより、自然に出てくるインプロビゼーションがあって、それがたまたまコードから少しはずれていようが、イディオムがおかしかったりしていようが、彼自身が自分のうたを歌っていると感じさせるオリジナリティの部分なのか、ということなのだ。ただ、ジャズ演奏の場合、この両方の要素が同時に成立しているケースが少なくないにしても、私が本稿であえて問題にしているのは、前者、すなわち「忠実な再現」という部分をあまりにも重要視するというか、価値を置くため、自由な発想、自由な演奏がないがしろにされているのではと疑われる点である。
このことは、コピー文化が成立するわが国にあっては看過できない問題を含んでいる。つまり、ジャズはアメリカから来た外来文化であって、その演奏技術、楽曲に対する情報量といった要素で、判断してしまう傾向がある。より本物らしくやれば、拍手喝采という構図だ。もちろん、「すべての芸術は模倣から始まる」と、名前は忘れたがヨーロッパの哲学者が百年以上前に述べているのだが、しかし彼はこうも続けている。「だが、真の芸術家は模倣を通して彼自身を表現する」私が「模倣」のみに終わっている日本式のコピー文化を毛嫌いするのはこういう理由からである。与えられたものとしてのジャズを帰納法的に、つまりリバースエンジニアリング的に理解して、その本質を見失うことを私は問題にしたい。ここでひとつお断りしなければならないのは、アラトーリ氏の
タイミング・プログレッション理論について、それは帰納法的であると私は述べたが、彼の場合、彼自身の演奏がオリジナルであるので、今ここで一般論的に述べていることとは事情が異なるという点である。
こうした状況を踏まえて、最近私は、「ジャズをやるものは、英語を読み、書き、話し、聴き取れなければならない」という極端に過激な信条を了承したい誘惑に駆られている。どうしていきなりこんな極端なことになるのかといえば、上記に述べたように、与えられたジャズ音楽のかたちを逆に遡行するやり方では、ジャズがもっている真の要素、それはオリジナリティの源泉と言い換えてもよいのだが、いつまでたってもそこにたどり着けないのでは、と思ってしまうからだ。このことは、ジャズのフレーズは、英語という言語の特徴から成立しているという主張に依拠している。丸山氏が分析したように、英語のみが二つの子音を含んだ言葉を内包していることにより独特のシンコペーションが生まれることがその重要な要素なのだ。「英語は、二つの子音が重なるので不快な響きがある」とのたまったのは、わが敬愛するモーム先生なのだが、これはここでは関係ない。ジャズの即興演奏は従って、英語を理解している演奏者が、英語で発声するように、自分の楽器を鳴らしているといっても過言ではない。翻って、わが日本人演奏家は、はたして自分の鳴らしている楽器が、英語を話すように鳴っているかといえば、それはどうも疑わしい。
そんな重箱の隅をつつくような議論はどうだっていい。音楽そのものがよければそれでいいじゃないか、とジャズ道を実践されている御仁はおっしゃるのだろうか。みなさんはどう思われます?
ケイズケイスの近況5
昨夜はアラトーリとカルロスが共演したが、それは非常に興味深いものであった。
カルロス君は22歳の若者で、ジャズギターを練習しているのだが、自作の歌もつくっている。先ず彼がその自作の歌をうたってから、そのメロディに触発されたアラトーリ氏が、ピアノでインプロビゼーションを展開する。その間、カルロス君は演奏せず、沈黙をキープしている。そしてアラトーリ氏の演奏が終わると、カルロス君は次の曲をうたいだして、それが終わると前回と同じようにアラトーリ氏のソロが始まる。
こんなフォーマットは、通常のジャズボーカルでも、ブルースでも、またロックでもないもので、聴いている方は何か不思議な感覚におそわれる。すなわち、その音の流れは、ギターとボーカルのソロパフォーマンスがあり、その次に、ソロピアノのパフォーマンスへと引き継がれてゆくのだが、音楽的にひとつのフィーリングでつながっているので、この二人がひとつの音楽を共有していて、しかも各演奏は独立している。ジャズの即興演奏は、歌にあるメロディを発展させたものであるとするならば、オーディアンスは、孤々に独立したメロディ部分と、即興演奏の部分を深く味わうことができるということになる。
このフォーマットが私は気に入ったので、来年、お二人のライブを企画しようと思っている。
ケイズケイスの近況4
ところで、ライブで、マスターが演奏に参加するというのは、私が知っている限り、東京の「アケタの店」の明田川氏、大阪「サブ」のに西山氏である。両氏とも私が二十代のころから知っているので、大ベテランだ。私は三年前からなので、まったくの新参者ということになる。その上、楽譜が読めないときている。しかも、私がやる場合、コミックバンドのような状態となる。
先週の金曜日は、「土佐マサカズ」のピアノトリオであったが、今回で三回目となるライブだ。今回、私は自分の演奏が冴えないので、自分の出番はパスしようと考えていた。ところが、一通り彼らの用意したナンバーが終わると、彼らは当然のごとく、私の演奏をうながしたのである。少ない客席からも、期待の拍手があり、こうなるとやはり、やりたがりの私は拒否できない。思いつくありとあらゆる言い訳を言いながら、バンドスタンドへと向かった。いわく、「最近は調子が悪い」「マスターが演奏するのは、職権乱用、いわゆるパワーハラスメントであるという批判がある」云々。
で、最初の音を出そうとすると、音が出ない。すぐ気が付いたが、ソプラノサックスの管の内側を清掃するためのフェルト状になった棒のようなものを入れているのだが、それを取り出すのを忘れていたのだ。まるで手品師が何か手品をやるのかい、といった具合。気を取り直して、何とか一曲終わってみると、今度は何やらパンの焦げた匂いが漂っている。そう、演奏前に注文のあったピザトーストを完全に忘れてしまっていた。酔っていることもあるが、即興演奏であるため、最初の一音から、完全に集中するため、文字通り演奏が終わるまで、他のことには一切頭がまわらない。先の両ベテランはどうしているのだろうか。まさかこんなへまはなさらないであろう。
過去にも、私は文字通りキッチンプレイヤーなので、キッチンの中から演奏したことがあったが、サックスをキッチン内に立てかけていて、それを倒してしまい、上のEのキーを修理したことが二度あった。せまいキッチンの中なので、しかも床がコンクリートむき出しなので、十分に想定されるリスクのはずだが、ご丁寧に同じ失敗を二回もやらかしたのである。トホ。
ケイズケイスの近況3
私が思うにリズミックなものとは、ジャズという音楽においては、第一義的に重要で、その音楽的衝動(インパルス)の半分以上を占める要素であるような気がする。もちろん、メロディックな抑揚、音の上下があるが、それは、表現しようとする際に、そのときの表現者の感情にもとづいている。リズムのあるひとつのパターンとは、意識の流れを、抽象的な音というツール(道具)を使って、表出するための乗り物(ビヒークル)である。心臓というポンプが、血液を一定の規則的脈動(リズム)で送り出すように、ある特定されたリズミックパターンが、そのときの演奏者の即興演奏を支える、あるいは触発する動機(モチーフ)となる。ちなみに、ジャズでは、あるいは、ブラックミュージック全般でいうならば、万人がもっている心臓の鼓動を“ビート”といい、そのビートをキャンバスにして、変幻自在に描き出される波動が“リズム”である。“タイム”とは、そうした構造を冷静に判断して、その構成を決定づける意識である。
ただ、私がここで言っているリズミックパターンとは、やはりジャズのイディオムにもとづいたものであって、すなわちそれは、英語の母音と子音の組み合わせから生じるシンコペーションを意識している。
さて、メロディは感情の動きの反映だと先に述べたが、これは、ジャズという音楽が、当初から“歌う”ことに対する、他の楽器による置き換えであり、それは必然的に、“話し言葉”の置き換えであり、即興演奏するということは、ある意味で、“話をする”ことであると、私は思っている。
とここまで、リズム、メロディについて解釈すると、あと残りは、ハーモニーということになるが、これはこれで、和声の専門領域があって、私は完全に門外漢なので、何も言えない。ただ、ジャズでは、これも“置き換え”があって、曲の雰囲気を変えてしまうという機能がある。ただ、ここでいう“置き換え”とは、パーカーがやった「代理コード」という手法で、上の“歌の置き換え”という意味ではない。
ケイズケイスの近況2
現在当店では、4組のバンドと個人が毎月6回のライブを行っている。これはアラトーリ(歳森彰)さんが、第一と第三の土曜日の二回ソロライブをやっているためである。先週の金曜日と土曜日は、それぞれ土佐マサカズと、アラトーリのライブが続けてあり、私はその両方で、ソプラノサックスを吹いた。といっても、それぞれ一曲だけであるが。土曜日のアラトーリさんとは、その前に彼とちょっと練習していた私が作曲した曲を演奏した。とはいっても、その曲は、ほとんどリズミックなモチーフのようなもので、そのリズミックパターンを伴奏として、首題となるメロディをつくりたいのだが、まだそれはできていない。演奏毎に、メロディをやればいいという方法もある。私は楽譜が読めないので、当然楽譜を書くことなどできない。アラトーリさんは、私が鼻歌をケータイのICレコーダーに録音したものを聴いて、楽譜を書いてくれた。それによると、キーは、B♭/Dで、フリージアンのモードということらしい。このモチーフをやると、すぐに即興演奏にはいれるので、私は気に入っている。彼もこのモチーフに触発されたソロを展開する。いい感じである。今月のクリスマスパーティでもやることになっている。
ケイズケイスの近況
ケイズケイスの近況
大通りに面した場末のジャズバー、ケイズケイスでございます。ケイズケイスの会員の皆様におかれましては、ごきげんうるわしいことと恭悦に存じます。日頃より、入りにくそうなフロント、シャビーなインテリアにもめげずご来店、ご光臨いただき深甚より感謝申し上げます。常日頃「へ、いらっしゃい」と、そっけなく慇懃無礼なあいさつをしておりますが、単なるてれなのでありまして他意はございません。
さて、当ケイズケイスもそろそろ開業より、「石の上にも」3年を迎えんとしております。いつ閉店、廃業してもおかしくない状況から、亀の歩みのごとく、少しずつではありますが、お客さまのご来店が増えてまいりまして今日にいたっております。最近のライブシーンは、ようやく本格的なジャズピアノトリオが入るようになって、ジャズバーらしくなってまいりました。当店のモットーである「ジャズのカタマリ、音楽がスベテ」に少しでも近づけるべく、これからも鋭意努力する所存でありますので、皆様のいっそうのご指導、ご鞭撻を切にお願いする次第です。
とまあ、何だかパチンコ屋の新規開店案内のごとき文章となってしまったが、私はこういう一見ヒポクリット(偽善的)なスタイルの文章がきらいではない。若いときから批判されてきたように、その性根に権威主義的な傾向があるのは、否定できない。それはともかく、上記に述べたジャズピアノトリオは、たまたま、アラトーリ氏と、土佐マサカズ氏(ドラムス)のふたつのピアノトリオが今月(8月)にあったからだ。アラトーリ氏は、隔週の土曜日、土佐氏は、月一回の頻度でライブを行う予定だ。土佐マサカズトリオのピアニストは、女性の西脇女史であるが、これも彼女の明るい性格が反映されていい感じである。両氏のこれからの進歩がほんとうに楽しみである。
FMラジオ
FMラジオ
再度、FMラジオについて一言申し述べたいと思う。
アメリカかぶれのおじんのたわ言だという非難は想定内である。私がいらいらするのは、日本のFMラジオでの、長たらしいジョッキーのおしゃべりと、くだらないギブアウェーのプレゼント商品があたるの、あたらないの、また、どこそこの誰べいのリクエストがどうした、こうしたとか、およそ音楽とは関係のない時間が空費され、あげくのはてに、やせ薬や、エンジンの燃費改良の薬剤の宣伝とくる。いいかげんいしてほしい。私は単に音楽が聴きたいだけなのだ。
アメリカでは、昔から、FMラジオ局同士の競争が激しく、乗り合いバスの宣伝文句などに、「レス・トーク、モア・ミュージック」というのがあって、つまり、これは、「うちの局では、無駄なおしゃべりは極力少なく、他局よりももっと音楽をかけますよ、だから聴いてね」というメッセージなのだ。
ところが、現代はインターネットの時代で、すでにアメリカでは、ウェブキャスティングという言葉がネット上に登場している。これは従来の「放送」(ブロードキャスト)に対するネット上の放送(ウェブキャスト)を意味している。
これはアメリカでも、現在論議を呼んでいる問題であるようだ。すなわち、既存のラジオ局が規制をかけようとする動きがあるようで、ネット局側は、国会議員に訴えようというキャンペーンを張っている。これは、日本でも、楽天が日本放送を買収しようとする動きとも共通しているのであろう。
当然、私も家では、インターネット経由で、全米のジャズ専門のFM局をストリーミングで聴いている。上記に掲げた日本のFMラジオ局などは関係ないのであるが、悲しいことに、車に乗ると、車載のオーディオ装置が壊れていて、その修理をするカネがないので、やむなく日本のFM局を聞くはめになっているのである。
要するに私が言いたいのは、日本の既存のラジオ局ももっと洗練されたスタイルの放送ができないものか、ということなのだ。今やラジオ局といえども、世界中を相手にメガ競争の時代に入っているのであり、昔ながらのスタイルでは、
誰も聞かなくなるのではと思う。もっとも、これもおじんの余計なお世話なのかな。