多分駄文102610
昨夜、二ヶ月に一度くらいの割合で来られる客としゃべっていて、彼は、ケイズケイスにきだして、もう五年近くになると言われた。ということは、開店して一年ほどで、彼は初めて来店していたことになる。まったく時間の経つのはあっという間だ。彼(その客)については、つい二年かそこらという感じをもってしまう。ちょうどそのとき、われわれは「世代論」のようなことをしゃべっていて、自分よりちょっとでも若い世代はまったく感覚が違うと、彼は言うのである。言わずもがな、なのだが、私も当然そういう感覚をもっている。どうやらこれは、私だけに限らず、みんながもっている感覚のようだ。すなわち、特定の事象、社会現象や、政治運動、流行(はやり)等々、こうしたものを理解できるのは、自分より上の世代と自分たちの世代が最後であって、自分より下の(すなわち若い)世代には理解できない、というような気分をみんなもっているのではないだろうか。
閑話休題、上記の客は40才台であるが、特に、95年以降、インターネットの実質的な普及で、社会の変化の速度が倍加したような感じを私はもっている。彼らが社会に出たころはすでに、ケータイとメールがコミュニケーションツールとして普通に使われ始めていて、例えばメール、特にケータイで使用されるメールの使い方、もしくは、これに対する概念(コンセプト)が、もちろん個人の考え方や感性にもよるが、世代間で、本質的な違いがあるように思われる。私の年代では、たまたま私個人は、インターネットが普及する以前、その前には、一つの特定のサーバーにつながった個人のパソコンを通じてやりとりする、いわゆる「パソコン通信」における「電子メール」や「チャット」といった機能を生まれて初めて経験したのであるが、当時はまだ実験段階といった趣(おもむき)で、一般化しておらず、「遊び」の感覚が濃厚であった。また一面では、普通のやつらはこんなことができないだろう、という浅はかなエリート意識もあった。過去にこういう前歴をもつ私は、現在のケータイによるメールが、親指入力のめんどうくささもあって、どうもなじめない。どこか「遊び」の感覚があって、真剣になれないのである。ここのところが、今の若い世代、特に若い女性がもつ「メール」に対する感覚との間に生じる違和感なのかもしれない。
多分駄文101013
多分駄文101013
最近、店に来る客からこのコーナーを含めて、サイトの更新がなされていない、何かあったのでは?という指摘が、1度ならず再三にわたってある。横浜から年に一度、京都観光を兼ねて、来店される客からも同様の指摘があった。恐縮至極である。また別の客からは、どんなヨタ話でもいいからこのコーナーを楽しみにしている、とのご指摘である。これまた恐縮の次第である。
サイトの更新がなされていない理由には、別に深い意味があるわけではない。最近になって、ライブの予定が少なくなったのと、何となく私自身が倦んでいるのだけである。ライブを企画するには、それがどんなかたちであれ、一定の精神的エネルギーが必要である。しかも、店内では、接客、ミュージシャンとの打ち合わせ、ステージのセットアップ、注文に応じてのドリンクの用意、MC,
お勘定、その他こまごましてことを一人でやり、なおかつ、私自身が演奏するのである。これだけやっても儲けはほとんどない。いくら好きなことでも、疲れてくる。そして、ミュージシャンがのってくると、無為意識に足を踏んで調子をとるのだが、これが階下の割烹屋の天井に響いて、すぐにクレームの電話がかかってくる。音楽がクライマックスを迎えているまさにその時点で「やかましい!」というクレームであって、これを「絶対矛盾」とよばずして何といおう。ここにおいて私の精神的疲労は極度に達する。
だが、真に私を疲れさせているのは、最近のこのライブの雰囲気である。ライブミュージックの現場には、特にジャズであれば、そこには、何となくやんちゃな気分、英語で言えば、ミスチーバス(mischievous)な感じというのであろうか、いたずらなわんぱく小僧がもつ陽気で、お茶目な気分・・・そういうものが感じられないのだ。こんなしょぼいジャズバーであっても、時代の雰囲気が反映されてしまうのだろうか? それとも単に私自身が疲れているだけなのだろうか? 今回は思いきり暗い駄文となりました。あーあ。
多分駄文100714
FIFAワールドカップのせいで、来店客はがた減りでさんざんな今日この頃である。
ところで、私はどうしているかだって? どうもしていないが何とか生きている。この間、新曲をつくった。曲名は、”カイアズマス” (chiasmus)で、意味は、辞書で調べると、交差対句法という修辞の一種で,語源はギリシャ文字のキアズマということらしい。最初の語と最後の語を対句させるわけで、 例としては、
In the beginning was the word, and the Word with the God.
または、ジェークスピアのソネットの中に、
Love fire stops the water, water cannot stop the love fire.
というのがある。私の記憶ではこの文の単語が怪しいので、不正確だと思う。
ところで何故いきなりこの言葉がでてきたかという種明かしをすると、私は未だに黒人文学評論集を読んでいて、最後の方の論文に、いろいろな修辞法が紹介されていて、浅学の私にとってどれもこれもお初であって、お手上げである。
この評論はいずれ翻訳したいと思っている。
tabundabun062010
どうでもいいのだが、前回の英文に間違いがあったので、以下のとおり訂正します。
Thank you for traveling with us. We will soon arrive at Demachiyanagi, terminal. Please change here for Eizan Railways. Please make sure that you have all of your personal belongings. Thank you.
「叡山電車にお乗換えです」というのも抜けていた。人の記憶というものはあやふやなものだ。というより“おれ”の記憶がだめなのね。
tabunndabunn061810
ちわ。ケイズケイスの緒方です。さて、来週の土曜日、26日にまた性懲りもなく「ユーネバーノー」ジャムセッションパーティをやります。今回も、仏教建築史についての10分間講義や、寸劇が予定されています。つまり、ここで言うところの「ジャムセッション」とは、通常ジャズでいうものとは少々おもむきを異にしているのです。もともとこの「ジャムセッション」とは、パーカーを中心にして、1940年代にはじまったジャズの新しいスタイルを目指して、ミュージシャンがそれぞれ、ソロを競い合った集まりを指していることは周知のとおりですが、私が意味するものは、異業種じゃないが、異分野の人がそれぞれ限定された時間内で自分の表現を発表する場、ということです。
そこで、私もこのごちゃまぜ発表会のどさくさにまぎれて「ジャズ初心者のための10分間講義」をやりたいと思います。テーマは、常々、私が主張しているところの“ジャズの即興演奏のフレーズは英語の子音の発音に基づいている”、これを実践してみたいとおもいます。題材として以下の英文を選びました。
Thank you for traveling with us. We are arriving at Demachiyanagi, terminal. Please make sure that you have all of your personal belongings. Thank you.
これは、言うまでもなく京阪電車の特急と快速急行の車内でアナウンスされる英文で、「ご乗車有難うございます。まもなく終点『出町柳』です。どなたさまもお忘れもののないように。ご乗車ありがとうございました」の意味なのだが、明らかにアメリカンイングリッシュの発音で、アメリカ人と思しきおばさまの落ちついた(感情表現を抑えた)アナウンスとなっている。これを私のテナーサックスで、ジャズのイディオムを使いながら吹いてみようと思っています。
乞うご期待! とは言ってもこれを読んでいるあなたはたぶん来られないでしょうね。じゃんじゃん。
多分駄文100512
目に青葉、山ほととぎす、初鰹、の候となりました。皆さんお元気ですか?
私はゲンキですが、ゲンキンがありません。ちなみに店内では駄洒落、下ネタの類は京都市条例により禁止されています。
ところでここでいきなり、なんちゃって漢字検定試験を行います。当店のメニューである以下の料理はなんでしょう。
薄焼粉餅
これはピザのことです。明治10年にタイムスリップして、当時の明治人が和訳を試みたら・・・こうはならないですよね。
さて、今月のライブ予定は、
22日(土)に 「ユーネバーノー」ジャムセッションパーティをおこないます。
1000円でお好きなドリンク2杯、です。
どのミュージシャンが来て、演奏してくれるか、それは来てのお楽しみです。
you never know ! です。 パーティ形式ですので、音楽だけではありません。
店より「コーティシーフード」の差し入れがあります。
29日は、ルー中村の「ナッシングバットブルース」ライブ、チャージ1500円です。
多分駄文100429-1
さて、またしても私の「多分駄文」コーナーの順番となった。前回までのジョージ・オーウェルの「リヤ」が意外と長かったので、最後のほうでは、ややもするとやっつけ仕事的な訳になってしまい、読者諸氏には申し訳ないと思っている。オーウェルの文体というか、文の構造そのものは別に難しいものではないのだが、扱っている内容が多岐にわたり、またそれに、言わんとする対象そのものが、抽象的で、微妙な点が含まれているため、日本語に置き換えようとすると、それは簡単ではなかった。彼の思考の順序に従ってやろうとすれば、どうしても直訳的になってしまう。しかしそれでは、日本語としては不自然な感じになる、ということは分かっているのだが、どうしてもああいうふうになってしまう。これがへぼ翻訳家の限界か?
閑話休題。いきなりの話で恐縮であるが、ジャズファンとして、オーウェルの「リヤ」が面白かったのは、まったく主題の主旨とは関係ないのであるが、以下の一文である。
『一つの子音をもう一つ別の子音の横に配置するという単なるその技術が、英語を母国語とする人々にとっては、世代を超えて、強烈な楽しみを与えてきた』
これは、ジャズの即興演奏のフレーズは、英語のダブル子音に基づいているという私の主張(このことは以前にもふれたが、私だけがいっているわけではない)をサポートしていないだろうか。モームの「英語は子音が重なるので、不快な響きがある」という言い方は、英国人特有の渋面を装った韜晦に聞こえる。オーウェルは非常に率直に、シェークスピアの価値はこの「言葉の音楽」にあると認めていて、それをトルストイ批判の基礎にしている。そもそも、このエッセイ自体が、われわれ日本人にはどこか部外者のような感じがあるのだが、私にすれば、当りまえだが、英語を母国語としないのであるが、それでも、英語を操る人間のはしくれとして、彼が言っていることがよく分かるのである。
ところで、この「リヤ」を翻訳中、私は平行して夏目漱石全集の「書簡集」や「講演集」などを読んでいた。オーウェルと漱石では、60-70年前と、110年前という時間の差があるのだが、漱石も英文学者として、シェークスピアについてちらっと知人に宛てた手紙の中で触れている箇所があって、彼はシェークスピアのことを、「沙翁」のストーリーは支離滅裂なものが多いが、その主張は一貫している、と言っている。彼ら二人には何の共通項もないはずだが、やはりシェークスピアの評価については一致している点が面白い。
おっと、そんなことより、このエッセイの重要なテーマというべき一節が、以下の文であろう。
『ほんとうに問題となる差異は、暴力か非暴力かということではなく、権力への嗜好をもっているか、もっていないか、なのだ』
「象を撃つこと」でも明らかなように、オーウェルは帝国主義のもつ「権力」を毛嫌いしていた。このテーマは今日でも重要な意味をもっていると私は思う。
言うまでもなく、従来の右翼、左翼といったイデオロギーは以前ほど意味をもたなくなっている。ではこれからどうやって世界と向き合ってゆくのか、という点で、何か考える契機を彼は提供しているような気がするのである。
リヤ9
詩は、その意味するところから判断されるもので、誘惑するような音は、単に誤った意味をわからなくしてしまうだけだと、トルストイは言っていたようだ。あらゆるレベルにおいて、このことは同じ問題なのであって、――あの世に対してのこの世。そして、言葉の音楽も確かにこの世に属する何かである。
ある種の疑念がいつもトルストイの性格についてまわっている。それはちょうどガンジーの性格がそうであるように。幾人かの人が言うような俗っぽい偽善家では、彼はなかったのであって、彼をとりまく人々、特に彼の妻、らによって干渉されなかったとしても、彼は、たぶん自分自身がそうである以上に自己に大きな犠牲を課していた。ところがまた一方で、トルストイのような男を、その弟子の判断のようにとってしまうことは危険である。そこには常に可能性、――実際には蓋然性なのであるが、――一つの形式のエゴイズムからもう一つ別のものへの変換というものを、一回以上は、彼はしていなかったのである。トルストイは富と、名声と、そして特権を放棄した。彼は、あらゆるかたちの暴力を破棄すると宣言し、そうすることで受ける苦痛を甘受する用意があった。しかしながら、彼が、威圧の原則を破棄した、あるいは少なくとも他者を威圧したいという欲望を破棄したとは信じ難い。一つの家族がいて、父親がその子供に向かって言う。「今度またそれをやったら、殴り飛ばすぞ」一方で母親は、涙ではらした目で、子供を抱きながら、やさしくつぶやく。「ねえ、おまえ、それをやるのは、このママにやさしいことなのかい?」然るに、誰が、最初のものより二番目のほうが専制的ではない、と言えるのだろうか? ほんとうに問題となる差異は、暴力か非暴力かということではなく、権力への嗜好をもっているか、もっていないか、なのだ。軍隊や警察の力というものが異常であると確信している人々がいるのであるが、だが、そういう彼らは、ある種の状況下では暴力の使用は必要であると考える人々よりも、よりいっそう、その見識においては、非寛容で、糾問主義的である。彼らは、他の誰かにこうは言わない。「これと、あれと、もう一つのあれをやりなさい。さもないと監獄行きだ」だが、仮にできるとしたら、彼らは、その人の脳に入り込み、最も細かいことについても、その人の思想を支配するであろう。平和主義や、アナーキズムといった信条は、表面上、権力の完全な放棄を示唆しているように見えるが、むしろこうした心的習慣を助長するのである。というのも、もし君が、通常の汚い政治から自由になっているように見える一つの信条を得たとすると、――しかもその信条からは、どんな実際的なメリットを得ることができない、――確かに君はそれで正しいのだろうか? そして君が正しければ正しいほど、誰であっても、そうした考え方になるようにさせるほうががより自然となるのである。
トルストイがその小論文で言っていることをわれわれが信じるなら、彼はシェークスピアのどんな長所をも理解できなかったし、彼と同時代の作家であるツルゲーネフや、フェット、その他の作家たちの考え方と違っていることに常に驚かされる。再生していない時期のトルストイの結論は、次のとおりであったことをわれわれはほぼ確信している。「あなた方はシェークスピアを好む、だが私はそうではない。それでかまわないではないか」後になって、あらゆるものから隔絶させられたとき、シェークスピアの作品は、自分自身にとって危険なものではないかと、彼は考えるようになった。シェークスピアの中により大きな楽しみを人々が見出すようになればなるほど、彼らはトルストイの言い分には耳をかさなくなって行った。従って、誰もがシェークスピアを楽しむことは“許されない”、ちょうどそれは誰もが、アルコールを飲むことや、タバコを吸うことが許されないのと同じである。確かに、トルストイは、それを暴力で阻止しようとしたのではない。彼は、警察がシェークスピアの全作品を押収するように要求したわけでもない。だが彼は、できることであれば、シェークスピアにいやがらせをしようとしたのである。シェークスピアを愛好するあらゆる人の心の中に入り込んで、自分が思いつくかぎりのトリックでもって、その楽しみを奪おうとしたのだ。――私が彼の小論文の要約で示したように、――それは、それ自体で矛盾しており、正直かどうか疑わしい、そんな議論である。
しかしながら、最後において、最も顕著なことは、これらすべてにおける差異がいかに小さいものではないのか、ということだ。以前に述べたように、人はトルストイの小論文に、少なくともその主要な論点において、“答える”ことができない。一つの詩を守ることができるということについては議論の余地はない。生き残るということでもって、それ自体を守っている、あるいは、それは防御不能なのだ。そして、もしこのテストが有効であるとするならば、シェークスピアの事例における判決は、“無罪”であるはずだ。他のすべての作家同様、シェークスピアは、いずれ忘れ去られるであろう。しかしながら、より重い起訴状が彼に提出されるとは考えにくい。トルストイはおそらく彼の時代にあって、最も尊敬された文学者であって、彼は確かに、能力のない論文作家ではない。彼はシェークスピアに対して告発することに、そのすべての精力を傾けたのである。まるでそれは、戦艦のすべての砲がいっせいにうなりをあげたかのようだ。そして、その結果といえば? 40年後、シェークスピアは完璧に無傷でいて、彼を否定しようとした企ては、黄色くなった小論文のページ以外なにも残っていない。それさえ、ほとんど読まれなくなってしまった。そしてそれも、トルストイが、「戦争と平和」と、「アンナ・カレーニナ」の作者でなかったらとっくに忘れ去られていたであろう。
―――了
リヤ8
究極的には、利己的で快楽主義的であるというのが、キリスト教徒の態度である。というのも、その目標が、現実の生活での苦痛に満ちた闘いから遠ざかって、いわゆる天国や、ニルヴァーナといった永遠の心の平安を得ることにあるからだ。人道主義的な態度とは、その闘いを継続しなければならず、死がその報酬である。「人は、それ故その状況がより困難になってさえ、それに耐えねばならない:成熟することがすべてだ」――これが非キリスト教徒的態度である。人道主義者と宗教的信者との間では、しばしば見かけ上の休戦というものがあるが、しかし事実上、彼らの姿勢の間には妥協できるものはない。人は、この世か、あの世を選択しなければならない。そして人類の圧倒的多数は、仮にこの問題を理解していたとしても、この世を選んでいるのである。どこか他に新しい契約で存在できるという希望のもとに、自らの可能性を否定する替わりに彼らは、ずっと働き、子育てをし、そして死んでゆくのだ。
シェークスピアの宗教的な信条については、われわれはよく知らないし、彼の著作から明らかなように、彼がそうしたものを持っていたことを証明することは難しい。だがいずれにせよ彼は聖人ではないし、聖人らしくもなかった。彼は一個の人間であり、またいくつかの点で、良い人間でもなかった。彼は、金持ちで権力のある人たちの前でうまく立ち回るのが好きであり、最も卑屈な方法で彼らに媚びへつらうことができた。彼はまた、不人気な意見を述べる際、おくびょうにならないようにすることでは、目だって慎重であった。本人自身と目されそうな登場人物の口を借りる場合、打倒するような、あるいは懐疑的な物言いは決してしてしない。彼の戯曲全体を通して、鋭い社会批評家がいるのであり、容認されている虚偽などによっては決して取り込められない人々がいるのであり、下品で粗野な道化師がいて、悪党がいて、狂人がいて、あるいは見せかけの精神異常者か、強暴なヒステリー状態にある人々がいるのだ。「リヤ」は、特にこうした傾向が顕著に表現されている戯曲である。そこには、ベールにつつまれた社会批判が大量に含まれていて、――この点をトルストイは見逃しているのだが、――しかしそうしたものはすべて馬鹿か、もしくは、狂人を装ったエドガーによって発言されているか、あるいは、狂気の状態にあるリヤによってなされている。リヤはほとんど知的な意見を述べてはいない。それでも、こうした口実をシェークスピアが使わなければならなかった事実は、彼の思想がいかに広範であったかということを示している。ほとんどあらゆる事柄についてコメントすることについて、彼は、自分を抑制することができなかった。但し、そうするためには彼は、一連の仮面をつけてはいるが。注意してシェークスピアを読んだ人なら、彼のことを引用せずに一日を過ごすのは簡単ではない。なんとなれば、無秩序だが啓発的なその方法により、どこかで議論か、少なくとも言及していない主要で重要なテーマというものは少ないからだ。彼の戯曲のあちこちに散らばっている的外れな言葉、――だじゃれや、謎掛け、名前のリスト、ヘンリー4世での御者たちの会話における“ルポルタージュ”、また忘れ去られた民謡からすくい上げられた断片等々、――こうしたものは行きすぎたバイタリティ(生命力)の所産なのだ。シェークスピアは、哲学者でもなければ科学者でもなかった。しかし、彼には好奇心があった。彼はこの地上と、人生のプロセスを愛したのだ、このことは、――くりかえすべきだが、――楽しい時間を欲して、できるだけ長生きするということでは“ない”。もちろん、シェークスピアが生き延びさした思想の性質によるものではないのであるが、そして彼は、詩人でないとするなら、脚本家としても記憶されるべきものでもなかった。われわれにとって、彼の主要な持続力とは、言葉を通してのものなのだ。シェークスピア自身が、いかに深く言葉の音楽に魅了されていたかということは、ピストルの演説からおそらく推量することができる。ピストルが言っていることは、大半が無意味なのだが、そのラインを歌のようであると考えるなら、それらは、おどろくほどのレトリカル(修辞法的)な歌詞となっている。明らかに、響き渡るようなナンセンスの数々、(レット・フラッズ・オ^‘ウェル、アンド・フェンズ・フォー・フード・ハウル・オン等々)(洪水をあふれさせろ、そして食べ物を、と悪魔が吼えている)こうしたものは、シェークスピアの心の中に、自己流で絶えずうったえていたものであり、それらを吐露するために、半分狂気のような登場人物を作りあげなければならなかったのだ。
トルストイの母国語は英語ではなかった。それで、彼が、シェークスピアの歌詞に感動しなかったことを非難することはできない。あるいはまたおそらく、シェークスピアの言葉に対する技術は、何か普通のものではないと思えないとしてもそれを批判することはできない。しかし彼は、詩が構成されるその全体の価値を拒否しようとしたのであって、その価値とは、いわば、一種の音楽であるのだ。シェークスピアが有名になったという彼の議論全体が間違いであり、少なくとも英語が話されている世界にあっては、とにもかくにも、シェークスピアの人気はほんものであり、一つの子音をもう一つ別の子音の横に配置するという単なるその技術が、英語を母国語とする人々にとっては、世代を超えて、強烈な楽しみを与えてきた、――もしもこうした事柄を何らかのかたちで彼に証明してみせることができるとしたなら、すべてこれらのことは、シェークスピアにとって、プラスの要因としてカウントされるはずである。ところがまさにそれとは正反対なのだ。それは、シェークスピアと、その崇拝者たちが非宗教的で、世俗的であることのもう一つの証明であるにすぎないのだ。
―――つづく
リヤ7
トルストイは、シェークスピアに関するエッセイを書いた時点でも、――また生涯の終焉を迎える時点であってさえ、そのことを予見することはできなかった。その生涯の終焉とは、突発的で、無計画な旅行のことで、忠実な娘をともなっていて、見知らぬ村の小屋の中での死であったのだが――これは、「リヤ」の幻影を思い起こさせる。
もちろん、トルストイは、この相似性を分かっていたのではないか、あるいは、そのことを指摘されるのを分かっていたのではないか、などと推測することはできない。しかし、この戯曲に対する彼の姿勢は、そのテーマによって影響を受けているに違いない。放棄する力、土地をやってしまうことは、彼が深く思うほどの理由がある主題であった。おそらく、だから、シェークスピアの他の戯曲、――例えば「マクベス」――これは、彼自身の人生にそんなに深くかかわっていない、――こうした場合よりも、彼が引き出した道徳にいっそう怒り、動揺したのであろう。だが、「リヤ」の道徳とは正確にはどうものなのだろう? 明らかにそこにはふたつの道徳があるのであって、この物語の中において、一つは明確なもので、もう一つは暗示的なものだ。
シェークスピアは、君自身を無力な状態におくことは、攻撃を招来せしめるという仮定から出発している。このことは、“誰もが”君に対して敵対するようになる、という意味ではないのだが、(ケントと馬鹿は最初から最後までリヤの側に立っている)しかしながら、あらゆる可能性の中で、“誰か”がそうなるのである。君が自身の武器を放擲すれば、もっと雑な人間がそれを拾うであろう。君がもう一つのほおを差し出せば、君は、最初にくらった一発よりもより激しく強打されるであろう。これはいつもそうだとは限らないが、そういうことがあり得るのであって、もしそういう事態が発生しても、君は不平を言うべきではない。二発目の殴打は、いわば、もう一つのほおを差し出した行為の一部分であるのだ。先ずもって、従って、馬鹿によって引き出されている世俗的で、通俗的な道徳がある。「権利を放棄しては駄目だ。君の土地をやってはいかん」だが、もう一つ別の道徳があって、シェークスピアはそのことを多くの言葉を費やしては決して言ってはいない。しかも、彼がそのことをじゅうぜんに自覚しているかどうかもあまり問題となっていない。それは、物語の中に組み込まれていて、結局のところ、自らの目的に沿うように脚色したか、変更したのである。それは次のようになっている。「君の土地をやってしまえばいい。だが、そうすることによって幸福を得ることを期待してはだめだ。たぶん君は幸せにはなれないだろう。君が他人のために生きるとするなら、君は“ほんとうに”他人のために生きなければならない。それも、まわりまわって君自身を利するようなやり方ではなくて」
明らかに、こうした結論は両方ともトルストイにとっては面白くないはずだ。最初のそれは、通俗的で、覆いかぶさるような利己主義で、彼は本気でそうしたものから逃れようとしていた。もう一つの相克とは、――すなわち自分のケーキを食べたい、欲しいという欲望、――そうした自己の欲望を排して、そうすることによって永遠の生命を得ること、である。もちろん、「リヤ」は、利他主義のための説教ではない。それは単に、利己的な理由による自己否定を実践して、その結果を指摘しているに過ぎない。シェークスピアは、自己の中にかなり世俗的な性向があり、もし自身の戯曲において、どちらかに肩入れすることを余技なくされた場合、彼はたぶん馬鹿のほうに共感する傾向があった。だが少なくとも彼は、全体像を見ることができて、悲劇というレベルで処理することができた。悪は罰せられた、しかし徳目には報酬がなかったのである。シェークスピアの後期における道徳性とは、一般的な意味で、宗教的ではなく、そしてたしかにキリスト教徒のものではない。それらのうちたった二つ、「ハムレット」と「オセロ」だけが、キリスト教徒時代のもので、それらにあってさえ、ハムレットの亡霊という異様さは別にしても、すべてが正しく配置されているといういわゆる“あの世”という言い方はない。こうしたすべての悲劇は、人生とは、たとえそれが悲しみに満ちたものであっても、生きるに価値があるもので、人間は高貴な動物である、――という人道主義的な仮定から出発しており、――この信条は晩年のトルストイにおいては、もちあわせていなかったものなのである。
トルストイは聖人ではなかったが、聖人になろうとして非常に努力したのであり、彼が文学に適応しようとした基準は、もう一つの世俗的なものであった。聖人と通常の俗人との違いは、その種類の違いであって、程度の差ではないということを認識することは重要である。つまるところ、ひとつものが、もう一つ別のものの不完全かかたちとして見なされてはいない、ということなのだ。聖人とは、とりあえずトルストイのいう聖人とは、現実的な人生において、それを改善しようとすることではない。彼はそれを最終地点にもってこようとして、そこに何か違ったものを置こうとしたのだ。このことの明らかな表現の一つは、セリバシー(宗教的な意味での独身主義)は、結婚よりも“高貴である”とする主張である。トルストイが実質的に言っているのだが、もしわれわれが、子育てをしたり、けんかしたり、苦闘したり、楽しんだりすることを止めるのであれば、そしてもし、われわれが、われわれ自身の罪のみならず、この地上でわれわれを結び付けている、――愛を含むその他の楽しみを放棄するとするなら、その時初めてすべての苦痛に満ちた過程が終焉し、天上の王国が出現するであろう、というものである。しかしながら、通常の人間は、天上の王国をのぞんではいない。彼はこの地上での生活がつづくことをのぞんでいるのである。これは、彼が“かよわく”、“罪深く”、そして“良い時間”を希求しているからではない。たいていの人は、自らの生活の中で相当量の楽しみを得ている。だが、いろいろ考え合わせると、人生は苦しいもので、ただ若者か、あるいはきわめて愚かな者のみが別の考え方をもっているに過ぎないのである。
―――つづく
