オーナーの読書室 -3ページ目

翻訳を終えて

ジョージ・オーウェルの「くじらの中で」は、ある程度有名なエッセイであるらしい。今回の翻訳ではずいぶんとグーグル、ウィキペディアのお世話になったが、その中でも、原文の一部が引用されていた。この文は、1940年という時点での彼の歴史的ポジションが示されて、その話柄は多岐に及び、勿論その中心は英米文学ではあるのだが、当のへぼ翻訳家(つまり私)は、英文学における素養が、(モームを除いて)、ないに等しい。それでも、ちょうど70年前に書かれたこれが、意味するものは何なのだろう? その答えのヒントは、彼が使用するフレーズにあるのかもしれない。例えば、「振り子のふれ、それも途方もない距離のふれ」とか、「ゆりもどし」とか、あるいはまた、テーマそのもの、つまりミラーの文学的態度を、ヨナ記に準じて解説するとか、そういうものに、現代、それも日本の現代に通じるものがあるのでは、と思ってしまう。

 

 私が、上記の意味で、これの翻訳に取りかかる前に指摘したエッセイは実はこれではなく、次回やろうと思っているところの、Shooting An Elephant 「象を撃つこと」である。


では次回より、それをまたまたゆるゆるとはじめることにする。




くじらの中で20

しかしながら、結局のところ、1914年から18年にかけての戦争は、ほとんど連続した危機の単にひとつの高まりに過ぎなかった。現時点で、われわれの社会の分裂と、きちんとしたすべての人々が無力化することを増大させるような、そのための戦争などは、ほとんど必要ないのである。ヘンリー・ミラーの作品で暗示されている受動的で、非協力的な態度が正当化されると、私が思う理由がここにある。人々が“思っているはずである”ものを表現しているのか、そうでないのか、それは、彼らが“確かに思っている”ことを表現するのと、たぶん、なにやら近いところに来るのだ。再度、それは、爆弾が炸裂している中での人間の声なのであり、ひとなつっこいアメリカ人の声であり、“公共精神の無邪気さ”である。啓発ではなく、ただ単に、客観的真実である。そして、このラインに沿って、明らかに、一つの良い小説が書かれる可能性がまだあるのだ。必ずしもそれは教化するような小説ではなく、読む価値のあるもので、読んだあとに記憶されるような小説である。


 このエッセイを書いている間に、もうひとつのヨーロッパの戦争が勃発した。それは、過去の数年間と、ヨーロッパの文明を崩壊させるのか、あるいは、宙ぶらりんのまま終わってしまい、今回限りの仕事をやるところのもうひとつの戦争への道を準備するのであろうか。しかし、戦争は、単に、“度を越した平和”なのだ。戦争が起こっているのか、戦争でないことが起こっているのか、どちらにせよ、きわめてはっきりしていることは、“レッセフェール”(放任)資本主義と、リベラルなキリスト教文化の崩壊なのである。つい最近まで、このことを暗示する全体像が予見されていなかった。なぜなら、社会主義が存続し、リベラリズム的情況が拡大されるのでは、と一般的に思われていたからだ。この考え方がいかに間違いであるかということが、徐々に認識されてきている。ほぼ確実に、われわれは、全体主義的な独裁者の時代に突入しつつあるのあって、――その時代とは、思想の自由は、当初、絶対的な罪であり、のちには、無意味な抽象論となってしまうようなそんな時代である。自立した個人は、その存在が否定されつつある。しかしながらこのことは、われわれが知っている形式における文学が、少なくとも、当座の死というものを経験するに違いない。リベラリズムの文学は、終焉を迎え、全体主義的文学はいまだ姿を見せず、わずかに想像されている。作家に関していえば、彼は融解する氷山の上にすわっているようなものである。彼は単にアナクロニズムにすぎないのであって、ブルジョア時代の遺物であり、ヒポポタムスのように運命付けられているのである。ミラーは私にとって、凡俗ではないように思われる。というのも、たいていの彼の同時代人よりもずっとまえに、この事実を理解し、宣言しているのだから。――同時に、実のところ、彼らは文学のルネッサンス(再生)についてべちゃべちゃおしゃべりをしている時代なのである。ウィンダム・ルイスが何年も前に言っているのだが、英語という言語の主要な歴史は終焉してしまった。だが、彼はこのことを異なった、むしろつまらない理由を根拠にしていた。しかしながら、これから以後は、創造的な作家にとって、完全に重要な事実は、作家の世界ではなくなるだろうということだ。このことは、彼を新しい社会へもってこざるを得ないという意味ではなく、“一人の作家として”そのプロセスを担うことはできないということなのだ。というのも、“一人の作家として”、彼は一人の自由人であり、そして、現在起こっていることは、その自由が崩壊しているのだ。従って、発言の自由が残っている数年は、読む価値のあるどんな小説でも、大なり小なり、ミラーが追求したラインに沿ってゆくのではないかと、私には思われるのであって、――それはテクニックやテーマに関するものではなく、暗示された展望の意味においてそうなのだ。受動的態度が戻ってきて、それは以前にもまして、いっそう意識的に受動的であるだろう。進歩と反動は、どちらもごまかしとなってしまった。静寂主義以外は、何もかも無くなってしまったかのようであり、服従することで、現実の恐ろしさが奪われてしまったのだ。くじらの中へ入ろう、――あるいはむしろ、君はくじらの中にいることを認めよ。(というのも当然、君はそうなっているのだから)世界のプロセスに熱中せよ、それとたたかうとか、あるいは、それをコントロールしているかのようなみせかけを止めよ。ただ単にそれを受け入れるのだ。耐えるのだ。記録するのだ。あらゆる意識的な小説家は、今やこれを採用することが一つのあり方のように思われる。より積極的で、“建設的”で、しかも情感の上で偽物ではない小説を、現在、想像することはひじょうに難しい。


 しかしながら、このことによって私は、ミラーが“偉大な作家”、英語の散文におけるニューホープ、であると言っているのだろうか? まったくそうではない。ミラー自身が、そうしたことを言わないし、望んでもいないであろう。間違いなく彼は書き続けることであろうし、――一度スタートしたものは常に書き続けるのであって、――彼に関連して、多くのぼほ同様の傾向をもつ作家たちがいるのであり、ローレンス・ダレル、マイケル・フランケル、その他、彼らは、ほとんど“一派”というべき領域に達している。だが、彼自身は、本質的に、一冊だけの男のように私には思われる。遅かれ早かれ、彼は不明りょうなものか、もしくは、はったりのようなものに転落してしまうのではないかと、私は思ったりしている。彼の最新の本、「南回帰線」を私はまだ読んでいない。それは読みたくないからではなく、警察と税関当局が、それを入手することをなんとか防止しているからである。だが、それが、「北回帰線」や「ブラックスプリング」の最初の章に近いものであったなら、驚くべきことである。ある種の自伝的作家たちのように、一つの事柄を完璧にやり通すものをもっていて、彼はそれをやっているのである。1930年代のフィクションが何であるかを考えると、それは確かに意味あることではある。


 ミラーの本はパリのオベリスク・プレス社より出版されている。オベリスク・プレス社が今後どうなるかというと、戦争が勃発し、オーナーであるジャック・キャサーンが死んでしまったので、私にはわからないが、とにもかくにも、本は入手可能である。これを読んでいない人であればどんな人にでも、私は熱意をもって読むことをお勧めする。ちょっとした工夫か、あるいは公表されている値段より少し高く払うことで、君はそれを入手することができる。そして、その一部が、嫌悪するものでたとえあったにしても、君の記憶にはとどまることだろう。これはまた、“重要な”本でもある。それは、その言葉が一般的に使われる意味とは違った意味でそうなのである。一般的にいって、小説とは、それが“ひどい訴訟手続き”かなにか、あるいは何か他のもの、もしくは、それが何か技術的な革新をもたらしたとき、“重要である”とされている。「北回帰線」は、そのどちらも当たらない。その重要性とは、単に、象徴的であることなのだ。これは私の見解であるが、ほんのわずかな価値しかなく、想像力豊かな散文作家が登場したのであって、彼は、過去数年間の間で、英語を話す民族から登場したのである。これが、言いすぎであるという反対がもしあるにせよ、ミラーは平凡のなかから出てきた作家であって、一瞥する以上の価値があるということは認められるであろう。そして結局のところ、彼は完全にネガティブで、非建設的で、非道徳的な作家なのであり、ジョナーであり、悪を受動的に受け入れるのであり、死者の中にいる一種のホイットマンなのだ。予兆的に、それは、毎年英国では、五千冊以上の小説が出版されていて、そのうちの四千九百冊は、くだらないものであるという単純な事実よりも、もっと重要なことなのである。それはあらゆる主要な文学の“不可能性”というものの標示なのであり、その標示は、世界がその新しい姿へと揺さぶられるまでそうなのだ。


1940年


―――了



くじらの中で19

そして、それ以上に“良い”作家というものが存在するのであって、彼の世界観は、“どの時代”であっても、間違っており、馬鹿げていると見なされてしまう。エドガー・アラン・ポーがその一つの例である。ポーの見方は、最良の点においても、野性味あふれるロマンチシズムであって、その最悪の部分は、文字通り、治療的観点からいうところの狂気からそんなに遠くない存在であることだ。それでは、「黒猫」や、「暴露させる心臓」、また「アッシャー家の崩壊」、その他のストーリーでは、ちなみにこうしたものは、狂人によって書かれたものと酷似しているが、どうしてこれらが虚偽ではないという感じをもたらすのだろうか? その理由は、それらは、ある一定の枠組みの中では、真実であるからであり、自身の奇妙な世界において、ちょうど日本の絵のようにそのルールを守っているからだ。だがそれは、君がそのことを信じなければならないような感じになっている。ポーの物語を、私に言わせれば、ジュリアン・グリーンの「ミニット」のような、似たような雰囲気を、不誠実な試みで作り上げられているものと比較すると、たちどころにその違いが分かる。「ミニット」に関して、即、気づくことは、その中でのどんな出来事もどうやって起きたのか、その理由が示されていないことだ。すべてが完全に恣意的である。そこには何の感情的なシークェンス(必然的な連続性)もない。だが、このことは、ポーの物語には感じられない。それらの狂気じみた論理が、それ自体の設定の中ではきわめて確信的である。例えば、酔っぱらいが黒猫を捕まえて、その目をペンナイフでくりぬいたとき、“なぜ”彼はそうしたのかということを、人は、正確に知っており、同じことをやるであろう、という感じにまでなってしまう。従って、創造的な作家にとって、“真実”を抱え込むのは、感情の誠実さに比べれば、それほど重要ではない。アップワード氏であってさえ、マルクス者としての教育以上のものは必要ないとは言わないであろう。彼には才能が必要なのだ。だが才能とは、明らかに、自らの信条、それが正しいか、間違っているかを問わず、“信じている”ということに“留意”することができる、という問題なのである。セリーヌとエヴェリン・ウォーとの、例えば、その違いとは、その感情の密度の違いなのだ。それは、ほんとうの絶望と、一部の少なくとも装われた絶望との違いなのだ。そしてこのことでもって、ややはっきりしないが、もうひとつの考察へと導かれる。すなわち、“真実でない”信条というものが、“真実である”ものよりも、ずっと真摯に抱え込まれるという事態が存在するのである。


 1914年から18年の間の戦争についての個人的な思い出に関する本を見たとき、一定の時間が経過したのち、人は、読まれるべきほとんどすべての部分が、受動的で、否定的な角度から書かれていることに気づくはずだ。それらは、完全に無意味な何かであり、空虚な中で起こった悪夢であることについての記録なのだ。それは、戦争についての事実に関する真実ではないにせよ、個人的なリアクション(反応)においては真実なのである。兵士が機関銃の集中砲火の中を前進したり、塹壕の中で、腰までの水に浸かりながら立っていたりするとき、彼は、これは恐怖体験であって、どうしようもないことのみ分かっている。秩序だって、全体を見ようとする偽物のパワーよりも、自らの非力さと、無知からのほうが、彼には良い本が書けそうだ。戦争それ自体に関して書かれた本に関して言うならば、それらのベストのものは、ほとんどすべての作品が、戦争というものに背を向けて、それが起こっていることに気づきたくないと思っている人々によって書かれている。E.M.フォスター氏が、以下のことを述べている。すなわち、1917年に、「プリュフロック」や、その他、エリオットの初期の詩をどのように読んだか、あるいは、“公共精神の無邪気さ”であるそうした詩を理解して、いかにして元気づけらたかということを述べている。


 それらは、個人的な嫌悪と弱気について、また、ほんとうと思われるような

 人々についてうたっている。というのも、それらは魅力がなく、弱気である

 からであり・・・ここにはひとつの抗議があり、それも弱々しいもので、非

 力であることのほうが心地よいのであり・・・ご婦人方の愚痴や、(ご婦人

 方の)控え室(訳注:女性だけの井戸端会議)を受け流すことができた彼

 は、われわれの自尊心のほんの一滴を確保したのであり、彼は、人類の遺産

 を継承したのである。


 これは実によく書かれている。マックニース氏、彼の本は、以前私がすでにふれたのであるが、彼はこの文章を引用して、かつ、やや気取って次のように付け加えている。


 十年後、そんなに弱気でもない抗議が、詩人によってなされたはずであっ 

 て、 人類の遺産は、若干異なったかたちで継承された・・・世界の断片に

 ついての考察は、退屈で、そしてエリオットの後任者たちは、それを整理す

 ることにもっと興味をもっているのだ。


 マックニース氏の本全体を通じて似かよった指摘が散在している。彼がわれわれに信じさせようとしているのは、エリオットの後任者たち、(つまりマックニース氏と彼の仲間たちのこと)彼らは、その当時、エリオットが、「プリュフロック」を出版することで行った抗議よりももっと、何らかの方法で、効果的に“抗議”を行ったのであり、その当時、連合軍は、ハイデンブルグの戦線を攻撃しているときであった。まさにどの点において、これらの“抗議”が見出されるのか、私には分からない。しかし、フォスター氏のコメントと、マックニース氏のそれとの比較においては、1914年から18年にかけての戦争を知っている男と、そのことをかろうじて記憶している男との間における違いにそのすべてがある。ほんとうのところは、1917年時点で、もし仮にできるとすれば、人間的であることを除いて、思考し、感受性の鋭い人間ができるものは何もなかったのである。そして、どうしようもなさというジェスチャーをすること、それが軽々しいものであってさえ、そのことが、行動する中でのベストであったに違いないのである。もし私が第一次世界大戦での兵士であったなら、「ファースト・ハンドレッド・サウザンド」(最初の十万)か、ホレイショ・ボトムリーの「塹壕にいる少年たちへの手紙」などよりも、すぐにでも、「プリュフロック」を手にすることであろう。フォスター氏のように、超然として、そして戦前の情感を維持することによって、エリオットは人類の遺産を継承したと、私は思うはずだ。そうした時代にあって、はげた中年の知識人が、とまどっているのを読むのは、何という救いであることか! 銃剣での演習とはどんなにちがっていることか! 爆撃と、食糧配給の順番待ちと、徴兵のためのポスターのあとにある人間の声、なんと救われることか!


―――つづく




 

 

 



 

くじらの中で18


くじらの中で17

くじらの中で16

1937年までには、インテリゲンチア全体が、精神的に戦争状態となっていた。左翼思想は、“反ファシズム”に狭められ、すなわち、ドイツに敵対する方向性をもった憎悪の文学というひとつの否定的なものという流れになり、ドイツに友好的な政治家は、報道界より糾弾されていた。私にとってこのことが意味するのは、スペイン戦争について真におぞましいということでいえば、自分が目撃した暴力ではなく、また、路線の背後にある党利党略ですらなく、第一次世界大戦の精神的な雰囲気をもった左翼サークルが、突如として再登場したということなのだ。戦争ヒステリアにたいして、自らの優位性の上に二十年間も忍び笑いをしていたまさにそうした人々が、1915年当時の精神的スラム状態へ、一気に逆戻りしたのだ。すべては、こうした戦時によくあるばかばかしさなのだが、スパイの捜索、正統性への嫌疑、かぎまわること(くんくん、君は正しく反ファシストかね?)残虐事件の言いふらし・・等々、こうしたことが、平時には決して起こらないのだが、流行ったのである。スペイン戦争の終結前に、また、ミュンヘン(条約)以前にあってさえ、左翼作家のうちでも良質な幾人かは、そろそろ身もだえしはじめていた。全体としていえば、オーデンも、スペンダーも、スペイン戦争について、期待されたように、まったく絶好調で書いたわけではなかった。その時以来、状況に変化が起きて、動揺し、混乱してしまっていた。なぜなら、この出来事の実際の原因が、過去二三年の左翼思想の正統性を無意味なものにしたからだ。しかしながら、その当時の大方が、その出発点からしてナンセンスであることを見抜くのに、そんなに鋭い感性を必要とするものでもなかった。従って、次にくる正統性が、過去のそれよりベターであるという確証もなかった。


 全体として、30年代における文学の歴史は、作家というものは、政治から十分に距離をとっているとする考え方を正当化しているように思われる。一政党の原則を全面的に、あるいは部分的にでも受け入れている作家にとって、遅かれ早かれ、その原則に従うか、さもなければ沈黙するかという選択に向き合った。もちろん、原則に従うことで、――流行が終わった後でも、書き続けることは可能である。どんなマルクス主義者でも、“ブルジョア的”思想の自由は幻想であると、十分に安心して明示することは可能である。しかし、彼がその示威行動を終えたとき、この“ブルジョア的”自由なしでは、創造力が死滅するという心理的な“事実”が残るのである。未来においては、全体主義的な文学が勃興するかもしれないが、それは、われわれが今想像しているものとはかけ離れたものであろう。われわれが了解している文学とは、それは個人的なものであり、精神の正直さと、最小限の検閲を要求するものである。そして、このことは、詩歌よりも散文のほうがいっそうそうなのである。30年代の最良の作家たちが、詩人であったことはおそらく偶然ではない。正統性なる状況とは、常に散文にたいしてダメージをもたらすのであり、結局のところ、文学の形式の中でも最もアナーキーである小説にたいして完璧に壊滅的なダメージを与えるのである。ローマンカソリックの信者の何人が、良い小説家であっただろうか? ひとにぎりのものであってさえ、彼らは不良のカトリック信者であった。小説は、実質的に、プロテスタントの芸術なのだ。それは自由な心、自立した個人の産物なのだ。過去150年間にわたって、1930年代ほど、想像的散文が荒涼としていた十年はない。良き詩があり、良質の社会学の業績があり、才気あふれるパンフレットがあるのだが、実質的に、価値あるフィクションがまったくないのだ。1933年以降、精神のありようがますますこれに敵対的になってきていた。ツアイトガイスト(訳注:時代の精神【独語】)を存分に感じられる者であれば、同時に政治にも巻き込まれていた。もちろん、誰もがこの政治的なばか騒ぎの渦中にいたわけではなかったのだが、実際には、誰もが、政治的宣伝のキャンペーンと、劣悪な論争とがない混ぜになったその周辺に、大なり小なり、かかわっていた。共産主義者と、それに近いところにいるものは、文学評論の分野において、不均衡なほど強大な影響力を有していた。レッテル貼りや、スローガン、そして言い逃れの時代であった。最悪の場合、人は、うっ血するようなうそのかごの中に自身を閉じ込めるか、最良でも、自発的な検閲行為なるもの、(“私はこれを言うべきなのだろうか? それはファシストに賛同するのでは?)これをほとんどだれもが心に抱いていていた。そうした状況下で、良質の小説が書かれるとはほとんど考えられない。よき小説は、正統性をかぎまわる者によって書かれることはないし、自らの非正統性に自縛されているような人々によっても書かれることはない。よい小説は、”おびえていない“人々によって書かれるのである。このことこそが、私をヘンリー・ミラーへと連れ戻すのである。


―――つづく


 

くじらの中で15

しかしながら、この数年間、英国知識人の間で、ロシアというカルトにたいして、間違いなく貢献したもうひとつ別の事柄があって、それは、英国自身の安寧と安全そのものである。そのまったき不正でもって、英国は、それでもハービーズ・コープス(訳注:人身保護令状【ラテン語】)の国であり、イギリス人のひじょうに大多数の人が、暴力や、あるいは非合法性といったことを体験したことがない。人がもしこの種の状況下で成長した場合、専制的な体制とはいかなるものであるかということを想像することは、まったくもって、簡単なことではない。30年代の主要な作家のほとんどすべては、なまなかに解放されたような中流階級に属しているのであって、彼らが第一次世界大戦の実質的な記憶をもつには若すぎたのである。こうした人々にとっては、パージや、秘密警察、略式(死刑)執行、裁判なしの収監、等々の事柄を恐怖するには、あまりにもかけ離れていた。彼らは全体主義を飲み込んでしまっていた。 “なぜなら”、彼らには、“リベラリズム”以外、何の経験もないからである。例えば、オーデン氏の詩「スペイン」からの抜粋を見よ。(ところでこの詩は、スペイン戦争について書かれた二三のうちのまともな詩のひとつであるが):


 若者にとって明日、爆弾のように爆発する詩人

 湖畔の散歩、完全な親交の数週間、

 明日は自転車競走、

 夏の夜、郊外を通って。だが、今日は闘争の日。


 今日、死の機会が意図的に増大する

 必要なる殺人という罪を意識的に受け入れる

 今日、権力が増大する

 平たくはかないパンフレットと退屈な集会の中で


 第二節は、“良き政党人”の人生における一日を簡潔にスケッチしようとしたものだ。二件の政治的な殺人のあった朝、その間に、十分間の息苦しい“ブルジョア的”後悔、そしてそれから、あわただしい昼食と、忙しい午後と夜、黒板とパンフレットの配布。すべてが啓発的である。だが、“必要なる殺人”というフレーズに注目してみよう。それは、殺人というものが、最大限にとっても“ひとつの言葉”である、と思っている人間によって書かれたものだ。個人的に、私は、殺人というものを軽々しくしゃべろうとは思わない。たまたま私は多くの殺害された男の死骸を見たことがある、――戦闘で殺されたという意味ではなく、殺人である。従って、私には、殺人というものがどういうものであるかという概念があって、――それは、恐怖であり、憎悪であり、泣き叫ぶ近親者、遺族であり、血であり、その匂いなのだ。私にすれば、殺人とは、避けるべき何かである。それはふつうの人間であればみなそうであろう。ヒットラーとスターリンは、殺人は必要なものであると思ってはいるが、しかし、彼らが酷薄であるとは宣伝しないし、それを殺人とも言わないであろうし、それは“清浄化”とか、“削除”、あるいは他のおだやかなフレーズを用いるであろう。オーデン氏の専売特許である無道徳性とは、引き金が引かれたとき、いつもどこか他の場所にいるような人間にとってだけ有効性があるのだ。同様に、左翼思想とは、火が熱いことすら知らない人間が、一種の火遊びをしているようなものである。1935年から39年にかけての英国知識人がけしかけた戦争挑発行為は、大半が、こうした個人的な免疫性をベースにしたものだ。フランスでは、こうした態度に大きな違いがあり、そこでは、兵役を逃れるのは難しく、文筆家であっても兵嚢の重さを知っているのである。


 シリル・コナリー氏の最近の本「約束の敵」の終わりの方で、興味深く、意味深い文章が出てくる。この本の最初の部分は、大なり小なり、現代文学の評価談である。コナリー氏は、“運動”の作家たちの世代にぴったりと属していて、かつ、彼らの価値観と彼の価値観との間には、そんなに多くの留保はない。散文作家たちの中で、暴力に特化したもの、――ヘミングウェーや、その他、アメリカ流のそうあるべきタフさ、を主として賞賛していることに気づかされるのは興味深いことだ。この本の後半部分では、しかし、自伝的になっていて、1910年から1920年における予備校と、イートン校についての魅惑的に正確な描写で構成されている。コナリー氏は以下の言葉で終わっている:-


 私がイートンを去ることについての感情から、あらゆることを推論するとすれば、それは、“永遠なる青年の理論”とでも呼ばれるものであろうか。その理論とは、大きなパブリックスクールで少年が受けた経験は、とても強烈なもので、彼らの人生と、その後の進展をも左右するほどのものだ、ということなのだ。


 人がこの文章の二番目を読むと、自然にミスプリではないかと思ってしまう。たぶん“否(いな)”か、あるいは何かそうものが抜けているのでは、と思ってしまうのだ。だがそうではない。断じてそうではない! 彼は真面目にそう思っているのだ。なおかつそれ以上に、彼は単純に真実を語っているのだ。しかもあべこべの順番で。“文化的な”中流階級の生活は、パブリックスクールの教育という一定の柔軟性に到達していた。その教育とは、――五年間のスノーバリー(紳士気取り)というぬるま湯の中で、――色々なことがあった時期として実際にふりかえることが可能なのだ。30年代で重要視されたほとんどすべての作家たちにとって、「約束の敵」でコナリー氏が記録した以上に何が起こったというのか。常にそれは同じパターンであって、パブリックスクール、大学、数度の海外旅行、そして、ロンドンである。飢え、困窮、孤独、国外脱出、戦争、監獄、迫害、肉体労働、――ほとんど言葉にならないほどのもの。いわゆる“正しき左翼の人々”として知られる巨大な部族は、ロシアの体制におけるパージとゲーペーウー(秘密警察)、それと五カ年計画の恐ろしさを簡単に許容することは、不思議でも何でもないのである。彼らは、そうしたすべてがどういう意味をもっているのかということを、輝かしくも、理解することができないのである。


―――つづく




 

 

くじらの中で14

ヒットラーの三つの標的は、どこからどう見ても、英国、フランス、そしてUSSRであって、この三国は、ある種、居心地の悪い“国交回復”をさせられている。このことは、英国、あるいはフランスの共産主義者は、良き愛国者であり、また帝国主義者であることを余儀なくされているという意味であり、――すなわち、彼(共産主義者)は、過去十五年間にわたって攻撃してきた、まさにそのものを擁護するということになる。コミンテルンのスローガンは、突如として、赤色からピンクへと減衰した。“世界革命”と、“社会主義ファシズム”が、“民主主義の擁護”と、“ヒットラー打倒”へ道を譲ったのである。1935年から9年の間、それは反ファシズムと、人民戦線の時代であり、“レフト・ブック・クラブ”の全盛期であった。赤色のダッチ(公爵夫人)と、“広き心をもった”ディーン(長老)たちが、スペイン戦争へと、戦場ツアーを繰り出した時代であり、ウィンストン・チャーチルは“デイリー・ワーカー”で、青い目をした少年であったころである。もちろんその当時から、“路線”のもうひとつの変更があった。だが私の目的にとって重要なことは、それは反ファシストの局面において、より若い作家たちが共産主義にひきつけられたという点である。


 ファシズムと民主主義の乱闘は、疑いもなくそれ自体がアトラクションであったのだが、いずれにせよ、彼らが転向するのはちょうどそのころのことであった。レッセフェール(自由放任)の資本主義は終焉し、そして何らかの再構築が必要であることははっきりしていた。1935年時点での世界において、政治的に無関心でいることはほとんど不可能であった。しかしながら、何故、こうした若者たちが、ロシア共産主義のような縁遠いものに目を向けたのだろう? 精神的な正直さというものを不可能にさせるような社会主義という形式に何故、作家たちは魅力を感じたのであろうか? このことを説明するには、不況と、ヒットラーの前にすでに云々されたものにあった。すなわちそれは、中間層の失業ということであった。


 失業問題は、ただ単に、職がないということではない。たいていの人は、最悪の時代であってさえ、何らかの職を“得る”ことができる。問題は、1930年ごろまでに、何のうごき(活動)もなかったという点である。おそらくその例外としては、科学研究、芸術、そして左翼政治などが、思索する人々にとって信じることができるものであろう。西洋文明の正体があばかれて、それが頂点に達しており、“幻滅”というものがひじょうに広範に広まっていた。平均的な中流階級で、今や、どうやって人生を当然のごとくおくってゆくことができるのだろう? 彼らは、兵士であり、聖職者であり、株式仲買人であり、インドの公務員であり、その他あらゆる職業の人間であった。われわれの祖父の時代に、彼らが生きたもろもろの価値観のどれだけが、現在まじめにとることができるというのか? 愛国主義、宗教、大英帝国、家族、結婚の尊厳、旧い級友とのつながり、出産、子育て、名誉、規律、――普通教育のどれもが、三分間で、そうしたものすべてがひっくり返され得るのだ。しかしながら、愛国主義や、宗教といった基本的な事柄を捨て去ることによって、結局のところ、君は何を成し遂げたというのか? “信じることができる何か”のために、その必要性のあるものを、君は、必ずしも捨てたわけではないのだ。二三年前に、一種の間違った夜明けがあった。多くの若きインテリ、その中には数人のひじょうに才能豊かな作家たちも含まれるが、(エブリン・ウォー、クリストファー・ホリス、その他)、彼らはカソリック教会へ逃げ込んだのだ。こうした人々は、ほとんど例外なく、ローマ教会へ行ったのであって、例えば、英国国教会や、ギリシア教会や、プロテスタントの宗派等ではなかったということは重要である。彼らは、すなわち、世界的な組織をもった教会へ行ったのである。その組織とは背後に、厳格な規律、そして権力と威信をもつものであった。唯一、真に第一級の才能をもったエリオットだけが、遅れて改宗したのが、ローマ教会ではなく、アングロ・カトリキズム、つまり、それはトロツキズムの教会版なのだが、これであったことは注目に値(あたい)する。ただし、30年代の若い作家たちが、共産党にひっかかった理由がこれであることについて、これ以上言及する必要はないと、私は思っている。それは単に信じる何かであったのだ。それは教会であるし、軍隊や、ひとつの正当性、規律なのだ。父の国、そして、――とにかく1935年ごろから、――総統閣下だ。知識人が追放したのではと思われていたすべての忠誠と迷信が、最もうすっぺらな仮面の下に、急いで戻ってきた。愛国主義、宗教、帝国、軍事的栄光、――すべてがひとつの言葉に集約されていた、すなわちロシアである。父、王様、指導者、英雄、救世主、――すべてがひとつの言葉、すなわちスターリン。神、――スターリン。悪魔、――ヒットラー。天国、――モスクワ。地獄、――ベルリン。すべてのギャップ(裂け目)が埋まった。だから、つまるところ、英国知識人の“共産主義”とは、説明することができる何かである。それは、故郷をなくした(デラシネ)者の愛国主義なのだ。


――つづく



くじらの中で13

しかしながら、また同時に、マルクス主義的文学であるということは、大衆に近いところに動いたということではなかった。タイムラグを考慮に入れても、オーデンとスペンダーは、ジョイスやエリオットよりも、人気作家という存在から何かしら遠いところにいるのだ。ローレンス一人を除いて。昔と同様に、流行の外にいる多くの現代作家がいるのだが、現在、何が流行なのかという疑問はあまり聞かれない。30年代の半ばとその後半においては、オーデン、スペンダーとその仲間たちは、“運動”であった。ちょうどそれは、20年代において、ジョイス、エリオットとその仲間たちがそうであったように。そしてその運動は、共産主義というやや間違って定義づけられた方向を向いているのだ。1934年か35年の初期の段階では、それは、大なり小なり“左翼”ではなく、エキセントリック(自己中心主義)なもの、というふうに文学サークルでは考えられている。1935年から1939年の間、“共産党”は、40才以下のあらゆる作家たちにとって、ほとんど抗し難いほどの魅力をもっていた。誰それが“参加した”と聞くのはふつうとなっていた。ちょうどそれは、数年前、誰それがローマ・カソリックに“受け入れらた”と聞くのと同じであった。この約3年間は、事実上、英国文学の主流が、大なり小なり、直接的に共産党の影響下にあったのだ。どうしてこんなことが可能だったのだろう? そして同時に、“共産主義”とは何を意味していたのだろう? 先ずは二番目の質問に答えるほうがよさそうだ。


 西ヨーロッパにおける共産主義運動は、資本主義を暴力的に転覆するための運動として出発し、そして、二三年でロシアの外交政策の道具に堕してしまっていた。第一次世界大戦を引き起こした革命の熱狂が死滅してしまったのは、おそらく必然的であった。私が知る限り、これを主題にして英語で書かれた唯一の包括的な歴史書は、フランツ・ボルケノーの本で、「国際共産主義者」である。彼の推論よりも、彼が示した事実のほうがよりはっきり示している点は、共産主義は現在の方向性では決して発展しなかったということだ。たとえ、どの産業国家であれ、どのようなかたちであれ、真の革命的気分があったにしてもそうなのだ。例えば英国では、過去何年にもわたってそういった気分は存在しなかった。従って、英国の共産主義運動は、ロシアにたいして精神的に卑屈な人々によってコントロールされ、ロシアの国益を考慮した英国の外交政策を操る以外に何の目的もなかったのであって、共産党が特異な性格を有していたのは、この事実のためであった。共産主義の声高な部分は、実際のところ、国際的社会主義者になりすましたロシアの宣伝分子であった。平常時では、このポーズは容易であるが、危機となると、これは難しい話である。というのも、USSRは、その外交政策においては他の大国よりも良心的ではないからだ。パワーポリティックスというゲームの一端に過ぎないことを、明確に意識させるものとしての連合国や、戦線の変化というものは、国際社会主義という観点から説明され、正当化されねばならない。スターリンがパートナーを交換するたびに、“マルギシズム”は、ハンマーで新しいかたちに叩きなおさねばならない。このことは、唐突で、暴力的な“路線”の変更、パージ(追放)、弾劾、党文書の組織的な隠滅、等々を引き起こしている。どんな共産主義者も、事実上、自身の最も根源的な信条を変更せざるを得ないか、あるいは党を去らざるを得ない、ということになってしまう。月曜日の疑うべきもないドグマ(独断)が、火曜日にはとんでもない異説になるかもしれない、等々。このことは、少なくとも、過去十年間で三度起こっている。どの西側諸国における共産党も常に不安定で、常にごく少数派であるという結果を招いている。党の長老たちは、ほんとうに内側の知識人たちだけで構成され、彼らは、ロシアの官僚組織、及びわずかに拡大した労働者人民と一体感をもっており、労働者人民は、ソビエト・ロシアにたいしての忠誠心をもち、政治に関しての当然必要な理解がない。一方では、構成メンバーの入れ替えがあるのみだ。“路線”の変更があるたびごとに、一連の人々が去り、別の連中が入ってくるのである。


 1930年時点で、英国共産党は、小規模で、かろうじて合法化された組織で、その主たる活動は、労働党を中傷することであった。だが、1935年までには、ヨーロッパの相貌が変化してしまっていて、左翼的政治のあり方もそれにつれて変わってしまっていた。ヒットラーが権力を得て登場してきて、再軍備を開始し、ロシアの五カ年計画が成功し、ロシアは、強大な軍事パワーの国として再登場していた。


―――つづく



くじらの中で12

しかしながら、まったく突然に、1930年から35年の間で何かが起こった。文学の様相が変化しているのだ。新しい作家グループ、オーデンとスペンダー、及びその他の作家たちがその姿を現わしたのだが、技術的には先人に負うところがあるにせよ、彼らの“傾向”はまったく違うものである。突然、われわれは、神のたそがれから、裸のひじと、グループの歌をうたっているようなボーイスカウトの雰囲気につつまれたのである。典型的な文芸の徒は、教会への傾向をもちながら、文化的に追放された状態であることを止めて、共産主義へ傾斜した熱き心をもった学生になったのである。20年代の作家の主題が、もし仮に、“人生についての悲劇的な意味”であるとするなら、新しい作家たちの主題は、“真摯な目的”である。


 このふたつの流派の違いは、ルイス・マックニース氏の本、「現代詩」の中で、一定の長さで議論されている。この本はもちろん、より若い世代のグループからの視点で書かれており、自分たちの基準のほうが優れていることを当然視している。マックニース氏によれば、


 「新しい形跡」(1932年版)の詩人たちは、イェーツやエリオットと違って、より感情豊かなパルチザンである。イェーツは、欲望や憎悪から背を向けることを暗示していた。エリオットは傍観するかのごとく、他者の感情について、倦怠と、皮肉っぽい自己憐憫で観察した・・・・一方で、オーデン、スペンダー、デイ・ルイスのすべての詩は、自分たち自身が欲望と憎悪を抱いていることを暗示しているのであって、さらに、あるものは欲望を抱かせるものであり、また他のものは、憎悪されるべきものであると考えている。


そして再度、


 「新しい形跡」の詩人たちは、情報と、主張することを優先するギリシャ時代に、――振り戻ったのだ。第一義的に重要なことは、言うべきものをもっていることであり、そしてその後で、そのことを言わねばならないし、実行しなければならない。


 言い換えるならば、“目的”が帰ってきたのであって、若い作家たちは、“政治の世界へ行って”しまったのだ。エリオットとその仲間たち(訳注:原文はEliot & Co.となっていて、この文脈では関係ないが、“エリオット商会”とも訳せるように、皮肉な語感もある)、彼らは、マックニース氏がにおわすほど、ほんとうの非パルチザンではない。それよりも、20年代における文学的営為は、現代から見れば、主題よりも技術的なことに焦点がおかれていた。


 このグループを代表するのは、オーデン、スペンサー、デイ・ルイス、マックニースなのであって、その他、多少なりとも同様の傾向を示す作家たちの長いリストが存在する。すなわち、イッシャーウッド、ジョン・レーマン、アーザー・カルダーマーシャル、エドワード・アップワード、アレック・ブラウン、フィリップ・ヘンダーソン、その他大勢である。前と同様に、私は彼らを、単純に、その傾向から十羽一からげにしている。明らかに、その才能においては、大きな差異がある。だが、これらの作家群を、ジョイス、-エリオットの世代と比較すると、彼らをひとつのグループとして形成することが、いかにずっと容易であるか、というのは、ひとへに特筆すべき事柄ではある。技術的に彼らはお互いに近いところにいて、政治的にはほとんど見分けがつかないし、他の作家の作品批評においては、彼らは、(穏当に言えば)優しい感じだ。20年代の卓越した作家たちは、その出身の違いが大きく、彼らのほとんどは、英国における通常の教育上のふるいを通過してはいなかった。(ちなみにローレンスを除いて、彼らの中で最高の者は英国人ではなかった)そして、たいていの者は、貧困、無視、そしてあからさまな迫害に苦しんだ過去をもっていた。また一方で、ほとんどすべてのより若い作家たちは、パブリックスクール、大学、ブルームズベリー(訳注:ロンドン市内中心地にある高級住宅街、作家が多く住んだ)というコースに容易く適合している。プロレタリアート出身の幾人かは、生涯の早い段階で階級差を超越していて、最初は奨学金により、その後はロンドンの「文化」という漂白剤入りの桶によってそうなったのである。このグループの幾人かの作家たちは、パブリックスクールの単なる生徒ではなく、その後、その教師になったということは重要である。何年か前、私はオーデンのことを“一種の根性なきキプリング”と称したことがある。こうした批判はまったく価値がないのであって、実際のところ、それは単なる愚痴っぽい指摘にすぎないのだが、しかし、オーデンの仕事、特に彼の初期の作品は、上昇する雰囲気があって、――それは、キップリングの「もし」、あるいは、ニューボルトの「奮闘して、奮闘して、その試合をやれ!」等にむしろ似ているのであり、――決してかけ離れたものではない。例えば、「君たちは去ろうとしている。そしてそれは君次第なのだ、諸君」といった詩がそうなのだ。まさしく、ボーイスカウトの隊長であり、自己非難についての十分間に及ぶストレートな話の書付帳なのだ。彼が意図するものにはパロディの要素があることは間違いないが、彼が意図していないものにも深い相似性がある。そしてもちろん、こうした作家たちの大部分に共通するのは、高踏的な言い方であり、それは、解放への兆候なのである。“純粋芸術”なるものを場外に投げ出すことにより、笑われることの恐怖から自己を解放し、自分たちの視点を大きく広げたのである。



     われわれは何者でもない

 われわれは落ちてしまった

 暗闇の中に、そしてつぶされるだろう

 だが思ってもみたまえ、この暗黒の中で

 われわれは、ひとつの思想の隠れた中心をもったのだ

 われわれの生き生きと輝く生は、何年もの未来の向こう側でまわっている

 のだ。

(スペンダー、一人の判事の裁判)


―――つづく