くじらの中で20 | オーナーの読書室

くじらの中で20

しかしながら、結局のところ、1914年から18年にかけての戦争は、ほとんど連続した危機の単にひとつの高まりに過ぎなかった。現時点で、われわれの社会の分裂と、きちんとしたすべての人々が無力化することを増大させるような、そのための戦争などは、ほとんど必要ないのである。ヘンリー・ミラーの作品で暗示されている受動的で、非協力的な態度が正当化されると、私が思う理由がここにある。人々が“思っているはずである”ものを表現しているのか、そうでないのか、それは、彼らが“確かに思っている”ことを表現するのと、たぶん、なにやら近いところに来るのだ。再度、それは、爆弾が炸裂している中での人間の声なのであり、ひとなつっこいアメリカ人の声であり、“公共精神の無邪気さ”である。啓発ではなく、ただ単に、客観的真実である。そして、このラインに沿って、明らかに、一つの良い小説が書かれる可能性がまだあるのだ。必ずしもそれは教化するような小説ではなく、読む価値のあるもので、読んだあとに記憶されるような小説である。


 このエッセイを書いている間に、もうひとつのヨーロッパの戦争が勃発した。それは、過去の数年間と、ヨーロッパの文明を崩壊させるのか、あるいは、宙ぶらりんのまま終わってしまい、今回限りの仕事をやるところのもうひとつの戦争への道を準備するのであろうか。しかし、戦争は、単に、“度を越した平和”なのだ。戦争が起こっているのか、戦争でないことが起こっているのか、どちらにせよ、きわめてはっきりしていることは、“レッセフェール”(放任)資本主義と、リベラルなキリスト教文化の崩壊なのである。つい最近まで、このことを暗示する全体像が予見されていなかった。なぜなら、社会主義が存続し、リベラリズム的情況が拡大されるのでは、と一般的に思われていたからだ。この考え方がいかに間違いであるかということが、徐々に認識されてきている。ほぼ確実に、われわれは、全体主義的な独裁者の時代に突入しつつあるのあって、――その時代とは、思想の自由は、当初、絶対的な罪であり、のちには、無意味な抽象論となってしまうようなそんな時代である。自立した個人は、その存在が否定されつつある。しかしながらこのことは、われわれが知っている形式における文学が、少なくとも、当座の死というものを経験するに違いない。リベラリズムの文学は、終焉を迎え、全体主義的文学はいまだ姿を見せず、わずかに想像されている。作家に関していえば、彼は融解する氷山の上にすわっているようなものである。彼は単にアナクロニズムにすぎないのであって、ブルジョア時代の遺物であり、ヒポポタムスのように運命付けられているのである。ミラーは私にとって、凡俗ではないように思われる。というのも、たいていの彼の同時代人よりもずっとまえに、この事実を理解し、宣言しているのだから。――同時に、実のところ、彼らは文学のルネッサンス(再生)についてべちゃべちゃおしゃべりをしている時代なのである。ウィンダム・ルイスが何年も前に言っているのだが、英語という言語の主要な歴史は終焉してしまった。だが、彼はこのことを異なった、むしろつまらない理由を根拠にしていた。しかしながら、これから以後は、創造的な作家にとって、完全に重要な事実は、作家の世界ではなくなるだろうということだ。このことは、彼を新しい社会へもってこざるを得ないという意味ではなく、“一人の作家として”そのプロセスを担うことはできないということなのだ。というのも、“一人の作家として”、彼は一人の自由人であり、そして、現在起こっていることは、その自由が崩壊しているのだ。従って、発言の自由が残っている数年は、読む価値のあるどんな小説でも、大なり小なり、ミラーが追求したラインに沿ってゆくのではないかと、私には思われるのであって、――それはテクニックやテーマに関するものではなく、暗示された展望の意味においてそうなのだ。受動的態度が戻ってきて、それは以前にもまして、いっそう意識的に受動的であるだろう。進歩と反動は、どちらもごまかしとなってしまった。静寂主義以外は、何もかも無くなってしまったかのようであり、服従することで、現実の恐ろしさが奪われてしまったのだ。くじらの中へ入ろう、――あるいはむしろ、君はくじらの中にいることを認めよ。(というのも当然、君はそうなっているのだから)世界のプロセスに熱中せよ、それとたたかうとか、あるいは、それをコントロールしているかのようなみせかけを止めよ。ただ単にそれを受け入れるのだ。耐えるのだ。記録するのだ。あらゆる意識的な小説家は、今やこれを採用することが一つのあり方のように思われる。より積極的で、“建設的”で、しかも情感の上で偽物ではない小説を、現在、想像することはひじょうに難しい。


 しかしながら、このことによって私は、ミラーが“偉大な作家”、英語の散文におけるニューホープ、であると言っているのだろうか? まったくそうではない。ミラー自身が、そうしたことを言わないし、望んでもいないであろう。間違いなく彼は書き続けることであろうし、――一度スタートしたものは常に書き続けるのであって、――彼に関連して、多くのぼほ同様の傾向をもつ作家たちがいるのであり、ローレンス・ダレル、マイケル・フランケル、その他、彼らは、ほとんど“一派”というべき領域に達している。だが、彼自身は、本質的に、一冊だけの男のように私には思われる。遅かれ早かれ、彼は不明りょうなものか、もしくは、はったりのようなものに転落してしまうのではないかと、私は思ったりしている。彼の最新の本、「南回帰線」を私はまだ読んでいない。それは読みたくないからではなく、警察と税関当局が、それを入手することをなんとか防止しているからである。だが、それが、「北回帰線」や「ブラックスプリング」の最初の章に近いものであったなら、驚くべきことである。ある種の自伝的作家たちのように、一つの事柄を完璧にやり通すものをもっていて、彼はそれをやっているのである。1930年代のフィクションが何であるかを考えると、それは確かに意味あることではある。


 ミラーの本はパリのオベリスク・プレス社より出版されている。オベリスク・プレス社が今後どうなるかというと、戦争が勃発し、オーナーであるジャック・キャサーンが死んでしまったので、私にはわからないが、とにもかくにも、本は入手可能である。これを読んでいない人であればどんな人にでも、私は熱意をもって読むことをお勧めする。ちょっとした工夫か、あるいは公表されている値段より少し高く払うことで、君はそれを入手することができる。そして、その一部が、嫌悪するものでたとえあったにしても、君の記憶にはとどまることだろう。これはまた、“重要な”本でもある。それは、その言葉が一般的に使われる意味とは違った意味でそうなのである。一般的にいって、小説とは、それが“ひどい訴訟手続き”かなにか、あるいは何か他のもの、もしくは、それが何か技術的な革新をもたらしたとき、“重要である”とされている。「北回帰線」は、そのどちらも当たらない。その重要性とは、単に、象徴的であることなのだ。これは私の見解であるが、ほんのわずかな価値しかなく、想像力豊かな散文作家が登場したのであって、彼は、過去数年間の間で、英語を話す民族から登場したのである。これが、言いすぎであるという反対がもしあるにせよ、ミラーは平凡のなかから出てきた作家であって、一瞥する以上の価値があるということは認められるであろう。そして結局のところ、彼は完全にネガティブで、非建設的で、非道徳的な作家なのであり、ジョナーであり、悪を受動的に受け入れるのであり、死者の中にいる一種のホイットマンなのだ。予兆的に、それは、毎年英国では、五千冊以上の小説が出版されていて、そのうちの四千九百冊は、くだらないものであるという単純な事実よりも、もっと重要なことなのである。それはあらゆる主要な文学の“不可能性”というものの標示なのであり、その標示は、世界がその新しい姿へと揺さぶられるまでそうなのだ。


1940年


―――了