リヤ8
究極的には、利己的で快楽主義的であるというのが、キリスト教徒の態度である。というのも、その目標が、現実の生活での苦痛に満ちた闘いから遠ざかって、いわゆる天国や、ニルヴァーナといった永遠の心の平安を得ることにあるからだ。人道主義的な態度とは、その闘いを継続しなければならず、死がその報酬である。「人は、それ故その状況がより困難になってさえ、それに耐えねばならない:成熟することがすべてだ」――これが非キリスト教徒的態度である。人道主義者と宗教的信者との間では、しばしば見かけ上の休戦というものがあるが、しかし事実上、彼らの姿勢の間には妥協できるものはない。人は、この世か、あの世を選択しなければならない。そして人類の圧倒的多数は、仮にこの問題を理解していたとしても、この世を選んでいるのである。どこか他に新しい契約で存在できるという希望のもとに、自らの可能性を否定する替わりに彼らは、ずっと働き、子育てをし、そして死んでゆくのだ。
シェークスピアの宗教的な信条については、われわれはよく知らないし、彼の著作から明らかなように、彼がそうしたものを持っていたことを証明することは難しい。だがいずれにせよ彼は聖人ではないし、聖人らしくもなかった。彼は一個の人間であり、またいくつかの点で、良い人間でもなかった。彼は、金持ちで権力のある人たちの前でうまく立ち回るのが好きであり、最も卑屈な方法で彼らに媚びへつらうことができた。彼はまた、不人気な意見を述べる際、おくびょうにならないようにすることでは、目だって慎重であった。本人自身と目されそうな登場人物の口を借りる場合、打倒するような、あるいは懐疑的な物言いは決してしてしない。彼の戯曲全体を通して、鋭い社会批評家がいるのであり、容認されている虚偽などによっては決して取り込められない人々がいるのであり、下品で粗野な道化師がいて、悪党がいて、狂人がいて、あるいは見せかけの精神異常者か、強暴なヒステリー状態にある人々がいるのだ。「リヤ」は、特にこうした傾向が顕著に表現されている戯曲である。そこには、ベールにつつまれた社会批判が大量に含まれていて、――この点をトルストイは見逃しているのだが、――しかしそうしたものはすべて馬鹿か、もしくは、狂人を装ったエドガーによって発言されているか、あるいは、狂気の状態にあるリヤによってなされている。リヤはほとんど知的な意見を述べてはいない。それでも、こうした口実をシェークスピアが使わなければならなかった事実は、彼の思想がいかに広範であったかということを示している。ほとんどあらゆる事柄についてコメントすることについて、彼は、自分を抑制することができなかった。但し、そうするためには彼は、一連の仮面をつけてはいるが。注意してシェークスピアを読んだ人なら、彼のことを引用せずに一日を過ごすのは簡単ではない。なんとなれば、無秩序だが啓発的なその方法により、どこかで議論か、少なくとも言及していない主要で重要なテーマというものは少ないからだ。彼の戯曲のあちこちに散らばっている的外れな言葉、――だじゃれや、謎掛け、名前のリスト、ヘンリー4世での御者たちの会話における“ルポルタージュ”、また忘れ去られた民謡からすくい上げられた断片等々、――こうしたものは行きすぎたバイタリティ(生命力)の所産なのだ。シェークスピアは、哲学者でもなければ科学者でもなかった。しかし、彼には好奇心があった。彼はこの地上と、人生のプロセスを愛したのだ、このことは、――くりかえすべきだが、――楽しい時間を欲して、できるだけ長生きするということでは“ない”。もちろん、シェークスピアが生き延びさした思想の性質によるものではないのであるが、そして彼は、詩人でないとするなら、脚本家としても記憶されるべきものでもなかった。われわれにとって、彼の主要な持続力とは、言葉を通してのものなのだ。シェークスピア自身が、いかに深く言葉の音楽に魅了されていたかということは、ピストルの演説からおそらく推量することができる。ピストルが言っていることは、大半が無意味なのだが、そのラインを歌のようであると考えるなら、それらは、おどろくほどのレトリカル(修辞法的)な歌詞となっている。明らかに、響き渡るようなナンセンスの数々、(レット・フラッズ・オ^‘ウェル、アンド・フェンズ・フォー・フード・ハウル・オン等々)(洪水をあふれさせろ、そして食べ物を、と悪魔が吼えている)こうしたものは、シェークスピアの心の中に、自己流で絶えずうったえていたものであり、それらを吐露するために、半分狂気のような登場人物を作りあげなければならなかったのだ。
トルストイの母国語は英語ではなかった。それで、彼が、シェークスピアの歌詞に感動しなかったことを非難することはできない。あるいはまたおそらく、シェークスピアの言葉に対する技術は、何か普通のものではないと思えないとしてもそれを批判することはできない。しかし彼は、詩が構成されるその全体の価値を拒否しようとしたのであって、その価値とは、いわば、一種の音楽であるのだ。シェークスピアが有名になったという彼の議論全体が間違いであり、少なくとも英語が話されている世界にあっては、とにもかくにも、シェークスピアの人気はほんものであり、一つの子音をもう一つ別の子音の横に配置するという単なるその技術が、英語を母国語とする人々にとっては、世代を超えて、強烈な楽しみを与えてきた、――もしもこうした事柄を何らかのかたちで彼に証明してみせることができるとしたなら、すべてこれらのことは、シェークスピアにとって、プラスの要因としてカウントされるはずである。ところがまさにそれとは正反対なのだ。それは、シェークスピアと、その崇拝者たちが非宗教的で、世俗的であることのもう一つの証明であるにすぎないのだ。
―――つづく