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ことばの魔法 ことばのチカラ~ことば探検家ひろが見つけたコトバと人間

ことばに宿る、不思議なチカラ。
人間の言語習得やコミュニケーション能力の奥深さはまだ解明されていないけれど、とんでもなくおもしろい。
気づいたら私のコトバ探検は本格化されていた。

英語が自由に話せると世界が広がるんだろうな!
友達が増えるだろうな!

そんな風に思ったことはあるだろうか?
思わなくても、そんな言葉を耳にしたことならあるかもしれない。


確かにそれは間違いじゃないし、一理ある。

『言葉の壁』なんていう言葉があるくらいだからね。
“壁”がなくなれば、自ずと世界は開ける。

とはいえ、英語が話せればどんな人とでも友達になれるのかといえば、ある意味で答えはNOだ。

だって私たちは、出会ったすべての日本人と友達になってきたわけではない。
その中で、ピンときた人と交流が続き、結果友達となっているわけだから。

日本語同士、つまり「言葉」という意味では何の壁も存在しないはずの相手『日本人同士』。
でも「この人言葉が通じないな~…」なんて思ったことは多かれ少なかれあるでしょ?

というところから導き出した「NO」なわけだけれど。



私は今、とある英会話スクールに通っている。
(理由はいろいろあるけれど、今は割愛)

そこで出会うインストラクターたちと話していると感じる。
『言葉に対する壁』がないからこそ見えてくる もの。
人と人として。

それは時として『壁』が存在している時よりもダイレクトに私の深部を直撃する。

 妙にウマの合う講師
 自分を気に入ってくれているのがわかる講師
 緊張するけれど、プロとして信頼できる講師

 もっと話してみたい。
 もっと仲良くなりたい。
 プライベートでも付き合えないかな?

そんな風に思わせる彼ら。

それは

 通じて嬉しい!
 『言葉の壁』がなくなると世界が広がるね!

と、開けたその先で感じるものだと私は思った。

スクールだから、当然料金が発生する。
偶然友達になった外国人とのおしゃべりの場とは違う。
だから自ずとこちらも、その料金に見合うレッスンをしてくれる講師かどうかを見ているわけで。

その上で、人として自分と合うかどうかを私の深部が見極める。
だから当然、逆もある。

 この人、まだまだ若いな…
 悪い人じゃないのはわかるけど、物足りないな…
 わざわざこの人のレッスンを指定しなくてもいいかなぁ…

スクールとしてどんなに講師への教育が充実していようとも、結局は『人』だ。
講師としてのレベル差はやっぱりある。
その上で、環境や状況が作り出した性格を有する私たちが存在する。
当たり前だけれど。


私という、この性格を有する人間が感じることは変わらない。
相手が日本語以外を話す外国人であったとしても。

だからこそ思う。


 英語が話せるようになって、確かに世界は広がった。
 友達も増えた。

 でもそれは、相手が日本人とかアメリカ人とかいうこととはまったく関係のないことだった。


『言葉の壁』は世界を開く。

その壁の向こうに広がっている世界は、それまで自分が築いてきた世界とつながっているものなのだ。

いい感じでブレイクスルーを起こしながらも、やっぱり私は私でしかないことを思い知る。

とどのつまり
日本語でも苦手なものは、英語になったって苦手だし
苦手なタイプは日本人だろうと外国人だろうと苦手というわけ。


まぁそれでも結局は
私は言葉が好きで、いろいろな出会いや発見を楽しんでいるだけなのだけれど!
音を溜め込む“だけ”の賛否両論』のつづき



メキシコ滞在中、私は自分とスペイン語の関わり方には4つのパターンあることに気がついた。

ひとつめは、全然ひっかからない音。

相手が話していても、自分の中を素通りしていくどころか「何?」と思いもしない。
おそらく今までカケラも耳にしたことのない音だったり、語彙だったりしたのだろう。

まったくひっかからないから、その種の音がどの程度私のまわりにあったのかすらわからない。


ふたつめはその逆。
自分の中にストンと入ってくる音。

「おおっ!それってこういう意味なんだ!」とか
「わっ!いきなり意味がクリアになった!」とか
「こう言えばいいのか~!」とか
比較的苦労することなく、その音が自分のものになる感覚。

これはとてもおもしろいし、楽しい。
自分の中のスペイン語がどんどん増えていく感覚が味わえる。


みっつめは、通り過ぎていく音。

何となく耳に届いてはいるけれど、たぶんその時点ではそんなに重要視されていない。
だから私の脳や体が、無意識に素通りさせている感じ。

聞こえているけれど、「それってどういう意味?!」と引っかかりはしないということ。

ただおもしろいことに、この言葉の中には、ある時私の中に戻ってきてストンと落ちるものがある。


そして最後が、一度入ってきて、お腹の中でモヤモヤしてから一旦出て行ってしまう音。

実はこれが、一番もどかしくて、一番おもしろい。

「わっ!何それ?!ああ、そういう意味か~…」
なんて思うのに、直後に
「あれ?さっきの何ていう言葉だったっけ?」
と自分の中から抜けていってしまう言葉たち。

何度も何度も聞いては忘れ、聞いては忘れ…

お腹の中がモヤモヤする。

そして同じことを何度も繰り返す音もあれば
何度か繰り返して、ある時スッと自分の中に入ってくる音もあった。

このモヤモヤがね、多ければ多いほど、ストンと入ってくる音の量が増えると思うわけ。私は。


以上の4つが、私がメキシコで味わった、スペイン語と自分の関係の体感覚。
この4つの感覚に気づいたとき、私は最高にワクワクした。

体はとっても正直。
すべてを感覚で味わっている。

メキシコ滞在はほんの数日という短い期間。
けれど自分のまわりを飛び交っている言葉たちが私の体を出入りする感覚は、何とも繊細でむず痒く幸せなものだった。

中でも “音がストンと自分の中に落ちる感じ” はたまらない!

あれをまた、味わいたい。
何度でも。

何度でも。
メキシコでショートホームステイをしていた時。
自分とスペイン語の関係を観察するのが、私はとてもおもしろかった。

たくさん聞いてそれをただ意味もわからないまま真似して…
だけを繰り返して臨んだホームステイ。
だから自分の中でどんなことが起こるのかは未知数だった。


結果は、自分のことながら賛否両論。

『賛』に相当することといえば、まるで自分の体の中に辞書があるかのような感覚をもっていたこと。

 たくさん音が溜まっているというのはこういう感覚か!

と驚いた。
自分の中にあった、意味のわからない音たちがバラバラとほどけてどういう意味のどんな言葉だったのかがわかる。

うーん…
これって、こうやって文字で書いて伝わるものなのだろうか…?


逆に『否』に相当することといえば、「なーんだ、この程度にしかなってないのか…」と思ってしまったこと。
私は、もっともっと自分の中からスペイン語が溢れ出てくる感覚を期待していた。

ただこれは、滞在期間が短かったことや、ホストファミリーがあまり積極的にスペイン語で会話するタイプではなかったということも関係あるかもしれない。

それは、ホームステイ終了後のトラブル時に感じたことに裏付けされている。


いざ帰らんという日、飛行機が飛ばずに帰国が延期になった。
なんと5日間!
空港で延々とキャンセル待ちし続けただけの日もあり、実質ゆったりできたのは1日半。

その5日間、現地で面倒を見てくれた彼らとの会話は基本スペイン語。
正直なところ、ホームステイをした6日間よりもスペイン語での会話やメキシコそのものを体験している感覚的量が多かった。
そしてその時の会話によって、自分の中にあるスペイン語の芽がどんどん育っていくのを私は感じたわけだ。

そこで私は確信した。


 やっぱり『生の会話』に勝るものはない。


自動翻訳アプリのある便利な時代。
でも“翻訳”や“置き換え”に頼っている以上、言葉が育つことはあまりない。


その言語の体験ゼロで現地に入ったってかまわない。
でも音をたくさん溜め込んでいけばいくほど、自分の中で何かが変わるのだ。

ある時それが爆発する。
あの、私の中にあった辞書が生きてくるように。



>>『スペイン語の4つの落ち方』につづく
インドネシア語には時制がない。
過去も現在も未来も、同じように言い表すらしい。

初めてそれを耳にしたとき、私は首を傾げた。


 じゃあどうやって、“いつのことか” を判断するの?


インドネシアの友人に尋ねれば、答えは簡単。


 『いつ』のことかを言えばいいとのこと。


そりゃそうだ。
「昨日」と言われれば昨日だし、「明日」と言われれば明日なわけだし。
別に言い方を変えなくたってわかるじゃない。

考えてみれば、日本語にだって現在形と未来系の区別はない。
私たちは『時制』という概念を『外国語を学ぶ』時に叩き込まれるから、言葉には時制が付いて回ると思っている。

事実、ほとんどの日本人が学校で英語に触れて初めて「現在形」「過去形」「未来形」を意識するのだから。

同様に大学の第二外国語として昔からよくあったフランス語やドイツ語。
これらの言語には時制がある上に、
男性名詞・女性名詞(・中性名詞)があったり
主語によって動詞が変化したり
さらにその変化した動詞それぞれに時制があったり
その時制が過去・現在・未来という3パターンよりさらに複雑だったりわけだから、それはもう
『外国語=活用がたくさん&時制がいろいろ=複雑』
なんていうパラダイムができてしまっても仕方がないのかもしれない。

英語の『will』ひとつとったって、これが
未来を表しているwillなのか
意志を表しているwillなのか
なんて「わかるかーっ!!」と私は思ったものだった…(笑)

でも考えてみたら、日本語も似たような言い方しているのよね。


 A「お花見行く?」

 B「行くよ」


「行く」は現在形、しかも原形だ。
でもAが話しているのは未来の話。
そしてBが話しているのは未来のことだけど、自分の意志。

ほーらね、そうやって分析してしまえば、日本語だって十分複雑。

現在形と未来系の時制の違いはないけれど、やり取りの中で掴み取るわけだ。
おまけに単なる時制だけではなく、意志まで入ってくるとなれば、おそらく学習者にとっては充分厄介な言語。



インドネシア語には時制がない。

「えっ?!」と思ったのは最初だけ。
こう考えると、不思議なことでもなんでもなかった。

言葉ってやっぱりおもしろい。
オーストラリアのホームステイ先は、小さな庭付きのあちらにしては小さめの家。
そこでは大きなホストマザーがひとりで暮らしていた。

彼女との生活は、小さな驚きを重ねる毎日。
ある日、ホストマザーが庭にある木を眺めながら呟いた。


 「あの花ね、すごくかわいらしいでしょ。
  毎年楽しみにしているんだけど、名前がわからないのよね」


視線の先には薄紅色の可憐な花が咲いていた。

あの花なら知っている。
うちの庭にも咲いていたから。


 ハナミズキだ。


私は必殺・電子辞書を取り出した。


 ハナミズキ…花水木…

 綺麗な名前よね。

 英語だとどんな名前が付いているのかな?

 日本語を直訳すると
 『Flower Water Tree』だけど。


その名を先に告げたおかげで、ホストマザーも一緒にワクワク!
打ち込んで、決定ボタンを押す。

出た。


 「Oh…」

 「What?」

 「…『dogwood』」

 「…What?!」

 「『dogwood』だって」

 「Oh…」


ホストマザー、明らかにがっかり。
気持ちはわかる。
私だって「Oh…」しか言えなかったもん。

花水木は『Flower Water Tree』なんかじゃなかった。
『dogwood』だった。


 『犬』かぁ…


おかげさまで、決して忘れることのない名前になったけれど。
オーストラリアでホームステイしていた家には小さな庭があった。

小さくてもしっかり大きなバーベキューコンロが備え付けられているのが、なんともオーストラリア。
私たちはよくそこで、肉やウィンナーを焼いて食べた。

ちなみにオーストラリアのバーベキューに“野菜を焼く”という概念はない。
ただひたすらに、肉やらウィンナーやらが並んでいる。

肉の大きさも、私が「3~4人前?」と思う塊が一人にひとつ割り当てられる。
もちろんそれは、数ある肉のうちのひとつなわけだけれど。

どう考えても、この人数で食べる肉の量ではないよね?!
という量の肉が毎回当たり前のこととしてそこに並ぶ。

そりゃあ大きくなるワケだ。


ある日の夕方、ホストマザーがキッチンで鳥手羽のグリルを出してくれた。
飲み物片手に立ってつまむ。
普段の食事とは違って台所ご飯は何だか楽しい。

ただこの時、ご飯やパン、野菜など他のものは用意されていなかった。
バーベキューをするのかと思っていた私は、メニュー変更になったのかなと首を傾げながらもその時間を楽しんでいた。


 今日のご飯は鳥手羽のヨーグルト焼きかぁ。
 おしゃれだな~。
 でも珍しく、他のものがないんだな。
 (ホストマザーは、私の帰国後レストランを開いてしまったくらいの料理好き)
 足りないかもしれないから、たくさん食べちゃお~っと♪


鶏肉は私の好物。
おまけにオーストラリアに行ってからというもの、確実に胃が大きくなっていた私。
野菜が欲しいという本音はあったものの、調子に乗ってパクパク食べ進めた。

そう、私は甘かった。
オージースタイルをこの時の私は全然理解していなかったのだ。


 うーん…お腹いっぱい


満足したその時。


 「さぁ、バーベキュー始めるよ~!!」


 嘘っ!?


あの大量の鳥手羽は前菜だったという事実。
自然習得と“直接法”学習』のつづき



私は日本語学習者のテキストを見るといつも違和感を覚える。


 わたしは いきます。

 わたしは たべます。

 あなたは 図書館に いきますか。


間違ってないよ。
間違ってないけど、ネイティブ日本人としては気持ち悪い。
だってこんな日本語、使ったことないんだもの。

日本語を見聞きしたことのない人に「日本語とは…」を「教える」わけだから、文法的基礎からきちんと積み上げていく必要がある
…という考え方が根底にあるのはわかる。

いきなり口語は難しい。
文の構造だってわからない。
だからここから始める。

「習得」ではなく「学習」だからこういう考え方に基づいている。


うん、言いたいことはわからなくない。
でも、やっぱり違和感は拭えない。


ここでひとつお伝えしておきたいのは
私は別に、この教授法を批判したいわけではないということ。


ただ
「私(普通の日本人)は使わないんだよな~…」というだけだ。

正確にいうと、
私も日本語学習者と会話をするときは
あえてこういう不自然な日本語を使うことがある。

そうじゃないと伝わらないという経験があるから。
裏を返せば「そう言えったら伝わった」という経験が、私にはある。
(『「か?」って言ってない!』『その日本語は使わない』参照)

だけど本当にこれでいいのかな?
本当にこれしか教え方はないのだろうか?
だってすべての日本人が、この事実に対応しているわけではないじゃない?


さらに私には、危惧していることがもうひとつあった。
(どちらかといえば、こっちの方が私には大きな問題)

それは

 私たちが学んでいる他の言語も、
 ネイティブ・スピーカーが聞くと不自然なものなのだろうか…?

 だったら嫌だなぁ…

 すごく、すごーく、嫌だなぁ…



そこで私は英会話教師をしているオーストラリア人男性に聞いてみた。

 「レベル1の生徒が学んでいる英語は、あなたにとって不自然?」

彼の答えは「NO」。

 「シンプルな英語だとは思うよ。
  でも別に、不自然じゃない。
  英語は、そのシンプルな文章に付け加えていくだけだから」

なるほど。

 「例えば『I eat bread.』
  これは長い文章の一部なんだよね。
  『I eat bread.』が
  『I eat bread in the morning sometimes.』になる。
  『I play succor.』とか『I wear fur.』とか、
  パターンを学んでいく感じかな。
  最初にすごく短い文章を学んでいく。
  もちろんネイティブが日常の会話の中で
  これだけを言うことはない。
  でも日本語みたいに“不自然”ではないよ」

ふーむ、なるほど。
そして逆に彼に問われた。

 「でも幼稚園とか小学1年生くらいの子たちは
  そういう日本語を学ぶんじゃないの?」



子どもとの会話は、大人同士の会話よりも文章が短い。
使う言葉もシンプル。
ついでに言えば、漢語よりも和語が多い。

でもたとえば親子の会話だったら

 親 「◯◯食べる?」
 子 「食べるー!」

小学校の先生と生徒の会話だったら

 先生 「◯◯食べますか?」
 生徒 「食べまーす!」

ナチュラルでシンプルな日本語には、あまり主語が入らない。
ついでによく見ると、助詞も入っていない。

 「あなたは◯◯を食べますか?」
 「はい、私はこれを食べます」

という会話は、日本人なら子供であってもしないのだ。
国語の教科書にも、こういった文章は載っていない。

ただこれが口語ではなく、文語になると…

 「私は◯◯を食べました。」

主語も助詞も入る。
教科書とは違うけれど、近くはなる。

 わぁお!
 日本語って難しい!


この基礎がないと難しい…というのもわかるはわかるのだ。
だって日本語学習者は基本的に日本語感覚がゼロなのだから。
右も左もわからない言語で、自分の中によりどころがないのは苦しい。

いつ主語を抜くのか、助詞を抜いてもおかしくないのはどんなときか。
そんなもの、私たちは感覚で培ってきたものね。
法則はあるのかもしれない。
でも、使っている人間はその法則を知らないのだ。

おまけに日本語は、口語体と文語体が全然違う。
しかも文章を読んだだけで、書き手が身につけている教養レベルまでわかってしまう。

これってきっと、学習者にしてみれば厄介この上ない。


「Simple English だよ」と教えてくれた彼が言っていた。

 言語ってさ、土台となる基礎も構造も
 それぞれ全然違うじゃん。
 初めて教える場合、
 たぶん日本語より英語の方が簡単なんだよ。
 まずはシンプルなものを伝えていけばいいから。

 あとはさ、表現方法が全然違うよね。

 たとえば「What's that?」。
 英語は声や表情の変化に自分の感情を乗せて伝えていく。
 使うのは「What's that?」の一語だけ。

 でも日本語は同じ「What's that?」を表したいときでも、
 その状況や感情によって使う言葉が変わるよね。
 「それは何ですか?」
 「それなーに?」
 「なにそれ?」
 「何じゃそりゃ?!」


確かに!!

こりゃ大変だ。
おもしろいけど。



自分にとっての外国語を習得しようとするとき、必ずしもネイティブレベルになる必要はないのかもしれない。

でもやっぱり、私は『よりナチュラルな』ものを身につけたいという欲が出る。


最近よく、英語のネイティブ・スピーカーに言われる。

 「ひろこがこれからすることは
  『Natural English』を身につけること
  もっと『Colloquial Language』を使っていくことだね!」

そうだよね~。
オーストラリアに滞在していたとき、ある友人が日本語教師養成講座に通っていた。
今から12~3年前のこと。
私は初めて、『日本語教師』と『直接法』というものの存在を知った。

外国語の習得法にはいろいろある。
教授法もまたしかり。
日本語教師養成講座で学ぶのはこの『直接法』が主だという。


 『直接法』:日本語を日本語だけで教える方法


昔の私は
「その言語をまったく知らないのにその言語で教えるなんて、どうするのさー?」
なんて思っていた。

でも今はちょっと違う。

私自身、
 英語を英語環境で身につける
 その言語はその言語で身につける
という体験を持っている。
そのおかげで、間に母語を挟むよりもむしろ自然…というか、楽だと思っている。

その言語しか持っていない感覚というものもあるしね。
「この言葉、日本語にはないよー!」
というものを無理に訳そうとするとおかしくなる。

方言と同じだ。
北海道弁の「吾妻しくない」は
あくまでも「吾妻しくない」なのであり
「何となく落ち着かない」とはやっぱりどこか違う。
それと一緒。
(『環境で生まれた言葉を訳すのは難しい』参照)

だから『その言語をその言語で学ぶ』のには、私は賛成。

ただその感覚に入り込めないうちは、無意識に母国語の中に当てはまるものを探してしまったりするのだけれど。


理想を言えば、その言語環境に生活ごとどっぷり浸かってしまえば早い。
直接法よりももっとずっと、直接的。

小さな子がその環境にぽーんと放り込まれて対応しているうちに、自然と現地の言葉を身につけていくことをイメージすれば伝わるだろうか。

でもこれは、年齢・環境・状況・立場・性格によって難しさも伴う。

そこで『直接法』なわけだけれど。
これもまた、やっぱり少し難しさを伴うと私は思う。


どういうことか。


『直接法』の根底にあるのは、あくまで『学習』。
『自然習得』ではない。

つまり自然に飛び交う言語環境の中に入るわけではないということ。
あくまで人間が分析し作られた環境の中でその言語に触れていくということだ。

だから自然に感覚を掴んでいくというよりは、与えられた感覚を人工的に作り上げていく感じ。

伝わるかな?


そこで私はあることにひっかかり、こんな会話を展開した。

感情表現とことばの成り立ち』につづく
日本人のお母さんを持つメキシコ人のR君は3人兄妹。
彼らの母国語はスペイン語。
でもお母さんは日本語で話をする。

今でこそ、お母さんとは日本語で話をするという彼。
でも子どもの頃は日本語で話しかけられてもスペイン語で返していたのだという。

母国語、公用語、異なる母語を話す両親を持つということ…
言葉の問題は、しばしばとてもデリケートだ。

同じ環境で育ったR君の妹たちは、日本語が話せないらしい。
お母さんの言っていることはわかる。
でも返事はスペイン語で。

その話を聞いた時、私はオーストラリアのシドニーで暮らす友人Sを思い出した。



生粋のオージーであるSの旦那さん(J)はペルー人。
ペルーも母国語はスペイン語だ。

私が彼女の家にステイさせてもらっていたある日
Jの弟家族がペルーから移住してくることになった。
南米から、言葉も文化も異なるオーストラリアへ。

当時に私にとって、移住なんて遠い世界の話。

“移民の国・オーストラリア”

そこにいてさえ、移住とはどこか遠い時代・遠い国の出来事のように聞こえていた。
当然、日本で耳にしたこともなく。

それが自分の目の前で起こるなんて!


日常会話は英語のS夫妻。
Jは1歳の息子にはスペイン語で話しかけていた。
けれども奥さんや私との会話は英語だ。

そこにJの弟一家が移住に伴い仮住まい。
彼らの家は急遽、スペイン語も聞こえてくる環境となった。

よく「日本人は英語を話せない」とか「日本人はシャイだから…」という言葉を耳にする。
でもこれは、何も日本人にのみ当てはまることではないと知ったのはこの時だ。

Jの弟とその奥さんは、まったくもって英語が話せなかった。

同じ家にいるとはいえ、何故だかほとんど関わる機会のなかった私。
でもせっかくの縁なのにもったいない。
そう思い、ある日勇気を出して奥さんに話しかけてみた。

 「何作るの?」

途端に彼女はさっと目をそらし、即座に誰か助けを呼ぼうとした。
慌てる私。

 確かにあなたは英語がわからない。
 私はスペイン語を知らない。

 でもね、ちょっと言葉を交わせたら楽しいんじゃないかなって思っただけななのよ。

私の試みは失敗に終わった。


 「私さ、スペイン語も話せるようになりたいな。
  そうしたら彼らと話せるし、楽しいと思うんだ」

そう言った私に、Sは大きく頷いた。
そしてこの時、私はSから不思議なことを聞いた。

 「私はね、何を言ってるかはだいたいわかるの。
  でも話せないのよね…」


 えっ?! そうなの??

 何言ってるかわかるの?!

 どうして??


当時の私には、学んだことのない言語を耳にしているだけで理解できるようになるなんて、さっぱり意味がわからなかった。

子どもならともかく大人の場合
語学は学ばなければ身につかないものだと思っていたから。

そしてこの“子どもならともかく”の「子ども」は、一体何歳までを指すのだろう?なんて思っていた。


 勉強してしまったらもう遅いのかな?


そんな風に思ったのは、Jの弟夫妻の2人の子どもたちを見てのこと。
英語の「え」の字にも触れたことのない小学校1年生の弟よりも、学校で英語を学んだことのある14歳のお姉ちゃんの方が苦労していた。


 勉強せずに言葉を身につけるなんて、子どもの特権。


そう思っていた私にとって、Sの「何言ってるかはだいたいわかる」という言葉は非常に衝撃的なものだったのだ。


 彼女は語学に長けてるんだな~…

 日本語も話せるし。

 どんな脳みそしてるんだろ?


何ヶ国語も話せる人に対して多くの日本人が持つこの感想。
例外なく、当時の私も思ったのだった。



さて、話を戻そう。

R君の妹さんたちは、生まれたときから日本語に触れていた。
それでも、理解はできるけど話せないらしい。

けれど確実に彼女たちの中には日本語が溜まっている。
それらは、“スペイン語が通じない”環境に行った時、初めて爆発し溢れ出てくるのかもしれない。

今はまだ、眠っているだけ。

 やっぱり『自然に話す環境』があることは大切なんだな…

R君との会話を通して、「聞く」と「話す」について改めて思ったのだった。
札幌時代、我家にホームステイに来てくれたR君が再び日本にやってきた。
1年数ヶ月ぶりの再会。
私たち夫婦は、彼がかわいくてたまらない。

お母さんが日本人、お父さんはメキシコ人。
でもお父さんのご両親は日本人。
つまり流れる血は生粋の日本人である彼は、でもやっぱりメキシコ人。
母国語はスペイン語だ。


彼の話す日本語はとてもかわいらしい。

お母さんの話す日本語を聞いて育った彼。
改めて日本語を勉強したことはないという彼の言葉からは、お母さんがきちんとした言葉遣いをなさる方なのだということが伝わって来る。

日本語を話す時、彼の声は若干高め。(そしてかわいらしい)
しかしスペイン語になると、声が腹に落ちるのか太く低くなる。

私はそこに、彼の確固たるアイデンティティーがそこにあるのだなと感じる。


今回、仕事で来日した彼は、1週間ほど北中南米各国の代表者たちと過ごしていたらしい。

ひとことで「アメリカ大陸」と言っても、国によって話されている言葉は異なる。
8人の代表者に対して、英語・スペイン語・ポルトガル語と通訳が3人もいたらしい。

「通訳を待っている時間がすごく長くて…」
って、それは想像に難くない。

ちなみに4ヶ国の代表者の母国語はスペイン語。
通訳さんの話すスペイン語はメキシコのものだったらしい。
やっぱり国によって違うの?と聞いたら「大阪弁とか京都弁みたいに違います」って。

 そうなんだ!

じゃあスペイン語ネイティブにとって、ポルトガル語やイタリア語は、方言のような感覚ともまた異なるということか。
日本語にはないその感覚。
うーん、不思議!

ところで彼は今回、各国の代表者たちと何語で会話をしていたのか。

たずねてみると、相手によって日本語・スペイン語・ポルトガル語・英語を使い分けていたとのこと。

なんて理想的!

やっぱり話せるっていいよね。
母国語で話せれば、相手との距離はグッと縮まる。

でも…
これら4言語がわかるということは、彼はどの話もすべて4回ずつ聞かなければならなかったというわけだ。
それは疲れる…^^;

ちなみに彼の言葉たちは、環境によってナチュラルに身につけたもの。
多少、学校で英語の授業はあったとしても、基本的に語学として学んだことはないのだそう。

ああ素敵!
自然習得の塊だ。

だから彼の日本語は、教科書でのみ学ぶであろう日本語表現が出てこない。
きっとポルトガル語も同じ。


ちなみに漢字はさすがに勉強しないとわからないと言っていた。

 「どうやって勉強してるの?」

 「例えば駅とかで知らない漢字があったら、何かなって調べます」

おお…!
ここでもやっぱり自然習得がベースなのね。

やっぱり生のその言語に触れる環境は大切ね。