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ことばの魔法 ことばのチカラ~ことば探検家ひろが見つけたコトバと人間

ことばに宿る、不思議なチカラ。
人間の言語習得やコミュニケーション能力の奥深さはまだ解明されていないけれど、とんでもなくおもしろい。
気づいたら私のコトバ探検は本格化されていた。

英会話スクールで、今までの総復習をしていたとき。

一緒に進めていたアメリカ人のDさんがある一文を目にして首をかしげた。


 【I could communicate with my body.】


「うーん…この文、意味わかんないな。
 どういうことだ?話すの?
 Hello, my foot. Hi my hands.
 ……??」

首を傾げるDさんに、笑いながら答える。


 「私はできるんだけどね」

 「Really?!」


まぁだからこそ、そこにそのフレーズがタイプされていたわけだけれど。


「体とお話しする」なんて、私も以前はさっぱり意味がわからなかった。
ボディ・セラピストの友人たちが「今ひろちゃんの体とお話ししてるからね」なんて言うのを聞いては

 この人たち、ちょっと変

なんて思っていたのだ。
意味がわからない。

でもそのうち(今は割愛するけれど)その意味がわかるようになった。
そしてDさんとは別のインストラクターのレッスンの際にそのフレーズが出てきたわけなのだけれど。


ここで私は、ものすごく当たり前のことに気がついた。


インストラクターとはいえ、一人の人間。
彼らは、彼らの経験と常識の中で生きている。

だから英会話でのナチュラルフレーズの言い回しを教えることはできても、知識外・経験外・専門外のことを言われれば戸惑うのだ。
たとえそれが英語であっても。

日本人同士でも、自分が経験したことのないことや聞いたことのない言葉を言われれば戸惑う。
それと一緒。

当たり前のことなのに、話す言語が“外国語”になった途端、ネイティブが何でもわかってるパーフェクトな存在だと錯覚してしまうあの感覚は、多くの日本人が持つ「英語コンプレックス」に端を発しているのだろうか。



マンツーマンでレッスンを受けられるこのスクールには、何人かのお気に入りのインストラクターがいる。

Dさんもその一人。
彼とはいつも “経験を積んだ大人同士の会話” ができるのが楽しい。

「あの頃はそこまで考えられなくてさー…」とかね。


そしてBさん。
彼は何の違和感もなく【I could communicate with my body.】という言葉を受け入れた。

つまりはそういうこと。

おもしろい。
「日本人は曖昧だ」
「日本人はYES・NOをはっきり言わない」

こう言われて久しい。
私自身、メディアやら学校やらで小さい頃から聞き続けているから、いつの間にかそんなものだと思っていた。

でも以前も書いたけれど、すべての物事を黒か白か、ゼロか百かでなんてわけられない。
むしろ「どっちでもない」「どうでもいい」ということの方が圧倒的多数だと私は思う。


 本当に欧米の人たちはすべてにおいてYES・NOなのだろうか…?


疑問が湧く。
実際、直接話をすると「どっちでもない」「どっちでもいい」という反応が返ってくることは往々にしてある。

確かに、日本人は会話や芸術においても「間」を大切にするし、曖昧の文化という一面を持つことはうなずける。
「空気を読む」なんていう言葉があるくらいだから、場の雰囲気を読むことにも慣れている。
(長けているかどうかはわからないけれど。人によるし、勘違いも入るから)

でもそれと「YES・NOがはっきりしない」というのは違うと思うのだ。


先日、アメリカ人のJさんと話していたときに言われた。


「多くの外国人が、日本人は【ambiguous】だって言うよ」


【ambiguous】=not clear
 あいまいな、不確かな、不明瞭な


 うーむ…、また言われた。


一体何を見てそう思うのか。
せっかくだから聞いてみると…


「例えば、ビジネスのときに日本人は『Yes』『Yes』って言うんだよ。
 だからこっちはOKなんだ、そのまま進められると思うんだけど、日本人は最後に『ちょっと考えます』ってなる。
 『Yes』って言ったのに!
 僕たちにとって、『Yes』はこれでOK、GOっていうことなんだけど…よくわからない」


この時私は、答えが見つかった気がした。


日本人は話を聞いている旨を示すときや相づちを打つときに「はい」と言う。
子どもの頃から
「『うん』じゃなくて『はい』と言いなさい」
と言われるくらい。

その『はい』を日本人は『Yes』に置き換えて話をするのだ。
だから行き違う。

日本人の『Yes』は
「あなたに全面的に同意します。このまま進めましょう」
の「はい」ではなく
「聞いていますよ」「なるほど」
の「はい」なわけだ。

おそらく英語でのネイティブとの会話に慣れた人たちだったら使うのは『Yes』ではない。
日本人的感覚でいうところの「はい」は、例えば…『aha』とかね。

でも当然、みんながみんなそうではないわけで。
加えて非母国語だから、ネイティブ同様の細やかな言い回しや感覚での会話ができるわけではない。

多くの日本人は、英語を用いて話ができたとしても、ネイティブと比べれば圧倒的に少ないボキャブラリーと感覚の中でやりとりをしている。

結果、

 日本人は【ambiguous】だ

と受け取られるようになったのではないかな。


もちろん他の要素もあるかもしれない。

でも、
一理あると思いません?
ロイター通信の記事に載っていたアラブの超高層ビル。
述べ12,000人の人が建設に関わったというそれは、オープニングの日まで高さが公表されなかったらしい。

「建設中に公表しちゃうと、それより少し高いビルを建てようという人がすぐに出てくるからじゃない?」
とはイギリス人のTさん談。
なるほど。

それからしばし、世界の有名な高層ビルやタワーの高さについて2人で話していた。

「きっとエッフェル塔の方が東京タワーより高いよね?」
「ううん、確か東京タワーの方が高いよ。333m」
「本当だ!」

そんな話の流れから、思い浮かぶのは東京スカイツリー。

「東京スカイツリーはね、634mなんだけど。
 これは日本語だと『ム・サ・シ』って読めるのね。
 武蔵は東京にある地域の名前でね…」

本当は武蔵“野”台地だし、地域というよりは関東平野西部の台地を広く指す。
東京の西エリアで生まれ育てば身近な名前。
特に私は武蔵野市出身なのでこの名前への思い入れはひとしおだ。

しかし日本語を話さないTさんにわかりやすく話すには、私の英語力だと若干の語弊が生まれてしまう。
まぁそれは今は置いておくとして。

その話をした時、Tさんが不思議なことを言った。


「日本語の『difficult』…」

 ん?

「『difficult』と似てない…?」

 何が??


首を傾げる私。
Tさんがポツリと呟いた。


「ムズカシイ…?」

 ああ!!


まさにTさんの言いたいことが I got it!という感じ。


 「ムサシ」と「ムズカシイ」


拍数(音の数)も違うし、「ム」しか一緒じゃないけれど、イギリス人の彼には似た音に聞こえたらしい。

こういう、ネイティブじゃない人の感じる、言葉の音に対する感覚って面白い。
「なるほど~」と笑いながら、私は数十分前の自分を思い出した。


それはアメリカ人のBさんと話していたときのこと。

「『revenue』?『revenue』って何?」
「『revenue』っていいうのは企業の…」
「あ!『street』?!」
「それは『avenue』だね」
「Oh…」

思わず顔を覆った。

ようはあれと似たようなことだ。


そういえば…
連鎖して記憶が蘇る。

アフリカのガボンから来た2人に
「『mariage』と『fromage』って似てるよね。
 フランス語には『~age』っていう音が多くない?」
と言いたかった時のこと。

(残念ながら私のフランス語力では全然伝わらなかったのだけれど)



ネイティブには「なんのこっちゃ?」なことが、世紀の大発見のように感じる言葉が紡ぐ音の不思議。

生粋の日本人の私にとって、ムサシとムズカシイは混同することの方がムズカシイ(笑)
以前我家にホームステイにやってきた韓国のEちゃんからメッセージがきた。

「9月に東京へ行きます。ワーホリで1年間住みます!」

わお♡
札幌にホームステイをしにきた彼女と、東京や神奈川で会えるとは!!

お土産の希望を聞かれ、思わず「韓国のキムチが好き」だと言ってしまった私。
(その前にちゃんと「韓国のりが好き」だとも伝えたけれど)

私は辛いモノが苦手。
わさびもからしも食べられない。
マスタードもダメだし、チリなんてもってのほか。
当然のことながらキムチも苦手だった。

でも札幌市内にある韓国料理店「チンチャチンチャ」に出会って、価値観が激変。

 本場韓国のキムチはおいしいんだな~!!

それまで韓国料理に縁のなかった私たちが通ってしまうほどにおいしいお店。


そんなわけで、思わず言ってしまったわけなのだけれど…

Eちゃん、「持っていきます!」って言ってたけど、生ものは無理じゃない?!


このことをシェアしたら、
「それだけ日本滞在がよかったんですね~。おめでとうございます」
とある方に言っていただいた。

そっかー…
そういう風に受け取れるのか~
嬉しいな…
なんてしみじみしたところでふと気づく。

 私も同じだった!!

14年前、まったく話せないのに無謀にも1人でいきなりイギリス・イタリア一人旅に出た私。
ロンドンとシュールズベリーでトータル3週間のホームステイ&ファームステイを体験して思ったのは

「英語が話せたらもっとホストファミリーと話せるのに!!」

それは図らずも、子どもの頃ベルギーで現地の子と遊んだ時に思ったこととまったく同じものだった。

「フランス語が話せたらもっと楽しかったのに!!」

4歳の私は、母にそう訴えた。

帰国後すぐに英会話スクールに通い始めた私は、半年間毎日通い詰め、そこそこ話せるレベルになってワーホリでオーストラリアへと旅立った。
(残念ながらイギリスは年齢制限があって行けなかった)

あんな感覚かな? Eちゃんも。


4歳の時に芽生えた言葉への興味。
それは悲しいことに、そしてある意味とても日本人らしいことに、学校英語の影響ですっかりへし折られてしまった。
でも25歳で再び私の人生と交わることとなる。

今でもお勉強スタイルの語学は大の苦手。
「単語をいくつ覚えましょう」とか、ない!ない!!
でも「話せて楽しい」「通じて嬉しい」がベースにあるスタイルのものはやっぱり楽しい。

それは根底に「もっとあの人たちと話したい」があるからだろうな。


さて今日は英会話スクールにて、レベルチェックの日。
最近、日によって自分の英語レベルが揺らぐ気がする。
何だろう?
毎日話していないからか、頭で考えすぎているのか、はたまた伸び盛りのスランプか(笑)

願わくは、毎日ネイティヴの人と話せる環境があるといい。
実際に向き合って。
しかも本当は、それが多言語でできる環境があるといいのだけれど!!

緊張でお腹の中がもぞもぞする(笑)
初めてフィリピーナのHさんと会ったとき、彼女は日本に来てまだほんの1ヶ月だった。
そんな彼女が「日本人、ありえない!」と熱く語ってくれたのが、雨の日のジェントルマンの話。

東京都心を歩いていた彼女は、突然雨に降られてしまったという。
傘はない。

仕方なく濡れながら歩いていると、一人の男性がやってきた。

 「これ使ってください」

手渡される傘。

 「えっ?!でもあなたは?」

 「大丈夫、大丈夫!」

 でもだって、濡れちゃうじゃない!

明らかに彼は1本しか傘を持っていない。
戸惑う彼女をよそに、彼は立ち去っていったという。


 「信じられない!これは普通のことなの?!
  これが日本なの?!」


興奮して話す彼女に、私も

 それはすごいな~…
 そういう人、いるかもしれないけど
 それは日本において「当たり前のこと」ではない。

 そんな人、私も会ってみたい…

なんて思っていた。


数日後。
今度は私が、いきなりの土砂降りに見舞われた。
駅から家まで約10分。

 誰か傘に入れていってくれないかな~?
 …って、そんな都合のいいことないか。
 そもそも駅から家まで、同じ方向に歩く人なんてそうそういないわ…

そんなことを思いつつ、雨の中に一歩を踏み出した。

家まであと3分。
そんな時、前からテニスウェアを来たおじさまが、傘を掲げるようにこちらに向かって歩いてくる。

 ?!

手渡される傘。

 嘘っ!?

 「いやいやいや…うち、すぐそこなので大丈夫です!」

 「うちもそこだから大丈夫だよ」

 本当にいるんだ…こんなジェントルマン…


感動と戸惑いと、Hさんの体験談が頭の中を駆け巡る。

私はすでにびしょ濡れ。
おじさまの家がどこかはわからないけれど、今の時点で彼は濡れていない。
この距離なら本当に大丈夫。

恐縮し、申し訳なさいっぱいで傘をお返ししようとすると、その紳士が仰った。

 「じゃあデートしようか!」

あくまでフランクに。
そうして傘を受け取ってくれた彼は、私に傘を傾けながら来た道を戻るように歩きはじめた。


 「本当にありがとうございました」

袋小路になっている角を曲がる前に私が告げる。

 「ここで大丈夫?」

 「はい」

 「じゃあここでね。これ以上ついて行っちゃうとストーカーになっちゃうから(笑)」

私に何のしこりも残さないように。
軽い口調の彼は、最後までジェントルマンだった。


 “これが日本人なの?!信じられない!!”


Hさんの声が、私の脳裏に木霊する。

そりゃ、そう思うよね。
私が39年生きてきて初めて体験したこれを、Hさんは来日わずか1ヶ月で経験したわけだから。

私だってびっくりしたよ。
オーストラリアのホストマザーはとってもふくよか。
本人は「太った…」と気にしているのだけれど、気にするところが日本人の感覚と違っていた。


基本的にオージーは肉食なので、何の希望も伝えずにあちらの食生活を送っていたら
 肉しかない!
なんていうこともあり得る。

なので私は希望を聞かれれば常に「野菜」次いで「魚」と言っていた。

おかげでホストマザーには
「ひろこはいつ聞いても野菜ね」
と言われたわけだけれど、だってねぇ…

 肉は言わなくても出てくるんだもの!!

とはいえ、私の帰国後に自分のレストランを開業してしまったくらい料理好きな彼女。
肉ばかりでなくいろいろな料理が毎日の食卓を彩っていた。

あの当時、まさか「D's restaurant」と口にしていた私のことばが、まさか数年後に本当になるとはまったく思ってもみなかったのだけれど。


ところで彼女は、料理をしながら白ワインを飲む。
ほぼ毎日。

それだけではなく、寝る前に飲むのは白ワインかダイエットコークだ。

コーラに限らず、あちらの炭酸飲料は基本的に2Lボトル。
それが気づけば空になっている。

 えーと、何日で飲み干したの??

私はたまに少し飲む程度だったから、そのほとんどは彼女が飲んでいたというわけで…


 「太ってるのよ~!」

 「痩せたいわ~!!」

嘆く彼女。

 だったら寝る前のダイエットコークだけでもやめてみたらどう?

と言う私に、ひとこと。


 「これは“ダイエット”コークだから大丈夫よ」

 
 ん?


ダイエットコークは、“ダイエットのためのコーラ” じゃないよ!


それは結局、帰国するまで彼女に理解されることはなかったのだった。
前回に引き続き「negotiation」から派生した話。

先日、アメリカ人のDさんと話していたとき「department store」で価格交渉するかどうかという話になった。

 えー…デパートで値引きしてとは言わないかなぁ…

そう言った私に対して彼が言う。

 「でも他のお店でもっと安いというのがわかれば下げてくれたりしない?」

 えっ?!
 デパートで??
 それはあんまり聞いたことないなぁ…


確かに最近、例えば家電量販店なんかだとそういった対応をしてくれる。
オンラインも含め、価格競争が激化しているのは事実だ。

でもデパートで割引交渉は…

そんな話をしていると、彼がアメリカの話をしてくれた。
いくつかの「department store」ではそういった対応があるという。

有名なのはウォールマート。

 「ウォールマートって、確か西友の…」

という彼に、私は首を傾げた。

 「え?でも西友はdepartment storeじゃないでしょ?」

 「えっ??!」

ここで、私たちの認識の違いが明らかになった。


私にとって「department store」とは日本語でいうところの「デパート、百貨店」を意味している。
それは例えば、伊勢丹・そごう・丸井・近鉄・東急・小田急・京王・松坂屋・三越・西武・東武・大丸といった百貨店。

西友は、私にとってはスーパーだったのだ。

 「でも西友も、1階はsupermarketだけど、上の階にはいろいろ売ってるじゃん」

言われてみればその通り。
でも私の中では、そこまで含めても西友が「デパート=百貨店」だという認識にはならなかった。

確かに昔に比べて、ああいった店舗もフロアを増やし、様々なものが買えるようになっている。
正直、私も「西友やジャスコみたいな商業施設は何て言うのが適切なんだろう?」なんて考えたことがある。
大型スーパー??

さらに言えば、多店舗展開していないがたくさんの店舗が入っているビルや、複合商業施設はなんというのか?

知識不足でお恥ずかしいが、私はピンとくる語彙を持っていない。


話を戻そう。

 「日本では、西友を「department store」とは言わないと思うんだけど…」

そう言った私に、彼が尋ねた。

 「でもたくさんの「department」があるじゃん!」


 おお…!
 何ということだ!


そもそも私は、『デパート』を指す「department」の意味を考えたことなんてなかった!!

【department】
 1. 部門、部、課;(百貨店の)売り場、コーナー
 2. (米国勢津の)省;(英国政府各省の)局、課
 3. (大学の)学科
     (ジーニアス英和辞典より)

とある。
なるほど、「department」のそもそもの意味を考えれば、英語だとああいった店舗はすべてデパートになるのか。

何ともはや、この感覚の違い!

というわけで、私と彼の感覚の違いはわかったわけだけれど…


このデパートと大型スーパーの認識の違い、私だけですか?
それとも日本人的感覚??
私は「negotiation」が苦手だ。

ジーニアス英和辞典によると「negotiation」は
 〔…との/…間の/…のことでの〕
 交渉、話し合い、折衝、談判
とある。

私自身、「交渉」なんていう言葉を意識したのは、社会人になってからだったように思う。
ただ海外に行けば、「値引き交渉をしよう!」なんてガイドブックに書いてあるくらい普通のことであるとは知っていた。
もちろん国や地域、お店のスタイルによるけれど。

だからと言って、みんながみんな値引き交渉を楽しめるかというと、そんなことはない。
私のような臆病者は、「discount」のひとことすら言うのに勇気が必要だ。

それはつまり

 お店側にとって私は上客というわけ!

だって少し強く出れば、客が折れてくれるわけだから。


思い返せば大学の卒業旅行で友人のMとバリ島に行ったとき。
彼女はマーケットでいきなりそこに出ている価格の10%をふっかけた。

 はああああっ?!

あっけにとられる私。

 いくらなんでもやりすぎなんじゃないの?
 相手が怒るんじゃない?!

ハラハラする私をよそに、彼女は淡々と交渉を繰り返した。
最終的にいくらになったか、正確には忘れてしまったけれど、確かそもそもの価格の半額にも満たなかったように記憶している。

 ぬぬぬ…
 やり手だ…

決して普段、強さを感じさせるわけではない彼女は、すごく強さを秘めた女性だった。


さて、そんな交渉術を練習しようと、メキシコ人のKさんと英語でロールプレイをしていた。

「そんな価格じゃもっとお金を持ってるってバレるよ。
 もう少し低い価格から交渉しないと!」

そう言われて再び挑戦すると…

「ふっかけすぎ!ドキドキした…
 やりすぎると『もういいわ。他の店に行って』って言われるよ!」


 わ…わからない…

 「ちょうどいい加減の交渉価格」がわからない…


途方に暮れる私。
やっぱり苦手だ。

すると彼女が言った。

「実は私も苦手なの。だからすぐに『OK…』って言って払っちゃう…」

悲しそうな顔で。


メキシコは日本と違い、お店での交渉が当たり前の国。
そんな国で生まれ育った彼女でもそうなんだ…

目からウロコが落ちるとともに、ますます親近感がわいたのだった。



>『デパートという認識』に、微妙につづく
何年か前、ナイジェリアからのゲストDさんを迎えた時のこと。

「BOXを買いたい!BOX!BOX!」
と言うDさん。

BOX?
ハコ?
箱が欲しいの?
一体何の??

首を傾げていたら何のことはない、キャリーバッグのことだった。

それなら…とドン・キホーテへ。

「どれがいいと思う?」
「それは私にはわからないよ。あなたが必要な大きさや個数をしらないもの」
「そうよね」

なんて会話を繰り返し、2つのバッグを選んだDさん。
いざレジへ。

通訳をしながら店員さんと話していると、Dさんが言った。

「ディスカウントは?」

 おおぅ…

私、びっくり。

こういう所で値引き交渉をする感覚、日本人にはあんまりない…と思う。
少なくとも私には、ない。
ましてやここは、激安の殿堂。
ここまで値引かれているものに対して、それを言うか…!

と、驚いたのもつかの間。
すぐに思い直した。

日本が違うというだけで、値引き交渉をするのが当たり前の国は世界にたくさんある。
その上彼女はこの店が、他よりかなりお安い激安の殿堂とはわかっていない。

ということは当然、自国の感覚でモノを言うよね。
ついでに言うと、先日「定価」という感覚は日本で生まれたと何かで読んだ。

日本でも今や「他店より1円でも高かったらお知らせください」というお店はあるし、フリーマーケットやイベント等なら値引き交渉は比較的当たり前のこととして受け入れられている。

 でもドン・キホーテかぁ…

めちゃくちゃ大量買いをしたわけでもないし、私にはあそこで値引き交渉という発想はなかった。


なるほど。
こういうのが当たり前の環境で育つことで、人は交渉術を身につけていくのかもしれない。

そんなことを 最近、「negotiation」について英会話のインストラクター達と話しているときに思い出した。



>『交渉術は苦手なの』につづく
アメリカ人のDさんと【argument】について話していたときのこと。

ちなみに英和辞典によると【argument】は

1.〔人との/…についての〕
 (事実・論理にもとづく)議論、論争
2.《米略式》口論、口げんか
3.〔…に賛成する/反対する/…という〕
 主張、論拠、論点;道理、理由

とある。

【argument】について語ろう
そして【argument】してみよう
ということでトライした結果、私は自分がいかに【argument】を苦手としているかを再確認することとなった。

ビジネスにおいて、時に意見をぶつけ合うことは大切だ。
けれど、日常生活においてはあんまり関わり合いたくないと思うのが正直なところだった。

するとDさんがこんなことを言った。


「男は【argument】が好きだと思うよ」

 え?そうなの?!

「うん。主にスポーツにおいて僕たちはよく【argument】する」

 あ~、なるほど。
 確かに贔屓のチームがあると熱くなる人がいる。
 女性にいないとは言わないけれど、確かに男性に多い気がする。

「盛り上がるよ!そしてゲームが終わったらそれで終わりさ」


なんて健全な【argument】。
【argument】はマイナスのイメージが強かったのだけれど、むしろ彼らはこれを楽しんでいる気がする。

そう伝えたら彼も同意してくれた。

「たまーに、自分のチームが負けると翌日まで不機嫌な人もいるけどね(笑)。
 大抵は後々まで尾をひいたりはしないものだよ」

それはいい。
翌日までご機嫌ナナメが続けば、関係のないまわりの人間にはいい迷惑だもん。


ところで、同じことが女性にも当てはまるだろうか?
思い巡らせてみたが、女性同士で【argument】を楽しむ絵は、私には思い浮かばなかった。


アーティストでもアイドルでもいい。
たとえば好きなグループがあったとする。

その中で一番のお気に入りメンバーは誰か。

そんな話をすることはある。

「私はA君!へ~、あなたはB君が好きなんだ!」
とか
「私はC君の◯◯なところが好き。D君は好みじゃないのよね~」
なんて言うことはある。

でも私たちの会話において、自分の好きなメンバーを相手に押し付けることはないし、相手の好きなメンバーを否定することもない。

むしろ好きな人が被らなくてよかったね、なんて思うくらいだ。
少なくとも、私は。

まぁスポーツと違って勝敗がつくわけでもないから、そもそも【argument】する必要性もないのだけれど。



そんな話をする中でふと疑問が湧いてきた。

 何故、男性は【argument】が好きなのか。

その疑問に、Dさんがおもしろい答えを返してくれた。

「男は子どもの頃からプロレスごっこをするでしょ。
 僕もしたし、今の子もしてる。
 学校でも授業が始まる前に男の子はよく取っ組み合ってるよね。
 でも女の子たちはそういうことをしない。
 その大人版が【argument】なんじゃないかなと思うんだ。
 だって今、仕事の合間に僕が誰かと取っ組み合ってプロレスしてたら変でしょ」


はっはっは!
確かに!!

湧き出てくる闘争心。
アクティブな本能は、そんな形で現れるのか!

確かに私にはない。
子ども時代、外を走り回ってはいたけれど、取っ組み合ってはいなかったもの。


こんなところで異なる男と女。
そして
男の子が取っ組み合うのは日米共通。

…世界、共通?(笑)