英語が自由に話せると世界が広がるんだろうな!
友達が増えるだろうな!
そんな風に思ったことはあるだろうか?
思わなくても、そんな言葉を耳にしたことならあるかもしれない。
確かにそれは間違いじゃないし、一理ある。
『言葉の壁』なんていう言葉があるくらいだからね。
“壁”がなくなれば、自ずと世界は開ける。
とはいえ、英語が話せればどんな人とでも友達になれるのかといえば、ある意味で答えはNOだ。
だって私たちは、出会ったすべての日本人と友達になってきたわけではない。
その中で、ピンときた人と交流が続き、結果友達となっているわけだから。
日本語同士、つまり「言葉」という意味では何の壁も存在しないはずの相手『日本人同士』。
でも「この人言葉が通じないな~…」なんて思ったことは多かれ少なかれあるでしょ?
というところから導き出した「NO」なわけだけれど。
私は今、とある英会話スクールに通っている。
(理由はいろいろあるけれど、今は割愛)
そこで出会うインストラクターたちと話していると感じる。
『言葉に対する壁』がないからこそ見えてくる もの。
人と人として。
それは時として『壁』が存在している時よりもダイレクトに私の深部を直撃する。
妙にウマの合う講師
自分を気に入ってくれているのがわかる講師
緊張するけれど、プロとして信頼できる講師
もっと話してみたい。
もっと仲良くなりたい。
プライベートでも付き合えないかな?
そんな風に思わせる彼ら。
それは
通じて嬉しい!
『言葉の壁』がなくなると世界が広がるね!
と、開けたその先で感じるものだと私は思った。
スクールだから、当然料金が発生する。
偶然友達になった外国人とのおしゃべりの場とは違う。
だから自ずとこちらも、その料金に見合うレッスンをしてくれる講師かどうかを見ているわけで。
その上で、人として自分と合うかどうかを私の深部が見極める。
だから当然、逆もある。
この人、まだまだ若いな…
悪い人じゃないのはわかるけど、物足りないな…
わざわざこの人のレッスンを指定しなくてもいいかなぁ…
スクールとしてどんなに講師への教育が充実していようとも、結局は『人』だ。
講師としてのレベル差はやっぱりある。
その上で、環境や状況が作り出した性格を有する私たちが存在する。
当たり前だけれど。
私という、この性格を有する人間が感じることは変わらない。
相手が日本語以外を話す外国人であったとしても。
だからこそ思う。
英語が話せるようになって、確かに世界は広がった。
友達も増えた。
でもそれは、相手が日本人とかアメリカ人とかいうこととはまったく関係のないことだった。
『言葉の壁』は世界を開く。
その壁の向こうに広がっている世界は、それまで自分が築いてきた世界とつながっているものなのだ。
いい感じでブレイクスルーを起こしながらも、やっぱり私は私でしかないことを思い知る。
とどのつまり
日本語でも苦手なものは、英語になったって苦手だし
苦手なタイプは日本人だろうと外国人だろうと苦手というわけ。
まぁそれでも結局は
私は言葉が好きで、いろいろな出会いや発見を楽しんでいるだけなのだけれど!