ことばの魔法 ことばのチカラ~ことば探検家ひろが見つけたコトバと人間 -4ページ目

ことばの魔法 ことばのチカラ~ことば探検家ひろが見つけたコトバと人間

ことばに宿る、不思議なチカラ。
人間の言語習得やコミュニケーション能力の奥深さはまだ解明されていないけれど、とんでもなくおもしろい。
気づいたら私のコトバ探検は本格化されていた。

語学スクールの体験レッスン③』のつづき



突然日本語以外を話したくなる私と
もっと「言葉」をきちんとやりたい私
もっとちゃんと話せるようになりたい私が融合されたとき
私は体験レッスンに足を運ぶ。

4回目のブームはつい最近。


 やっぱり言葉が好き
 もっと日常的に触れていたい
 誰かと話したい
 スキルアップ・レベルアップしたい

そう思った私は、家から通える距離にある語学スクールの体験レッスンに片っ端から申し込んだ。

訪れたのは8ヶ所。
これが多いのか少ないのかはわからない。
けれど少なくとも8回、会話を楽しむことができて第一段階は満足。

大小様々なスクールだったけれど、レベル判定は概ね似たようなものだった。


 Intermediate


嬉しいような、むず痒いような、なんとも言えない感覚。


 「体験にいらしてこのレベルの方は少ないです。すごいですね」


ありがとうございます。

確かにね、私はおかげさまでどうやら耳だけはうまく育てることができた。
だから一般的に日本人が苦手としている「聞くこと」にはあまり抵抗がない。
そしてホームステイやホームビジットの経験のおかげで、「自分の言葉で伝えること」にも抵抗がない。

「日本人は聞き取れない」
「日本人は話せない」
「日本人は読み書きの方が得意」
講師の間でもこの認識は強い。

でも私はその“多くの日本人”と真逆。
読み書きは大の苦手だけれど、会話は好き。

おそらく、だからレベルが高く見えるのだ。

実際はボキャブラリーもイディオムも知らなすぎるし、子どものような言い回ししかできない。
我ながらがっかりするわ、途方に暮れてしまうわ…なのだけれど。

 そうか。
 日本だと、私程度でも中級扱いなのか。
 世界基準…例えばCEFRを基準にしちゃうと、かなり微妙だと思うんだけどな…

とはいえ、だからこその語学スクール。



体験を重ねるうちに、私はまたも自分の中の新たなことに気がついた。

「英語を話せるようになろう!」と決め、初めて語学スクールに通っていた頃。
私が重視していたのは『とにかく毎日生の英語に触れること』だった。
だから半年間、1日2コマ、毎日通った。
そうやって耳と口が慣れていく。

でも今の自分は違っていた。

毎日通う必要性を感じない。
むしろ毎日通ってしまうとパンクする。
理解が追いつかないから簡単に許容量をオーバーしてしまう。

正確に言うと『毎日英語に触れること』は変わらず賛成だ。
でも『毎日英会話スクールに通うこと』は、今の自分にとってそれほど重要なことではないことに気がつく。

毎日通わないとすぐに戻ってしまう、聞き取れなくなってしまう、話せなくなってしまう…
そんな時期はいつの間にか超えていた。


今の私が求めたのは「おしゃべりをしましょう」という所ではなかった。
具体的に英語力を上げるためのスクール。
日本語を普通に話せる小学生が、国語を学ぶように。

「スクール」である以上、「勉強」が伴う。

レベルが上がれば上がるほど、言い回しは複雑になる。
理解し使いこなせるようになるまでには時間が必要だ。

毎日毎回、同じユニットを繰り返し行うわけではないから、通えば通うほどテキストは進んでしまう。
その場はしのげても、自分の身についているかとなると、それはまた別の話なのだ。


そうして私は、今自分に必要な仕事の関わり方を見つけたのだった。



ちなみに英語での会話には抵抗がない私だけれど、『ヒヤリングの授業』という形になるとダメ。
『発音を気にしながら音読する』というのもダメだった。

学校教育のようなものはとことん私には合わないことも確認できた。
やれやれ…
語学スクールの体験レッスン②』のつづき



3度目の体験レッスンは、多言語活動だけだと物足りなくなった頃。
そしてメキシコにホームステイに行く前。

スペイン語はじめ、自分の語学レベルが一体どの程度なのかを知りたかった。

ネイティブに通じるのか
きちんと相手に伝えられるのか
理解できるのか…

だって勉強していない上に、ネイティブと話すチャンスが全然なかったんだもの。

というわけで、この時は英語だけではなく、スペイン語や中国語も体験した。



自分の体験上、言葉の習得は、まずは耳からだと思っている。
私たちが自然に言葉を習得した過程を思えば、聞く→話す→読む→書くという変遷をたどっているから。

聞いて話して、土台ができたとき初めて、私たちは『国語』として日本語を学んだ。

「言葉」としては明確に話せない赤ちゃんが、生まれて初めて言葉に対して使う感覚は『聞く』ことだ。
たくさん聞いて、徐々に不明瞭に『話す』ようになる。

話せるようになった子どもたちは、絵本などを通して「文字」を知る。
そこから『読む』ことが始まる。

そして最後に『書く』ことをしはじめるのだ。


私はこの自然習得の流れが大切だと思っているけれど、だからといって『語学を勉強する』こと自体は反対じゃない。
むしろある程度土台ができたら『学び』は必要だと思っている。

だって私たちも、すべての日本語を自然習得してきたわけではないからね。

親・学校・メディアなど自然に触れる中で育った日本語と、国語という授業を通して学び身につけてきた日本語。
だから日本人だって、人によって日本語レベル・国語レベルは様々だ。


ただゼロからある言語を学ぶ際、言葉を分解したところからスタートすることにはやっぱり私は疑問を感じてしまう。
どんな音とリズムを持つ言葉なのかを知らないのに、「あいうえお」を無理やり覚えるのって、苦痛じゃない?

ネイティブの自然習得の環境とは程遠い。
少なくとも私にはシンドイ。

そのギャップが埋まらない限り、外国語アレルギーは消えないんじゃないかなぁ…なんて思うわけ。
音のベースがあるかどうかで、『言語の勉強』は全然質の違うものになると思うから。


そんなわけで私は『入口は絶対音!』派。
しかも『最初は意味がわからなくても真似する』派。

最初から正確さやあれこれ小難しい文法を正しく理解することを求められると、萎縮するし混乱する。
そして新たな言語に触れるのが嫌になってしまう。


さて。
そんなこんなで数ヶ国語のレッスンを体験した3回目。
自分の中に意味はわからずとも音が溜まっていて真似ができる言語ほど、相手が何を言っているのか理解できている自分がいた。

ただ問題は、その言語を自由に話す環境が自分のまわりにない、ということだ。



語学スクールの体験レッスン④』につづく
語学スクールの体験レッスン①』のつづき



次に行った体験は、まだ多言語という感覚に出会う前。

オーストラリアから帰国して数年。
10代で高校や大学に留学する人ほどではないにしろ、せっかく身についた英語力を落としたくなかった。

独学が苦手な上に読み書きも苦手。
通訳や翻訳家になるわけではないし、とりあえず会話力をキープしたかった私には、英会話スクールくらいしか思い浮かばなかった。

強いて言うなら、他の言語にも興味があるんだけどな~…



ちょうど日本の最北端・稚内から北海道の中心都市・札幌に引越したのを機に、私は再び、いくつかの体験レッスンを受けに行った。


実はワーホリに行く前とこの時とで、英会話スクールを見て判断する私の目に少し変化があった。

英語の学び方は多種多様。
ロールプレイ重視だったりフリートーク重視だったり、板書があったりなかったり、テキストがあったりプリントだったり。
各学校がそれぞれ「売り」と「身につきます!」をアピールしてくる。

そんな先方の言葉に踊らされない自分がいることに気づいたのだ。
「このやり方じゃ身につかないな…」という信頼できる感覚が、私の中に芽生えていた。



さて。
みなさんご存知の通り、語学スクールは結構いいお値段。
正直言って、英語と他の言語を同時に学ぶのはお財布に厳しい。

しかも私は、英語以外にやりたい言語が決まっていたわけではない。
とにかく、もう少し言葉の世界に触れたかったのだ。


 だったら例えば「英語でフランス語を学ぶ」なんていう学校にすればいいのかな?


いくつか体験する中で、そんなことも考えた。

ちなみにフランス語に興味はあった。
でも「どうしても“フランス語を”学びたいの!!」というわけではなかった。

当時はまだ、英語以外に学べる言語の選択肢はそんなに広くなかったのだ。

結局その後、多言語というものと出会ったことで、その時はスクールに通うという選択肢はなくなったのだけれど。
二度目のこの体験で、「ひとことで英会話スクールといっても、内容も質も多種多様」ということを実感した。



語学スクールの体験レッスン③』につづく
語学スクールがやっている体験レッスンはけっこう貴重。


初めて体験したのは、ワーキングホリデーに行くことを決めたとき。
少しでも英語に慣れて行きたかった私は、英会話スクールの体験レッスンを2、3受けた。

料金とシステムを考慮し、とあるスクールに決定。
ワーホリに行くまでの半年間、1日2コマ、毎日通った。


「英会話スクールに通っても全然話せるようにならない」
と文句を言う人と何人も出会ってきた。

けれどそれはきっと、足りないだけなのだ。
英語に触れる時間、聞く時間、話す時間が。

ある程度話せるレベルならともかく、まったく話せない人が週1回、しかもたったの40分のグループ授業で話せるようになんてなるわけがない。
ましてやそれが、日本語を介在したものであればなおさら。

脳が英語脳に切り替わる前に、授業は終了時刻となる。

あくまでこれは私の体験に基づく個人的な意見だけれど。
私はこの感覚があながち間違っているとは思えない。



「週1回1時間の授業でも身につく」と謳っているスクールはある。
私は英語力ゼロレベルのときにその体験はしていないから、それが本当なのかどうかはわからない。

私にある事実は、
「週1回、英会話スクールに通ってたけど全然話せるようにならなかった」
という知り合いたちの体験談と
「半年間、1日2コマ、毎日通ったら身についた」
という自分の体験談だけだから。

自分の中に何の土台もないうちは、とにかくたくさんの“生きた”言葉のシャワーを浴びるのが一番いい。
毎日、毎日。



語学スクールの体験レッスン②』につづく
何故ときどき、無性に日本語以外の言語が話したくなるのか。
日本語以外を話したい①』にも書いたけれど、それだけではない気がする。


ある週末、渋谷のカフェでお茶をした。
北海道から11年ぶりに戻ってきてのお出かけ。
もともと得意ではなかったけれど、やっぱり人の多さと雑多具合に圧倒される。

一息つこうと入ったお店は、休日の複合商業施設の中だけあって混み合っていた。
隣り合う席の位置も近い。

注文を終え主人と話していると、若い女の子が隣のテーブルに注文を取りに来た。

「これと…」指差しながら必死に注文する母娘。
一見して、日本語がまったく話せないことがわかる。

しかしその店員は、まったく意に介さずマニュアル通り。
何とか母娘がケーキを飲み物の注文を終えた…と思った瞬間、その店員が言った。


 「紅茶はストレート、ミルク、レモン、どれになさいますか?」


当然「???」となる母娘。
されどその店員は動じない。


 「紅茶はストレート、ミルク、レモン、どれになさいますか?」


 いや、通じてないよね?

 日本語が理解できないの、わかるよね??


しかしながら、困ったなぁという表情すらしない彼女。
もちろん、カタコトの英語を発しようとなんてする素振りはない。
無表情に答えを待っている。

ここまでくると、逆に感心してしまう。
何も感じないのだろうか??

途方に暮れる母娘。


 これはもう、介入してもいいよね?


そう思った私は、横から割り込んで通訳した。
母娘は今度こそ本当に、無事に注文を成し終える。

「ありがとう」と母娘から。
ひとこともなく去っていく店員。

うーん…おそらくアルバイトなのだろうけれど、それにしてもあのお店の社員教育はどうなっているのだろうか?
渋谷や自由が丘、有楽町あたりに多店舗展開している人気ケーキ店なんだけどな。


まぁとりあえず、今回はその話は置いておいて。
その後、その母娘と少しだけ会話をした。

母「私たちは台湾から来たの。あなたは?」
私「え?…あ、私、日本人よ」
母「ええっ?!英語上手ね~!」
私「ありがとう」

たったあれだけ(紅茶にミルクやレモンはつけるか)でも、英語が話せる人認定をされる国。
うん、そうだよね。


さて。
今回の記事で私が言いたかったのは、実はここから。

彼女たちとの話を終えた後、私は何ともいえない充足感に満たされていた。
ほんの数語、交わしただけの英会話。
それだけで私は


 なんか幸せ…

 今日はもう何もいらないや


という状態になっていたのである。
この感覚は、我ながら驚いた。
何これ??


後日、そんな会話を友人としたとき、彼女が言った。

「違う言語を話すときってさ、違うアイデンティティが引き出されるんだよね」

おおっ!確かに。
それかもしれない。

普段とは別のところから湧き上がってくる、自分の内側のエネルギー。

『日本語以外の言語』に飢えていた私は、あのたった数語で飢えを満たしたのだ。


これが、私が見つけた“日本語以外を話したくなる”もうひとつの理由。

潜んでいる自分のアイデンティティが引き出される瞬間。
たまらない。
たまに、ものすごく日本語以外の言葉を話したくなる。
何故だかわからないけれど。

といっても、別に私はペラペラと多言語を操れるわけではない。
せいぜい、簡単な一文をポコっと言いたくなるとか、その程度。

それにしても、これは一体何だろう?

そうすることで何かが吐き出せるのか
違う自分を表現したいのか
はたまた自分を覆う見えない殻を感じて、破りたいと無意識に思っているのか…

でも、話していていきなりドイツ語やらフランス語やらで「Was?」とか「Qu'est-ce que c'est?」なんて言われたら、相手はきっとギョッとする。

口にした私だって「私、何言っちゃってんの?!」と自ら突っ込み、言い訳を探すに違いない。

そんなわけで私はグッとこらえ、それらの言葉を飲み込むのだ。

でもそうやって抑え込んだものは、うっすらと積もっていく。
塵も積もれば山となる。

わけのわからないストレス。



昨年、「ジベリッシュ瞑想」というものを知った。

意味のない言葉(音声)を口に任せて1時間ほど話し続ける。
インドのとある高僧(神秘家?詳しくわからないのだけれど)は、このジベリッシュだけで講話を行っていたのだという。

ジベリッシュの存在を知ったとき、私は「これだ」と思った。
私これ、絶対得意だ。

この瞑想が意図していることもなるほどと思う。
でも今は、こちらはひとまず置いておいて。

何故私はそれが得意だと思ったのか。

それは昔から無意識に自分がやっていたことだったから。


ふにゃふにゃごにゃごにゃ…
私は昔から、意味のない言葉を口にすることがあった。
ほんの数秒ではあるけれど。

当然のことながら、人前でそんなことをしたら奇異の目で見られることくらいはわかっている。
だからこの、私のワケノワカラナイ癖(?)は、主人しか知らない。

もにゃもにゃ意味のない音を吐き出してスッキリする私を見て、彼は「うちの奥さんはたまに宇宙と交信するよね~」なんておもしろがっていた。

ジベリッシュというものと知った今、ワケノワカラナイまま私を許容してくれ続けた彼にただただ頭がさがる。



たまに話したくなる、日本語以外の言語。

おそらく理由は
自分の内側に溜まっている何かを吐き出す
という、これだけではない。

でもちょっと…

こんな理由もひとつあるのかもしれないな…と、この記事を書きながら気がついた。



日本語以外を話したい②』につづく
私のダンスの先生は、踊っている最中によく歌う。
といっても、ずっと歌っているわけでもなければ、曲に合わせて歌うわけでもない。

ならば彼の「歌う」とは何なのか。



私が習っているのはサルサダンス。
先生と手を取り、曲に合わせてステップを踏む。

「1、2、3…5、6、7」
このリズムに合わせて踊っていると、先生が何かを言う。
先生との会話は基本的に英語。
プラス(主に先生の)気分でスペイン語。

ほとんど会話に困ることはないのだけれど、たまによくわからない。


 んっ?!

 何?今わからなかった…


聞き返そうとしたその瞬間、先生が口にしたその音が音源から流れてくる。
つまり…


 先生、歌詞の先取りで歌ってただけか…


まったくもって紛らわしい。

慣れないラテンダンス。
今の私にとって踊りながらの会話は、たとえそれが日本語であっても難しいのだ。
他の生徒さんの質問に答えているうちに、ステップも体の動きもぐちゃぐちゃになってしまう。

ましてや英語やスペイン語。
頭と体なんて、簡単に離れてしまうというわけ。


この「先取り」の歌い方が、彼の個性なのかドミニカ共和国の国民性なのかはわからない。
私には彼以外に、ドミニカ共和国に知り合いはいないから。

でも…
紛らわしいよ!
毎回、ビクッとするわ!!

だいぶ慣れたけど…
やっぱり慣れないのでありました。
オーストラリア滞在中、日本から友人が遊びに来た。

私のホームステイ先に足を運び、一緒に宿泊イベントにも参加してくれた彼女。
確か初海外だったのではなかったかな?

私がオーストラリアにいたのはたった9ヶ月。
旅をしている期間があった上に、滞在都市もいくつか。
そんな中で、いい頃合いを見つけてホームにしているメルボルンのステイ先を訪れてくれたのは、とても嬉しい出来事だった。

ある日、ショッピングセンターで店内を見て回っていたときのこと。
私は何も考えずに彼女を呼んだ。

 「    」

途端、周囲の人々がギョッとした表情で私を見た。

 え? え??

奇妙な視線を受けてたじろぐ私。

 何かまずかった?
 今私、何かおかしなこと言ったっけ?

瞬間的に考える。
思い返して気がついた。

彼女は私のキャンプ仲間。
キャンプ仲間は、基本的にキャンパーネームというもので呼び合う。
わたしは「とっちー」、そして彼女は

 「はれるや」

しまった。
日本であれば「変わった呼び名ね~」ですむところだけれど、オーストラリアは英語圏。

と、いうことは…
彼らにはこう聞こえたはず。

 「Hallelujah!」

喜び・賛美・感謝の叫び声。
「主をほめたたえよ」という意味だ。

Oh my god!


帰宅してホストマザーに報告したら、彼女は大笑い。

 「きっとすごく信心深い子だと思われたのね」

まったくね…^^;
オーストラリアを旅していたときのこと。

大きなバックパックを背負って、様々な国の人たちにとのキャンプツアー。
たまに日本人と会うこともあったけれど、ツアーメンバーのほとんどはヨーロピアンだった。

各国から来ている彼らだけど、見た目だけで彼らの出身国の違いはわからない。
少なくとも、私にとっては。

彼ら自身にしてみれば、何か違いがあったのかもしれないけれど。
私たちが、感覚で日本人・韓国人・中国人を見分けるように。
(といっても、私はたまに間違うけれど^^;)

そんなわけで、彼らの中にいると私はとても異質な存在だった。
見た目も、背の高さも、体の大きさも。

何より、アジア人…とりわけ日本人が、英語を苦手としていることは、彼らも知っていた。
海に囲まれた日本において、日常的に英語を話す必要がないことはイメージしやすかったんだろうな。


埃にまみれて、汗をかきかき旅をする。
当然、溜まってくる洗濯物。

ある宿に着いた日、私はアメリカの女の子に問いかけた。

 「洗濯する?」

うん…と頷きながら、彼女が答える。

 「I think I should.」


 えっ!!?


その時私は、自分の中の『should』の感覚がネイティブのものと異なっていることに気がついた。


 え…え?!ここで使うの?!

 こんな風に使うものなの?!


私は学校で『should=~べきである』と習った。
『~べき』…つまりその感覚は、どちらかというと『義務』に近い。

やらねばならないこと。
本当はやりたくないんだけどさ~…なんていう感覚。
誰かにやらされている感じ。

どちらかというと『You should do something.』は、人に『やれ!』と言われて仕方なくするような。
「さっさと宿題しちゃいなさい!」的な感覚とでも言えば伝わるかな?

でも彼女の表情や口調を見ると、その感覚とはちょっと違う感じがした。


 『should』って実は、そんなにきつくない(強くない)言葉なんじゃないか…?


そんな感覚が沸き起こる。

そして今。
“『should』は「~するといい」「~した方がいい」くらいの軽い感じ”
だと知った私は、学生時代よりずっと『should』が好きになった。


 「~しなさいよ!」
 「~した方がいいよ♪」


全然違う!(笑)
命令じゃない方が、やってみようかなという気にもなるものね。
高校時代のある日。
どんな話の流れだったか…、お世話になっていた先生が仰った。

 「俺は英語なんて大っ嫌いだ!」

もちろん英語の先生ではなかったけれど、英語を勉強しなければならない受験生に向かって、『高校教師』がそのセリフを口にするとは。
今思えばあの先生、なかなかの強者。

さて、先生の過去に何があったのか。



ある時期、先生は勉強のために海外にいたらしい。
まだまだ『グローバル化』とはほど遠い時代。
英語の苦手な先生は、懸命にルームシェアの相手とコミュニケーションをとろうとした。

「朝起きて、そいつに朝ごはんを食べたかを聞いたんだよ。
 そうしたらいきなり、首を絞められた。
 『朝食を食べたことがあるかなんて、お前は俺をバカにしてるのか!』って。
 学校で習ったとおり、ちゃんと完了形を使って言ってやったのに。
 本っ当に、腹が立った!」

未だ怒りが収まらないのだろう先生は、話しながらもプリプリ怒っていた。

私たちが中学校で習った現在完了形。
あの習い方を少しでも覚えている方は、何となくわかったのではないだろうか?

私たちは『have + 過去分詞』で現在完了だと習う。
でもこの『現在完了』という感覚は、日本語とは少し違うから、戸惑うことも少なくない。

『終わってる』ことをさすときもあれば、
『今終わった』ときもあるし
『経験』を表しているときもある。

私は英文法が苦手。
学生時代、例に漏れず私もずいぶん混乱させられた。
おそらくネイティブにとってはシンプルな言い回しなのだけれど、私にはさっぱりわからない。


「Have you had breakfast?」(朝食は食べた?)

たぶん先生はこう聞きたかった。
でもおそらくこう聞いてしまったのだ。

「Have you ever eaten breakfast?」(朝ごはんを食べたことはありますか?)


わからないけどね。私の予想だから。
でもこう考えれば、少なくとも『バカにしてるのか!』と怒った相手の一部は理解できる。

だからって首を絞めるほどのことか?!とは思うけれど、あの時代、彼の出身国によっては『金のある(と思っている)日本人に貧乏だと馬鹿にされた』と曲解されてしまってもおかしくはなかったのかもしれない。
あくまで私の想像だけど。

先生、今も変わらず英語がお嫌いかな~?