ホストマザーの出身地・南アフリカが英語圏だと聞いて、解けたひとつの謎がある。
出かけるとき、誰かと「またね」をするとき
彼女や彼女の家族からだけ聞く言い回しがあったから。
「See you just now!!」
これは、生粋のオージーからは絶対に聞かない言葉だった。
もちろん、アメリカ人やイギリス人からも聞かない。
旅の途中で出会ったヨーロピアンたちからも聞いたことがなかった。
「See you just now.」
これは「See you later.」とか「See you soon.」を言うような時に使われる。
え?「just now」?
出かけるのに「just now」なの??
初めて聞く音がおもしろくて、素朴な疑問を投げかけた。
私に言われて、ホストマザーも考えたようだ。
「『just now』なんて、変ね。『今』じゃないのにね(笑)」
いやー…、まったく。まったく。
ネイティブは時に気づかない。
あまりにも当たり前に使っているから。
そして私も使うようになる。
「See you just now!!」
遊びに来た、彼女の娘が笑っていた。
「ひろこもうちの家族だね~♪」
こういうのが、本当に嬉しい。
「英語を話す国といえば?」
と聞かれてすぐに思いつくのはイギリス・アメリカ・カナダ・オーストラリア・ニュージーランド。
何となく、そんな風に言われて育った気がする。
それにプラスして
「イギリス英語とアメリカ英語は違う」
「オーストラリアは訛っている」
という “定説(?)” があるように思う。
これは日本の義務教育での英語がアメリカ英語基準になっているからなのかはわからないけれど。
『英語』と書くのにね、基準はイギリスじゃなくてアメリカだしね。
オーストラリアを旅していた時、私はシンガポールも英語圏だと知って驚いた。
だってそんなこと、今から10数年前の日本ではほとんど耳にしなかったから。
今となっては、世界に英語が母国語や公用語となっている国が他にも多々あることを私は知っているけれど。
本当に、知ろうとしなければ世界は狭いまま通り過ぎていく。
私の大好きなオーストラリアのホストマザーは南アフリカ出身だ。
とても綺麗な英語を話す彼女。
ステイしてしばらく経った頃、私はなんとも失礼な質問を彼女に投げかけた。
「どうやって英語を身につけたの?」
移民の国・オーストラリア。
国民は世界中からやってきた人たちで構成されている。
だから当然、彼らの英語には母国語訛りがあるのだ。
彼女も、南アフリカからの移民。
なのにものすごく聞き取りやすい、綺麗な英語を話す。
すると彼女は一瞬キョトンとした後でこう言った。
「私の母国語は英語よ」
えええーーーーーーっ!!?
し…知らなかった…
アフリカは、アフリカの言語があるのだと思っていた…
なんという失礼な質問をしてしまったのだろうか!
知らないって、時に罪。
謝ると、彼女は笑って返してくれた。
「そりゃ、知らないわよね」
本当に申し訳ない…
アフリカの言語分布を地図で眺めたら植民地化の歴史が見える。
その言語が公用語となっている国がたくさんあり、さらに国ごとに数十もの現地語がある。
歴史は変えられない。
けれどちょっと思ってしまう。
もし植民地化されなかったら、アフリカ大陸の言語はどうなっていたんだろう?
と聞かれてすぐに思いつくのはイギリス・アメリカ・カナダ・オーストラリア・ニュージーランド。
何となく、そんな風に言われて育った気がする。
それにプラスして
「イギリス英語とアメリカ英語は違う」
「オーストラリアは訛っている」
という “定説(?)” があるように思う。
これは日本の義務教育での英語がアメリカ英語基準になっているからなのかはわからないけれど。
『英語』と書くのにね、基準はイギリスじゃなくてアメリカだしね。
オーストラリアを旅していた時、私はシンガポールも英語圏だと知って驚いた。
だってそんなこと、今から10数年前の日本ではほとんど耳にしなかったから。
今となっては、世界に英語が母国語や公用語となっている国が他にも多々あることを私は知っているけれど。
本当に、知ろうとしなければ世界は狭いまま通り過ぎていく。
私の大好きなオーストラリアのホストマザーは南アフリカ出身だ。
とても綺麗な英語を話す彼女。
ステイしてしばらく経った頃、私はなんとも失礼な質問を彼女に投げかけた。
「どうやって英語を身につけたの?」
移民の国・オーストラリア。
国民は世界中からやってきた人たちで構成されている。
だから当然、彼らの英語には母国語訛りがあるのだ。
彼女も、南アフリカからの移民。
なのにものすごく聞き取りやすい、綺麗な英語を話す。
すると彼女は一瞬キョトンとした後でこう言った。
「私の母国語は英語よ」
えええーーーーーーっ!!?
し…知らなかった…
アフリカは、アフリカの言語があるのだと思っていた…
なんという失礼な質問をしてしまったのだろうか!
知らないって、時に罪。
謝ると、彼女は笑って返してくれた。
「そりゃ、知らないわよね」
本当に申し訳ない…
アフリカの言語分布を地図で眺めたら植民地化の歴史が見える。
その言語が公用語となっている国がたくさんあり、さらに国ごとに数十もの現地語がある。
歴史は変えられない。
けれどちょっと思ってしまう。
もし植民地化されなかったら、アフリカ大陸の言語はどうなっていたんだろう?
言語を学ぶ方法はたくさんある。
いいとか悪いとか、自分に合うとか合わないとかを考慮しなければ、巷にメソッドは溢れている。
語学として身につけるだけなら、本やCDでもテレビやラジオの講座でも、語学学校でもオンライン講座でもいい。
でも自分がどんな時ににやけているかというと、やっぱりその言語を話す人と絡んだとき。
直接の会話によってしか知ることのできないモノに触れたとき、私はニンマリしているなぁと我ながら思う。
ダンスの先生は、よく踊りながら歌っている。
歌って踊って…なんて人間らしい。
歌っているといっても、すべての歌詞を一緒に歌っているわけではない。
ちょこちょこ、合いの手のように歌詞を先取りしたりする歌い方。
独特でおもしろい。
ある日、先生が歌詞を間違えた。
するとひとこと、彼が言った。
「CDが間違えたんだよ!」
これはドミニカ共和国風のジョークらしい。
そうなんだ!!
彼の国では、歌詞を間違えると必ず “音源の方が間違えたんだ!” と言い張るらしい。
そんな国民性。
うーん、楽しそう♡
いいとか悪いとか、自分に合うとか合わないとかを考慮しなければ、巷にメソッドは溢れている。
語学として身につけるだけなら、本やCDでもテレビやラジオの講座でも、語学学校でもオンライン講座でもいい。
でも自分がどんな時ににやけているかというと、やっぱりその言語を話す人と絡んだとき。
直接の会話によってしか知ることのできないモノに触れたとき、私はニンマリしているなぁと我ながら思う。
ダンスの先生は、よく踊りながら歌っている。
歌って踊って…なんて人間らしい。
歌っているといっても、すべての歌詞を一緒に歌っているわけではない。
ちょこちょこ、合いの手のように歌詞を先取りしたりする歌い方。
独特でおもしろい。
ある日、先生が歌詞を間違えた。
するとひとこと、彼が言った。
「CDが間違えたんだよ!」
これはドミニカ共和国風のジョークらしい。
そうなんだ!!
彼の国では、歌詞を間違えると必ず “音源の方が間違えたんだ!” と言い張るらしい。
そんな国民性。
うーん、楽しそう♡
日本語とスペイン語には似た音がたくさんある。
たとえば『ajo(アホ)』『vaca(バカ)』なんていうスペイン語。
意味はそれぞれ「にんにく」「牛」なので、あくまで似ているのは音なのだけれど。
こういう似た音は他にもたくさんあって、見つけるとクスッと笑ってしまう。
多少、スペイン語に触れたことのある方なら、経験がおありでしょ?
日本人に聞こえてくるスペイン語には、こんなオモシロさが隠れている。
では、逆はどうなんだろう?
私のラテンダンスの先生の出身はドミニカ共和国。
母国語がスペイン語の彼が、言っていた。
「僕の隣人に『あきもり』っていう名前の人がいるんだけどね。
スペイン語にするとおかしくってさ…」
「日本語とスペイン語には似た音がたくさんあるよね」と彼も言う。
さて『あきもり』君は、彼にはどう聞こえているのか。
「『あき』は『aquí』、『ここ』でしょ?
『もり』は『morir』、『死ぬ』の過去形。
だから『ここで死んだ』になっちゃう!」
なんとまぁ!
スペイン語の耳で聞いてしまうとどうにも笑ってしまうらしい。
思わず聞いてしまった。
「それ、本人に言ったの?」
「No(笑)」
さすがに言えないって。
日本語とスペイン語、似ている音はたくさんある。
おかしかったり楽しかったりいろいろだけど、確かに『あきもり』君に関しては、本人に言うようなことではないかもね。
いろいろな言葉の音をたくさん持っていると、思いがけないオモシロ発見がたくさんある。
そしてこうやって見つけた音は、嬉しいことに忘れない^^
たとえば『ajo(アホ)』『vaca(バカ)』なんていうスペイン語。
意味はそれぞれ「にんにく」「牛」なので、あくまで似ているのは音なのだけれど。
こういう似た音は他にもたくさんあって、見つけるとクスッと笑ってしまう。
多少、スペイン語に触れたことのある方なら、経験がおありでしょ?
日本人に聞こえてくるスペイン語には、こんなオモシロさが隠れている。
では、逆はどうなんだろう?
私のラテンダンスの先生の出身はドミニカ共和国。
母国語がスペイン語の彼が、言っていた。
「僕の隣人に『あきもり』っていう名前の人がいるんだけどね。
スペイン語にするとおかしくってさ…」
「日本語とスペイン語には似た音がたくさんあるよね」と彼も言う。
さて『あきもり』君は、彼にはどう聞こえているのか。
「『あき』は『aquí』、『ここ』でしょ?
『もり』は『morir』、『死ぬ』の過去形。
だから『ここで死んだ』になっちゃう!」
なんとまぁ!
スペイン語の耳で聞いてしまうとどうにも笑ってしまうらしい。
思わず聞いてしまった。
「それ、本人に言ったの?」
「No(笑)」
さすがに言えないって。
日本語とスペイン語、似ている音はたくさんある。
おかしかったり楽しかったりいろいろだけど、確かに『あきもり』君に関しては、本人に言うようなことではないかもね。
いろいろな言葉の音をたくさん持っていると、思いがけないオモシロ発見がたくさんある。
そしてこうやって見つけた音は、嬉しいことに忘れない^^
点字入門講座に通い始めた。
まだ1回目。
後半は講演会だったから、学習したのはほんの1時間だけれども。
学んだのは『あいうえお』の50音に、
濁音や半濁音、
促音『っ』と長音『ー』、
そして拗音『ゃゅょ』が付く打ち方。
文字というものは本当に、なんてシステマチックなんだろう。
よくできている!
50音が基本となる日本語の点字は、母音と子音の組み合わせから成っている。
これはハングル文字の構成のされ方と共通していておもしろい…と思ったのだけれど。
ふと疑問が湧いてくる。
点字もハングルも、まず基本となる母音を教わる。
例えば点字なら『あいうえお』。
そして次にこう続くのだ。
「ローマ字で『か』と書くときは『ka』となります。
つまり『k+a』。
『aiueo』に『k』を表す点を付ければ『か』になるわけです」
うん、なんてシステマチック!
わかりやすい。
でもこれ、ローマ字がわかることが大前提なのだろうか?
それだとローマ字がわからない人はどうしたらいいんだろう?
そしてまた、考える。
よくよく思い返してみると、小学生の頃から私たちは『あ行、か行、さ行…』という言い方に慣れ親しんでいる。
さらに『あの段、いの段、うの段…』という言い方も身につけてきた。
…ということは、ローマ字基準の母音と子音という考え方は持っていなくてもいいのかもしれない。
言ってることは同じなんだけどね。
そしてここで、似ていると思った点字とハングルの違いに気づく。
日本語の点字の場合、私たちはすでにその言葉(日本語)を身につけている。
音も持っているし、漢字変換で意味を察することもできる。
知らない言葉があったとしても、それはたいした問題ではない。
でもハングルは…
基本的に未知の言葉だ。
母音の数も子音の数も違うしね。
そもそも日本語に照らし合わせて考えるものではない。本来は。
つながりは多々あるけれども、基本的に日本語は日本語で、ハングルはハングルだ。
言葉の土台があった上で学ぶ点字と、土台がないハングル。
わぁ。
全然違う!
世界中に溢れている言葉と文字。
知らないものであっても、『全然違う』とは限らない。
『同じ』と『似てる』と『違う』を見つけていくのはおもしろい。
まだ1回目。
後半は講演会だったから、学習したのはほんの1時間だけれども。
学んだのは『あいうえお』の50音に、
濁音や半濁音、
促音『っ』と長音『ー』、
そして拗音『ゃゅょ』が付く打ち方。
文字というものは本当に、なんてシステマチックなんだろう。
よくできている!
50音が基本となる日本語の点字は、母音と子音の組み合わせから成っている。
これはハングル文字の構成のされ方と共通していておもしろい…と思ったのだけれど。
ふと疑問が湧いてくる。
点字もハングルも、まず基本となる母音を教わる。
例えば点字なら『あいうえお』。
そして次にこう続くのだ。
「ローマ字で『か』と書くときは『ka』となります。
つまり『k+a』。
『aiueo』に『k』を表す点を付ければ『か』になるわけです」
うん、なんてシステマチック!
わかりやすい。
でもこれ、ローマ字がわかることが大前提なのだろうか?
それだとローマ字がわからない人はどうしたらいいんだろう?
そしてまた、考える。
よくよく思い返してみると、小学生の頃から私たちは『あ行、か行、さ行…』という言い方に慣れ親しんでいる。
さらに『あの段、いの段、うの段…』という言い方も身につけてきた。
…ということは、ローマ字基準の母音と子音という考え方は持っていなくてもいいのかもしれない。
言ってることは同じなんだけどね。
そしてここで、似ていると思った点字とハングルの違いに気づく。
日本語の点字の場合、私たちはすでにその言葉(日本語)を身につけている。
音も持っているし、漢字変換で意味を察することもできる。
知らない言葉があったとしても、それはたいした問題ではない。
でもハングルは…
基本的に未知の言葉だ。
母音の数も子音の数も違うしね。
そもそも日本語に照らし合わせて考えるものではない。本来は。
つながりは多々あるけれども、基本的に日本語は日本語で、ハングルはハングルだ。
言葉の土台があった上で学ぶ点字と、土台がないハングル。
わぁ。
全然違う!
世界中に溢れている言葉と文字。
知らないものであっても、『全然違う』とは限らない。
『同じ』と『似てる』と『違う』を見つけていくのはおもしろい。
“英語ってシンプルなんだな”
そう思ったのは、オーストラリアの語学学校に通っていたときのこと。
その日は、私が在籍していたクラスで誰かが何かをした日だった。
…というと、なんてひどい表現なんだ!と思うのだけれど、誰が何をしたのかは全然覚えていないの。ごめんなさい。
実際は何かをした日だったのか、何かを話した日だったのかすらも忘れてしまったのだけれど、とにかく普段とはちょっと違ったことがあり、そこには校長も顔を覗かせていた。
ちょっとした感動が沸き起こり、場が盛り上がる。
ワイワイしている中、誰かが校長も涙ぐんでいたことを口にした。
すると遅れてその場に来て、校長の脇から顔を覗かせていた若い女性教師が、彼に向かって訪ねたのだ。
「Did you cry?」
うおおっ!
そんな聞き方、アリなんだ!!
ワイワイがやがやしている中、そのやりとりをたまたま目にした私は1人興奮し感動していた。
ご覧のとおり、ものすごくシンプルな表現。
中学1年の終わりだったか、2年の初めだったかは忘れたけれど、過去形を習えばわかる。
そんな表現で訪ね、校長も普通に答えている。
「Yes.」
なんと!
年上の上司に、そんなにシンプルな言葉で語りかけていいんだ…!
「Did you cry?」なら、私も言えるよ!!
これがもし日本語だったら…
「泣いたの?」なんて上司に聞いたりしない。
ではもう少し丁寧な表現を使って「泣いたんですか?」なら言うのか?
いや、言わない。
じゃあ尊敬語を使えばいいのだろうか?
「お泣きになったんですか?」
うーん…気持ち悪い。
あ、そうか。
そもそも日本人は、上司に対して泣いたかどうかを聞いたりしないんだ!
という結論に達しはしたのだけれども。
なんともはや、私はこの「Did you cry?」に心奪われた。
難しくないじゃん、英語って!!
そう思った瞬間だった。
受験英語とか、英語圏の大学に入って専門分野を学ぶとか、そういったことのために必要な英語は大変だし難しい。
少なくとも、私にとっては。
でもごく普通の会話なんてこんなもの。
こんなもので、いいんだ。
おそらくもし、私の姪っ子が私に同じことを聞くならきっとこう聞く。
「泣いちゃったの?」
「泣いたの?」より、より優しい。
日本語の『~ちゃった』は奥が深いと私は思う。
これを正確に日本語の文法表現として何と言うのかを私は知らないけれど。
英語で言えば現在完了における完了直後や経験という時間軸だと説明されるのよね。
自分の母国語基準で他の言語を見るとかえって混乱する。
「Did you cry?」と「泣いちゃった?」がいい例だ。
自分が当たり前だと思っている価値観でものを見るから戸惑ってしまう…
というのと、似ているね。
そう思ったのは、オーストラリアの語学学校に通っていたときのこと。
その日は、私が在籍していたクラスで誰かが何かをした日だった。
…というと、なんてひどい表現なんだ!と思うのだけれど、誰が何をしたのかは全然覚えていないの。ごめんなさい。
実際は何かをした日だったのか、何かを話した日だったのかすらも忘れてしまったのだけれど、とにかく普段とはちょっと違ったことがあり、そこには校長も顔を覗かせていた。
ちょっとした感動が沸き起こり、場が盛り上がる。
ワイワイしている中、誰かが校長も涙ぐんでいたことを口にした。
すると遅れてその場に来て、校長の脇から顔を覗かせていた若い女性教師が、彼に向かって訪ねたのだ。
「Did you cry?」
うおおっ!
そんな聞き方、アリなんだ!!
ワイワイがやがやしている中、そのやりとりをたまたま目にした私は1人興奮し感動していた。
ご覧のとおり、ものすごくシンプルな表現。
中学1年の終わりだったか、2年の初めだったかは忘れたけれど、過去形を習えばわかる。
そんな表現で訪ね、校長も普通に答えている。
「Yes.」
なんと!
年上の上司に、そんなにシンプルな言葉で語りかけていいんだ…!
「Did you cry?」なら、私も言えるよ!!
これがもし日本語だったら…
「泣いたの?」なんて上司に聞いたりしない。
ではもう少し丁寧な表現を使って「泣いたんですか?」なら言うのか?
いや、言わない。
じゃあ尊敬語を使えばいいのだろうか?
「お泣きになったんですか?」
うーん…気持ち悪い。
あ、そうか。
そもそも日本人は、上司に対して泣いたかどうかを聞いたりしないんだ!
という結論に達しはしたのだけれども。
なんともはや、私はこの「Did you cry?」に心奪われた。
難しくないじゃん、英語って!!
そう思った瞬間だった。
受験英語とか、英語圏の大学に入って専門分野を学ぶとか、そういったことのために必要な英語は大変だし難しい。
少なくとも、私にとっては。
でもごく普通の会話なんてこんなもの。
こんなもので、いいんだ。
おそらくもし、私の姪っ子が私に同じことを聞くならきっとこう聞く。
「泣いちゃったの?」
「泣いたの?」より、より優しい。
日本語の『~ちゃった』は奥が深いと私は思う。
これを正確に日本語の文法表現として何と言うのかを私は知らないけれど。
英語で言えば現在完了における完了直後や経験という時間軸だと説明されるのよね。
自分の母国語基準で他の言語を見るとかえって混乱する。
「Did you cry?」と「泣いちゃった?」がいい例だ。
自分が当たり前だと思っている価値観でものを見るから戸惑ってしまう…
というのと、似ているね。
メキシコには世界遺産がたくさんある。
そのひとつ、テオティワカン。
太陽のピラビッドと月のピラミッドがあるところは、世界中からの観光客で溢れている。
たくさんの人。
そう、溢れかえる、“たくさんの人”。
今日はこの言い回しのお話。
ホストマザーは知っている日本語を口にするのが大好き。
溢れかえる人を見ては何度も繰り返し口にした。
「たくさんの人」
うん。そうね。
スペイン語で言えば『Muchas personas』
『たくさんの人』はとの対訳となるわけだから、別に間違ってはいない。
でも、何か、変。
そう、メキシコ人はあの状況を見たら確かに言う。
「Oh...muchas personas」
でも日本人は言わないのだ。
「たくさんの人」とは。
私だったら「すごい人…」とか「すごい人だね」と言う。
「たくさんの人」とは、言わないのだ。
これが口語と文語、はたまた意味と感覚での表現と訳した表現の違いなんだなぁ…と思った。
『すごい人』の『すごい』は、素晴らしいとか立派といった意味の『すごい』とは違う。
『とても』と同じ意味の『すごく』を使った言葉。
『すごくたくさんの人』が略された上に口語的な言い回しになった表現なのだと思う。
…なんて、こんなチャンスでもなければ考えなかったけれど。
日本語っておもしろい。
おそらくこういう言い回しは、どんな言語にもあるのだろうけれど。
残念ながら私の言語能力だと、日本語しかここまでの検証はできない^^;
『Muchas personas』は『たくさんの人』。
確かに間違ってはいない。
でも私だったら『すごい人』と言う。
本当はそう伝えたかった。
でも彼女たちは過去に誰かから『たくさんの人』と言うのだと学んでいた。
“それは間違ってはいないけれど、この状況で言うには不自然だから『すごい人』と言った方がナチュラルでオススメだよ”
カタコトでもそう伝えたらよかったのかもしれない。
でもそれに対して「どうして?」「何が違うの?」と聞かれたら答えられない。
…と、余計なことをアレコレ考えて、結局伝えられないまま帰ってくることになってしまった私なのだった。
そのひとつ、テオティワカン。
太陽のピラビッドと月のピラミッドがあるところは、世界中からの観光客で溢れている。
たくさんの人。
そう、溢れかえる、“たくさんの人”。
今日はこの言い回しのお話。
ホストマザーは知っている日本語を口にするのが大好き。
溢れかえる人を見ては何度も繰り返し口にした。
「たくさんの人」
うん。そうね。
スペイン語で言えば『Muchas personas』
『たくさんの人』はとの対訳となるわけだから、別に間違ってはいない。
でも、何か、変。
そう、メキシコ人はあの状況を見たら確かに言う。
「Oh...muchas personas」
でも日本人は言わないのだ。
「たくさんの人」とは。
私だったら「すごい人…」とか「すごい人だね」と言う。
「たくさんの人」とは、言わないのだ。
これが口語と文語、はたまた意味と感覚での表現と訳した表現の違いなんだなぁ…と思った。
『すごい人』の『すごい』は、素晴らしいとか立派といった意味の『すごい』とは違う。
『とても』と同じ意味の『すごく』を使った言葉。
『すごくたくさんの人』が略された上に口語的な言い回しになった表現なのだと思う。
…なんて、こんなチャンスでもなければ考えなかったけれど。
日本語っておもしろい。
おそらくこういう言い回しは、どんな言語にもあるのだろうけれど。
残念ながら私の言語能力だと、日本語しかここまでの検証はできない^^;
『Muchas personas』は『たくさんの人』。
確かに間違ってはいない。
でも私だったら『すごい人』と言う。
本当はそう伝えたかった。
でも彼女たちは過去に誰かから『たくさんの人』と言うのだと学んでいた。
“それは間違ってはいないけれど、この状況で言うには不自然だから『すごい人』と言った方がナチュラルでオススメだよ”
カタコトでもそう伝えたらよかったのかもしれない。
でもそれに対して「どうして?」「何が違うの?」と聞かれたら答えられない。
…と、余計なことをアレコレ考えて、結局伝えられないまま帰ってくることになってしまった私なのだった。
手話を学び、地元の手話サークルに入った頃
ある男性の体験談を聞く機会があった。
耳の不自由な彼は、手話で話をしてくれる。
その話が私には衝撃的であり、また「???」だった。
仕事かろう協の活動関連だったのかは忘れてしまったのだけれど、ある時彼はオーストラリアへ行った。
彼はサーフィンが趣味だという。
朝起きて、オーストラリアのろうあ者と会う。
その時、見たことのない手話をされた。
けれど彼は、相手が何を言っているのかがわかったと言う。
「だってあの状況で、あの手話だったから。
あれがオーストラリアの『おはよう』っていう手話だよ」
そうやって、彼は他の言葉も状況と感覚で理解し、むこうの仲間と一緒にサーフィンを楽しみ、これといって困ることもなく過ごし帰ってきたのだという。
当たり前のように語る彼に、当時の私は開いた口が塞がらなかった。
は…?
なんで?
『おはよう』はともかく、どうして他の言葉もわかるの??
例えば日本人にとっての英語は、「慣れない音」というだけで後ずさってしまう。
どんなに勉強しても、人と人として向き合うチャンスがなければ、それは未知の音声であり、未知の言葉。
無意識に自分で壁を作ってしまうのだ。
なのに彼からはそれをまったく感じない。
予測だけで会話が成立するものなの??
私にとって衝撃的だったその体験談は、クエスチョンを残したまま、何年も私の中に存在し続けた。
そして今。
なんとなく少し、彼が言っていたことがわかる。
状況と感覚から五感をフルに活用すること、
そしてお互いが相手と向き合おうとする気持ち。
それがあるかないかで人と人とのコミュニケーションは変わってくる。
もちろん音の聞こえる私の場合は、
母国語以外の音にどれだけ慣れているかもポイントになってはくるけれど。
彼らには音がない。
それはもしかしたら、無意識に作ってしまう、必要のないハードルを最初から持っていないということなのかもしれないと、今、思うのだ。
ある男性の体験談を聞く機会があった。
耳の不自由な彼は、手話で話をしてくれる。
その話が私には衝撃的であり、また「???」だった。
仕事かろう協の活動関連だったのかは忘れてしまったのだけれど、ある時彼はオーストラリアへ行った。
彼はサーフィンが趣味だという。
朝起きて、オーストラリアのろうあ者と会う。
その時、見たことのない手話をされた。
けれど彼は、相手が何を言っているのかがわかったと言う。
「だってあの状況で、あの手話だったから。
あれがオーストラリアの『おはよう』っていう手話だよ」
そうやって、彼は他の言葉も状況と感覚で理解し、むこうの仲間と一緒にサーフィンを楽しみ、これといって困ることもなく過ごし帰ってきたのだという。
当たり前のように語る彼に、当時の私は開いた口が塞がらなかった。
は…?
なんで?
『おはよう』はともかく、どうして他の言葉もわかるの??
例えば日本人にとっての英語は、「慣れない音」というだけで後ずさってしまう。
どんなに勉強しても、人と人として向き合うチャンスがなければ、それは未知の音声であり、未知の言葉。
無意識に自分で壁を作ってしまうのだ。
なのに彼からはそれをまったく感じない。
予測だけで会話が成立するものなの??
私にとって衝撃的だったその体験談は、クエスチョンを残したまま、何年も私の中に存在し続けた。
そして今。
なんとなく少し、彼が言っていたことがわかる。
状況と感覚から五感をフルに活用すること、
そしてお互いが相手と向き合おうとする気持ち。
それがあるかないかで人と人とのコミュニケーションは変わってくる。
もちろん音の聞こえる私の場合は、
母国語以外の音にどれだけ慣れているかもポイントになってはくるけれど。
彼らには音がない。
それはもしかしたら、無意識に作ってしまう、必要のないハードルを最初から持っていないということなのかもしれないと、今、思うのだ。
初対面が苦手だったり、人見知りが激しいくせに、私は妙なところで行動力がある。
手話を学び始めて半年経つか経たないかの頃
地元のろうあ協会主催の1泊旅行があった。
「ああいうのは中級とか上級の人が参加するものよ」
同じクラスの人にそう言われる。
そうなの?
けれど私は何故だか行ってみたいと思い、あまり深く考えずに申し込んだ。
ろう協主催なので、参加しているのは耳の不自由な方や手話サークルの方が多い。
中級や上級クラスの方もいらしたかもしれないけれど、それよりもっと上の…そう、通訳養成クラスの講師の先生とか、そういうレベル。
私なんて、赤ちゃんのようなものだった。
そんな赤子同然の私をみなさんは快く、そしておもしろがって迎え入れてくださった。
「いや~…、よく参加してくれたよね~!」
やっぱり初級クラスの受講生がこういったものに参加するのは珍しいらしい。
そこで私は、それまでの常識がひっくり返る体験をすることになる。
そう、この場で一番コミュニケーションをとることに苦労したのは、目が見えて 耳が聞こえて 話す事もできる私だったのだ。
すごいスピードで展開される手話の会話。
全然読み取れない。
伝えたくても自分の持っている語彙の絶対数が少なすぎる。
遠くから聞こえてきた指示をどういったタイミングで聞こえていない方に伝えたらいいのかわからない。
つい普段と同じように動こうとしてしまい、相手には伝わっていなかったことに気づかされる。
世界がひっくり返り、必死についていった。
社会の中で生きていて、耳が聞こえないのは聞こえるよりも大変とされている。
事実、聞こえないことで不自由な思いをすることだって多々あると思う。
予想できる孤独感と、実際に体験する孤独とは、まったく異なるものだ。
おそらくそれと同じ体験を あのとき私は少しだけさせてもらったのだ。
毎日なんかじゃない。
たった1泊2日だったけれど。
旅行から戻り、次の手話講習会のとき
同じクラスの受講生の前で報告してほしいと頼まれた。
私はもちろん、手話を使って報告する。
え…?
みんなが驚いている。
私も驚いた。
たった1泊2日だったのだけれど。
私の手話は、驚くほど上達していたのだ。
その言葉の環境にどっぷり浸かること。
それが自分の言語能力・コミュニケーション能力を上げていく。
もっと知りたい
もっと話したい
だから必死にくらいついていく
それは英語や韓国語といった外国語だけではなく、手話の世界も同じだった。
手話を学び始めて半年経つか経たないかの頃
地元のろうあ協会主催の1泊旅行があった。
「ああいうのは中級とか上級の人が参加するものよ」
同じクラスの人にそう言われる。
そうなの?
けれど私は何故だか行ってみたいと思い、あまり深く考えずに申し込んだ。
ろう協主催なので、参加しているのは耳の不自由な方や手話サークルの方が多い。
中級や上級クラスの方もいらしたかもしれないけれど、それよりもっと上の…そう、通訳養成クラスの講師の先生とか、そういうレベル。
私なんて、赤ちゃんのようなものだった。
そんな赤子同然の私をみなさんは快く、そしておもしろがって迎え入れてくださった。
「いや~…、よく参加してくれたよね~!」
やっぱり初級クラスの受講生がこういったものに参加するのは珍しいらしい。
そこで私は、それまでの常識がひっくり返る体験をすることになる。
そう、この場で一番コミュニケーションをとることに苦労したのは、目が見えて 耳が聞こえて 話す事もできる私だったのだ。
すごいスピードで展開される手話の会話。
全然読み取れない。
伝えたくても自分の持っている語彙の絶対数が少なすぎる。
遠くから聞こえてきた指示をどういったタイミングで聞こえていない方に伝えたらいいのかわからない。
つい普段と同じように動こうとしてしまい、相手には伝わっていなかったことに気づかされる。
世界がひっくり返り、必死についていった。
社会の中で生きていて、耳が聞こえないのは聞こえるよりも大変とされている。
事実、聞こえないことで不自由な思いをすることだって多々あると思う。
予想できる孤独感と、実際に体験する孤独とは、まったく異なるものだ。
おそらくそれと同じ体験を あのとき私は少しだけさせてもらったのだ。
毎日なんかじゃない。
たった1泊2日だったけれど。
旅行から戻り、次の手話講習会のとき
同じクラスの受講生の前で報告してほしいと頼まれた。
私はもちろん、手話を使って報告する。
え…?
みんなが驚いている。
私も驚いた。
たった1泊2日だったのだけれど。
私の手話は、驚くほど上達していたのだ。
その言葉の環境にどっぷり浸かること。
それが自分の言語能力・コミュニケーション能力を上げていく。
もっと知りたい
もっと話したい
だから必死にくらいついていく
それは英語や韓国語といった外国語だけではなく、手話の世界も同じだった。
手話との出会いは社会人1年目の冬。
新入社員の私たちが、茨城にある工場にヘルプで行っていたときのこと。
冬の日暮れは早く、気温は急激に下がる。
一通りの仕事を終え、上司の最後の作業が終わるのを待つ私たち。
その後ろに、一人の男性が立っていた。
何をするというわけでもなく、黙ってそこにいる彼。
何してるのかな?
何となく気になる。
でも私にとってそこはいつも通っている場所ではない上に
新入社員なので何もわからない。
気にしつつもそのうち彼のことは意識の外になり、
同期の子たちとおしゃべりしながら待つこと数十分。
作業の終わった上司のもとに、彼が歩み寄った。
「◯◯◯◯ナンバーの車、誰か乗ってきた?」
「あ、俺です!」
上司の言葉に、答える同期の男の子。
「車が出せないみたいだから動かして」
ほんの少しのやりとり。
それが、私にはものすごくショックだった。
もし私が、手話を知っていたら
もし私が、彼がろうあ者であることを知っていたら
彼は数十分もここで待つ必要はなかったのに。
もしかしたらその気持ちはちょっと傲慢なものだったのかもしれない。
これを書いていて、今の私は思う。
でもその時の私は、
それまで自分の世界にまったく存在していなかったものを前にして
ものすごい衝撃を受けたのだった。
だってこんなこと、
健聴者同士だったらほんの少しの声かけで済んでしまう
記憶にも残らないようなことなのだ。
だからやっぱり、もし私がちょっとだけでも気づければ。
お互いが気にして、開示することができていたら
そんな数十分はなかったかもしれないのに。
そんなことがあって、私はすぐに手話講座に通い始めた。
毎日終電で帰る日々の中、無理やり定時にあがる日をつくって。
人間、やればできる(笑)
そして気づいたら通訳養成コースにまで通えるほどになって
北海道では『北海道手話通訳者2級』まで取得してしまっていた。
>『もっと知りたい、もっと話したい③』につづく
新入社員の私たちが、茨城にある工場にヘルプで行っていたときのこと。
冬の日暮れは早く、気温は急激に下がる。
一通りの仕事を終え、上司の最後の作業が終わるのを待つ私たち。
その後ろに、一人の男性が立っていた。
何をするというわけでもなく、黙ってそこにいる彼。
何してるのかな?
何となく気になる。
でも私にとってそこはいつも通っている場所ではない上に
新入社員なので何もわからない。
気にしつつもそのうち彼のことは意識の外になり、
同期の子たちとおしゃべりしながら待つこと数十分。
作業の終わった上司のもとに、彼が歩み寄った。
「◯◯◯◯ナンバーの車、誰か乗ってきた?」
「あ、俺です!」
上司の言葉に、答える同期の男の子。
「車が出せないみたいだから動かして」
ほんの少しのやりとり。
それが、私にはものすごくショックだった。
もし私が、手話を知っていたら
もし私が、彼がろうあ者であることを知っていたら
彼は数十分もここで待つ必要はなかったのに。
もしかしたらその気持ちはちょっと傲慢なものだったのかもしれない。
これを書いていて、今の私は思う。
でもその時の私は、
それまで自分の世界にまったく存在していなかったものを前にして
ものすごい衝撃を受けたのだった。
だってこんなこと、
健聴者同士だったらほんの少しの声かけで済んでしまう
記憶にも残らないようなことなのだ。
だからやっぱり、もし私がちょっとだけでも気づければ。
お互いが気にして、開示することができていたら
そんな数十分はなかったかもしれないのに。
そんなことがあって、私はすぐに手話講座に通い始めた。
毎日終電で帰る日々の中、無理やり定時にあがる日をつくって。
人間、やればできる(笑)
そして気づいたら通訳養成コースにまで通えるほどになって
北海道では『北海道手話通訳者2級』まで取得してしまっていた。
>『もっと知りたい、もっと話したい③』につづく