ことばの魔法 ことばのチカラ~ことば探検家ひろが見つけたコトバと人間 -6ページ目

ことばの魔法 ことばのチカラ~ことば探検家ひろが見つけたコトバと人間

ことばに宿る、不思議なチカラ。
人間の言語習得やコミュニケーション能力の奥深さはまだ解明されていないけれど、とんでもなくおもしろい。
気づいたら私のコトバ探検は本格化されていた。

ふと思った。

 「言葉が好き」って、意識したのはいつだったかな?


ベルギーでフランス語を話す子たちと遊んだ4歳のとき
「フランス語が話せたらもっと楽しかったのに!!」
と母に訴えたというエピソードを私は持っている。

その後、英会話を習わせてくれた母。

習っていた数年はけっこう楽しくやっていたけれど
中学に入って、楽しみにしていたはずの英語に挫折。

『ことば』とか『コミュニケーション』という世界は
私の人生から遠ざかっていった。


再び「やっぱり話せるようになりたい!」と思ったのは25歳のとき。

まったく英語が話せないどころか、
学校の授業からも遠ざかって数年経っているという時期に
無謀にも1人でイギリス&イタリア一人旅に行ったときのこと。

帰国後、熱が冷めないうちに英会話教室に通い
数ヶ月後、今度はオーストラリアへ旅立った。
また無謀にも、一人で。
しかも今回は婚約した状態で9ヶ月半も。

「行っておいで」と快く送り出してくれた主人(当時は婚約者)、
ものすごく懐が深かったんだなぁ
…なんて今さら思ったりして(笑)


結婚して英語に触れる環境がなくなり
また何か言葉が話せるようになりたいな~…
と思っているときに出会ったのが『多言語』という言葉。

そこから、私の『ことば』に対する探検が始まったわけなのだけれど…



どの時点から『ことばが好き』と表現するようになったのかは、
今もはっきりしない。

ただ、いつのときもその根底には
「通じたら楽しい」
「通じたら嬉しい」
「もっと話したい」
「もっと知りたい」
があったように思う。

この『楽しい』『嬉しい』で動いていたとき、
中高で挫折した苦手な『語学』は
私にとって『相手と繋がるための言葉』という認識になっていた。
『語学』という概念ではなかった。

『語学』になってしまえば、今も苦手。
だからいかに楽しんで言葉を習得するか、
いかに楽しんで人とコミュニケーションするかが
言葉と触れ合うためのポイントで
今も私は模索している。

そんな中、ふと思い出した。
手話を習得しようと思った時のことを。



>『もっと知りたい、もっと話したい②』につづく
『ありがとう』と言われたらどう返すか。
これは今までもテーマにしてきたことだった。

※ 参考記事はこちら ※
「どういたしまして」って言いますか?
http://ameblo.jp/kotoba-com/entry-11530621845.html

やっぱり言ってない「どういたしまして」
http://ameblo.jp/kotoba-com/entry-11945534674.html


これは日本語の、日本人のテーマのひとつだな
と思い、常に気にかけていることのひとつだ。


こんな話を耳にした。

「電車で席を譲ってもらった時ね。今までは『すみません』と言っていたんだけど、最近は『ありがとう』と言うように心がけている」

これはとてもいい心がけだ。

誰かに何かを譲ってもらったとき
エレベーターの開ボタンを押してもらっているとき
手を貸してもらったとき
荷物を持ってもらったとき
支えてもらったとき…

私も普段から『すみません』ではなく『ありがとう』を使う。

『ありがとう』は、言った側も言われた側も、気持ちがよくなる言葉だ。


以前、こういったシチュエーションで「すみません」と言った母親に対して
「なんで『すみません』って言うの?」
と訊ねている3~4歳の女の子がいた。

「あ、そうだよね。『ありがとう』って言わなきゃおかしいんだよね」
娘に言われ、そう答えたお母さん。

あの会話の流れからして、今までも娘さんに何度となく示唆されてきたことだったのだろう。

本質的なことは、子どもの方がシンプルに掴んでいることは多い。


さて。
実は、電車で席を譲ってもらった時の話には続きがあった。


「もしあなたが譲る側だったとして、『ありがとう』と言われたら何と答えますか?」


うん。
ここが私も、テーマだと思っている。

日本人は “言葉にしなくても伝わる” みたいなところがある。
だから例えば黙礼したり目礼したりするのもひとつ。
「『どうも』と言う」という方もいらした。
私だったら…「いいえー」なんて言いいそうだな…と思った。

すると、このテーマを投げかけた方が仰った。

「『My pleasure.』がね、いい言葉だと思うんだ。
 でも日本語にはそれに当たる言葉がないよね」

ああ…それ。
私もまったく同じことを思ったことがある。

お互いに『ありがとう』の気持ちがある状況のときなら、私は『こちらこそ』を使う。
でもこの事例のように、席を譲った際に『こちらこそ』ではおかしい。

かといって『お役に立てて光栄です』なんて言ってしまうと大袈裟だしね。


母国語以外の言語の感覚に触れた時、私たちは自分の言葉に “それに相当するもの” が存在していないことに気づく。

それはつまり、内側にいるだけでは気づけない感覚。
自分のテリトリーの外に出て初めて気づく、自分の内側の感覚だ。

これは言葉だけではなく、人間としての自己成長とも、深く繋がっている。

世界って、おもしろいね。
以前『使いやすいコトバとクセ』という記事の中で、
私も誰かに外側から見てもらったら
「自分がよく使う言葉」が発見できるんだろうな

ということを書いた。

すっかり忘れていたのだけれど、
先日出演させていただいたPodcastの番組
『眠れない夜に、羊を数えるのを止めよう』の中で、
自分が「何か…」を多用していることに気がついた。

それはもう、言いまくっている(笑)
自分のことだから、一度気がついてしまうと気になって仕方ない。

おそらく私はこの『何か…』を
自分の中に答えを探しているときに使っている。

公の場でプレゼンなり講演なりする際、
「えーと…」とか「えー…」などを多用してしまうのは
聞き苦しいからやめた方がいいということを
人前に立ったり報告したりする経験のある方なら
少なからず耳にしたことがあるのではないかなと思う。

だから私も、この点については昔から意識していた。

でも「口癖」までは気がついていなかった。
正確にいうと、「何か…」という言葉を使う自分は認識していたけれど、まさかあそこまで多用しているとは思ってもみなかった。

いやはや…
ちょっと恥ずかしい。



人は、気づけばそこから脱することができるもの。

まぁ脱する必要があるのかはわからないけれど(笑)
少なくとも、もし今後も私の声が電波に乗ることがあるのなら、同じ言葉の多用は避けたい。
誰がということではなく、私自身が恥ずかしいから。

これからは少し、意識してみようと思う出来事だった。


PS.
私が出演させていただいたPodcastの番組
『眠れない夜に、羊を数えるのを止めよう』(2014.11.29配信)
おかげさまで好評だと先日教えていただいた。

嬉しい♪

聞いてくださったみなさま、どうもありがとうございます!
「英語で『Boyfriend』っていうと、体の関係のある相手のことを言うんだって」

確か私が中学か高校生くらいの頃、母が言った。
衝撃だった。


 え?!
 『Boyfriend』って『彼氏』のことじゃないの?
 体の関係がないと『Boyfriend』って言わないの??


疑問を感じるが、その疑問がうまく母に伝わらない。


 じゃあ体の関係のない彼氏のことは何ていうんだろう?


そんな疑問も、解消されることはなく。
学校で友人に問いかけても、イマイチ確実な答えが返ってこなかった。

一体どういうことなのか。

母の言うことが真実なら、英語圏の人たちは「He is my boyfriend.」と言った時点で、2人の間に肉体関係があることを公言していることになる。
そんなこと、本当にあるのだろうか?

その疑問は結局何年も解消されず、疑問は疑問のまま私はオーストラリアへ渡った。
26歳のときだ。


当時婚約中だった私は、まぁそれなりにいい大人。
大好きなホストマザーと出会い、楽しい毎日を送っていた。

そんなある日、ホストマザーはじめ何人かのネイティブに囲まれた会話の中で、私は長年疑問に思っていたことを問いかけた。


 「『Boyfriend』って、必ず体の関係があるっていうことなの?」


一瞬息をのむホストマザー。


 あれ?
 何か私、変なこと聞いちゃった?


日本とは異なり、オーストラリアはキスやハグが日常の国。
そうは言っても、必ずしも性に対してオープンとは限らない。

でもこの頃の私は、そんなことわかっていなかった。
すべてに対してオープンだと思い込んでいたのだ。

 「えーと…」

戸惑いながら答えてくれるホストマザー。

 「そんなことないけど…」

何となくまわりくどい。
とはいえその返答内容は、母の言うそれとは違っていた。


 あれ?

 じゃあ母の言っていた『Boyfriend=体の関係のある相手』とは一体何だったのだろう?


「そんなことはない」ということはわかったものの、結局私の中には疑問が残ったまま、その会話は終わってしまった。

母が嘘をついたとは思えない。
だって彼女自身はそれを完全に信じきって私に伝えてきたのだから。



しばらくして、私は唐突に母の誤解と思い込みを理解した。

母は『Boyfriend』を『男友達』と認識していたのだ。
男の友達。
つまり『Boyfriend』。

でも実際のところ、ただの男友達のことを『Boyfriend』とは言わない。
『Boyfriend』と言われれば、それは『恋人』であり『彼氏』を指している。

つまり最初から私の中にあった『Boyfriend=彼氏』という感覚は、間違いではなかったのだ

『Boyfriend』が意味しているのは『恋人』や『彼氏』。
でも母はその区別をせずに『体の関係』というキーワードだけをどこかから拾ってきたようなのだ。
しかもおまけに彼女自身は『Boyfriend』という言葉を『男友達』という感覚で使っていた。

だから母は平気で英語圏の人に
「娘のボーイフレンドがね…」とか
「彼は娘のボーイフレンドの1人なんだけどね」なんて言ってしまう。

当然私はそれを耳にするたびに、違和感と不快感を感じていた。


 なんか…誤解されないといいなぁ
 彼氏がたくさんいて遊びまくってるんだと思われたら嫌だなぁ


なんて。
高校生の私にとっては、切実な問題だった。

要するに『彼氏』を意味する言葉なのだから、そこに体の関係があろうとなかろうとそれは関係ない。
もちろん周囲にそんなことを公言しながら歩いているわけでもない。
「私のBoyfriendがね…」と言えばそれは、恋人のことを指しているというだけのことだった。


 あーあ、まったく…
 人騒がせな。


こんな戸惑いを私は10年…いや、もっとかな?
10数年抱えて過ごしていた。

答えがわかってしまえばなんていうことはない。
笑っちゃうような誤解と思い込み。

でも答えが解けるまでのモヤモヤは、それはそれは気持ちの悪いものだった。



ボーイフレンドと彼氏と男友達。

世代間認識のギャップもあるのかもしれないけれど。

こうして私の『ボーイフレンド事件』は幕を閉じたのだった。
  ことば探検家ひろが、カラーセラピスト&コーチとして
  UDARAと語る。
  『眠れない夜に、羊を数えるのを止めよう』
              2014.11.29 配信




言葉の壁は、存在するのか。

壁は自分が「壁」と認識したとき、初めて創造されるような気がする。

母国語が異なる相手とのコミュニケーションは、戸惑うことが多々ある。
それはもちろん、否定しない。

でもそれがイコール『コミュニケーションできない』ことにつながるかというと、決してそんなことはないと思えるのだ。

だって同じ日本人同士でも「通じない」「伝わらない」ことってあるじゃない。
同様に、カタコトであっても通じ合える相手はいる。

だからこそ世界には、カタコト同士であっても結婚して笑い合いながら暮らしているカップルがいるわけだしね。


言葉の壁って何だろう?
壁だと思っていたものが壁ではなくなったとき、人と人との間には一体何が起こるのか。

そんな話をしています。
聞いていただけたら嬉しい。

 『カラーセラピスト&コーチ』として、UDARAと語る。
                  2014.11.29 配信
  『眠れない夜に、羊を数えるのを止めよう』
  https://itunes.apple.com/jp/podcast/mianrenai-yeni-yangwo-shuerunowo/id612688970?mt=2

  ※ パソコン、またはスマホ用アプリ『podcast』で聞いてね。
オーストラリア滞在中、私はいくつかの家庭でホームステイをした。

中でも一番お世話になったのは当時メルボルンで一人暮らしをしていたDawn。
彼女は私の滞在中に、50歳の誕生日を迎えた。

本人主催で大がかりなパーティが催され、出席者は数十名。
南アフリカからの移民である彼女。
1人のゲストのスピーチが心を打った。

「南アメリカから移住してきたとき、彼女を知っている人間は僕たちだけだった。
 でも今日ここには、彼女がオーストラリアに来てからできた友人たちがたくさんいる。
 いかに彼女が愛されているかがわかるよね」

私も手巻き寿司コーナーを設けて精一杯彼女を祝う。
自分がその場にいられることが奇跡のようだと思った。



愛されている彼女は、その後親友一家との旅行に私を連れて行ってくれた。
マリンビュラという、海の美しい地域だ。

そこでは、本人には内緒でサプライズ・パーティが企画されていた。

「ひろこ、ここにメッセージを書いて」
寄せ書きになっているカードを手渡される。
そこは当然のごとく、彼女の大切な人たちからのあたたかいメッセージが溢れていた。


 どうしよう…

お祝いしたい気持ちはある。
でも難しいことは書けない。
いい回しも単語も、わからない。

だから私は私の精一杯で、書いた。


 『Happy birthday!!
  I like your food, I like your house, I like your car,
  I like your Zac, I like your voice, I like your family,
  and I love you.』


正確ではないけれど、こんな感じ。
(ちなみにZacというのは、彼女の家にいた犬の名前)

このメッセージを読んで、同行していた女の子が私のところにやってきた。

 「素敵なメッセージね。私、好きだな!」

嬉しかった。
難しいことは書けないし、言えない。
でも「おめでとう」とか「ありがとう」とか「大好きよ」とか、伝えたい気持ちはいつだってとてもシンプルだ。

だからそれを伝えれば、伝わるんだなって。
本人だけではなくまわりにも、私の「大好き」は伝わっていた。
私が初めて海外に1人で旅立ったのは25歳のとき。

英語なんてまったく話せず、当然聞き取りもできやしない。
勉強したのは大学2年次の授業までとはいっても、中学高校とすでに英語に挫折感を覚えていた私は、授業に出ていただけだった。

そんな私が「自分の世界は狭すぎる!」と思い立ち、無謀にも何の準備もせずにいきなりイギリスに飛び立った。
ロンドンでの2週間のホームステイ&語学学校と、シュールズベリーでの1週間のファームステイ。

そりゃもう、わけがわからなかった。
機内アナウンスなんて、まったく聞き取れずに泣きそうだった。

それでもなんとか2週間乗り切り、ロンドンを旅立つ日。
ホストファーザーに訊かれた。

 「2週間、どうだった?」

戸惑いながらもなんとか授業を受けられたこと。
仲良くなった友達ができたこと。
あちこち見て回れたこと。
また来たいと思っていること。

私の中にはいろいろな思いがあった。
でも私は、自分の中にあるものを表現する言葉も術ももっていなかった。

どう伝えればいいんだろう。
体の中から振り絞った私は、こう答えた。

 「very very London」

我ながら、なんだそりゃ?!な表現だ。
でも、パパは「うん」と大きくうなずいて返してくれた。

 「うん。very very Londonだね。よくわかるよ」

細かく説明するよりも、彼には通じたようだった。
涙がこぼれた。

つたない言葉の方が、コアが伝わることがある。
これは、そんな体験の中でも大人になって私が意識した、初めてのもの。
小さな子どもたちのコミュニケーションは常に100% +α だ。

先日、2歳の甥っ子が目をキラキラさせながらやってきた。
「おあいもの、いったの?」(お買物行ったの?)
「うん。行ってきたよ」
「どぉいったの?」(どこ行ったの?)
「ぐるっぺに行ってきたよ」
「ぅん」

カラダの底から絞り出すように、彼は全身でぶつかってきた。

「Nもいったの」
「Nもお買物行ってきたの?」
「うん」
「何買ったの?」
「……おあいもの、いったの」(お買物、行ったの)

すべての言葉が完璧ではないし、すべての言葉を詳細に理解しているわけではない。
「○○って何?」という質問をすることすら、まだ彼の中にはない。
それでも彼は、今持っている100%でコミュニケーションしてくる。

そしてこの
「何買ったの?」
「……おあいもの、いったの」
にすべてが凝縮されていると私は思った。

何を買ったかなんて知らない。
だからもちろん説明できない。
でも何かを買ったのだ。お母さんとお買物に行って。

それを彼はただ、伝えてきた。
これ以上ないくらい、体の奥底から絞り出して出てきたのが
「何買ったの?」の後の「……おあいもの、いったの」だ。

これは彼の、100%を超えたプラスαの部分だった。

人間はこうやって成長していくんだなぁと、感慨深く思った午後。

 100% +α


いくつになってもできる。
限界だと思った先に、あと一歩踏み出すこと。

子どもってすごい。
これが日常だ。
メキシコでステイしていた先のS君は日本語に興味津々。
いろいろな単語を覚えたがる。

ある日、ふと目にした彼のメモ紙にこんなことが書いてあった。

「ママが『ありがとうございます』と言ったら
 ひろこが『こちらこそ』と言っていた」


…言った。
確かに私は言った。

でもまさか、こんなところにメモしてまで記録されていたとは!
そんなに興味深い言い回しだったか。

考えてみれば、確かに。
おそらく日本語を勉強する場合、
「ありがとう」に対する言葉として学ぶのは
「どうしたしまして」だ。

でも私たちは日常の中で、そんなに頻繁に「どうしたしまして」を使ってはいない。
(『「どういたしまして」って言いますか?』参照)


そしてこの時のシチュエーション。
私が「こちらこそ」と述べているように、私もママへの感謝の気持ちがある状況だったわけだ。
私が一方的にやったことに対してママから言われた「ありがとう」ではなかった。

だから私の口から出たのは
「どういたしまして」でも
「いえいえ」でも
「大丈夫よ~」でもなく
「こちらこそ」
だった。

ナチュラルな言葉っておもしろい。

ああいうシチュエーションで「こちらこそ」に相当するスペイン語を私は知らない。
感覚的にそういった言い方があるのかもわからない。

だからS君が、あの「こちらこそ」をどう受け取ったのかはわからないのだけれど…

もし彼がどこかで日本人に何かをしてあげたとする。
道を教えてあげたでも、お土産をあげたでもいいのだけれど。
そのとき相手に「ありがとう」と言われて、彼が「こちらこそ」を使ってみちゃったら…
ちょっとおかしなことになるな。



 「ありがとう」

 「こちらこそ」

この「こちらこそ」に相当する表現がスペイン語にあるのかどうか。
今度機会があったら友人に聞いてみよう。
多くの国で学ばれている英語。
母国語が日本語である私たちにとってそれは、
発音やリズムはもちろん、文字も文法もまったく異なるものだ。

だから中学に入って(今はもう小学生からだけど)
「英語を学ぶ」という態勢になったとき
あまりに違う感覚に「わけわからん!」とはなっても
「自国語と混ざって混乱する」ということは起こらない。

では、英語と同じアルファベットを使う違う言語の国ではどうなのだろうか?

インドネシア人のDさんに聞いてみた。

「うん…それが大きな問題なのよ。
 たとえば『one』。英語では『ワン』でしょ。
 でもインドネシア語の読み方だと『オネ』になる。
 だからみんな混乱するの」

これを見ておわかりだろうか。
インドネシア語は、日本語のローマ字読みと同じように母音そのままに読む言語だ。


 やっぱり混乱するのか~…


その感覚を持ち合わせていない私にとって、これは非常に興味深い。
そして彼女曰く、インドネシアも日本と同じような問題を抱えており、英語を話せる人は少ないらしい。
あまたの現地語を有する多言語国家が、
単言語国家の日本と同じ問題を抱えているというのもまた興味深い。

さらにインドネシア語には英語とのおもしろい関係性がある。

たとえば
英語の「information」をインドネシア語にすると「informasi」になる。
「version」は「versi」というように、
英単語の「-tion」や「-sion」を「-si」にすれば
インドネシア語の単語になるというわけだ。

そしてこのような法則は他にもある。

これだけ聞くと、そんな関係性の一切ない日本語を話す日本人より
インドネシア語を話す人の方が英語には親近感を持ちそうだと思ってしまうのだけれど、やはりそれは違うらしい。

彼らには彼らの苦悩がある。


さて、この“スペルが似ている”とか“音が似ている”という言語は、世界を見渡すと多々存在する。

ラテン語が大もととなっているスペイン語・イタリア語・ポルトガル語・フランス語などには共通するものがたくさんあるし、たとえばスペイン語と英語だって似た単語はたくさんある。

そういった言語と比較すればやっぱり、日本語を話す私たちよりは楽そうに感じてしまう日本人は多いのではないかと思われる。

でもやっぱり、彼らもまたインドネシア人のように混乱するのだろうか?

メキシコ人のR君に聞いてみた。

「ん~…、メキシコでも英語を話せる人は少ないです。
 でもスペイン語とイタリア語は間違えないよ」

「でも似てるよね?混乱しないの?」

「しないよ!それは見ればわかる!」

もちろん聞いてもすぐにわかるわけだけれど。
母国語の強み。

そういえばDさんも、マレー語は何を言ってるか全部わかると言っていた。


つまり、中途半端に共通性のある言語は、彼らを混乱させるのだ。
インドネシアのように発音を母国語風にアレンジして読んでしまうのは、母音をそのまま発音するラテン語系の国の人たちにも共通している。

逆に似ている言語(インドネシア語とマレー語、スペイン語とイタリア語とポルトガル語など)であれば、かえってその混乱は緩和される。
…おそらく。


ああ、おもしろい。
日本人の私にはその感覚を体感することができないのが残念だけれど。
たとえ語源の同じ韓国語であっても。