インターネットは世界中とつながっている。
おかげで物理的に会えない人と出会え、語り合えるのは本当におもしろい。
ある日、アメリカで暮らすイタリア人女性を中心に、
アメリカ在住フランス人の男の子と3人でイタリア語会話を楽しんでいた。
「じゃあ質問タイム!」
リードしていた彼女に言われ、彼が私に尋ねてくる。
「イタリアとフランス、どっちが好き?」
こらこらこら…
そんなのどっちとも答えられるわけがない。
だって相手はイタリア人とフランス人。
どっちを答えたとしても場が険悪になるではないの!
それに正直、私の中に優劣は存在していなかった。
「えー…難しい質問だよ、それは」
そう答える私に、彼女が言った。
「じゃあピザとクレープはどっちが好き?」
その時、私はお恥ずかしながら『フランス=クレープ』という認識がなかった。
『イタリア=ピザ』という認識はあったのだけれど。
とはいえこれは結局、似たような質問だ。
私はコンマ何秒で頭をフル回転させて答えた。
「Mi piace più la crepe che la pizza, ma mi piace il gelato.」
(ピザよりクレープが好き。でもジェラートも好き!!)
我ながらなかなか適切な回答だったと思う。
「Brava! Hiro!!」
拍手喝采の彼女。
「ははは…」と笑い声を届けてくれる彼。
見えない顔は、苦笑いだったんじゃないかな~?と思えたけれど。
(ちなみに彼女の顔は見えているけれど、彼の顔は見えていない)
いやはや、彼らは自国に対する愛がはっきりしている。
私だったら、例えばイタリア人相手に
「日本と韓国、どっちが好き?」とは聞かないし、
「じゃあ寿司とキムチだったら?」とも聞かない。
どう答えられても嬉しくない。
でもそんなこと、全然考えないまま質問してくるんだろうな…
ここにもひとつ、文化の違いがあった。
英語が苦手という日本人は多い。
韓流ブームが起こり
英語の次に世界で話されている言語はスペイン語だと言われ
中国の急激な成長によって「これからは中国語だ!」と叫ばれ
さらに今、企業のアジア進出はベトナムに向いている。
そんな現代であっても、大多数の日本人にとっては未だ
『外国語=英語』
そしてそれ以外の言語を少し話せたり読めたり知っていたりする人と出会うと
「わかるの?!」
「話せるの?!」
「すごーーーい!!」
と、まるで異次元の人を見るかのような賞賛を贈る。
これは単言語国家である日本が長らく苦しんできた
「うまくいかなかった外国語教育」によって
植え付けられたコンプレックスによる要素が大きいように思える。
先日も、「何だろう、これ?」「どこの商品かな?」と手にしている女性たちの輪の中で
「タイ語だねぇ…」
と呟いたら途端に数人から反応が返ってきた。
「タイ語なんだ!えっ!読めるの?」
「タイ語わかるの?」
「タイ語が話せるの?!」
「いやいやいや…それがタイ語っていうのがわかるだけよ」
いくつかのあいさつと自己紹介、
この文字はタイ語で使われているものである
ということくらいしか私は知らない。
それでも日本人にとって、
日本語以外の言葉が少しでもわかるのは “とてもすごいこと” なのだ。
改めて、日本という国の、日本語以外の言語に対する耐性のなさを感じさせられる出来事だった。
アジアからの観光客が増え、街中の大きな店舗では複数言語でのアナウンスが流れている。
でも一方で、日本国内で普通に暮らす私たちにとっては
仕事で必要とされない限り
「日本語以外の言語を話せなきゃ困る」
という状況には陥らない。
これぞ『海に囲まれた島国 日本』。
ITの発達で、世界はとても近くなった。
飛行機と、信頼度の高い日本という国のおかげで
物理的にも容易に海外に出て行けるようになった。
なのに多くの日本人にとって、言葉の壁は高い。
スラスラと話せなくてもいい。
カタコトでもいい。
まず一歩。
目を向ける。
見渡してみる。
踏み出してみる。
それだけで世界はつながっていることを私たちは体感できる。
「タイ語わかるの?!」と聞いてきた女性が言っていた。
「コップンカ~♪」
あなただって、タイ語知ってるじゃない!
韓流ブームが起こり
英語の次に世界で話されている言語はスペイン語だと言われ
中国の急激な成長によって「これからは中国語だ!」と叫ばれ
さらに今、企業のアジア進出はベトナムに向いている。
そんな現代であっても、大多数の日本人にとっては未だ
『外国語=英語』
そしてそれ以外の言語を少し話せたり読めたり知っていたりする人と出会うと
「わかるの?!」
「話せるの?!」
「すごーーーい!!」
と、まるで異次元の人を見るかのような賞賛を贈る。
これは単言語国家である日本が長らく苦しんできた
「うまくいかなかった外国語教育」によって
植え付けられたコンプレックスによる要素が大きいように思える。
先日も、「何だろう、これ?」「どこの商品かな?」と手にしている女性たちの輪の中で
「タイ語だねぇ…」
と呟いたら途端に数人から反応が返ってきた。
「タイ語なんだ!えっ!読めるの?」
「タイ語わかるの?」
「タイ語が話せるの?!」
「いやいやいや…それがタイ語っていうのがわかるだけよ」
いくつかのあいさつと自己紹介、
この文字はタイ語で使われているものである
ということくらいしか私は知らない。
それでも日本人にとって、
日本語以外の言葉が少しでもわかるのは “とてもすごいこと” なのだ。
改めて、日本という国の、日本語以外の言語に対する耐性のなさを感じさせられる出来事だった。
アジアからの観光客が増え、街中の大きな店舗では複数言語でのアナウンスが流れている。
でも一方で、日本国内で普通に暮らす私たちにとっては
仕事で必要とされない限り
「日本語以外の言語を話せなきゃ困る」
という状況には陥らない。
これぞ『海に囲まれた島国 日本』。
ITの発達で、世界はとても近くなった。
飛行機と、信頼度の高い日本という国のおかげで
物理的にも容易に海外に出て行けるようになった。
なのに多くの日本人にとって、言葉の壁は高い。
スラスラと話せなくてもいい。
カタコトでもいい。
まず一歩。
目を向ける。
見渡してみる。
踏み出してみる。
それだけで世界はつながっていることを私たちは体感できる。
「タイ語わかるの?!」と聞いてきた女性が言っていた。
「コップンカ~♪」
あなただって、タイ語知ってるじゃない!
初めての海外一人旅はイギリスとイタリア。
2週間ロンドンでホームステイをし、1週間シュールズベリーでファームステイをした私は、イタリアに向かった。
まったく英語が話せなかった当時。
英語圏であるイギリスでわけがわからないながらも過ごしてきた私は、イタリアに着いたとき
「なんとかなる!」
と根拠もなく思っていた。
3週間のイギリス生活で度胸がついていた。
ああいった人間の力は、本当におもしろい。
さて、イタリアで訪れた街はミラノとフィレンツェ。
ミラノには友人が、フィレンツェには従姉妹が当時暮らしていた。
珍しい従姉妹の来訪ということで、フィレンツェにいる間、6歳年上の彼女はすごくよく面倒を見てくれた。
医者にかかった私をケアしてくれたり、無理のない範囲で観光に連れて行ってくれたり。
…そう、私は大きく体調を崩してしまっていたのだ。
まぁそれは置いておいて。
夕飯を食べた帰り道、前から歩いてきた2人組のイタリア人男性が声をかけてくる。
軽く言葉を返す彼女。
笑いながら何かを言い、すれ違う彼ら。
当時の私は、まったくイタリア語がわからない。
「何て言ってたの?」
「『イタリア語話せる~?』って聞くから、『話せないよ~』って答えたの。
そしたら『話してるじゃーん!』って(笑)」
おおっ!
通りすがりのナンパだ。
しかもめちゃくちゃ軽い。
まるであいさつ。
イタリア人って、こうなのか!
日本のナンパとはちょっと違う、何ともスマートな、本気度の低い軽い声かけ。
もちろんイタリア人同士ではないから…というのはあるだろうけれど。
かっこいい、と思った。
イタリア人男性ではなく、軽くかわした従姉妹が。
私もあんな風にさらっとナンパをかわしてみたい。
その程度なら…今ならイタリア語で答えられるんだけどな。
でも…
緊張してドギマギする自分になりそうな予感もするから…
まだまだ修行が必要かな?(笑)
2週間ロンドンでホームステイをし、1週間シュールズベリーでファームステイをした私は、イタリアに向かった。
まったく英語が話せなかった当時。
英語圏であるイギリスでわけがわからないながらも過ごしてきた私は、イタリアに着いたとき
「なんとかなる!」
と根拠もなく思っていた。
3週間のイギリス生活で度胸がついていた。
ああいった人間の力は、本当におもしろい。
さて、イタリアで訪れた街はミラノとフィレンツェ。
ミラノには友人が、フィレンツェには従姉妹が当時暮らしていた。
珍しい従姉妹の来訪ということで、フィレンツェにいる間、6歳年上の彼女はすごくよく面倒を見てくれた。
医者にかかった私をケアしてくれたり、無理のない範囲で観光に連れて行ってくれたり。
…そう、私は大きく体調を崩してしまっていたのだ。
まぁそれは置いておいて。
夕飯を食べた帰り道、前から歩いてきた2人組のイタリア人男性が声をかけてくる。
軽く言葉を返す彼女。
笑いながら何かを言い、すれ違う彼ら。
当時の私は、まったくイタリア語がわからない。
「何て言ってたの?」
「『イタリア語話せる~?』って聞くから、『話せないよ~』って答えたの。
そしたら『話してるじゃーん!』って(笑)」
おおっ!
通りすがりのナンパだ。
しかもめちゃくちゃ軽い。
まるであいさつ。
イタリア人って、こうなのか!
日本のナンパとはちょっと違う、何ともスマートな、本気度の低い軽い声かけ。
もちろんイタリア人同士ではないから…というのはあるだろうけれど。
かっこいい、と思った。
イタリア人男性ではなく、軽くかわした従姉妹が。
私もあんな風にさらっとナンパをかわしてみたい。
その程度なら…今ならイタリア語で答えられるんだけどな。
でも…
緊張してドギマギする自分になりそうな予感もするから…
まだまだ修行が必要かな?(笑)
赤ちゃんから大人になる過程で、私たちは言葉を「聞いて」から「話す」ようになる。
その逆はないし、ましてや音を知らないまま文字の読み書きをするようになるなんてことはありえない。
ただそれはあくまで「自然習得」での流れであって、「学習」となった場合、そのルールは破られることが多い。
情報ゼロのところから短期間での成果を求められてしまう語学学習は、まず文字から入る。
カンタンなあいさつの仕方と名前の述べ方と共に。
それは「新たな言葉を身につける」という目的の他に、学習者への「やっている」「進んでいる」という安心感をもたらすためのようにも思える。
だって文字が書けるようになったら嬉しいもんね。
新たな世界に触れられた気がするし、わかったような気にもなれる。
それを知ったからといって、その言語を話す人たちとコミュニケーションがとれるようになるわけではないということを私たちは経験上知っている。
それでもやっぱりそこからスタートしてしまいがちなのは、方法がわからないということと共に安心感を満たすことが裏に潜んでいるように思えてならない。
先日、ある語学学習の手法に触れた友人が言った。
「自分が言える言葉は聞き取れるんだよ。だから『話す』が先」
そういうメソッドがあるらしい。
確かに、言える言葉は聞き取れる。
そこは間違いではない。
でもそれなら何故、その言葉を言えるようになったのか。
その言葉がどんな波でどう発音されるのかを知るには、耳からの情報が必要だ。
その言葉を口にするための情報源。
それはやはり、『音』である。
音としての情報を持っているから、それを真似して発音できる。
そうしてその言葉が自分のものになったときはもう、ネイティブが話しているその単語を聞き取れるようになっているのだ。
つまり「話す」が先だと思っていても、話せるようになっていく前に私たちは必ず音を持っているということ。
音…つまり、「聞く」が先にあるというわけ。
音をどのように自分の体に入れたのか…
その源は、人によって、またその時々によっても異なるのだけれど。
潜在意識に入り込む、音の力は凄まじい。
その逆はないし、ましてや音を知らないまま文字の読み書きをするようになるなんてことはありえない。
ただそれはあくまで「自然習得」での流れであって、「学習」となった場合、そのルールは破られることが多い。
情報ゼロのところから短期間での成果を求められてしまう語学学習は、まず文字から入る。
カンタンなあいさつの仕方と名前の述べ方と共に。
それは「新たな言葉を身につける」という目的の他に、学習者への「やっている」「進んでいる」という安心感をもたらすためのようにも思える。
だって文字が書けるようになったら嬉しいもんね。
新たな世界に触れられた気がするし、わかったような気にもなれる。
それを知ったからといって、その言語を話す人たちとコミュニケーションがとれるようになるわけではないということを私たちは経験上知っている。
それでもやっぱりそこからスタートしてしまいがちなのは、方法がわからないということと共に安心感を満たすことが裏に潜んでいるように思えてならない。
先日、ある語学学習の手法に触れた友人が言った。
「自分が言える言葉は聞き取れるんだよ。だから『話す』が先」
そういうメソッドがあるらしい。
確かに、言える言葉は聞き取れる。
そこは間違いではない。
でもそれなら何故、その言葉を言えるようになったのか。
その言葉がどんな波でどう発音されるのかを知るには、耳からの情報が必要だ。
その言葉を口にするための情報源。
それはやはり、『音』である。
音としての情報を持っているから、それを真似して発音できる。
そうしてその言葉が自分のものになったときはもう、ネイティブが話しているその単語を聞き取れるようになっているのだ。
つまり「話す」が先だと思っていても、話せるようになっていく前に私たちは必ず音を持っているということ。
音…つまり、「聞く」が先にあるというわけ。
音をどのように自分の体に入れたのか…
その源は、人によって、またその時々によっても異なるのだけれど。
潜在意識に入り込む、音の力は凄まじい。
この人たち、これ以外に感嘆を表す褒め言葉を持っていないのだろうか。
そう思ってしまうくらい、メキシコ人は連発した。
「Bonito!」
素敵な人ね!
いい車ね!
なんてかわいい!
彼ってかっこいいわね!
すべてに使われる言葉は『Bonito』。
他に表現方法はないのか?!とツッコミたくなるほど、彼らはBonitoしか言わなかった。
そんな話をしたらある友人がさらに追い打ちをかけたエピソードをくれた。
「手術を受けた人がね、手術跡を『Bonito』って言われたらしいよ」
おぉ…
傷口までもが『Bonito』!
スペイン語、恐るべし。
メキシコにて、ホストファミリーと共に夫のホームステイ先に遊びに行ったとき
以前我家にステイしたR君も会いに来てくれた。
メキシコと日本のハーフであるR君は、とてもお行儀がいい。
お母さんの躾がいいんだな…とは、日本にいた時から感じていた。
両手をそえて、お行儀よくお茶を飲む。
その振る舞いに私は顔が緩みっぱなし。
R君がかわいくて仕方ない。
「相変わらずお行儀いいね。日本人でもそんなに綺麗にお茶を飲む人は少ないよ」
そう伝えると、R君は何とも言えない顔をした。
「でも僕は男だから…かっこよくはないでしょ?」
そのセリフに、思わず笑ってしまった。
確かに。
男性だったらお茶は片手飲みする人も多いしね。
足も脇も開き気味で飲むよね。
膝を合わせて両手をそえてお茶を飲む日本人男性(しかも20代半ば)は少ないし、ちょっとなよっと見られるかもね。
すると日本語に興味津々の私のホストマザーから問いかけられる。
「『かっこいい』ってどういう意味?」
あー…スペイン語で言うなら…『Bonito』?
でもそれだと正確に伝わるのだろうか?
R君を見ると、彼も困った顔をしている。
ハーフとはいえ、彼はメキシコ生まれのメキシコ育ち。
ハートも言葉もメキシコ人だ。
そんな彼がどう答えるのかと思えば、どうやら彼も私と同じように考えていた。
『かっこいい』はやはり『Bonito』なのだ。スペイン語で言うならば。
でもそれだと伝わらない。
感覚的にきちんと伝わる、『かっこいい』と対となるスペイン語は存在しない。
「あー…難しいなぁ…」
そう言いながら、彼は一生懸命説明していた。
「でもスペイン語にはないんだよ~!!」
その言語にない、ということは
その感覚がない、ということなのだろうか。
かっこいいも、かわいいも、素敵なも、素晴らしいも、いいも、
すべて『Bonito』なスペイン語。
何か、貧困だな…
そんな失礼なことを思ってしまった。
貧困なのは語彙数なのか、はたまた感性なのだろうか…?
そう思ってしまうくらい、メキシコ人は連発した。
「Bonito!」
素敵な人ね!
いい車ね!
なんてかわいい!
彼ってかっこいいわね!
すべてに使われる言葉は『Bonito』。
他に表現方法はないのか?!とツッコミたくなるほど、彼らはBonitoしか言わなかった。
そんな話をしたらある友人がさらに追い打ちをかけたエピソードをくれた。
「手術を受けた人がね、手術跡を『Bonito』って言われたらしいよ」
おぉ…
傷口までもが『Bonito』!
スペイン語、恐るべし。
メキシコにて、ホストファミリーと共に夫のホームステイ先に遊びに行ったとき
以前我家にステイしたR君も会いに来てくれた。
メキシコと日本のハーフであるR君は、とてもお行儀がいい。
お母さんの躾がいいんだな…とは、日本にいた時から感じていた。
両手をそえて、お行儀よくお茶を飲む。
その振る舞いに私は顔が緩みっぱなし。
R君がかわいくて仕方ない。
「相変わらずお行儀いいね。日本人でもそんなに綺麗にお茶を飲む人は少ないよ」
そう伝えると、R君は何とも言えない顔をした。
「でも僕は男だから…かっこよくはないでしょ?」
そのセリフに、思わず笑ってしまった。
確かに。
男性だったらお茶は片手飲みする人も多いしね。
足も脇も開き気味で飲むよね。
膝を合わせて両手をそえてお茶を飲む日本人男性(しかも20代半ば)は少ないし、ちょっとなよっと見られるかもね。
すると日本語に興味津々の私のホストマザーから問いかけられる。
「『かっこいい』ってどういう意味?」
あー…スペイン語で言うなら…『Bonito』?
でもそれだと正確に伝わるのだろうか?
R君を見ると、彼も困った顔をしている。
ハーフとはいえ、彼はメキシコ生まれのメキシコ育ち。
ハートも言葉もメキシコ人だ。
そんな彼がどう答えるのかと思えば、どうやら彼も私と同じように考えていた。
『かっこいい』はやはり『Bonito』なのだ。スペイン語で言うならば。
でもそれだと伝わらない。
感覚的にきちんと伝わる、『かっこいい』と対となるスペイン語は存在しない。
「あー…難しいなぁ…」
そう言いながら、彼は一生懸命説明していた。
「でもスペイン語にはないんだよ~!!」
その言語にない、ということは
その感覚がない、ということなのだろうか。
かっこいいも、かわいいも、素敵なも、素晴らしいも、いいも、
すべて『Bonito』なスペイン語。
何か、貧困だな…
そんな失礼なことを思ってしまった。
貧困なのは語彙数なのか、はたまた感性なのだろうか…?
あるコトバ遊びのお芝居を見た。
有名な原作に加えて、座長はテレビでもよく拝見する実力派俳優さん。
昔読んでおもしろかったその作品が舞台に乗ったとき、どのように表現され伝えられるのか。
久しぶりの観劇ともあって、少なからず期待を胸に足を向けた。
しかし…
開始10分で限界がきた。
なんか間延びしてるなぁ…
いつまでこのテンポが続くのかなぁ?
前置き長いなぁ…
もうそろそろ本題に入ってくれないかなぁ…
欠伸をかみ殺しながら芝居を見るのは結構苦痛だ。
話の冒頭から展開されるコトバ遊び。
だが見ている側の私にとってそれは、舞台上の登場人物がくだらない揚げ足取りをしているようにしか伝わってこなかった。
結論から言うと、その芝居は最初から最後までそれだけで終わってしまった。
その作品は、まさに『コトバ』を扱ったものだった。
コトバのトリック。
コトバのミスリード。
コトバそのものに潜むヒント。
本で読めば、前半のページを捲ってキーワードを探し出したくなるような
本来なら“やられた感”満載の作品だ。
でも残念ながら、そのおもしろさは舞台上では完全に消えてしまっていた。
何故か。
それは役者さんたちが「見せるための舞台」を作っていなかったから。
観客に「伝えるための舞台」を作っていなかったから。
だから残念ながら、舞台の上という内輪での盛り上がりで終わってしまっていたのだ。
私はこのとき、役者も「伝えるプロ」という意識が必要な職業なのだと知った。
『セリフ』という名のコトバを表現する。
演技の上手下手はよく耳にするけれど、そこには
「どれだけその言葉と共にいられているか」
も関係してくるものなのだと。
そしてその言葉にのせて伝えていく。
言葉を使わない、ノンバーバルなコミュニケーションと共に。
それがない舞台は、「言ったつもり」の感覚ととても似ていた。
有名な原作に加えて、座長はテレビでもよく拝見する実力派俳優さん。
昔読んでおもしろかったその作品が舞台に乗ったとき、どのように表現され伝えられるのか。
久しぶりの観劇ともあって、少なからず期待を胸に足を向けた。
しかし…
開始10分で限界がきた。
なんか間延びしてるなぁ…
いつまでこのテンポが続くのかなぁ?
前置き長いなぁ…
もうそろそろ本題に入ってくれないかなぁ…
欠伸をかみ殺しながら芝居を見るのは結構苦痛だ。
話の冒頭から展開されるコトバ遊び。
だが見ている側の私にとってそれは、舞台上の登場人物がくだらない揚げ足取りをしているようにしか伝わってこなかった。
結論から言うと、その芝居は最初から最後までそれだけで終わってしまった。
その作品は、まさに『コトバ』を扱ったものだった。
コトバのトリック。
コトバのミスリード。
コトバそのものに潜むヒント。
本で読めば、前半のページを捲ってキーワードを探し出したくなるような
本来なら“やられた感”満載の作品だ。
でも残念ながら、そのおもしろさは舞台上では完全に消えてしまっていた。
何故か。
それは役者さんたちが「見せるための舞台」を作っていなかったから。
観客に「伝えるための舞台」を作っていなかったから。
だから残念ながら、舞台の上という内輪での盛り上がりで終わってしまっていたのだ。
私はこのとき、役者も「伝えるプロ」という意識が必要な職業なのだと知った。
『セリフ』という名のコトバを表現する。
演技の上手下手はよく耳にするけれど、そこには
「どれだけその言葉と共にいられているか」
も関係してくるものなのだと。
そしてその言葉にのせて伝えていく。
言葉を使わない、ノンバーバルなコミュニケーションと共に。
それがない舞台は、「言ったつもり」の感覚ととても似ていた。
海外で出ると、思わぬ日本の姿を見せつけられる。
それは時に、
「違うんだけど、でも実際“そう”だからなぁ…恥ずかしい…」
と弁解の余地がないまま、自分のことではないのに恥ずかしい思いをさせられるなんていうことも。
オーストラリアのハイスクール。
今回は高校2年生(くらい)の日本語クラスのお手伝いをしていたときのこと。
先日短期留学をしたときの体験を書いたという日本語の作文添削中、おかしな一文に目が止まった。
『日本では、授業中に寝ていいです。』
いや、良くない…
寝ている生徒がいるという事実は別にして、
私たちは「授業中は寝てもいい」なんて許可されているわけではない。
なのでこう、あまりにも堂々と作文上で断言されてしまうと、ひとこと物申したくなる。
というわけで、当然私は物申した。
「授業中に寝ちゃダメだけど…」
しかし相手は手強かった。
何といっても、生徒達は実際にその体験をしているわけだから。
「でも(生徒は)そういう経験をしましたよ」
しかも先生は注意しなかったらしい。
う…
返す言葉がなくなってしまった私。
確かに日本の高校生は授業中に寝る(子もいる)。
それを先生は注意しない(場合がある。学校や先生によるけれど)。
ちなみに授業中におしゃべりしてても注意されずに放置される(こともある)。
これらはすべて、基本的には“ダメ”なことだ。
でも、実際はそれが黙認されているケースが多々ある。
そして彼らは、そんな黙認校に短期留学し、そういう経験をしてきてしまったわけだ。
うーん…
ナニモ言エマセン…
「本当はダメなんだけどね…」なんて私が1人で言い訳しても、彼らのしてきた体験が事実。
そして「本当にダメ」なら、何故するのか。
何故教師はさせるのか。
そんな論議になってしまう。
そして「授業中に寝るの推奨派」ではない私がいくら説明をしたところで
相手にとって私の言葉は「そんな彼らを擁護している」ものになってしまう。
というわけで、私は早々に納得してもらうための説得を諦めた。
ひとこと「本当はダメなんだけど…」という言葉を残して。
それは時に、
「違うんだけど、でも実際“そう”だからなぁ…恥ずかしい…」
と弁解の余地がないまま、自分のことではないのに恥ずかしい思いをさせられるなんていうことも。
オーストラリアのハイスクール。
今回は高校2年生(くらい)の日本語クラスのお手伝いをしていたときのこと。
先日短期留学をしたときの体験を書いたという日本語の作文添削中、おかしな一文に目が止まった。
『日本では、授業中に寝ていいです。』
いや、良くない…
寝ている生徒がいるという事実は別にして、
私たちは「授業中は寝てもいい」なんて許可されているわけではない。
なのでこう、あまりにも堂々と作文上で断言されてしまうと、ひとこと物申したくなる。
というわけで、当然私は物申した。
「授業中に寝ちゃダメだけど…」
しかし相手は手強かった。
何といっても、生徒達は実際にその体験をしているわけだから。
「でも(生徒は)そういう経験をしましたよ」
しかも先生は注意しなかったらしい。
う…
返す言葉がなくなってしまった私。
確かに日本の高校生は授業中に寝る(子もいる)。
それを先生は注意しない(場合がある。学校や先生によるけれど)。
ちなみに授業中におしゃべりしてても注意されずに放置される(こともある)。
これらはすべて、基本的には“ダメ”なことだ。
でも、実際はそれが黙認されているケースが多々ある。
そして彼らは、そんな黙認校に短期留学し、そういう経験をしてきてしまったわけだ。
うーん…
ナニモ言エマセン…
「本当はダメなんだけどね…」なんて私が1人で言い訳しても、彼らのしてきた体験が事実。
そして「本当にダメ」なら、何故するのか。
何故教師はさせるのか。
そんな論議になってしまう。
そして「授業中に寝るの推奨派」ではない私がいくら説明をしたところで
相手にとって私の言葉は「そんな彼らを擁護している」ものになってしまう。
というわけで、私は早々に納得してもらうための説得を諦めた。
ひとこと「本当はダメなんだけど…」という言葉を残して。
前回の記事に引き続き、オーストラリアのハイスクールでのお話。
どんなことも、そのひとつ外側から見てみると、思いがけないことに気づく。
中にいては気づけない、外に出たからこそ気づけること。
それは純粋な気づきとなり、自らの世界が広がるのと同時に深まっていくことにもつながる。
ただ対象物があまりに自分の常識の外のものであった場合、
自分の狭い価値観の枠組みの中から発想するとそれは
「大いなる勘違い…でも一見納得しそうになって笑える」
ものになることがある。
ん?
よくわからない?
例を挙げてみよう。
中学3年生の日本語クラスを担当していた先生は、漢字の音訓読みについて教えていた。
「『山』mountainの訓読みは『やま』、音読みは『サン』」
ここまではよかった。
私もふんふん…とうなずきながら聞いていた。
「日本人は私たちよりもずっとmountainを信仰している。
神様みたいだから『さん』てつけてるんですよね?
『○○さん』と誰かを丁寧に呼ぶみたいに」
………へっ?!
初めて耳にしたその話。
あまりによくできていて、私は一瞬信じそうになった。
「そうだったんだ~!知らなかった~~~っ!!」って。
ぽかんとすること数秒。
すぐに私は訂正した。
「いやいやいや…音読みは中国から入ってきた読み方だよ!」
オーストラリアという“外側”から見た日本及び日本語は、そんな風に見えるのか…
突飛な発想に聞こえたものは、一周回って妙な説得力を持っていた。
どんなことも、そのひとつ外側から見てみると、思いがけないことに気づく。
中にいては気づけない、外に出たからこそ気づけること。
それは純粋な気づきとなり、自らの世界が広がるのと同時に深まっていくことにもつながる。
ただ対象物があまりに自分の常識の外のものであった場合、
自分の狭い価値観の枠組みの中から発想するとそれは
「大いなる勘違い…でも一見納得しそうになって笑える」
ものになることがある。
ん?
よくわからない?
例を挙げてみよう。
中学3年生の日本語クラスを担当していた先生は、漢字の音訓読みについて教えていた。
「『山』mountainの訓読みは『やま』、音読みは『サン』」
ここまではよかった。
私もふんふん…とうなずきながら聞いていた。
「日本人は私たちよりもずっとmountainを信仰している。
神様みたいだから『さん』てつけてるんですよね?
『○○さん』と誰かを丁寧に呼ぶみたいに」
………へっ?!
初めて耳にしたその話。
あまりによくできていて、私は一瞬信じそうになった。
「そうだったんだ~!知らなかった~~~っ!!」って。
ぽかんとすること数秒。
すぐに私は訂正した。
「いやいやいや…音読みは中国から入ってきた読み方だよ!」
オーストラリアという“外側”から見た日本及び日本語は、そんな風に見えるのか…
突飛な発想に聞こえたものは、一周回って妙な説得力を持っていた。
オーストラリアのハイスクールは、日本で言うなら中高一貫校という感じ。
これは中学3年生に相当する日本語クラスのボランティアをしたときのこと。
日本語担当の先生は日本への留学経験はないらしく、私と話すときも「英語の方がありがたいわ~」というオーストラリア人女性。
とてもフレンドリーで心優しい方だった。
教科書を読んでいたときのこと。
その文章の最後に「かわいそうな金魚!」という一文と共に、なんとも表現しがたい表情の金魚の絵が描いてあった。
それを音読した直後、それまで日本語文を英語で順次解説していた先生が言った。
「I don't think so!」
それはとても力のこもったったひとことだった。
詳細をはっきりとは覚えていないのだけれど、確かそのお話は、金魚が猫に狙われてどうのこうの…といったようなものだったと思う。
そして最後に出てくる「かわいそうな金魚!」の一文。
まぁストーリーは各々の好みだし、先生がこの金魚をかわいそうだと思わなくても別にかまわないのだけれど…
何故そんなにも力を込めて言い放ったのか。
私は首を傾げた。
そして次の瞬間、ふと気づいた。
おそらく先生は、「楽しそう」とか「悲しそう」といった「楽しい+そう(そんな風に見える)」「悲しい+そう(そんな風に見える)」と同様にこの文を読んだのだと思う。
そう、「かわいい+そう(そんな風に見える)」=「かわいそう」という風に。
だからその何とも表現しがたい挿絵の金魚を見て
“全然かわいくない”
と思った先生はとっさに言ってしまったのだ。
「I don't think so!」
先生がそんな勘違いをしていれば、当然生徒だって正確には理解していないことになる。
気づいた私は慌てて訂正した。
「違うよ 違うよ!『Poor KINGYO』だよ!」
「Oh...」
勘違いに気づいた先生は、目をまん丸くしてうなずいていた。
「かわいい+そう(そんな風に見える)」=「かわいそう」
おもしろい発想だ。
日本人だったらその発想はないね…と思ったところで思い出した。
昔、「きっとかわいいだろうね」を「かわいそうだよね」と表現した友人(日本人)がいたことを。
「かわいい」と「かわいそう」では、全然違う意味になってしまうのだけども…^^;
これは中学3年生に相当する日本語クラスのボランティアをしたときのこと。
日本語担当の先生は日本への留学経験はないらしく、私と話すときも「英語の方がありがたいわ~」というオーストラリア人女性。
とてもフレンドリーで心優しい方だった。
教科書を読んでいたときのこと。
その文章の最後に「かわいそうな金魚!」という一文と共に、なんとも表現しがたい表情の金魚の絵が描いてあった。
それを音読した直後、それまで日本語文を英語で順次解説していた先生が言った。
「I don't think so!」
それはとても力のこもったったひとことだった。
詳細をはっきりとは覚えていないのだけれど、確かそのお話は、金魚が猫に狙われてどうのこうの…といったようなものだったと思う。
そして最後に出てくる「かわいそうな金魚!」の一文。
まぁストーリーは各々の好みだし、先生がこの金魚をかわいそうだと思わなくても別にかまわないのだけれど…
何故そんなにも力を込めて言い放ったのか。
私は首を傾げた。
そして次の瞬間、ふと気づいた。
おそらく先生は、「楽しそう」とか「悲しそう」といった「楽しい+そう(そんな風に見える)」「悲しい+そう(そんな風に見える)」と同様にこの文を読んだのだと思う。
そう、「かわいい+そう(そんな風に見える)」=「かわいそう」という風に。
だからその何とも表現しがたい挿絵の金魚を見て
“全然かわいくない”
と思った先生はとっさに言ってしまったのだ。
「I don't think so!」
先生がそんな勘違いをしていれば、当然生徒だって正確には理解していないことになる。
気づいた私は慌てて訂正した。
「違うよ 違うよ!『Poor KINGYO』だよ!」
「Oh...」
勘違いに気づいた先生は、目をまん丸くしてうなずいていた。
「かわいい+そう(そんな風に見える)」=「かわいそう」
おもしろい発想だ。
日本人だったらその発想はないね…と思ったところで思い出した。
昔、「きっとかわいいだろうね」を「かわいそうだよね」と表現した友人(日本人)がいたことを。
「かわいい」と「かわいそう」では、全然違う意味になってしまうのだけども…^^;
オーストラリアのメルボルンにあるハイスクールで、日本語クラスのボランティアをしたことがある。
日本の高校2年生(だったかな?)に相当するクラスの先生は、学生時代に日本に留学したことのあるオーストラリア人女性。
かなり日本語が堪能で、面倒見のいい素敵な女性だった。
ある時私は、学生の作文添削を手伝っていた。
「あの…この『音楽屋』って何でしょう?」
見慣れない日本語に「?」マークが飛び交う私の頭。
「Music shop。音楽屋さんでしょ?言わないですか?」
先生の答えに、私は目から鱗だった。
Music shop!!
確かにそのまんま訳せば『音楽屋』だ!
うまい!!(笑)
学生はごく真面目に書き、先生も真剣にたずねている。
決してウケを狙っているわけではないのだけど、私は妙な納得をすると共に感心してしまった。
「じゃあ何て言いますか?」
答えようとして、はたと思った。
さてこの質問…
あなたなら何と答えますか?
私はとっさに、その単語が思い浮かばなかった。
日常会話を思い出す。
「ちょっとタワレコ行ってくる」
「HMVに行きたいんだけど」
私たちはこんな風に、「ショップ名=CDを販売しているお店」として、それらをMusic shopの代名詞的に使っていることに気がついた。
ちなみにこの2002年当時、私の地元にあった“音楽屋さん”は『山野楽器』だったので、私にとっては「CDを買ってくる=山野楽器に行ってくる」だった。
例えばもし、誰かが
「この近くに『タワレコ』ありますか?」
と尋ねたとする。
本人が『タワレコ』と言っていたとしても、話の脈絡から
「CDが売っているお店であればいい。
タワーレコードにこだわっているわけではない」
ということがわかれば、
「『HMV』ならあそこにありますよ」
と答えることができる。
そこではすでに、『タワレコ』や『HMV』がMusic shopを表す日本語になっているということだ。
ただ、これをオーストラリア人に伝えるのはなかなか難しい。
回りくどい説明が必要な気がするし、ましてや私の英語力ではそこまでカバーすることはできなかった。
さてどうしよう…
頭を悩ませながら、私はひとつの答えを導きだした。
「『CDショップ』…かな?」
するとすかさず、彼女はツッコミを入れてきた。
「それは英語でしょ!!」
ええええええっ!!?
そ…そうか……、そ…うか?
確かにshopは英語だ。
彼女の言っていることは間違ってはいない。
でも、たぶん私の言っていることも間違ってはいなかった。
日本語には外来語というものがある。
(日本語ではない言語にももちろんあるけれど)
広辞苑によれば、外来語とは
『外国語で、日本語に用いるようになった語。狭義では漢語を除く。伝来語』
とある。
私たち日本人はそれらをカタカナで表記し、日常の中にとけ込ませている。
そして今や私たちは、同じもの(または似たようなもの)を表す日本語があるにも関わらず、日本語と外来語の言葉を無意識に使い分けていることが多々ある。
たとえば「喫茶店」と「カフェ」
たとえば「洋食屋」と「レストラン」と「イタリアン」
何となく、どんな雰囲気のものを指しているかが、日本人ならイメージできるだろう。
このようなこともあって『CDショップ』は、ごく普通の日本人である私が思いついた言葉としては外してはいなかったと思う。
『レコード屋さん』だと、また意味合いが変わってくるし。
けれど彼女からは鋭いツッコミがきた。
「う…ん、でもそう言うと思うけど…」
ネイティブなのに…
日本語ネイティブなのに、弱気になる私。
彼女は首を傾げ、結局心からの納得を得ることはないまま、その話は終わったのだった。
日本の高校2年生(だったかな?)に相当するクラスの先生は、学生時代に日本に留学したことのあるオーストラリア人女性。
かなり日本語が堪能で、面倒見のいい素敵な女性だった。
ある時私は、学生の作文添削を手伝っていた。
「あの…この『音楽屋』って何でしょう?」
見慣れない日本語に「?」マークが飛び交う私の頭。
「Music shop。音楽屋さんでしょ?言わないですか?」
先生の答えに、私は目から鱗だった。
Music shop!!
確かにそのまんま訳せば『音楽屋』だ!
うまい!!(笑)
学生はごく真面目に書き、先生も真剣にたずねている。
決してウケを狙っているわけではないのだけど、私は妙な納得をすると共に感心してしまった。
「じゃあ何て言いますか?」
答えようとして、はたと思った。
さてこの質問…
あなたなら何と答えますか?
私はとっさに、その単語が思い浮かばなかった。
日常会話を思い出す。
「ちょっとタワレコ行ってくる」
「HMVに行きたいんだけど」
私たちはこんな風に、「ショップ名=CDを販売しているお店」として、それらをMusic shopの代名詞的に使っていることに気がついた。
ちなみにこの2002年当時、私の地元にあった“音楽屋さん”は『山野楽器』だったので、私にとっては「CDを買ってくる=山野楽器に行ってくる」だった。
例えばもし、誰かが
「この近くに『タワレコ』ありますか?」
と尋ねたとする。
本人が『タワレコ』と言っていたとしても、話の脈絡から
「CDが売っているお店であればいい。
タワーレコードにこだわっているわけではない」
ということがわかれば、
「『HMV』ならあそこにありますよ」
と答えることができる。
そこではすでに、『タワレコ』や『HMV』がMusic shopを表す日本語になっているということだ。
ただ、これをオーストラリア人に伝えるのはなかなか難しい。
回りくどい説明が必要な気がするし、ましてや私の英語力ではそこまでカバーすることはできなかった。
さてどうしよう…
頭を悩ませながら、私はひとつの答えを導きだした。
「『CDショップ』…かな?」
するとすかさず、彼女はツッコミを入れてきた。
「それは英語でしょ!!」
ええええええっ!!?
そ…そうか……、そ…うか?
確かにshopは英語だ。
彼女の言っていることは間違ってはいない。
でも、たぶん私の言っていることも間違ってはいなかった。
日本語には外来語というものがある。
(日本語ではない言語にももちろんあるけれど)
広辞苑によれば、外来語とは
『外国語で、日本語に用いるようになった語。狭義では漢語を除く。伝来語』
とある。
私たち日本人はそれらをカタカナで表記し、日常の中にとけ込ませている。
そして今や私たちは、同じもの(または似たようなもの)を表す日本語があるにも関わらず、日本語と外来語の言葉を無意識に使い分けていることが多々ある。
たとえば「喫茶店」と「カフェ」
たとえば「洋食屋」と「レストラン」と「イタリアン」
何となく、どんな雰囲気のものを指しているかが、日本人ならイメージできるだろう。
このようなこともあって『CDショップ』は、ごく普通の日本人である私が思いついた言葉としては外してはいなかったと思う。
『レコード屋さん』だと、また意味合いが変わってくるし。
けれど彼女からは鋭いツッコミがきた。
「う…ん、でもそう言うと思うけど…」
ネイティブなのに…
日本語ネイティブなのに、弱気になる私。
彼女は首を傾げ、結局心からの納得を得ることはないまま、その話は終わったのだった。