あるコトバ遊びのお芝居を見た。
有名な原作に加えて、座長はテレビでもよく拝見する実力派俳優さん。
昔読んでおもしろかったその作品が舞台に乗ったとき、どのように表現され伝えられるのか。
久しぶりの観劇ともあって、少なからず期待を胸に足を向けた。
しかし…
開始10分で限界がきた。
なんか間延びしてるなぁ…
いつまでこのテンポが続くのかなぁ?
前置き長いなぁ…
もうそろそろ本題に入ってくれないかなぁ…
欠伸をかみ殺しながら芝居を見るのは結構苦痛だ。
話の冒頭から展開されるコトバ遊び。
だが見ている側の私にとってそれは、舞台上の登場人物がくだらない揚げ足取りをしているようにしか伝わってこなかった。
結論から言うと、その芝居は最初から最後までそれだけで終わってしまった。
その作品は、まさに『コトバ』を扱ったものだった。
コトバのトリック。
コトバのミスリード。
コトバそのものに潜むヒント。
本で読めば、前半のページを捲ってキーワードを探し出したくなるような
本来なら“やられた感”満載の作品だ。
でも残念ながら、そのおもしろさは舞台上では完全に消えてしまっていた。
何故か。
それは役者さんたちが「見せるための舞台」を作っていなかったから。
観客に「伝えるための舞台」を作っていなかったから。
だから残念ながら、舞台の上という内輪での盛り上がりで終わってしまっていたのだ。
私はこのとき、役者も「伝えるプロ」という意識が必要な職業なのだと知った。
『セリフ』という名のコトバを表現する。
演技の上手下手はよく耳にするけれど、そこには
「どれだけその言葉と共にいられているか」
も関係してくるものなのだと。
そしてその言葉にのせて伝えていく。
言葉を使わない、ノンバーバルなコミュニケーションと共に。
それがない舞台は、「言ったつもり」の感覚ととても似ていた。