人間は思い込みの上に成り立っている。
それは常識だったり
育ってきた環境によって育まれた価値観だったり
偏った情報による思い込みだったり、いろいろだ。
思い込みは、悪ではない。
でも、しばしば人間の成長を止める要素となる。
それは例えば、これ。
『勉強しないと外国語を話せるようにはならない』
じゃあどうして私たちは日本語を話せるようになったのか。
小学校に入学して国語の授業を受けるようになる前から、
私たちは日本語を話してたよね??
“だって日本人だもん”
そうね。
しかも両親が日本人であれば尚更、日本語環境で育ってきたんだものね。
それ以外の環境がなければ、音を耳にする機会も話す機会もないもんね。
日本は、日本語というひとつの言語しか話されていない上に
島国というある意味とても特殊な環境の国だ。
でもそれはそれとして、
本当に、勉強しないと話せるようにならないのだろうか。
そもそも言葉の勉強って何だろう?
文法?
単語の暗記?
構文??
少なくとも私は、そのような“勉強”を積み重ねても
外国語を話せるようにはならないということを知っている。
それから例えば、これ。
『10代のうちに海外に行かないと、頭が固くなるから語学は身につかない』
『その国に長く住まないと、その言語は話せるようにならない』
これらの“思い込み”は、かつて私も抱いていたものだ。
でも私は幸い、違う現実を見るチャンスがあった。
たとえば20代以降にそれまで縁のなかった国に渡って
勉強もせずに普通に会話ができるようになった何人ももの人たちとの出会い。
中国語なんて全然知らないのに中国を放浪し、
通訳までできるようになってしまった彼とか
(『
目からウロコ、中国放浪で…?!』参照 )
「ロシアを旅してたから全部耳コピなんですよ~」と言いながら
ロシア語をペラペラ話す彼とか。
逆に、移住した先の国に長く住んでいても、
あまりその国の言語が堪能ではない人も多く見てきた。
私は勉強がいらないとは思っていない。
でも、その勉強方法の根底にあるものが本質的に自然であり
本当に人間に適した形なのか…ということには大いに関心がある。
そしてそのヒントは、やっぱり
“自分がどうやって日本語を話せるようになったのか”
だと思うのだ。
その実験を、私はメキシコでしてきた。
メキシコの公用語はスペイン語だ。
私はそのスペイン語を 勉強せずに音に触れ真似をする
という実験活動をしていた。
(この実験、スペイン語だけではなく多言語で行っているのだけれど)
音に触れ、真似をし…を繰り返していると
不思議なことにだんだん意味がわかってくる。
ある日突然、
「あれ?あの場面で言っているコトバとあの場面のものは同じだ!」 とか
「もしかしてこれってこういう意味?!」 とか
「スペイン語の単語は知らないけど、英語と似てるからこういう意味かも!」 とか
「何だろう、この言い回し。気になる…って、あ!もしかして!!」 とか…
何とも感覚的で申し訳ないけれど、自分の中での気づきがどんどん起こるのだ。
そして誰かに知識として教えられたものや暗記したものではなく、
自分で気づいて自分の中に落とし込んだものは決して忘れない。
そんなことを繰り返してメキシコへ旅立った。
さて、どうだったのか。
結論から言うと、何も困らなかった。
まず、多くの日本人が海外に渡ったときに最初に感じる、
耳に入ってくる言語への戸惑いがない。
まったく! 見事に皆無。
次に、「全部知ってる~!」という感覚。
そして、自分が気づいたものは、すべて使って話せるということ。
それはまるで確認だった。
そのくらい、私にとっては、すべてが普通に起きていることだった。
とはいっても、「わかる」という感覚は人によって異なる。
なのでここで、私がどのくらいわかったのか、という話をしてみよう。
メキシコ・シティの中心地近くに、オペラやバレエを上演する劇場がある。
その劇場は、外観がイタリア様式の建物だそうだ。
その建物の建設中に、革命が起こった。
そこで劇場の建設は一時中断された。
メキシコ・シティは標高2000mの地点にあり、
今も年に1~3cmくらいのペースで沈んでいる。
そんな土地に建物を建てているわけだ。
革命が終わり、劇場の建設が再開された。
担当建築士が変わり、イタリア様式の外観に対し、
内部はメキシコ様式の仕様となった。
メキシコにおいて大切にされているもの。
それは太陽と水だ。
なので建物の内部に入り、階段を上がって上部を見上げると
太陽を司るように大きな丸い天窓がついている。
ここから太陽の光を取り入れるのだ。
そしてこの部分は、屋根にも太陽を象徴とするオレンジと黄色の塗料が塗られている。
そしてまた、中心階段の左右には、噴水をモチーフとした照明が配されている。
ここからも、メキシコ人が水を大切にしていることが伺える。
外観を見てみると、まず屋根の上に4人の女性像があることに気づく。
彼女達は音楽の女神だ。
その下には春夏秋冬をモチーフとしたレリーフが掲げられ
中央には一体の女性像。
彼女はバランスを象徴している。
他にもいろいろあるのだが、このような話を現地のボランティア通訳さんが
話して聞かせてくれた。
もちろんスペイン語で。
そして私は、これがすべてわかったのだ。
加えて言うなら、それを「こういうことを言ってるよね?」と
現地に5ヶ月ほど留学しているという高校生に確認しながら
同行していた日本人の仲間たちに通訳することができた。
これは我ながら、「ちょっとすごいんじゃない…?」
と思うような体験だった。
「わかる」という感覚は人によって異なる。
なのでこの話は、「私ってこんなにわかってスゴイでしょ」ということではなく
「このくらいのことがわかったよ」という具体的な例として受け取っていただければ嬉しい。
「スペイン語を勉強したことがありますか?」
この質問に対する答えは NO。
でもスペイン語に触れたことがあるかといえばYESだ。
耳から入り、子どものように真似っこし、自分で気づいたものは多々あった。
そして知識として、「スペイン語は主語によって動詞の活用が変化する」
ということは知っていた。
ここで私が言いたいのは、自分が思い込んでいる常識が
本当かどうかはわからないよ、ということ。
『勉強しないと外国語を話せるようにはならない』
→ いえいえ。私は勉強せずにメキシコに行って
普通に現地の人たちと会話してきたよ。
『10代のうちに海外に行かないと、頭が固くなるから語学は身につかない』
→ 私がこの実験活動と出会ったのは33歳のとき。
そして3年半ちょっとやってみての今回だよ。
『その国に長く住まないと、その言語は話せるようにならない』
→ 今回のメキシコ滞在は10日くらいよ。
人間は思い込みの上に成立している。
そしてそれが常識として自分の枠を創っている。
でもその常識も、最初を見れば
どこかの時代の誰かが(または育ってくる中で思い込んだ過去の自分が)
創り上げたものにすぎない。
だからもし、その常識の根底にあるものが揺らいでしまえば
その上に築いたものはすべて、覆ってしまう。
これは悪いことではない。
そして何も、言葉に限ったことでもないのだ。
世間の常識も、社会のルールも、時代の価値観も
もちろん自分自身の価値観も、自分の能力も
他者への自己アピール方法も、コミュニケーションも…
すべては思い込みの上に成り立っている。
思い込みは悪ではない。
ただ、思い込んでいるものがはずれたとき
自分の価値観が揺らぎ、はずれたとき
人は新たな世界を見ることができる。
世界は広がり、深くなる。
そして新たな自分と出会うことができるのだ。
さらに言うと、ある価値観のはずれた先に見た世界もやはり、
その時点での自分の価値観で見ている世界だ。
どこまで見続けていくことができるのか。
終わらないね、きっと。