オーストラリアにいたとき
「こっちの人は畳み掛けるように話すなぁ」
と思った。
とにかく 『間』 がない。
言葉の上にかぶせて言葉がふりかかってくる。
誰かが話している最中に、誰かが次の言葉を発するから
最後まで聞いて、受け取ってから答えようとすると
あっという間にそのタイミングは失ってしまう。
これはすごく疲れるし、ある意味自分本位だ。
日本人は、その『間』とか、『聴く』ということを
生活の中で自然に身につけているのだと、海外の人と出会うと思う。
もちろん、すべての日本人がそうというわけではない。
同様に、すべての外国人がそうだとも断言できない。
でも比率で言えば、やはり圧倒的に、海外の人たちの方が多いように思う。
相手のコトバを待たずに、畳み掛けるように話す人たちが。
これはここ数年、ホームビジットやホームステイとして
海外ゲストを受け入れていても思うこと。
特に止まらないのが、アフリカ勢。
「僕はシャイなんだ…」
「私はあまりしゃべらない性格で…」
「英語が話せないから…」
そんなことを言いつつ、彼らの口は止まらない。
彼らと過ごしていると、実に9割の時間、彼らがひたすらしゃべっている。
ここまでくると、これはもうこちらの自己表現だの言語レベルだのという問題ではなくなってくる。
ただただ圧倒されるのみ。
先日とある国内線で、海外からやってきた墨絵作家のインタビューを見た。
彼は言っていた。
「日本は、すべてにおいて『間』がある文化。
僕たち西洋人は、余白があれば塗り潰そうとする。
描いたところ以外は切り落とそうとする。
でも日本人は、その『間』からも何かを感じ取っている。
そしてこれは、墨絵だけでなく、すべての日本文化に言えることだと思う」
まったくその通りだ。
会話をしていても、ふとした『間』で、相手を感じたり思いやったり
また自分の中を整理したり、相手が整理するのを待ったり
考えたり、納得したりする。
それは『話す』だけではなく、『聴く』という姿勢があるからだ。
それがないということは…
自分の中にその場で起こったことを一体いつ、
消化して自分のものにしていくのだろう。
私の仕事はセラピスト兼コーチだ。
いわば『聴く』のが第一の仕事。
まず『聴く』ことにおいて、クライアントさんの中で起こっていることを受け取り
そこから気づきを引き起こし、新たな自分の発見や、行動へとつなげていく。
それがないということは…
海外ゲストとのやりとりは楽しい。
だがしかし。
ものすごーーーく疲れることがあるのも事実。
疲労度が高いとき―――
それは決まって、相手がひたすらにしゃべり続けてくれたときだ。
8時間連続、トイレに行くとき以外はずっと…とかね。
これは私にも夫にも、共通している。
おかげでというか何というか…
相手はとてもスッキリして帰っていってくれるのだけれど(笑)
『聴く』チカラって、すごい。
そして
国や文化が違っても、人間そのものの本質はそうそう変わらない。
“『聴く』ことができる”
それはとてつもない財産だ。
『カタカナ英語』という言葉があるように、
日本人が話す英語には似たような波がある。
これは明らかにイギリスやアメリカやオーストラリアやニュージーランドで
英語のネイティブスピーカーに話されている英語とは違ったリズムだ。
教育によっては…というより英語の基礎がまだできていない時点で
出会う英語教師や英語のネイティブスピーカーによっては
日本で暮らす日本人でもそうならずにすむことはもちろんある。
でも残念ながら、「カタカナ英語」や「日本語英語」を話さない相手から
英語のリズムなり発音なりを受け取らないと、
『日本語』を話す癖のついている日本人は「日本語っぽい英語」を話すことになってしまう。
これはひとえに環境によるもの、
そしてそれによって培われた人間の耳と口によるものだ。
そしてこれは、何も日本でのみ起こっていることではない。
中国人は中国語っぽい発音で英語を話すし
韓国人は韓国語のような発音の英語を話す。
タイ人はタイ語っぽい英語だし
ベトナム人はベトナム語っぽい。
東南アジアの人たちと話していると
国は違えどあのあたりの人っぽい発音の英語だな~…
なんて思うことはしょっちゅう。
カタカナ英語がいいとは思わないけれど
これはどこの国でもある程度起こることなのだということは
知っていてもいい。
さらに言うと、海外の日本語学習者の話す日本語で、
まったく同じことが起こっている。
どういうことかというと
中国人の話す日本語、韓国人の話す日本語、アメリカ人の話す日本語…
どれも“その国らしさ”が出ているということ。
正確に言うと、“その国で話されている言葉らしさ” が。
たとえば中国語話者を例にしてみよう。
中国語には四声がある。
つまり中国語は、その四声の高さの範囲の中で
すべての会話が行われているのだ。
音のない、文字だけのこの記事で伝わるかわからないけれど
昔からよく耳にするあのフレーズ
「ワーターシ、チュウゴクジン アールーネー」
(わかるかな?^^;)
たぶんこれは、実際に中国語話者が口にしたのではなく
日本語を話す中国人の特徴を捉えて真似をした日本人がいたのだと思う。
日本語は、語尾が下がっていく言語だそうだ。
逆に中国語は、語尾だろうが何だろうが、必ず四声の高さの範囲に納まる言語。
だから「中国語の発音ぽい日本語」となると
あのフレーズのような波になるということらしい。
伝わるだろうか?
ああ…
私が声でお届けできれば一発なのに!
そんな風に、言語というものは母国語の影響を強く受ける。
ましてやそれが“学んだ言語”だったらなおさらだ。
その言語らしい特徴を捉える前に、知識や単語を詰め込まれ
赤ちゃんのように体の中で消化して感覚を養う前に
アウトプットを余儀なくされることで、その言語らしさから遠ざかってしまう。
豊かな言語環境とアウトプットするまでのゆとりのある時間が与えられれば
もっと多くの人が違った結果を得るだろうとは思うのだけれど。
現代社会はせわしない。
今年に入って私は、何人かアフリカ出身の人たちと出会った。
ひとことでアフリカと言っても大陸。広い。
現地語も豊富だし、公用語も国によって
英語・フランス語・アラビア語・スワヒリ語と様々。
でも何故か、彼らの話す日本語のとあるフレーズが
驚くほど同じ波なことに気がついた。
それは
「すみませ~ん」
これ。
ああ…これも文字だけで見たって伝わらないだろうけれど…
言わずにはいられない。
すごくおもしろいの。
「すみませ~ん」
どうしてそんな言い方なの?!
あなた達には、そんな風に聞こえているの?!
何というか…
ずいぶんアホっぽいのだ、あの「すみません」のリズムは。
一体アフリカの、何が影響してああいう「すみません」になるのか。
何とも言えない脱力感。
とりあえず今のところ、アフリカの国々出身の人以外から
あのアホっぽい「すみません」は聞いたことがない。
かわいいんだ、あの「すみませ~ん」(笑)
日本人が話す英語には似たような波がある。
これは明らかにイギリスやアメリカやオーストラリアやニュージーランドで
英語のネイティブスピーカーに話されている英語とは違ったリズムだ。
教育によっては…というより英語の基礎がまだできていない時点で
出会う英語教師や英語のネイティブスピーカーによっては
日本で暮らす日本人でもそうならずにすむことはもちろんある。
でも残念ながら、「カタカナ英語」や「日本語英語」を話さない相手から
英語のリズムなり発音なりを受け取らないと、
『日本語』を話す癖のついている日本人は「日本語っぽい英語」を話すことになってしまう。
これはひとえに環境によるもの、
そしてそれによって培われた人間の耳と口によるものだ。
そしてこれは、何も日本でのみ起こっていることではない。
中国人は中国語っぽい発音で英語を話すし
韓国人は韓国語のような発音の英語を話す。
タイ人はタイ語っぽい英語だし
ベトナム人はベトナム語っぽい。
東南アジアの人たちと話していると
国は違えどあのあたりの人っぽい発音の英語だな~…
なんて思うことはしょっちゅう。
カタカナ英語がいいとは思わないけれど
これはどこの国でもある程度起こることなのだということは
知っていてもいい。
さらに言うと、海外の日本語学習者の話す日本語で、
まったく同じことが起こっている。
どういうことかというと
中国人の話す日本語、韓国人の話す日本語、アメリカ人の話す日本語…
どれも“その国らしさ”が出ているということ。
正確に言うと、“その国で話されている言葉らしさ” が。
たとえば中国語話者を例にしてみよう。
中国語には四声がある。
つまり中国語は、その四声の高さの範囲の中で
すべての会話が行われているのだ。
音のない、文字だけのこの記事で伝わるかわからないけれど
昔からよく耳にするあのフレーズ
「ワーターシ、チュウゴクジン アールーネー」
(わかるかな?^^;)
たぶんこれは、実際に中国語話者が口にしたのではなく
日本語を話す中国人の特徴を捉えて真似をした日本人がいたのだと思う。
日本語は、語尾が下がっていく言語だそうだ。
逆に中国語は、語尾だろうが何だろうが、必ず四声の高さの範囲に納まる言語。
だから「中国語の発音ぽい日本語」となると
あのフレーズのような波になるということらしい。
伝わるだろうか?
ああ…
私が声でお届けできれば一発なのに!
そんな風に、言語というものは母国語の影響を強く受ける。
ましてやそれが“学んだ言語”だったらなおさらだ。
その言語らしい特徴を捉える前に、知識や単語を詰め込まれ
赤ちゃんのように体の中で消化して感覚を養う前に
アウトプットを余儀なくされることで、その言語らしさから遠ざかってしまう。
豊かな言語環境とアウトプットするまでのゆとりのある時間が与えられれば
もっと多くの人が違った結果を得るだろうとは思うのだけれど。
現代社会はせわしない。
今年に入って私は、何人かアフリカ出身の人たちと出会った。
ひとことでアフリカと言っても大陸。広い。
現地語も豊富だし、公用語も国によって
英語・フランス語・アラビア語・スワヒリ語と様々。
でも何故か、彼らの話す日本語のとあるフレーズが
驚くほど同じ波なことに気がついた。
それは
「すみませ~ん」
これ。
ああ…これも文字だけで見たって伝わらないだろうけれど…
言わずにはいられない。
すごくおもしろいの。
「すみませ~ん」
どうしてそんな言い方なの?!
あなた達には、そんな風に聞こえているの?!
何というか…
ずいぶんアホっぽいのだ、あの「すみません」のリズムは。
一体アフリカの、何が影響してああいう「すみません」になるのか。
何とも言えない脱力感。
とりあえず今のところ、アフリカの国々出身の人以外から
あのアホっぽい「すみません」は聞いたことがない。
かわいいんだ、あの「すみませ~ん」(笑)
以前、私は方言が怖かったという話をした。
(『方言が苦手③ ・④』参照)
でもこれは、自分の話す標準語を否定されたり
慣れないコトバ(方言)で言われることで怒られていると錯覚してしまったり
というのが主な原因だった。
方言はあくまで相手のコトバであり、自分のコトバではなかったから。
わからないが故の、恐怖だ。
だがしかし。
ある時友人から、私が抱いていたものとはまったく真逆の
“方言の持つ力”を教えてもらった。
彼女は教師をしている。
職場は北海道。
だが出身は九州だ。
日本を小さな島国と言ったのは誰だったのか…
日本は広い。
地域によって、コトバはもちろん
文化も料理も味覚も、街並みも年中行事も感覚も
みんな異なっている。
「京都の街は碁盤の目なんだよ!」と言うと東京や九州の子ども達は驚く。
でも札幌の子にとっては「それが何なの?」だ。
札幌の街も碁盤の目だからね(笑)
このように、同じことを伝えるにしても
地方によってその背景が異なるから、子ども達の持つ常識や感覚も変わってくる。
授業においてそんなことがあったと話してくれた彼女が
コトバについても教えてくれた。
「方言は普通に使うけどね。
子どもたちにとっては『これはこの人の言葉』っていう感じだね。
地元で地元の子たちを相手に使うのとはやっぱり違う」
どう違うのか。
それは彼女が同業の友人と交わしたという会話の中に答えがあった。
それによると、主に叱るときにその効果は発揮されるという。
つまり同じ方言を使う子どもたちに対しては、
方言で叱った方が子ども達に怖さが伝わるらしいのだ。
子どもたちは方言で叱られると、半端な恐怖するらしい。
それはつまり、教師だけでなく
子どもたちにとっても『自分の言葉』で伝えられているということ、
標準語や他の地域の方言で何かを伝えられるより
自分たちのコトバで伝えられた方がストンと中まで入っていくということだ。
そして「自分達が悪いことをしてしまった!」と本気で捉える。
これは私にはない感覚だ。
私にとっての方言はイコール標準語で
日本語とはいえ2つの言葉の感覚がある中では育っていない。
だから私は、方言のある地域で育った人が
テレビの中の人を「自分達とは違う言葉を話す人たち」としながらも
その言葉をカタコトではなく母国語として理解し操れるということが
自分の体感覚としては理解できない。
もちろん、標準語を話していると思っている人が
私から見ると完全に訛ってるよ!なんていうことだって
多々ありはするのだけれど。
(特に北海道は、そういう人が多くておもしろい。)
キツイ言い方や暴力的な言い方をされて怖かったとか
汚い言葉を使われて不愉快だったということはあっても
「こっちのコトバよりこっちのコトバで言われた方が真に伝わる」
という感覚は持ち合わせていないのだ。
おもしろいものだな~と思う。
私はどちらかというと、
“自分のコトバじゃない言葉”で言われた方がドキッとする。
ニュアンスがわからないし、誤解かもしれない恐怖心がわくことがあるから。
ましてそれが相手のコトバであれば、完全に太刀打ちできず
一方的に萎縮してしまう。
でも彼女の話は、それとまったく逆のシチュエーションを伝えてくれたのだ。
コトバって不思議。
方言て不思議。
『ネイティブ』って、本当は
「とてもとても小さなエリアで使われている個々の言葉を使っている個々人」
をさすのかもしれない。
(『方言が苦手③ ・④』参照)
でもこれは、自分の話す標準語を否定されたり
慣れないコトバ(方言)で言われることで怒られていると錯覚してしまったり
というのが主な原因だった。
方言はあくまで相手のコトバであり、自分のコトバではなかったから。
わからないが故の、恐怖だ。
だがしかし。
ある時友人から、私が抱いていたものとはまったく真逆の
“方言の持つ力”を教えてもらった。
彼女は教師をしている。
職場は北海道。
だが出身は九州だ。
日本を小さな島国と言ったのは誰だったのか…
日本は広い。
地域によって、コトバはもちろん
文化も料理も味覚も、街並みも年中行事も感覚も
みんな異なっている。
「京都の街は碁盤の目なんだよ!」と言うと東京や九州の子ども達は驚く。
でも札幌の子にとっては「それが何なの?」だ。
札幌の街も碁盤の目だからね(笑)
このように、同じことを伝えるにしても
地方によってその背景が異なるから、子ども達の持つ常識や感覚も変わってくる。
授業においてそんなことがあったと話してくれた彼女が
コトバについても教えてくれた。
「方言は普通に使うけどね。
子どもたちにとっては『これはこの人の言葉』っていう感じだね。
地元で地元の子たちを相手に使うのとはやっぱり違う」
どう違うのか。
それは彼女が同業の友人と交わしたという会話の中に答えがあった。
それによると、主に叱るときにその効果は発揮されるという。
つまり同じ方言を使う子どもたちに対しては、
方言で叱った方が子ども達に怖さが伝わるらしいのだ。
子どもたちは方言で叱られると、半端な恐怖するらしい。
それはつまり、教師だけでなく
子どもたちにとっても『自分の言葉』で伝えられているということ、
標準語や他の地域の方言で何かを伝えられるより
自分たちのコトバで伝えられた方がストンと中まで入っていくということだ。
そして「自分達が悪いことをしてしまった!」と本気で捉える。
これは私にはない感覚だ。
私にとっての方言はイコール標準語で
日本語とはいえ2つの言葉の感覚がある中では育っていない。
だから私は、方言のある地域で育った人が
テレビの中の人を「自分達とは違う言葉を話す人たち」としながらも
その言葉をカタコトではなく母国語として理解し操れるということが
自分の体感覚としては理解できない。
もちろん、標準語を話していると思っている人が
私から見ると完全に訛ってるよ!なんていうことだって
多々ありはするのだけれど。
(特に北海道は、そういう人が多くておもしろい。)
キツイ言い方や暴力的な言い方をされて怖かったとか
汚い言葉を使われて不愉快だったということはあっても
「こっちのコトバよりこっちのコトバで言われた方が真に伝わる」
という感覚は持ち合わせていないのだ。
おもしろいものだな~と思う。
私はどちらかというと、
“自分のコトバじゃない言葉”で言われた方がドキッとする。
ニュアンスがわからないし、誤解かもしれない恐怖心がわくことがあるから。
ましてそれが相手のコトバであれば、完全に太刀打ちできず
一方的に萎縮してしまう。
でも彼女の話は、それとまったく逆のシチュエーションを伝えてくれたのだ。
コトバって不思議。
方言て不思議。
『ネイティブ』って、本当は
「とてもとても小さなエリアで使われている個々の言葉を使っている個々人」
をさすのかもしれない。
ある帰り道。
夫の運転する車で初めての街を通っていた。
我家の車にはカーナビがない。
だからナビをするのは、地図の読めない私だ。
ちなみにどのくらい読めないかというと
「この先は?」とたずねる夫に対し
「黄色い道をまっすぐ」と答えてしまうくらい。
黄色い道…?
つまり地図上で色分けされている国道なり県道なりの表記を
そのまま伝えてしまうのだ。
その道をまっすぐ進むと国道から逸れてしまうから
“黄色い道”を進むには左折しなければならない…というような時でも
私の中では“まっすぐ進めば黄色い道から逸れない”ことになってしまう。
一世を風靡した本 『話を聞かない男、地図が読めない女』
あれはタイトルだけで頷ける。
さて、私が手にしていた地図に見慣れない表記があった。
『終末処理場』
初めて聞く言葉だったのだけれど
何だかすごーく…嫌な感じを覚えた。
『終末』
それはもう後のない、「終わり」や「果て」を意味する。
広辞苑に載っている「終末」を用いた言葉は
「終末医療」「終末観」「終末論」「終末期古墳」など。
命や人生の終わり、または時代の終わりを示している。
抗えない命や時代の終わり、それに伴う悲しさやわびしさ
そんなものが連想される。
そんな言葉のついた『処理場』。
もしかしたら、ただのゴミ処理場だったのかもしれない。
ゴミの最終処理施設をそう命名しただけだったのかもしれない。
でも日本人として、その響きと漢字から連想されるものを思うと
何ともやりきれないものがこみ上げてきた。
「『終末処理場』 だって」
夫に伝えると、彼も同様の感覚を持ったらしい。
「何か…嫌だね」と漏らしていた。
この、音の響きと漢字から連想するというのは
日本語の持っているひとつの大きな力だ。
まったく知らないコトバでも、音を聞けば自分の中の感覚が揺さぶられ
漢字を知ればイメージできる。
これは、日本語を“学習”するだけでは得られない感覚なのではないだろうか。
もしあの時、日本語が堪能な留学生が車に同乗していたら、
彼らが思い浮かべるのはおそらく 『週末』 だ。
週末処理?
何のこっちゃ?
そう思っても不思議ではない。
週末処理…
そう聞いて私が想像できることだって、
せいぜい休日出勤して溜まった仕事をやっつけるくらいが関の山だ。
ズレまくっている。
そうではない『シュウマツ』。
もし彼らにそれが『週末』ではなく『終末』だということを伝えたとき
どれだけの留学生が、私達が抱いたような
物悲しさややりきれないわびしさを抱くだろう?
私は別に
「留学生にはわからないでしょ!」
なんて言っているわけではない。
『終末処理場』を知らなくても
『終末医療』という言葉を知っていれば
日本人なら、感覚で理解する。
この、日本語の不思議な感覚を
私達はネイティブ日本人として育ってくる中で意識せずとも自然に身につけている。
それはとても奥深く、鋭い感性だ。
「表音文字」と「表意文字」
ふたつの文字を両方使っている言語は
世界にも日本語以外にないと聞いたことがある。
そこから生まれた感覚なのか…
島国である日本は、いろいろな観点において
世界と異なる文化や感性を持っている。
そのひとつが、ここにある気がする。
夫の運転する車で初めての街を通っていた。
我家の車にはカーナビがない。
だからナビをするのは、地図の読めない私だ。
ちなみにどのくらい読めないかというと
「この先は?」とたずねる夫に対し
「黄色い道をまっすぐ」と答えてしまうくらい。
黄色い道…?
つまり地図上で色分けされている国道なり県道なりの表記を
そのまま伝えてしまうのだ。
その道をまっすぐ進むと国道から逸れてしまうから
“黄色い道”を進むには左折しなければならない…というような時でも
私の中では“まっすぐ進めば黄色い道から逸れない”ことになってしまう。
一世を風靡した本 『話を聞かない男、地図が読めない女』
あれはタイトルだけで頷ける。
さて、私が手にしていた地図に見慣れない表記があった。
『終末処理場』
初めて聞く言葉だったのだけれど
何だかすごーく…嫌な感じを覚えた。
『終末』
それはもう後のない、「終わり」や「果て」を意味する。
広辞苑に載っている「終末」を用いた言葉は
「終末医療」「終末観」「終末論」「終末期古墳」など。
命や人生の終わり、または時代の終わりを示している。
抗えない命や時代の終わり、それに伴う悲しさやわびしさ
そんなものが連想される。
そんな言葉のついた『処理場』。
もしかしたら、ただのゴミ処理場だったのかもしれない。
ゴミの最終処理施設をそう命名しただけだったのかもしれない。
でも日本人として、その響きと漢字から連想されるものを思うと
何ともやりきれないものがこみ上げてきた。
「『終末処理場』 だって」
夫に伝えると、彼も同様の感覚を持ったらしい。
「何か…嫌だね」と漏らしていた。
この、音の響きと漢字から連想するというのは
日本語の持っているひとつの大きな力だ。
まったく知らないコトバでも、音を聞けば自分の中の感覚が揺さぶられ
漢字を知ればイメージできる。
これは、日本語を“学習”するだけでは得られない感覚なのではないだろうか。
もしあの時、日本語が堪能な留学生が車に同乗していたら、
彼らが思い浮かべるのはおそらく 『週末』 だ。
週末処理?
何のこっちゃ?
そう思っても不思議ではない。
週末処理…
そう聞いて私が想像できることだって、
せいぜい休日出勤して溜まった仕事をやっつけるくらいが関の山だ。
ズレまくっている。
そうではない『シュウマツ』。
もし彼らにそれが『週末』ではなく『終末』だということを伝えたとき
どれだけの留学生が、私達が抱いたような
物悲しさややりきれないわびしさを抱くだろう?
私は別に
「留学生にはわからないでしょ!」
なんて言っているわけではない。
『終末処理場』を知らなくても
『終末医療』という言葉を知っていれば
日本人なら、感覚で理解する。
この、日本語の不思議な感覚を
私達はネイティブ日本人として育ってくる中で意識せずとも自然に身につけている。
それはとても奥深く、鋭い感性だ。
「表音文字」と「表意文字」
ふたつの文字を両方使っている言語は
世界にも日本語以外にないと聞いたことがある。
そこから生まれた感覚なのか…
島国である日本は、いろいろな観点において
世界と異なる文化や感性を持っている。
そのひとつが、ここにある気がする。
街を歩いていたら友人とばったり会った。
ちょうど韓国人ゲストの受け入れ初日だった彼女。
対面式直後のことだった。
ひとことふたこと言葉を交わし、彼女が言った。
「ペラペラなの」
「へ~!!」
なんということはない会話。
でも次の瞬間、韓国の子は首を傾げて呟いた。
「ペラペラ…?」
そうペラペラ。
日本人の私たちにとっては、ごく普通の表現だ。
でも、日本語を“学ぶ”人たちは、一体いつ、このコトバと出会うのだろう?
今回の彼女のように、日本に来たときなのか
日本人の会話を聞いたときなのか
はたまた、上級者用のテキストで知識として“知る”のか…
「『日本語上手』ってことよ」
と伝えたら、彼女は恥ずかしそうに首を振っていた。
ペラペラなのに、その『ペラペラ』を知らない彼女。
ここに、学習と習得の間のゆらぎがある。
すごくおもしろい。
ちょうど韓国人ゲストの受け入れ初日だった彼女。
対面式直後のことだった。
ひとことふたこと言葉を交わし、彼女が言った。
「ペラペラなの」
「へ~!!」
なんということはない会話。
でも次の瞬間、韓国の子は首を傾げて呟いた。
「ペラペラ…?」
そうペラペラ。
日本人の私たちにとっては、ごく普通の表現だ。
でも、日本語を“学ぶ”人たちは、一体いつ、このコトバと出会うのだろう?
今回の彼女のように、日本に来たときなのか
日本人の会話を聞いたときなのか
はたまた、上級者用のテキストで知識として“知る”のか…
「『日本語上手』ってことよ」
と伝えたら、彼女は恥ずかしそうに首を振っていた。
ペラペラなのに、その『ペラペラ』を知らない彼女。
ここに、学習と習得の間のゆらぎがある。
すごくおもしろい。
ブルキナファソやガボンなど、アフリカのフランス語圏の国々では
英語の他にドイツ語を学ぶ機会が多いらしい。
64の現地語を持つブルキナファソも
52の現地語を持つガボンも多言語国家。
でも公用語のフランス語がないとコミュニケーションがムズカシイと
両国の友人たちが言っていた。
アフリカやヨーロッパにある小さな国のような多言語国家では、
当然のように何ヶ国語も操る人が多い。
以前からそれを聞いていた私にとって、多言語国家で暮らす彼女達の
「公用語がないと会話できない」という言葉はとても不思議だった。
ただ多言語国家に暮らし、何ヶ国語も話せる人であっても
“学校で学んだ新たな言語”は身につかなかった
という話は聞いたことがある。
それは、その言語が話される環境があって自然に習得したものなのか
不自然な順番で学習してしまったものなのかの違いだ。
ブルキナファソやガボンの友人たちも、話せる言語はひとつではなかった。
現地語と公用語、最低でもふたつ。
そこにちょこっと英語やら他の言語やらがプラスされていたり。
そんな彼女達が頭を抱えて言っていた。
「ドイツ語はムズカシイ!!」
「die、der、dasとか、わけわかんない!」
私がブルキナファソのBさんと出会った時期と、
ガボンのAさんMさんと出会った時期はまったく異なる。
なのに彼女たちは図ったように同じことを言っていた。
私にしてみれば、彼女たちの操るフランス語だって
名詞に性があったり、主語によって動詞の活用が変わったり
定冠詞と不定冠詞があったりと、わけがわからない。
そういうものがまったく存在しない日本語を話す私からしてみれば
似たような考えのもとに構成されているフランス語とドイツ語の方が
はるかに近く、得やすい言語だと思うのだけれど…
どうやら彼女たちは、ドイツ語の格変化やそれに伴う冠詞の変化が
お気に召さないらしい。
名詞も、フランス語やスペイン語などのラテン系の言語(ロマンス諸語)だったら
男性と女性のふたつだけれど、ドイツ語はそこに中性名詞がプラスされて3つ。
だから混乱するのかな?
そりゃまぁ、学んで覚えて…をするなら
多いより少ない方が、理解しやすいものね。
どんな立ち位置にいたとしても、コトバをどの角度から見るかによって
おもしろさの感じ方も難しさの感じ方も変わってくる。
コトバは味方につけていた方がいい。
その方が確実に、自分の世界は広がっていく。
そして確実に、世界が狭く近くなる。
だからどうせなら、
「ムズカシイ~~~っ!!」「ワケわから~~~ん!!」
と思うより、
「おもしろーい♪」「楽しい~♪」
と思いながら触れ合えた方がいい。
だから一番はやっぱり、生の言語に触れることだ。
机上の勉強だけれはなく、生の音、生の人間に。
だから言語に関してのみ言えば、
『勉強』は、プラス面とマイナス面が紙一重。
もちろん、通訳士や翻訳家などのプロになろうという人は
その上にプラスアルファが必要だけれども。
『音』と『人』。
まずはそれありき。
『音』と『人』が先にあるとき、そのコトバは生きてくる。
そして
そのコトバは『ワケわからなくてつまらないもの』から
『○○さんと話せる言葉』になる。
それにしても、フランス語話者の彼女たちの
ドイツ語に対する途方に暮れっぷりは、おもしろかった。
コトバが人を混乱させるポイントって、世界共通なのね(笑)
英語の他にドイツ語を学ぶ機会が多いらしい。
64の現地語を持つブルキナファソも
52の現地語を持つガボンも多言語国家。
でも公用語のフランス語がないとコミュニケーションがムズカシイと
両国の友人たちが言っていた。
アフリカやヨーロッパにある小さな国のような多言語国家では、
当然のように何ヶ国語も操る人が多い。
以前からそれを聞いていた私にとって、多言語国家で暮らす彼女達の
「公用語がないと会話できない」という言葉はとても不思議だった。
ただ多言語国家に暮らし、何ヶ国語も話せる人であっても
“学校で学んだ新たな言語”は身につかなかった
という話は聞いたことがある。
それは、その言語が話される環境があって自然に習得したものなのか
不自然な順番で学習してしまったものなのかの違いだ。
ブルキナファソやガボンの友人たちも、話せる言語はひとつではなかった。
現地語と公用語、最低でもふたつ。
そこにちょこっと英語やら他の言語やらがプラスされていたり。
そんな彼女達が頭を抱えて言っていた。
「ドイツ語はムズカシイ!!」
「die、der、dasとか、わけわかんない!」
私がブルキナファソのBさんと出会った時期と、
ガボンのAさんMさんと出会った時期はまったく異なる。
なのに彼女たちは図ったように同じことを言っていた。
私にしてみれば、彼女たちの操るフランス語だって
名詞に性があったり、主語によって動詞の活用が変わったり
定冠詞と不定冠詞があったりと、わけがわからない。
そういうものがまったく存在しない日本語を話す私からしてみれば
似たような考えのもとに構成されているフランス語とドイツ語の方が
はるかに近く、得やすい言語だと思うのだけれど…
どうやら彼女たちは、ドイツ語の格変化やそれに伴う冠詞の変化が
お気に召さないらしい。
名詞も、フランス語やスペイン語などのラテン系の言語(ロマンス諸語)だったら
男性と女性のふたつだけれど、ドイツ語はそこに中性名詞がプラスされて3つ。
だから混乱するのかな?
そりゃまぁ、学んで覚えて…をするなら
多いより少ない方が、理解しやすいものね。
どんな立ち位置にいたとしても、コトバをどの角度から見るかによって
おもしろさの感じ方も難しさの感じ方も変わってくる。
コトバは味方につけていた方がいい。
その方が確実に、自分の世界は広がっていく。
そして確実に、世界が狭く近くなる。
だからどうせなら、
「ムズカシイ~~~っ!!」「ワケわから~~~ん!!」
と思うより、
「おもしろーい♪」「楽しい~♪」
と思いながら触れ合えた方がいい。
だから一番はやっぱり、生の言語に触れることだ。
机上の勉強だけれはなく、生の音、生の人間に。
だから言語に関してのみ言えば、
『勉強』は、プラス面とマイナス面が紙一重。
もちろん、通訳士や翻訳家などのプロになろうという人は
その上にプラスアルファが必要だけれども。
『音』と『人』。
まずはそれありき。
『音』と『人』が先にあるとき、そのコトバは生きてくる。
そして
そのコトバは『ワケわからなくてつまらないもの』から
『○○さんと話せる言葉』になる。
それにしても、フランス語話者の彼女たちの
ドイツ語に対する途方に暮れっぷりは、おもしろかった。
コトバが人を混乱させるポイントって、世界共通なのね(笑)
母国語以外の言語と触れ合うとき、戸惑うのは
“母国語にはまったくない感覚” の存在だ。
たとえば『単数形と複数形』。
英語のように末尾に“s”をつけて複数にする言語もあれば
イタリア語のように“o”が“i”に、“a”が“e”に…と
末尾の母音が変わることで表現する言語もある。
他にも 『可算名詞と不可算名詞』やら『三人称』やら。
名詞に『性』がある言語も多い。
英語だけ考えてみても
単数形と複数形だけでなく、可算名詞かどうか、三人称かどうかで
それに伴う動詞も変化してしまうものだから
その感覚がまったくない日本語を話す日本人としては嫌になる。
「だってこれは数えられるでしょ」と言われても
「こっちだって数えられるじゃん!でもこれは不可算なんでしょ?!」
なんていうものもあったりして。
たとえば英語の 『rice』――米。
これは『数えられない名詞』とされているけれど
一粒、二粒…って、数えられるじゃん!!と思ってしまう。
少なくとも私は。
現に日本語では『ごはん一粒』って言うしね。
数えられるかどうかをわけてどうするんだーーーっ!?
三人称だからって言い方変えてどうするんだーーーっ!?
名詞に性別つけてどうするんだーーーっ!?
コトバの…特に語学の壁にぶつかった経験のある人なら少なからず
こんな気持ちを抱いたことがあるのではないだろうか。
もちろん私もある。
そんなところで区別して何の意味があるの?って。
でも実際、その言語を母国語としている人たちは
そこに特に意味を見出したりはしていない。
言語学者のみなさんがどうかは別として、
一般の人たちにしてみれば
「だってこういうものなんだもん」
という、ただそれだけ。
それは海外の日本語学習者が
何で椅子は『一個』じゃなくて『一脚』なの?!
椅子が『一脚』で湯呑みは『一客』?同じ音じゃん!!
どうしていちいち単位を変えるのさーーーっ?!
と思うのと同じこと。
日本人にしてみれば、
「だってそういうものなんだもん」としか言えない。
「知らないよ、生まれる前からこうだった」って。
だからこそ自然習得は強いし、『学習』すれば壁に当たる。
語学の『勉強』とは、
自然に身につけているネイティブが「そういうもの」としていることに
あえて意味や法則を見出そうとすること。
感覚で身につけるのではなく、頭で理解しようとすることだ。
その環境で生活していない人間にとっては
確かに説明が必要なときは多い。
「だってそういうものなんだもん」と言える環境も経験もないから。
でも本当は、どんな言語でも「だってそういうものなんだもん」
という感覚で話せれば、そんなに嬉しく楽しいことはない。
山のようにある助数詞(~個、~人、~本などの単位)については
なんとも思わず「だってそういうものなんだもん」と思えるのに
「1と2以上でわける」とか「男か女かでわける」とか
「数えられるかどうかでわける」とかいうことにはいちいち混乱させられる。
これは私が紛れもなく日本人であるという証拠。
日本語にあればカンタン。
日本語になければワケがわからない。
ただそれだけのことなのだけれど…
それで一喜一憂するのが人間。
人とコトバってオモシロイ。
そしてとてもメンドクサイ。
人とコトバって、奥が深い。
“母国語にはまったくない感覚” の存在だ。
たとえば『単数形と複数形』。
英語のように末尾に“s”をつけて複数にする言語もあれば
イタリア語のように“o”が“i”に、“a”が“e”に…と
末尾の母音が変わることで表現する言語もある。
他にも 『可算名詞と不可算名詞』やら『三人称』やら。
名詞に『性』がある言語も多い。
英語だけ考えてみても
単数形と複数形だけでなく、可算名詞かどうか、三人称かどうかで
それに伴う動詞も変化してしまうものだから
その感覚がまったくない日本語を話す日本人としては嫌になる。
「だってこれは数えられるでしょ」と言われても
「こっちだって数えられるじゃん!でもこれは不可算なんでしょ?!」
なんていうものもあったりして。
たとえば英語の 『rice』――米。
これは『数えられない名詞』とされているけれど
一粒、二粒…って、数えられるじゃん!!と思ってしまう。
少なくとも私は。
現に日本語では『ごはん一粒』って言うしね。
数えられるかどうかをわけてどうするんだーーーっ!?
三人称だからって言い方変えてどうするんだーーーっ!?
名詞に性別つけてどうするんだーーーっ!?
コトバの…特に語学の壁にぶつかった経験のある人なら少なからず
こんな気持ちを抱いたことがあるのではないだろうか。
もちろん私もある。
そんなところで区別して何の意味があるの?って。
でも実際、その言語を母国語としている人たちは
そこに特に意味を見出したりはしていない。
言語学者のみなさんがどうかは別として、
一般の人たちにしてみれば
「だってこういうものなんだもん」
という、ただそれだけ。
それは海外の日本語学習者が
何で椅子は『一個』じゃなくて『一脚』なの?!
椅子が『一脚』で湯呑みは『一客』?同じ音じゃん!!
どうしていちいち単位を変えるのさーーーっ?!
と思うのと同じこと。
日本人にしてみれば、
「だってそういうものなんだもん」としか言えない。
「知らないよ、生まれる前からこうだった」って。
だからこそ自然習得は強いし、『学習』すれば壁に当たる。
語学の『勉強』とは、
自然に身につけているネイティブが「そういうもの」としていることに
あえて意味や法則を見出そうとすること。
感覚で身につけるのではなく、頭で理解しようとすることだ。
その環境で生活していない人間にとっては
確かに説明が必要なときは多い。
「だってそういうものなんだもん」と言える環境も経験もないから。
でも本当は、どんな言語でも「だってそういうものなんだもん」
という感覚で話せれば、そんなに嬉しく楽しいことはない。
山のようにある助数詞(~個、~人、~本などの単位)については
なんとも思わず「だってそういうものなんだもん」と思えるのに
「1と2以上でわける」とか「男か女かでわける」とか
「数えられるかどうかでわける」とかいうことにはいちいち混乱させられる。
これは私が紛れもなく日本人であるという証拠。
日本語にあればカンタン。
日本語になければワケがわからない。
ただそれだけのことなのだけれど…
それで一喜一憂するのが人間。
人とコトバってオモシロイ。
そしてとてもメンドクサイ。
人とコトバって、奥が深い。
さて今日は自慢話(笑)。
私が『多言語』という言葉・感覚・考え方と出会った当時
とある専門学校の講師をしていた。
美容系の専門学校と製菓調理系の専門学校で教えていたのだが
製菓調理校のカフェビジネス科は1年コースで社会人も多く
海外からの留学生も数名在籍、学生がバラエティに富んでいた。
当時、複数いたのは韓国からの留学生。
今でこそ韓国語に親しみを持ち、多少の会話は可能になった私だが
それまでは学生時代に出会った韓国からの1人の留学生の印象が強すぎて
正直言ってあまり韓国にいいイメージを抱いていなかった。
だが当時、私はちょうど『多言語』と出会ったばかり。
しかも魅力ある韓国人留学生たちとの出会いもあり
急速に韓国や韓国語を身近に感じるようになっていた。
幸いなことに学生さんたちは日本人も韓国人も台湾人も
みんなとてもフレンドリー♪
よく、放課後カフェ練習にお邪魔してはカプチーノをいただいていた。
とにかく早くいろいろな言語を話せるようになりたくて仕方がなかった私は
これ幸いと、その時間を使って韓国の子たちにあれこれ質問しまくった。
「これは韓国語でどう言うの?」
「あれは?」
そして自己紹介を韓国語で言い、聞いてもらって喜んでいた。
「チョンベケスムニダ~」
机に手をついて頭を下げたその時。
男の子が「ぶっ」と吹き出すのをこらえるように、口元を手で押さえた。
ん? 何?
何かおかしかったかな?
何故吹き出されたのかまったくわからず、私はキョトン。
すると女の子が迷いなく彼に尋ねた。
「何? かわいい?」
「うん」
交わされる短い会話。
それだけで私のテンションは急上昇した。
何だかわからないけど、気に入ってもらえたようだ。
顔が緩むのをこらえるのが大変だった。
その後、吹き出した彼がさらに、私を喜ばせた。
「先生、韓国に来たらモテますよv」
え~~~っ?!
ホントーーーっ?!
何故だかわからないけれど、何かがツボだったらしい。
ちょっと本気で、飛行機のチケットを取ろうかと思った(笑)
そんな、自慢話♪
私が『多言語』という言葉・感覚・考え方と出会った当時
とある専門学校の講師をしていた。
美容系の専門学校と製菓調理系の専門学校で教えていたのだが
製菓調理校のカフェビジネス科は1年コースで社会人も多く
海外からの留学生も数名在籍、学生がバラエティに富んでいた。
当時、複数いたのは韓国からの留学生。
今でこそ韓国語に親しみを持ち、多少の会話は可能になった私だが
それまでは学生時代に出会った韓国からの1人の留学生の印象が強すぎて
正直言ってあまり韓国にいいイメージを抱いていなかった。
だが当時、私はちょうど『多言語』と出会ったばかり。
しかも魅力ある韓国人留学生たちとの出会いもあり
急速に韓国や韓国語を身近に感じるようになっていた。
幸いなことに学生さんたちは日本人も韓国人も台湾人も
みんなとてもフレンドリー♪
よく、放課後カフェ練習にお邪魔してはカプチーノをいただいていた。
とにかく早くいろいろな言語を話せるようになりたくて仕方がなかった私は
これ幸いと、その時間を使って韓国の子たちにあれこれ質問しまくった。
「これは韓国語でどう言うの?」
「あれは?」
そして自己紹介を韓国語で言い、聞いてもらって喜んでいた。
「チョンベケスムニダ~」
机に手をついて頭を下げたその時。
男の子が「ぶっ」と吹き出すのをこらえるように、口元を手で押さえた。
ん? 何?
何かおかしかったかな?
何故吹き出されたのかまったくわからず、私はキョトン。
すると女の子が迷いなく彼に尋ねた。
「何? かわいい?」
「うん」
交わされる短い会話。
それだけで私のテンションは急上昇した。
何だかわからないけど、気に入ってもらえたようだ。
顔が緩むのをこらえるのが大変だった。
その後、吹き出した彼がさらに、私を喜ばせた。
「先生、韓国に来たらモテますよv」
え~~~っ?!
ホントーーーっ?!
何故だかわからないけれど、何かがツボだったらしい。
ちょっと本気で、飛行機のチケットを取ろうかと思った(笑)
そんな、自慢話♪
母国語が英語の人たちと話していると、戸惑うことがある。
もちろん自分の母国語は英語じゃないのだから
そんなことあって当たり前なのだけれど。
『通じない』とか『その単語知らない』『言っている意味がわからない』
ならいいのだ。
わからなくても当たり前な立ち位置にいるのだから。
でもそういうことではなく困惑することがある。
それは、相手の使っている意味と、私が受け取る意味合いが違うとき。
たとえば『Gorgeous (ゴージャス)』
日本でこのコトバを使うとしたら、
華やかだったり派手だったりするイメージが伴わないだろうか。
悪く言えば、キンキラでゴテゴテな感じ。
でもオーストラリアにいたとき、彼らはそんな風には使っていなかった。
何か素敵な話を聞いたときに 「Gorgeous!」
とても似合う服を着ている人に向かって 「Gorgeous!」
そんな感じだ。
たとえば『Sexy (セクシー)』
日本で使われる場合、少々エロスを伴う。
露出度が高い服を着ている女性や
豊満な肉体の女性に対して使っている場合が多い。
でも海外の男性が求める女性のセクシーさは、そういうことではない。
アメリカやメキシコからやってきた男性から言われたことがある。
「日本の○○○っていう女の子のグループ、何がいいの?
全然Sexyじゃない!」
彼らは、肉体的エロスとはまったく関係なく
もっと女性的に魅力のある人に対して『Sexy』を使っている。
たとえば『Sweet(スウィート)』
日本にいると、抱くイメージは『甘い』とか
幼い女の子に対して『かわいい』という感じ。
後者は英語のネイティブも使うが、前者が曲者だ。
ナイジェリアからやってきたCさんとケーキを食べていたとき
彼は 「うん、Sweet!」 と言って食べてくれていた。
私は最初、そのケーキが甘すぎるのかと思った。
でも自分で手作りしたそのケーキは、市販のものよりも
かなり甘さ控えめ。
甘ったるいケーキはあまり得意ではない私もおいしく食べられる甘さだ。
うーん…
甘すぎるのかな?
でも何だか違うような…
褒められているのかどうかもよくわからず
「ありがとう」と言っていいのかさえわからずに戸惑った。
でも表情は決して悪くない。
むしろ積極的に食べてくれている。
きっとおいしいって思って食べてくれてるんだろうな
そう思って、会話を続けた。
その後Cさんと一緒に時間を過ごす中で
何かを褒めたり「いいね!」と言う状況のときに
彼が「Sweet!」と言っていることがわかってきた。
やっぱり褒めてくれてたんだ!
その後、彼が口にしてくれる「Sweet」に対して
私は戸惑うことなく「Thank you」と返せるようになった。
和製英語というものがある。
英語のつもりで使っても、相手には通じない。
たとえば 「サラリーマン」とか「オフィスレディ」。
それと同様に、本来の英語の意味と
日本で使われている意味が変わってきてしまっているものもある。
たとえば 「タレント」とか「セレブリティ」。
この一連の流れと同じことが、名詞を表す単語だけではなくて
たくさんあるということだ。
わかってしまえばおもしろい。
でも知らないとちょっと危険。
おかしな誤解を生むからね。
「違う意味だった~!!」と笑い合える間柄であり
誤解を解く時間がもてるのならそれもまた一興だけれど。
もちろん自分の母国語は英語じゃないのだから
そんなことあって当たり前なのだけれど。
『通じない』とか『その単語知らない』『言っている意味がわからない』
ならいいのだ。
わからなくても当たり前な立ち位置にいるのだから。
でもそういうことではなく困惑することがある。
それは、相手の使っている意味と、私が受け取る意味合いが違うとき。
たとえば『Gorgeous (ゴージャス)』
日本でこのコトバを使うとしたら、
華やかだったり派手だったりするイメージが伴わないだろうか。
悪く言えば、キンキラでゴテゴテな感じ。
でもオーストラリアにいたとき、彼らはそんな風には使っていなかった。
何か素敵な話を聞いたときに 「Gorgeous!」
とても似合う服を着ている人に向かって 「Gorgeous!」
そんな感じだ。
たとえば『Sexy (セクシー)』
日本で使われる場合、少々エロスを伴う。
露出度が高い服を着ている女性や
豊満な肉体の女性に対して使っている場合が多い。
でも海外の男性が求める女性のセクシーさは、そういうことではない。
アメリカやメキシコからやってきた男性から言われたことがある。
「日本の○○○っていう女の子のグループ、何がいいの?
全然Sexyじゃない!」
彼らは、肉体的エロスとはまったく関係なく
もっと女性的に魅力のある人に対して『Sexy』を使っている。
たとえば『Sweet(スウィート)』
日本にいると、抱くイメージは『甘い』とか
幼い女の子に対して『かわいい』という感じ。
後者は英語のネイティブも使うが、前者が曲者だ。
ナイジェリアからやってきたCさんとケーキを食べていたとき
彼は 「うん、Sweet!」 と言って食べてくれていた。
私は最初、そのケーキが甘すぎるのかと思った。
でも自分で手作りしたそのケーキは、市販のものよりも
かなり甘さ控えめ。
甘ったるいケーキはあまり得意ではない私もおいしく食べられる甘さだ。
うーん…
甘すぎるのかな?
でも何だか違うような…
褒められているのかどうかもよくわからず
「ありがとう」と言っていいのかさえわからずに戸惑った。
でも表情は決して悪くない。
むしろ積極的に食べてくれている。
きっとおいしいって思って食べてくれてるんだろうな
そう思って、会話を続けた。
その後Cさんと一緒に時間を過ごす中で
何かを褒めたり「いいね!」と言う状況のときに
彼が「Sweet!」と言っていることがわかってきた。
やっぱり褒めてくれてたんだ!
その後、彼が口にしてくれる「Sweet」に対して
私は戸惑うことなく「Thank you」と返せるようになった。
和製英語というものがある。
英語のつもりで使っても、相手には通じない。
たとえば 「サラリーマン」とか「オフィスレディ」。
それと同様に、本来の英語の意味と
日本で使われている意味が変わってきてしまっているものもある。
たとえば 「タレント」とか「セレブリティ」。
この一連の流れと同じことが、名詞を表す単語だけではなくて
たくさんあるということだ。
わかってしまえばおもしろい。
でも知らないとちょっと危険。
おかしな誤解を生むからね。
「違う意味だった~!!」と笑い合える間柄であり
誤解を解く時間がもてるのならそれもまた一興だけれど。
母国語ではない言語で会話をするとき
どう言っていいかわからないと黙って考え込んでしまうことってないだろうか。
この時、何も意志表示をせずに頭の中だけで悩んでいると
相手には「意見のない人」「質問に答えない人」という印象を与えてしまいがち。
『日本人は自己主張しない』と言われる原因の一端はここにあるように思う。
言っていることがわからないのか、聞き取れなかっただけなのか
意見をまとめている最中なのか、コトバが出てこないのか…
考えて黙り込んでしまうだけでは、相手には伝わらない。
でも日本人は、これをやってしまいがちな人が多い。
私はこの状況を回避するために、いくつか意志表示のコツを掴んだ。
1.
たとえば相手に言われたことがよくわからなかったとき。
まずは相手が言ったことを繰り返す。
カウンセリングでいうオウム返しの要領だ。
それは、「あなたの言葉は私に届いていますよ」という意志表示になる。
そしてくり返し自分がその単語を口にすることで意味を掴めることもある。
またもし、その中のキーとなる単語がわからないが故に
質問の意図がわからないのであれば、そのコトバの意味を尋ねればいい。
「わからない」「理解できていない」と伝えればいい。
そうすれば相手は、こちらが何について考えているのかがわかるから
そこを補って再度コミュニケーションをとってくれるのだ。
2.
何か言いたいことがあるのだけれどそのコトバがわからないとき。
たとえば先日ガボンの2人がやって来たとき、
私はどうにかして自分の意志を伝えたかった。
フランス語の単語なんてたいして知らない。
でも伝えたい。
そんなとき、私はまず 「Je…」 と口にした。
言いたいことがあるのよ!
私これから、これをするって言いたいの!
「Je…」 と言って、動作と表情で伝えたい気持ちをアピール。
するとネイティブの彼女たちは、一生懸命こちらの意志を汲み取ろうとしてくれる。
予測してはその単語を口にし、また予測しては口にし…
するとちゃんと出てくるのだ。
彼女たちの口から、ドンピシャなコトバが!
そう! それ!!
「Oui~!」
3.
何人かで意見を述べ合う会に参加すると、たどたどしい私の英語よりも
ずっと流暢な英語で意見を交わす人たちの中に入ることになる。
彼らと同じテンポで、ピッタリのタイミングで自分の意見を織り交ぜるのは
私にとっては至難の業。
だからといって、意見がないわけではない。
そんなとき私は、「はい!」と言って手を上げることにしている。
これは結構ドキドキする。
でも嬉しいことに、「意見を言いたい」という意志を伝えると
相手はちゃんとその意志を汲んで、聞く体勢をとってくれるのだ。
そして私のたどたどしい英語を一生懸命聞いてくれる。
この間(かん)、絶対にさえぎったりしない。
どれもこれも、まずは自分が相手に“聞いている事実”と“伝える意志があること”を
伝えることから始まっている。
一度で理解できなくてもいいじゃない。
うまく言えなくてもいいじゃない。
コミュニケーションて、『聞いて、伝える』のくり返しでしょ?
「聞いてるよ!伝えたいのよ!」を伝えればいいじゃない。
だから黙り込んではダメなのだ。
それが、人と人とが向き合う一番の妨げになる。
どう言っていいかわからないと黙って考え込んでしまうことってないだろうか。
この時、何も意志表示をせずに頭の中だけで悩んでいると
相手には「意見のない人」「質問に答えない人」という印象を与えてしまいがち。
『日本人は自己主張しない』と言われる原因の一端はここにあるように思う。
言っていることがわからないのか、聞き取れなかっただけなのか
意見をまとめている最中なのか、コトバが出てこないのか…
考えて黙り込んでしまうだけでは、相手には伝わらない。
でも日本人は、これをやってしまいがちな人が多い。
私はこの状況を回避するために、いくつか意志表示のコツを掴んだ。
1.
たとえば相手に言われたことがよくわからなかったとき。
まずは相手が言ったことを繰り返す。
カウンセリングでいうオウム返しの要領だ。
それは、「あなたの言葉は私に届いていますよ」という意志表示になる。
そしてくり返し自分がその単語を口にすることで意味を掴めることもある。
またもし、その中のキーとなる単語がわからないが故に
質問の意図がわからないのであれば、そのコトバの意味を尋ねればいい。
「わからない」「理解できていない」と伝えればいい。
そうすれば相手は、こちらが何について考えているのかがわかるから
そこを補って再度コミュニケーションをとってくれるのだ。
2.
何か言いたいことがあるのだけれどそのコトバがわからないとき。
たとえば先日ガボンの2人がやって来たとき、
私はどうにかして自分の意志を伝えたかった。
フランス語の単語なんてたいして知らない。
でも伝えたい。
そんなとき、私はまず 「Je…」 と口にした。
言いたいことがあるのよ!
私これから、これをするって言いたいの!
「Je…」 と言って、動作と表情で伝えたい気持ちをアピール。
するとネイティブの彼女たちは、一生懸命こちらの意志を汲み取ろうとしてくれる。
予測してはその単語を口にし、また予測しては口にし…
するとちゃんと出てくるのだ。
彼女たちの口から、ドンピシャなコトバが!
そう! それ!!
「Oui~!」
3.
何人かで意見を述べ合う会に参加すると、たどたどしい私の英語よりも
ずっと流暢な英語で意見を交わす人たちの中に入ることになる。
彼らと同じテンポで、ピッタリのタイミングで自分の意見を織り交ぜるのは
私にとっては至難の業。
だからといって、意見がないわけではない。
そんなとき私は、「はい!」と言って手を上げることにしている。
これは結構ドキドキする。
でも嬉しいことに、「意見を言いたい」という意志を伝えると
相手はちゃんとその意志を汲んで、聞く体勢をとってくれるのだ。
そして私のたどたどしい英語を一生懸命聞いてくれる。
この間(かん)、絶対にさえぎったりしない。
どれもこれも、まずは自分が相手に“聞いている事実”と“伝える意志があること”を
伝えることから始まっている。
一度で理解できなくてもいいじゃない。
うまく言えなくてもいいじゃない。
コミュニケーションて、『聞いて、伝える』のくり返しでしょ?
「聞いてるよ!伝えたいのよ!」を伝えればいいじゃない。
だから黙り込んではダメなのだ。
それが、人と人とが向き合う一番の妨げになる。