オーストラリアにいたとき
「こっちの人は畳み掛けるように話すなぁ」
と思った。
とにかく 『間』 がない。
言葉の上にかぶせて言葉がふりかかってくる。
誰かが話している最中に、誰かが次の言葉を発するから
最後まで聞いて、受け取ってから答えようとすると
あっという間にそのタイミングは失ってしまう。
これはすごく疲れるし、ある意味自分本位だ。
日本人は、その『間』とか、『聴く』ということを
生活の中で自然に身につけているのだと、海外の人と出会うと思う。
もちろん、すべての日本人がそうというわけではない。
同様に、すべての外国人がそうだとも断言できない。
でも比率で言えば、やはり圧倒的に、海外の人たちの方が多いように思う。
相手のコトバを待たずに、畳み掛けるように話す人たちが。
これはここ数年、ホームビジットやホームステイとして
海外ゲストを受け入れていても思うこと。
特に止まらないのが、アフリカ勢。
「僕はシャイなんだ…」
「私はあまりしゃべらない性格で…」
「英語が話せないから…」
そんなことを言いつつ、彼らの口は止まらない。
彼らと過ごしていると、実に9割の時間、彼らがひたすらしゃべっている。
ここまでくると、これはもうこちらの自己表現だの言語レベルだのという問題ではなくなってくる。
ただただ圧倒されるのみ。
先日とある国内線で、海外からやってきた墨絵作家のインタビューを見た。
彼は言っていた。
「日本は、すべてにおいて『間』がある文化。
僕たち西洋人は、余白があれば塗り潰そうとする。
描いたところ以外は切り落とそうとする。
でも日本人は、その『間』からも何かを感じ取っている。
そしてこれは、墨絵だけでなく、すべての日本文化に言えることだと思う」
まったくその通りだ。
会話をしていても、ふとした『間』で、相手を感じたり思いやったり
また自分の中を整理したり、相手が整理するのを待ったり
考えたり、納得したりする。
それは『話す』だけではなく、『聴く』という姿勢があるからだ。
それがないということは…
自分の中にその場で起こったことを一体いつ、
消化して自分のものにしていくのだろう。
私の仕事はセラピスト兼コーチだ。
いわば『聴く』のが第一の仕事。
まず『聴く』ことにおいて、クライアントさんの中で起こっていることを受け取り
そこから気づきを引き起こし、新たな自分の発見や、行動へとつなげていく。
それがないということは…
海外ゲストとのやりとりは楽しい。
だがしかし。
ものすごーーーく疲れることがあるのも事実。
疲労度が高いとき―――
それは決まって、相手がひたすらにしゃべり続けてくれたときだ。
8時間連続、トイレに行くとき以外はずっと…とかね。
これは私にも夫にも、共通している。
おかげでというか何というか…
相手はとてもスッキリして帰っていってくれるのだけれど(笑)
『聴く』チカラって、すごい。
そして
国や文化が違っても、人間そのものの本質はそうそう変わらない。
“『聴く』ことができる”
それはとてつもない財産だ。