先日、ある通訳者の方の講演を聴く機会があった。
目的は、プロの通訳さんがどのように母国語以外のことばを学び
身につけているか…という実践的な話を聞くこと。
それはそれで、ふんふん…と思うところがあったのだけれど
私にとってはそれよりも、もっと衝撃的なことがあった。
通訳のプロと言えば、ある意味言葉のプロ、そして「人に伝える」プロだ。
と、少なくとも私は思っている。
ところがその講演会、残念ながらその通訳者さんの語るものが
全然“伝わって”こないのだ。
別に書いてあるものを読み上げているわけではない。
でもただ淡々と言葉を並べているような、
記載されている文章をただ読み上げているような、
音声が上滑りしていく奇妙な感じ。
早口だから?
いや、違う。
早口であっても、「伝える」話し方はできる。
では内容が?
いや、これも違う。
すべてが自分の求めている内容ではなくとも、それは聞き手側の問題だ。
おそらく、ああいう話を聞きたい人もいる。
…きっと。
では何か。
彼女は『伝える』という立場に立って、語っていなかったのだ。
それはその後、彼女がほんの少し行ってくれた同時通訳のデモンストレーションで明らかになった。
同時通訳は経験もスキルも必要。
さらにそこに緊張もプラスされる。
素人の私から見たって大変な作業だというのは想像に難くない。
それでも、人と人を繋ぐために言葉を用いる立場としては
ただ言葉を置き換えればいいということではない。
たとえば英語から日本語に。
たとえば日本語から英語に。
でも、日本語になっているからといって日本人がすべて理解できるかというと
決してそうではない。
そもそもそれで問題がないのなら、このご時世、
こんなに声高にコミュニケーションなどと叫ばれてはいないのだ。
『コミュニケーション』とひとことで言っても、その深さを感じ、痛感し、
さらに自分のものにしていくレベルは人それぞれ。
みんながみんな、同じ立ち位置で感じられているわけではない。
ただ…、どんな人でも経験があるだろう。
この人、どんなに言っても通じないな…
そんな言い方されても全然わからないんだけどな…
同じ母国語の話者であっても、「通じない体験」をしたことは
多かれ少なかれみなさんお持ちなのではないだろうか。
「言ったんだけどな…」 でも伝わらなかった。
それは、時には聞き手の問題であることもあるが、
すべてがそうとは限らない。
話し手側の問題であることも多々ある。
その場合、話し手は“相手に伝わるように”話していないのだ。
そう。
今回もそうだった。
同時通訳をした彼女は、「言葉を置き換えて」いた。
だから私には、何を言っているのか全然わからなかった。
これだったら英語をそのまま聞かせてほしいな…
そう思ってしまった。
この“言葉を置き換える”作業。
彼女の講演は、すべてにおいてそんな感じだった。
だから伝わってこなかったのだ。
彼女は言っていた。
「人と人が出会っても、通訳者がいなかったら話すことはできない。
だからその出会いに意味はない」
と。
え?
えーーーーーっ?!
これは私にとって、非常にショッキングなコトバだった。
私が大切にしているものと、まさに真逆のセリフだったから。
もちろん、政治なりビジネスなりの世界で通訳者は必要不可欠だ。
それはわかる。もちろんだ。
でも、「通訳者がいない=その出会いに意味はない」と言い切ってしまうのか…
世の中にはいろいろな人がいる。
立場が変われば、コトバも変わる。
だから、私が見ている世界と彼女が見ている世界は
おそらく違うのだろう。
でも、何だかとても悲しかった。
そしてその時、私はひとつのことを確認した。
通訳とは、伝える仕事なのではなく、言葉を置き換える仕事なのだ。
本当に?
本当は、そんな風には思いたくないのだけれど。
が、この話はここで終わらない。
その翌日、世界一の会議通訳者と称される方の流儀を拝見した。
前日とは真逆の、衝撃が走った。
彼女は、『伝える』ことに対し、徹底的にプロだったのだ。
彼女は一度も、「言葉を置き換えて」はいなかった。
「訳して」もいなかった。
(もちろん、『訳』という単語は使っているのだけれど。)
彼女は、自分が通訳した先にいる人たちに「伝わるように話して」いた。
「伝えて」いたのだ。
すごく嬉しかった。
そしてそれが、言葉を扱うプロとしてのあり方であり
人と向き合うということであり
世界に認められている人の生き方なのだと思った。
幸いにも、真逆のものを見ることができた2日間。
これはすごい財産だ。
そういえば私も、今の仕事に就く際に真逆の人たちとの出会いがあった。
「こんな風になれるんだ!」 「こんな風にはなりたくないわ」
「こうされたら嬉しいんだな~♪」 「こうされたらこんなに嫌なものなのね」
その経験があるから、今、自分の芯が確立している。
ありがたい。
私は通訳者ではないけれど
言葉を扱うプロとして、伝えるプロとして
大事にしようと思った、2つのプロの世界だった。