シュウマツ処理場…何を想像する? | ことばの魔法 ことばのチカラ~ことば探検家ひろが見つけたコトバと人間

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ことばに宿る、不思議なチカラ。
人間の言語習得やコミュニケーション能力の奥深さはまだ解明されていないけれど、とんでもなくおもしろい。
気づいたら私のコトバ探検は本格化されていた。

ある帰り道。
夫の運転する車で初めての街を通っていた。

我家の車にはカーナビがない。
だからナビをするのは、地図の読めない私だ。

ちなみにどのくらい読めないかというと
「この先は?」とたずねる夫に対し
「黄色い道をまっすぐ」と答えてしまうくらい。

 黄色い道…?

つまり地図上で色分けされている国道なり県道なりの表記を
そのまま伝えてしまうのだ。

その道をまっすぐ進むと国道から逸れてしまうから
“黄色い道”を進むには左折しなければならない…というような時でも
私の中では“まっすぐ進めば黄色い道から逸れない”ことになってしまう。

一世を風靡した本 『話を聞かない男、地図が読めない女』
あれはタイトルだけで頷ける。



さて、私が手にしていた地図に見慣れない表記があった。

 『終末処理場』

初めて聞く言葉だったのだけれど
何だかすごーく…嫌な感じを覚えた。


『終末』

それはもう後のない、「終わり」や「果て」を意味する。

広辞苑に載っている「終末」を用いた言葉は
「終末医療」「終末観」「終末論」「終末期古墳」など。

命や人生の終わり、または時代の終わりを示している。


抗えない命や時代の終わり、それに伴う悲しさやわびしさ
そんなものが連想される。

そんな言葉のついた『処理場』。


もしかしたら、ただのゴミ処理場だったのかもしれない。
ゴミの最終処理施設をそう命名しただけだったのかもしれない。

でも日本人として、その響きと漢字から連想されるものを思うと
何ともやりきれないものがこみ上げてきた。


「『終末処理場』 だって」

夫に伝えると、彼も同様の感覚を持ったらしい。
「何か…嫌だね」と漏らしていた。


この、音の響きと漢字から連想するというのは
日本語の持っているひとつの大きな力だ。

まったく知らないコトバでも、音を聞けば自分の中の感覚が揺さぶられ
漢字を知ればイメージできる。

これは、日本語を“学習”するだけでは得られない感覚なのではないだろうか。


もしあの時、日本語が堪能な留学生が車に同乗していたら、
彼らが思い浮かべるのはおそらく 『週末』 だ。

 週末処理?
 何のこっちゃ?

そう思っても不思議ではない。

週末処理…
そう聞いて私が想像できることだって、
せいぜい休日出勤して溜まった仕事をやっつけるくらいが関の山だ。

ズレまくっている。


そうではない『シュウマツ』。

もし彼らにそれが『週末』ではなく『終末』だということを伝えたとき
どれだけの留学生が、私達が抱いたような
物悲しさややりきれないわびしさを抱くだろう?

私は別に
「留学生にはわからないでしょ!」
なんて言っているわけではない。

『終末処理場』を知らなくても
『終末医療』という言葉を知っていれば
日本人なら、感覚で理解する。

この、日本語の不思議な感覚を
私達はネイティブ日本人として育ってくる中で意識せずとも自然に身につけている。

それはとても奥深く、鋭い感性だ。


「表音文字」と「表意文字」
ふたつの文字を両方使っている言語は
世界にも日本語以外にないと聞いたことがある。

そこから生まれた感覚なのか…

島国である日本は、いろいろな観点において
世界と異なる文化や感性を持っている。

そのひとつが、ここにある気がする。