母国語以外の言語と触れ合うとき、戸惑うのは
“母国語にはまったくない感覚” の存在だ。
たとえば『単数形と複数形』。
英語のように末尾に“s”をつけて複数にする言語もあれば
イタリア語のように“o”が“i”に、“a”が“e”に…と
末尾の母音が変わることで表現する言語もある。
他にも 『可算名詞と不可算名詞』やら『三人称』やら。
名詞に『性』がある言語も多い。
英語だけ考えてみても
単数形と複数形だけでなく、可算名詞かどうか、三人称かどうかで
それに伴う動詞も変化してしまうものだから
その感覚がまったくない日本語を話す日本人としては嫌になる。
「だってこれは数えられるでしょ」と言われても
「こっちだって数えられるじゃん!でもこれは不可算なんでしょ?!」
なんていうものもあったりして。
たとえば英語の 『rice』――米。
これは『数えられない名詞』とされているけれど
一粒、二粒…って、数えられるじゃん!!と思ってしまう。
少なくとも私は。
現に日本語では『ごはん一粒』って言うしね。
数えられるかどうかをわけてどうするんだーーーっ!?
三人称だからって言い方変えてどうするんだーーーっ!?
名詞に性別つけてどうするんだーーーっ!?
コトバの…特に語学の壁にぶつかった経験のある人なら少なからず
こんな気持ちを抱いたことがあるのではないだろうか。
もちろん私もある。
そんなところで区別して何の意味があるの?って。
でも実際、その言語を母国語としている人たちは
そこに特に意味を見出したりはしていない。
言語学者のみなさんがどうかは別として、
一般の人たちにしてみれば
「だってこういうものなんだもん」
という、ただそれだけ。
それは海外の日本語学習者が
何で椅子は『一個』じゃなくて『一脚』なの?!
椅子が『一脚』で湯呑みは『一客』?同じ音じゃん!!
どうしていちいち単位を変えるのさーーーっ?!
と思うのと同じこと。
日本人にしてみれば、
「だってそういうものなんだもん」としか言えない。
「知らないよ、生まれる前からこうだった」って。
だからこそ自然習得は強いし、『学習』すれば壁に当たる。
語学の『勉強』とは、
自然に身につけているネイティブが「そういうもの」としていることに
あえて意味や法則を見出そうとすること。
感覚で身につけるのではなく、頭で理解しようとすることだ。
その環境で生活していない人間にとっては
確かに説明が必要なときは多い。
「だってそういうものなんだもん」と言える環境も経験もないから。
でも本当は、どんな言語でも「だってそういうものなんだもん」
という感覚で話せれば、そんなに嬉しく楽しいことはない。
山のようにある助数詞(~個、~人、~本などの単位)については
なんとも思わず「だってそういうものなんだもん」と思えるのに
「1と2以上でわける」とか「男か女かでわける」とか
「数えられるかどうかでわける」とかいうことにはいちいち混乱させられる。
これは私が紛れもなく日本人であるという証拠。
日本語にあればカンタン。
日本語になければワケがわからない。
ただそれだけのことなのだけれど…
それで一喜一憂するのが人間。
人とコトバってオモシロイ。
そしてとてもメンドクサイ。
人とコトバって、奥が深い。