現在完了形ってムズカシイ。
…というイメージがある。
先日ある人が英語教育の過程について、とても興味深い話をされていた。
たとえば英語の 『go』。
中1で現在形の 『go』 を習い
中2のはじめに過去形 『went』 を学び
中2の終わりに受動態という形で過去分詞 『gone』 を学び
中3のはじめに 『have + 過去分詞』 の現在完了形を学ぶというのだ。
これは一見、順序だっていてわかりやすいように思える。
でも実際の会話のとき、その言語に慣れていないからって
現在形のみの会話ですべてが成立するかというと、そんなことはない。
そもそも現在完了とか過去完了とかいうものは
日本語にはない言い方だと言われている。
かといって、その感覚がないかというと、必ずしもそうではない。
そこ、行ったことあるよ!
もう食べちゃった!
どちらも英語の文法用語的に言えば現在完了形だ。
その時点ではすでに帰ってきちゃってたの。
これは過去完了。
海外の人と話をするとき、何語であっても
原形ではなくこういう言い方をしたいと思うことはよくある。
『行く』でも『行った』でもなく、『行ったことがある』
『知る』でも『知った』でもなく、『知っている』
『飲む』でも『飲んだ』でもなく、『飲んじゃった』
これを私たちはいちいち
『行ったことがある』=過去に経験している状態
『知っている』=過去に知り、今も継続して理解している状態
『飲んじゃった』=すでにその行為を終えている状態(ただし直前)
なんて分類を考えて口にはしていない。
(どんな状態なのかを分析して、今この文にするのにも頭を使ったくらいだ。)
これを、日本語とは異なる感覚の言語で
その言語の原形から順番(?)に追っていく…
そして文法用語を交えて説明する…
そのことそのものに無理があるように思える。
そもそも文法用語ってムズカシイしね。
英語の『現在完了形』なんてまだかわいいものだ。
他の言語になると『接続法現在』だの『条件法過去』だの『直説法半過去』だの
もっとわけのわからない用語が登場する。
そしてネイティブは、そんな文法用語を何ひとつ知らずにコトバを操っているのだ。
話がちょっと逸れた。
赤ちゃんや子どもたちを見ていても、現在形しか話さない子はいない。
日本語の場合は、未来形や意志もすべて現在形と同じだから
一見全部現在形に聞こえるかもしれないけれど。
『ブーブ(車)行っちゃった!』
これは現在形でも過去形でもなく、過去完了形なのだから。
そしてこれは、他の言語にも同様に当てはまる。
たとえばスペイン語、イタリア語、フランス語、ドイツ語などのように
主語によって動詞の活用が変わる言語。
これらの言語の動詞は、さらに時制によってもその形を変える。
原形を使っても通じないことはない。
ネイティブが相手であれば、ある程度は予測してくれるから。
でもやっぱり言いたいことは、原形で表せるものではないのだ。
私、そこ行ったことあるよ!
今度一緒に行こうよ!
明日ご飯食べに行くんだって!
どれも本来は、原形で表現するものではないのだ。
言いたいことは原形や現在形だけでは言い表せない。
過去にした経験もその感想も、これからしようとしていることも。
文法的にムズカシイとされる形が
実は会話の中には当たり前に溢れている。
分解するから、ムズカシイ。
もっとナチュラルにいきたい。
ロシアと日本は似ているらしい。
家族や子どもを大事にするとか、先祖を大切に敬うとか…
ロシアのAさんに「何故日本語を勉強しはじめたの?」とたずねたとき
返ってきた理由がこれだった。
ロシア語と日本語
白人と黄色人種
世界最大面積の国と極東の島国…
異なる面はたくさん見える。
でも彼は、『似ているところがたくさんある』と言った。
だから日本語を学びたいのだと。
何ともいえず、心が震えた。
日本の文化に興味があるとか
マンガやアニメが好きだとか
文化も食も、何もかもがまったく違うからとか、
そういった理由で日本に来たり、日本語を学んだりしてくれる人は多い。
でも『似ているから』という理由は、今まであまり聞いたことがなかった。
しかもアジアの国――たとえば中国や韓国のように
歴史的にも深い関わりがあり、見た目も似ている国の人ではなく
ロシアの人がそういう目で見てくれていることの意味。
これってすごいことではないだろうか。
Aさんが、お土産のひとつにマトリョーシカのストラップをくれた。
「赤がひろさん、青がまさ(夫)さん」
女性が赤、男性が青
実はこの考え方は世界共通ではない。
むしろ、カラーセラピスト視点から言わせていただけば
赤は男性性、青が女性性を表している。
そしてヨーロッパの国々に行けば、お手洗いの男女の区別を
日本のように色彩で行っている国はあまりない。
同じ色(たとえば黒)で描かれ、形で区別されている。
「海外旅行に行った日本人が、探しても探しても女性トイレを見つけられなかった」
なんていう笑い話もあるくらいだ。
でもロシアは、日本と同じ感覚らしい。
お手洗いの標識を指さして「ほらね、同じ」と嬉しそうなAさん。
赤が女性、青が男性
初めて聞いた。
そういえば、日本語とロシア語も、
大きな波で聞くときと細かい音で表すときとでまるで違うコトバのように聞こえる
という共通点があった。
(『大きな波と細かい音の集まり』参照)
コトバにおいてだけでも、
探せばきっともっと、いろいろな角度から共通点が見えてくる。
(実はひとつ、「おおっ!」ということがあったのだけれど
後に「ちょっと違うかも~」と思ったので、検証が必要になってしまった。
いつかはっきりしたらここに書きたい。)
『違い』と共に『共通項』もたくさんあるのがひとつの地球上にある“世界”。
違うところも、同じところも、どっちも楽しめたら
そんなに嬉しいことはないよね!
家族や子どもを大事にするとか、先祖を大切に敬うとか…
ロシアのAさんに「何故日本語を勉強しはじめたの?」とたずねたとき
返ってきた理由がこれだった。
ロシア語と日本語
白人と黄色人種
世界最大面積の国と極東の島国…
異なる面はたくさん見える。
でも彼は、『似ているところがたくさんある』と言った。
だから日本語を学びたいのだと。
何ともいえず、心が震えた。
日本の文化に興味があるとか
マンガやアニメが好きだとか
文化も食も、何もかもがまったく違うからとか、
そういった理由で日本に来たり、日本語を学んだりしてくれる人は多い。
でも『似ているから』という理由は、今まであまり聞いたことがなかった。
しかもアジアの国――たとえば中国や韓国のように
歴史的にも深い関わりがあり、見た目も似ている国の人ではなく
ロシアの人がそういう目で見てくれていることの意味。
これってすごいことではないだろうか。
Aさんが、お土産のひとつにマトリョーシカのストラップをくれた。
「赤がひろさん、青がまさ(夫)さん」
女性が赤、男性が青
実はこの考え方は世界共通ではない。
むしろ、カラーセラピスト視点から言わせていただけば
赤は男性性、青が女性性を表している。
そしてヨーロッパの国々に行けば、お手洗いの男女の区別を
日本のように色彩で行っている国はあまりない。
同じ色(たとえば黒)で描かれ、形で区別されている。
「海外旅行に行った日本人が、探しても探しても女性トイレを見つけられなかった」
なんていう笑い話もあるくらいだ。
でもロシアは、日本と同じ感覚らしい。
お手洗いの標識を指さして「ほらね、同じ」と嬉しそうなAさん。
赤が女性、青が男性
初めて聞いた。
そういえば、日本語とロシア語も、
大きな波で聞くときと細かい音で表すときとでまるで違うコトバのように聞こえる
という共通点があった。
(『大きな波と細かい音の集まり』参照)
コトバにおいてだけでも、
探せばきっともっと、いろいろな角度から共通点が見えてくる。
(実はひとつ、「おおっ!」ということがあったのだけれど
後に「ちょっと違うかも~」と思ったので、検証が必要になってしまった。
いつかはっきりしたらここに書きたい。)
『違い』と共に『共通項』もたくさんあるのがひとつの地球上にある“世界”。
違うところも、同じところも、どっちも楽しめたら
そんなに嬉しいことはないよね!
昔、外国人はみんな英語が話せると思っていた。
特に白人さんは。
『外国人=英語』という思い込みに毒されていた。
フランス語、スペイン語、イタリア語、中国語、韓国語、ロシア語…
知っている言語名はたくさんある。
それだけでなく、その国のその土地でしか話されていない言語も
これまたたくさんあるのだ。
世界にはたくさんの言語が溢れている。
しかも自分はそれを知っている。
それなのに、何の疑問も抱かずに『外国人=英語』だと思っていたなんて
何ともオソロシイ思い込みだ。
でもおそらく、日本人にこういう思考の人は多い。
ということは、そう思わされる環境があるということだ。
だから海外に行ったとき、自分はがんばって英語を話そうとするのだから
海外から日本に来た人は、日本語を話すべきだと思っていた。
「私たちはあなたたちの国でそっちの言葉に合わせるんだから
日本に来たのならこっちに合わせてよ!
英語が一番エライ言語じゃないのよ!!」
なんて。
確かに英語圏の人は言葉が通じる地が多い。
世界の共通言語として使われているのも英語だということは否めない。
だから英語圏の人の中に、相手も英語を話すのは当然だと
思っている人がいることも否定できない。
でも世界は広い。
英語が話せない、英語が母国語ではない人はたくさんいる。
それをひとまとめに 『日本人以外=英語』 だと思っていたなんて…
ああ、無知って恥ずかしい…
あるドイツの知人が言っていた。
「外国人だからって英語だと思い込んで話しかけてこないでほしい。
僕はドイツ人。
日本語で話しかけてもらった方がずっと嬉しい!
ここは日本でしょ?!」
彼はおそらく英語も話せる。
そんな彼でも思うのだ。
それは私たちが海外で 「中国人?韓国人?」 と聞かれて
「違ーう!日本人です!!」
と自分のアイデンティティを主張するのと似ているのかもしれない。
そんなわけで、最近は『外国人=英語』という認識は消えている。
むしろ、日本の外にも英語に苦労している人たちがたくさんいることを知り
英語ひとつに偏った外国語教育に首をかしげたくなったりもする。
まぁ確かに、共通語としての英語が話せれば便利なのだけれども。
そんな中、カタコト英語の人たちと向き合うときに
自分の中でおもしろい現象が起こることに気がついた。
つられてカタコトになるのだ。
これは、キレイな文章で言ってしまうと通じないという体験と
相手と同じ立ち位置で会話するというベースにのっとっているためだ。
だからそういうとき、私はずいぶんおかしな英語を発している。
でも、きちんと文法にのっとった“正しい英語”を言うより
そういう言い方をした方が通じるんだな~…
これは、もし日本語(母国語)だったら…
と考えてみるとわかりやすいかもしれない。
たとえば日本語を勉強している外国人や、
小さな子どもに向き合ったときの気持ち。
そんなとき自分が使う日本語は、わかりやすく短いセンテンス。
漢語ではなく和語を使うし、
日本語学習者相手なら、相手の学習進捗度に合わせて
多少おかしな言い回しになろうとも、伝わることを優先する。
それを英語でやるようなものだから。
英語ネイティブじゃない私の英語が相当おかしなものになるのも頷ける。
そういえば「だいぶ耳が英語の音に慣れてきた…」という夫が言っていた。
「英語が堪能な人と話すと、その速度と量に圧倒される。
そして自分も正しい英語を使わなきゃいけないと思って緊張する」
そして彼の口は重くなるのだ。
かたやカタコトのゲストのとき、夫はとても生き生きとする。
お互い単語を並べてカタコトで交わす会話。
その方が、彼らはずっと通じているし楽しそうなのだ。
おもしろい。
使えるコトバも、流暢さや語彙量が相手によって変化する。
それはコトバが人と人とを繋ぐものだから。
人があってこその“コトバ”だ。
本当に、おもしろい。
特に白人さんは。
『外国人=英語』という思い込みに毒されていた。
フランス語、スペイン語、イタリア語、中国語、韓国語、ロシア語…
知っている言語名はたくさんある。
それだけでなく、その国のその土地でしか話されていない言語も
これまたたくさんあるのだ。
世界にはたくさんの言語が溢れている。
しかも自分はそれを知っている。
それなのに、何の疑問も抱かずに『外国人=英語』だと思っていたなんて
何ともオソロシイ思い込みだ。
でもおそらく、日本人にこういう思考の人は多い。
ということは、そう思わされる環境があるということだ。
だから海外に行ったとき、自分はがんばって英語を話そうとするのだから
海外から日本に来た人は、日本語を話すべきだと思っていた。
「私たちはあなたたちの国でそっちの言葉に合わせるんだから
日本に来たのならこっちに合わせてよ!
英語が一番エライ言語じゃないのよ!!」
なんて。
確かに英語圏の人は言葉が通じる地が多い。
世界の共通言語として使われているのも英語だということは否めない。
だから英語圏の人の中に、相手も英語を話すのは当然だと
思っている人がいることも否定できない。
でも世界は広い。
英語が話せない、英語が母国語ではない人はたくさんいる。
それをひとまとめに 『日本人以外=英語』 だと思っていたなんて…
ああ、無知って恥ずかしい…
あるドイツの知人が言っていた。
「外国人だからって英語だと思い込んで話しかけてこないでほしい。
僕はドイツ人。
日本語で話しかけてもらった方がずっと嬉しい!
ここは日本でしょ?!」
彼はおそらく英語も話せる。
そんな彼でも思うのだ。
それは私たちが海外で 「中国人?韓国人?」 と聞かれて
「違ーう!日本人です!!」
と自分のアイデンティティを主張するのと似ているのかもしれない。
そんなわけで、最近は『外国人=英語』という認識は消えている。
むしろ、日本の外にも英語に苦労している人たちがたくさんいることを知り
英語ひとつに偏った外国語教育に首をかしげたくなったりもする。
まぁ確かに、共通語としての英語が話せれば便利なのだけれども。
そんな中、カタコト英語の人たちと向き合うときに
自分の中でおもしろい現象が起こることに気がついた。
つられてカタコトになるのだ。
これは、キレイな文章で言ってしまうと通じないという体験と
相手と同じ立ち位置で会話するというベースにのっとっているためだ。
だからそういうとき、私はずいぶんおかしな英語を発している。
でも、きちんと文法にのっとった“正しい英語”を言うより
そういう言い方をした方が通じるんだな~…
これは、もし日本語(母国語)だったら…
と考えてみるとわかりやすいかもしれない。
たとえば日本語を勉強している外国人や、
小さな子どもに向き合ったときの気持ち。
そんなとき自分が使う日本語は、わかりやすく短いセンテンス。
漢語ではなく和語を使うし、
日本語学習者相手なら、相手の学習進捗度に合わせて
多少おかしな言い回しになろうとも、伝わることを優先する。
それを英語でやるようなものだから。
英語ネイティブじゃない私の英語が相当おかしなものになるのも頷ける。
そういえば「だいぶ耳が英語の音に慣れてきた…」という夫が言っていた。
「英語が堪能な人と話すと、その速度と量に圧倒される。
そして自分も正しい英語を使わなきゃいけないと思って緊張する」
そして彼の口は重くなるのだ。
かたやカタコトのゲストのとき、夫はとても生き生きとする。
お互い単語を並べてカタコトで交わす会話。
その方が、彼らはずっと通じているし楽しそうなのだ。
おもしろい。
使えるコトバも、流暢さや語彙量が相手によって変化する。
それはコトバが人と人とを繋ぐものだから。
人があってこその“コトバ”だ。
本当に、おもしろい。
ガボンの2人がやって来た翌日、ものすごい頭痛に襲われた。
実はこの痛みには覚えがある。
あれは11年前。
オーストラリアにいたときのことだ。
ホストマザーに連れられて行ったクリスマスパーティ。
向こうでのクリスマスは、日本のお正月のような感じ。
親戚一同が勢揃いする。
普段から私はなるべく日本人と日本語ばかり話してしまう環境は
避けるようにしていたけれど、それでもなかなか
たくさんのオージーに囲まれて英語を全身に浴びる機会は持てない。
でもこの日は違った。
どこを見渡しても英語英語英語…
当たり前だけど、みんな英語を話している。
しかも語学学校とは違うから、本当にネイティブが
シャワーのように普通のペースで普通の会話を普通にしているのだ。
もちろん私も普段からみんなと英語でコミュニケーションをとっていたけれど
おそらくみんな、私と話すときは意識的にか無意識にか
はっきりわかりやすく話してくれていた(と思う)。
でも親戚同士、友人同士が揃った場でそんなこと起こるわけがない。
すごい速度の、すごくナチュラルな英語環境に浸ることになった。
するとしばらくして、それまでには感じなかった疲労を全身に感じたのだ。
なんかちょっと… 休憩。
そう思って、部屋の隅に座る。
頭が痛い。
特に体調が悪いわけでもないのに、かなりの激痛だった。
何か脳みそが、ものすごい勢いで動いている感じ。
その日はそのまま、頭の痛みは騙しだまし
みんなの中で楽しい時間を過ごした。
翌日。
「何コレ?!」
ものすごく、自分の英語力がアップしているのがわかった。
何故それがわかったのかはよくわからないけれど、
全身の感覚で、私はそれを察知した。
昨日のアレだ…
一日中、360度から全身英語浸けになったからだ!
数ヶ月のオーストラリア生活よりも、たった1日のあの場が
私の脳内の英語に対する何かを劇的に変えたのだった。
こんなことが起こるのなら、そりゃあ脳も痛くなるわけだ。
妙に納得。
それは私の、とても貴重でおもしろい体験として刻まれた。
そして11年後。
ガボンからのゲストがやってきた日。
私は脳みそフル回転で、フランス語と向き合った。
単語や文法といった知識よりも、全身でコトバと向き合うあの感覚。
その時、オーストラリアの英語浸けになった1日と同じことが起こったのだ。
頭がイタイ…
その痛みはもはや、私にとっては喜びだった。
と同時に、いかに普段脳みそを使っていないのかを思い知った。
…使ってるつもりなんだけどな~…^^;
使う部位が違うのか、使い方が違うのか、
はたまた本気で使っていないのか…
とにかく、あの痛みは大歓迎のものだということはわかる。
ものすごーーーく痛いけど。
1日半、寝込んだけど(笑)
頭がイタイというよりは、脳みそがイタイ、あの感覚。
みなさんもなったこと、ありますか?
実はこの痛みには覚えがある。
あれは11年前。
オーストラリアにいたときのことだ。
ホストマザーに連れられて行ったクリスマスパーティ。
向こうでのクリスマスは、日本のお正月のような感じ。
親戚一同が勢揃いする。
普段から私はなるべく日本人と日本語ばかり話してしまう環境は
避けるようにしていたけれど、それでもなかなか
たくさんのオージーに囲まれて英語を全身に浴びる機会は持てない。
でもこの日は違った。
どこを見渡しても英語英語英語…
当たり前だけど、みんな英語を話している。
しかも語学学校とは違うから、本当にネイティブが
シャワーのように普通のペースで普通の会話を普通にしているのだ。
もちろん私も普段からみんなと英語でコミュニケーションをとっていたけれど
おそらくみんな、私と話すときは意識的にか無意識にか
はっきりわかりやすく話してくれていた(と思う)。
でも親戚同士、友人同士が揃った場でそんなこと起こるわけがない。
すごい速度の、すごくナチュラルな英語環境に浸ることになった。
するとしばらくして、それまでには感じなかった疲労を全身に感じたのだ。
なんかちょっと… 休憩。
そう思って、部屋の隅に座る。
頭が痛い。
特に体調が悪いわけでもないのに、かなりの激痛だった。
何か脳みそが、ものすごい勢いで動いている感じ。
その日はそのまま、頭の痛みは騙しだまし
みんなの中で楽しい時間を過ごした。
翌日。
「何コレ?!」
ものすごく、自分の英語力がアップしているのがわかった。
何故それがわかったのかはよくわからないけれど、
全身の感覚で、私はそれを察知した。
昨日のアレだ…
一日中、360度から全身英語浸けになったからだ!
数ヶ月のオーストラリア生活よりも、たった1日のあの場が
私の脳内の英語に対する何かを劇的に変えたのだった。
こんなことが起こるのなら、そりゃあ脳も痛くなるわけだ。
妙に納得。
それは私の、とても貴重でおもしろい体験として刻まれた。
そして11年後。
ガボンからのゲストがやってきた日。
私は脳みそフル回転で、フランス語と向き合った。
単語や文法といった知識よりも、全身でコトバと向き合うあの感覚。
その時、オーストラリアの英語浸けになった1日と同じことが起こったのだ。
頭がイタイ…
その痛みはもはや、私にとっては喜びだった。
と同時に、いかに普段脳みそを使っていないのかを思い知った。
…使ってるつもりなんだけどな~…^^;
使う部位が違うのか、使い方が違うのか、
はたまた本気で使っていないのか…
とにかく、あの痛みは大歓迎のものだということはわかる。
ものすごーーーく痛いけど。
1日半、寝込んだけど(笑)
頭がイタイというよりは、脳みそがイタイ、あの感覚。
みなさんもなったこと、ありますか?
ロシアのAさんとのコトバ遊びは、当然
ロシア語だけではなく日本語でも行われる。
車の中で話をしていたときAさんがコトバを発見する場面に遭遇した。
「エトロフトウ…クナシリトウ…
OH!『トウ』…『オストロフ』?!」
「ん?」
「『トウ』…island?!」
「そうそう!」
まるで赤ちゃんがコトバを発見する瞬間に立ち会ったよう。
『トウ』が『島』を意味するということをAさん自ら発見した瞬間だった。
こういう“自分で見つけた音”というものは、決して忘れない。
どんなに勉強しても勉強しても、がんばって暗記したはずの英単語が
いつの間にか自分の中から跡形もなく消え去ってしまっている…
…という経験をお持ちの方は多いだろう。
でも今回のAさんのように、コトバの音と意味のつながりを自分で見つけると
そのコトバは決して、自分の中から消えてはいかないのだ。
大通公園を散歩しながら
『チェブラーシカ!テレヴーシ(ュ)カ!」』を楽しんでいたとき
もちろんAさんも 「テレヴーシ(ュ)カ、日本語…?」 と聞いてきた。
「『テレビ塔』 だよ」
するとAさんは困ったような不思議そうな、そしておもしろそうな
何とも言えない表情で続けた。
「コーヒート… エトロフトウ… テレビトウ…?」
(コーヒーと… 択捉島… テレビ塔…?)
なるほど なるほど!
そういう関連付けがなされるわけか!
おもしろい!!
『コーヒーと…』の『と』 は 『トウ』じゃなくて『ト』。
ロシア語では『и(イ)』。
『択捉島』と『テレビ塔』の『とう』 は 『トウ』だけど、
『択捉島』と『テレビ塔』の『とう』は同じ音でも漢字が違うの。
日本語には、同じ音だけど違う漢字で意味が異なるものが
たくさんあるのよ。
説明するとAさんは納得。
でも困っていた。
そりゃそうだ。
“ひとつの音にひとつの意味”どころか
日本語を話す日本人のほとんどは
“ひとつの音がいくつの意味を持っているか把握していない”のだから。
海外の日本語学習者は大変だ。
そして彼らはいつも、とても興味深い角度から
日本語を見せてくれる。
だからおかげさまで私は、日本の外と共に
中もまた、深く見ることができる。
すごくおもしろい!
ロシア語だけではなく日本語でも行われる。
車の中で話をしていたときAさんがコトバを発見する場面に遭遇した。
「エトロフトウ…クナシリトウ…
OH!『トウ』…『オストロフ』?!」
「ん?」
「『トウ』…island?!」
「そうそう!」
まるで赤ちゃんがコトバを発見する瞬間に立ち会ったよう。
『トウ』が『島』を意味するということをAさん自ら発見した瞬間だった。
こういう“自分で見つけた音”というものは、決して忘れない。
どんなに勉強しても勉強しても、がんばって暗記したはずの英単語が
いつの間にか自分の中から跡形もなく消え去ってしまっている…
…という経験をお持ちの方は多いだろう。
でも今回のAさんのように、コトバの音と意味のつながりを自分で見つけると
そのコトバは決して、自分の中から消えてはいかないのだ。
大通公園を散歩しながら
『チェブラーシカ!テレヴーシ(ュ)カ!」』を楽しんでいたとき
もちろんAさんも 「テレヴーシ(ュ)カ、日本語…?」 と聞いてきた。
「『テレビ塔』 だよ」
するとAさんは困ったような不思議そうな、そしておもしろそうな
何とも言えない表情で続けた。
「コーヒート… エトロフトウ… テレビトウ…?」
(コーヒーと… 択捉島… テレビ塔…?)
なるほど なるほど!
そういう関連付けがなされるわけか!
おもしろい!!
『コーヒーと…』の『と』 は 『トウ』じゃなくて『ト』。
ロシア語では『и(イ)』。
『択捉島』と『テレビ塔』の『とう』 は 『トウ』だけど、
『択捉島』と『テレビ塔』の『とう』は同じ音でも漢字が違うの。
日本語には、同じ音だけど違う漢字で意味が異なるものが
たくさんあるのよ。
説明するとAさんは納得。
でも困っていた。
そりゃそうだ。
“ひとつの音にひとつの意味”どころか
日本語を話す日本人のほとんどは
“ひとつの音がいくつの意味を持っているか把握していない”のだから。
海外の日本語学習者は大変だ。
そして彼らはいつも、とても興味深い角度から
日本語を見せてくれる。
だからおかげさまで私は、日本の外と共に
中もまた、深く見ることができる。
すごくおもしろい!
初めて聞いた音はなかなか覚えられない。
でも聞いたことのある音はすんなり自分の中に入ってくる。
だからコトバは、まず『音』があってこそだ。
その方が自分の中のコトバの増え方が圧倒的!
たとえばガボンの2人が話すフランス語。
ラテン語系ということで、初めて聞くフランス語のコトバでも
イタリア語やスペイン語の知っている単語が助けてくれた。
たとえばフランス語で『話す』は『parler(パーリィ)』。 (カタカナ表記はほんの目安ね)
イタリア語の『parlare(パラーレ)』を知っていたおかげで
その音はストンと私の中に落ちた。
同様にフランス語の『聞く』は『ecoutez(エスクテ)』。
これはスペイン語の『escuchar(エスクチャール)』が助けてくれた。
そしておもしろかったのがフランス語の『暑い』、『(ショ)』。
漢字を見てお気づきの方もいらっしゃるかもしれない。
そう、日本語の暑いの音読みが『ショ』なのだ。
おかげで『寒い』はなかなか覚えられないのに
『暑い』は一発で私の中にインプットされた。
そして今回、ロシアからのゲストのAさんとのやりとりの中でもやっぱり
もとからある音のおかげですんなり入ってくるロシア語がたくさんあった。
たとえば。
札幌を象徴するもののひとつに、『テレビ塔』がある。
「何て言うの?」
いつだって私は興味津々。
「『テレヴーシ(ュ)カ』だよ」
Aさんも楽しそうに教えてくれる。
え?!
チェブラーシカ?!
似ている音がおもしろくて、思わず口にする私。
Aさんは大笑い。
「違うよ!チェブラーシカじゃないよ!」
と、大きな耳のジェスチャーまでつけてくれちゃって。
その仕草がなんともかわいらしい。
そして私はリズムをつけて、何度も何度も繰り返す。
「チェブラーシカ! テレヴーシ(ュ)カ!」
楽しくって仕方ない。
今度は耳のジェスチャーや塔のジェスチャーをつけて
「チェブラーシカ! テレヴーシ(ュ)カ!」
これは、私たちがそれまでの時間を共有し
お互い心がオープンなっていたからこそできたコトバ遊びだ。
そしてその後も、おもしろいコトバを見つけては同じように遊んだ。
「ババチカ! バブシ(ュ)カ!」
これは『ちょうちょ』と『おばあちゃん』。
ネイティブにとっては、決して間違えないコトバたち。
似ていることだって、非ネイティブに言われて気づくようなものだ。
でもその言語を母国語としない人間にとって
こういう言葉遊びはとても価値があるように思える。
遊びの中で、体験の中で自分の中に落ちた言葉は決してなくならない。
『テレヴーシ(ュ)カ』
私はきっと、一生忘れない。
そして次にロシアからやってきた人と出会ったとき
ワクワクしながら自信満々に言うんだろうな。
「エータ テレヴーシ(ュ)カ」 ってv(^^)
でも聞いたことのある音はすんなり自分の中に入ってくる。
だからコトバは、まず『音』があってこそだ。
その方が自分の中のコトバの増え方が圧倒的!
たとえばガボンの2人が話すフランス語。
ラテン語系ということで、初めて聞くフランス語のコトバでも
イタリア語やスペイン語の知っている単語が助けてくれた。
たとえばフランス語で『話す』は『parler(パーリィ)』。 (カタカナ表記はほんの目安ね)
イタリア語の『parlare(パラーレ)』を知っていたおかげで
その音はストンと私の中に落ちた。
同様にフランス語の『聞く』は『ecoutez(エスクテ)』。
これはスペイン語の『escuchar(エスクチャール)』が助けてくれた。
そしておもしろかったのがフランス語の『暑い』、『(ショ)』。
漢字を見てお気づきの方もいらっしゃるかもしれない。
そう、日本語の暑いの音読みが『ショ』なのだ。
おかげで『寒い』はなかなか覚えられないのに
『暑い』は一発で私の中にインプットされた。
そして今回、ロシアからのゲストのAさんとのやりとりの中でもやっぱり
もとからある音のおかげですんなり入ってくるロシア語がたくさんあった。
たとえば。
札幌を象徴するもののひとつに、『テレビ塔』がある。
「何て言うの?」
いつだって私は興味津々。
「『テレヴーシ(ュ)カ』だよ」
Aさんも楽しそうに教えてくれる。
え?!
チェブラーシカ?!
似ている音がおもしろくて、思わず口にする私。
Aさんは大笑い。
「違うよ!チェブラーシカじゃないよ!」
と、大きな耳のジェスチャーまでつけてくれちゃって。
その仕草がなんともかわいらしい。
そして私はリズムをつけて、何度も何度も繰り返す。
「チェブラーシカ! テレヴーシ(ュ)カ!」
楽しくって仕方ない。
今度は耳のジェスチャーや塔のジェスチャーをつけて
「チェブラーシカ! テレヴーシ(ュ)カ!」
これは、私たちがそれまでの時間を共有し
お互い心がオープンなっていたからこそできたコトバ遊びだ。
そしてその後も、おもしろいコトバを見つけては同じように遊んだ。
「ババチカ! バブシ(ュ)カ!」
これは『ちょうちょ』と『おばあちゃん』。
ネイティブにとっては、決して間違えないコトバたち。
似ていることだって、非ネイティブに言われて気づくようなものだ。
でもその言語を母国語としない人間にとって
こういう言葉遊びはとても価値があるように思える。
遊びの中で、体験の中で自分の中に落ちた言葉は決してなくならない。
『テレヴーシ(ュ)カ』
私はきっと、一生忘れない。
そして次にロシアからやってきた人と出会ったとき
ワクワクしながら自信満々に言うんだろうな。
「エータ テレヴーシ(ュ)カ」 ってv(^^)
ロシアのAさん(44歳 男性)がやってきた。
Aさんは日本語を学び始めてまだ2ヶ月。
1ヶ月ほど少し教えてもらい、その後1ヶ月は自分で勉強していたという。
札幌で5日間の日本語研修を経て我家で1泊2日のホームステイ。
きっとドキドキだったことだろう。
Aさんとのコミュニケーションは、驚くほどスムーズだった。
お互いが日本語とロシア語を混ぜて話し、
困ったときは英語が登場。
こういうとき、英語は便利なようで実は邪魔だったりもする。
単語説明で英語を使う分には気にならないのだけれど
すべての表現・説明を英語にしてしまうと
私たちの間に流れている日本語とロシア語のあたたかい空気が乱されるのだ。
これは過去に、韓国のDくんを受け入れて
韓国語と日本語を交えて楽しんでいるときにも感じたことだ。
(よかったらその時の記事 『英語が邪魔?!』 を^^)
まったくもって、母国語が重なり合う現象っておもしろい。
さて日本語を学び始めてたった2ヶ月のAさんだが
日本語への興味の深さはとてつもない。
「今の、日本語は?」と聞いてはメモ。
私も「ロシア語では?」なんて似たようなことをやっては声に出していた。
お互い、どんどんどんどんコトバが増えていく。
「頭が爆発しそうだ…」 と言うAさん。
そうだろうな~ わかるな~
私もつい最近、ガボンの2人とのフランス語のやりとりで
同じ体験をしたばかりだ。
(この体験は、また後日♪)
Aさんはメモする際、必ずロシア語での音声表記と共に
ひらがなを書いていた。
ここで、私は日本語の難しさと共に
ロシア語との共通点に遭遇した。
たとえば 『有名』 という言葉。
聞こえたとおりにメモするAさんがまず書いたのは 『ゆめ』
「ゆ…め?」
「ゆ・う・め・い」
正しい音を伝える私。
でも私たちは 『有名』 と口にする際、一音一音はっきりと発音はしていない。
おそらくその音は 『ゆーめー』 と聞こえている。
だからAさんの書く 『ゆめ』 は、決しておかしなことではないのだ。
これは、子どもが母国語を習得していくときに経ていく過程と同じだ。
そして同時に、私にとってのロシア語でもそれと同じことが起きていた。
たとえば 『重い』 というロシア語。
さらっと言ってくれた音を大きな波で捉えて書こうとすると
『ティジュラー』
でも彼がはっきり細かく言ってくれたのを聞いて自分の目安として書くとこうなるのだ。
『ティァジュ(ル)ォー』
(キリル文字で書かず、あくまで私の目安の音としてのカタカナ表記なので
このカタカナ表記に関して違うとか合ってるとかは置いておいてね。)
ふーん… なるほど。
この細かいのの集まりが大きなものとして固まって
ナチュラルな音になるとこう聞こえるのか。
この、“塊で聞いたときと細分化して聞いたときの音の違い”については
夫もまったく同じことを感じたようだった。
コトバを大きな波・塊として捉えることができた上で
分解したときの細部が聞ける。
これは私にとって、すごくおもしろい体験だった。
「こう聞こえた」という大きな波としてのコトバを
否定するのはおかしいし自然じゃない。
大きな波と同時に、細部の存在を知れるから
ロシア語らしさを失わずにすむ。
そして口にするから、ロシア人のAさんにとって
「違う」とはならないのだ。
彼にとっての日本語と私たち夫婦にとってのロシア語。
この聞こえ方、実は細部は異なっているから文字表記だとこうなる…
というものがまったく同じ体験となって、2つの言語を結びつけた。
オモシロイところに共通性を見つけた!
Aさんは日本語を学び始めてまだ2ヶ月。
1ヶ月ほど少し教えてもらい、その後1ヶ月は自分で勉強していたという。
札幌で5日間の日本語研修を経て我家で1泊2日のホームステイ。
きっとドキドキだったことだろう。
Aさんとのコミュニケーションは、驚くほどスムーズだった。
お互いが日本語とロシア語を混ぜて話し、
困ったときは英語が登場。
こういうとき、英語は便利なようで実は邪魔だったりもする。
単語説明で英語を使う分には気にならないのだけれど
すべての表現・説明を英語にしてしまうと
私たちの間に流れている日本語とロシア語のあたたかい空気が乱されるのだ。
これは過去に、韓国のDくんを受け入れて
韓国語と日本語を交えて楽しんでいるときにも感じたことだ。
(よかったらその時の記事 『英語が邪魔?!』 を^^)
まったくもって、母国語が重なり合う現象っておもしろい。
さて日本語を学び始めてたった2ヶ月のAさんだが
日本語への興味の深さはとてつもない。
「今の、日本語は?」と聞いてはメモ。
私も「ロシア語では?」なんて似たようなことをやっては声に出していた。
お互い、どんどんどんどんコトバが増えていく。
「頭が爆発しそうだ…」 と言うAさん。
そうだろうな~ わかるな~
私もつい最近、ガボンの2人とのフランス語のやりとりで
同じ体験をしたばかりだ。
(この体験は、また後日♪)
Aさんはメモする際、必ずロシア語での音声表記と共に
ひらがなを書いていた。
ここで、私は日本語の難しさと共に
ロシア語との共通点に遭遇した。
たとえば 『有名』 という言葉。
聞こえたとおりにメモするAさんがまず書いたのは 『ゆめ』
「ゆ…め?」
「ゆ・う・め・い」
正しい音を伝える私。
でも私たちは 『有名』 と口にする際、一音一音はっきりと発音はしていない。
おそらくその音は 『ゆーめー』 と聞こえている。
だからAさんの書く 『ゆめ』 は、決しておかしなことではないのだ。
これは、子どもが母国語を習得していくときに経ていく過程と同じだ。
そして同時に、私にとってのロシア語でもそれと同じことが起きていた。
たとえば 『重い』 というロシア語。
さらっと言ってくれた音を大きな波で捉えて書こうとすると
『ティジュラー』
でも彼がはっきり細かく言ってくれたのを聞いて自分の目安として書くとこうなるのだ。
『ティァジュ(ル)ォー』
(キリル文字で書かず、あくまで私の目安の音としてのカタカナ表記なので
このカタカナ表記に関して違うとか合ってるとかは置いておいてね。)
ふーん… なるほど。
この細かいのの集まりが大きなものとして固まって
ナチュラルな音になるとこう聞こえるのか。
この、“塊で聞いたときと細分化して聞いたときの音の違い”については
夫もまったく同じことを感じたようだった。
コトバを大きな波・塊として捉えることができた上で
分解したときの細部が聞ける。
これは私にとって、すごくおもしろい体験だった。
「こう聞こえた」という大きな波としてのコトバを
否定するのはおかしいし自然じゃない。
大きな波と同時に、細部の存在を知れるから
ロシア語らしさを失わずにすむ。
そして口にするから、ロシア人のAさんにとって
「違う」とはならないのだ。
彼にとっての日本語と私たち夫婦にとってのロシア語。
この聞こえ方、実は細部は異なっているから文字表記だとこうなる…
というものがまったく同じ体験となって、2つの言語を結びつけた。
オモシロイところに共通性を見つけた!
ガボンの2人と過ごした日。
家にお迎えする前に北海道神宮を見に行った。
ラッキーなことに、その日は2組の結婚式に遭遇。
「mariage ?!」 と彼女たちは大興奮!
そりゃそうだ。
神宮での結婚式は純和風だもの。
でも傍らで、実は私も密かに興奮していた。
そっか!マリアージュだ!
フランス語で結婚(式)はマリアージュ!
言われてみればそうだわよ!!
『マリアージュ』なんて、過去に何度も耳にしたことがある言葉だし
実際それが『結婚』を意味するコトバであることも過去に理解していたことはある。
でもその言語の話者がリアルな場面で
その言葉を使ってくれたときの自分の中へのコトバの落ち方は、
頭での理解をはるかにしのぐ説得力があるのだ。
私はおそらく、もう一生『mariage』を忘れない。
しばらくして、私の頭の中にふと、ある単語が思い浮かんだ。
『fromage』
フロマージュ。
チーズだ。
途端に私の頭の、オモシロスイッチがオンになった。
マリアージュとフロマージュって似てる~!!
何でかな?
何か関連性があるのかな?!
ひとりで勝手に興奮した私は、迷いなく彼女たちに語りかけた。
「『mariage』と『fromage』って似てるね!!」
でも彼女たちは「ん?」という表情をしただけであっさりスルー。
通じていない。
一瞬、フランス語と英語を混ぜて言ったからわからなかったのかな?と思ったのだけれど
それはおそらく違うだろう。
きっとフランス語話者の彼女たちにとっては
『mariage』と『fromage』が似ているなんていう発想そのものがないのだ。
これは、以前アメリカの男の子が言っていた
「日本語って似たような音ばかり!たとえば『遠足』と『隕石』とか!」
に共通する感覚なのかもしれない。
いやいやいや…
全っ然似てないよ!
母国語だと絶対に間違えないところで聞き間違うのが外国語。
母国語だとありえないもの同士を『似てる』と関連づけてしまうのが外国語。
母国語だと思いもしない発想が湧き出てくるのが外国語だ。
『マリアージュ』と『フロマージュ』。
似てるじゃん!!と思うけど、それはきっと私が日本人だから。
「まぁ『アージュ』という音は一緒だけどね~…」
もし認めてくれるフランス語話者がいたとしても、きっとせいぜいその程度。
これは小さな子どもが「つぐ」と「つむ」のように似た言葉を言い間違えたり
(うちの姪っ子は「ご飯積んで」と言う^^ )
「おつくえ(机)」と「おくつえ」のように入れ替えて言っていたり
「収賄疑惑」を「シュウマイ疑惑」のように知ってる言葉に当てはめて聞いたりしているのと
同じようなことなんだろうな。
『マリアージュ』と『フロマージュ』
似てると思うんだけどな~(笑)
コトバってやっぱりおもしろい!
家にお迎えする前に北海道神宮を見に行った。
ラッキーなことに、その日は2組の結婚式に遭遇。
「mariage ?!」 と彼女たちは大興奮!
そりゃそうだ。
神宮での結婚式は純和風だもの。
でも傍らで、実は私も密かに興奮していた。
そっか!マリアージュだ!
フランス語で結婚(式)はマリアージュ!
言われてみればそうだわよ!!
『マリアージュ』なんて、過去に何度も耳にしたことがある言葉だし
実際それが『結婚』を意味するコトバであることも過去に理解していたことはある。
でもその言語の話者がリアルな場面で
その言葉を使ってくれたときの自分の中へのコトバの落ち方は、
頭での理解をはるかにしのぐ説得力があるのだ。
私はおそらく、もう一生『mariage』を忘れない。
しばらくして、私の頭の中にふと、ある単語が思い浮かんだ。
『fromage』
フロマージュ。
チーズだ。
途端に私の頭の、オモシロスイッチがオンになった。
マリアージュとフロマージュって似てる~!!
何でかな?
何か関連性があるのかな?!
ひとりで勝手に興奮した私は、迷いなく彼女たちに語りかけた。
「『mariage』と『fromage』って似てるね!!」
でも彼女たちは「ん?」という表情をしただけであっさりスルー。
通じていない。
一瞬、フランス語と英語を混ぜて言ったからわからなかったのかな?と思ったのだけれど
それはおそらく違うだろう。
きっとフランス語話者の彼女たちにとっては
『mariage』と『fromage』が似ているなんていう発想そのものがないのだ。
これは、以前アメリカの男の子が言っていた
「日本語って似たような音ばかり!たとえば『遠足』と『隕石』とか!」
に共通する感覚なのかもしれない。
いやいやいや…
全っ然似てないよ!
母国語だと絶対に間違えないところで聞き間違うのが外国語。
母国語だとありえないもの同士を『似てる』と関連づけてしまうのが外国語。
母国語だと思いもしない発想が湧き出てくるのが外国語だ。
『マリアージュ』と『フロマージュ』。
似てるじゃん!!と思うけど、それはきっと私が日本人だから。
「まぁ『アージュ』という音は一緒だけどね~…」
もし認めてくれるフランス語話者がいたとしても、きっとせいぜいその程度。
これは小さな子どもが「つぐ」と「つむ」のように似た言葉を言い間違えたり
(うちの姪っ子は「ご飯積んで」と言う^^ )
「おつくえ(机)」と「おくつえ」のように入れ替えて言っていたり
「収賄疑惑」を「シュウマイ疑惑」のように知ってる言葉に当てはめて聞いたりしているのと
同じようなことなんだろうな。
『マリアージュ』と『フロマージュ』
似てると思うんだけどな~(笑)
コトバってやっぱりおもしろい!
ガボンの2人が来ることになった前日。
「フランス語オンリーみたいなの。楽しみだけどドキドキする!」
と言う私に、フランスに留学経験のあるCちゃんがアドバイスをくれた。
「ゆっくりしゃべってって言えば大丈夫だよ」
でも私は、フランス語で「ゆっくりしゃべって」って、
どう言うのか知らない(笑)
まぁいいや。
実は私は、あることが気になっていた。
そしてそれは、予想通りの結果を私にもたらした。
人間がことばを自然に習得する順番は
『聞く→話す→読む→書く』だ。
人によってこの順番が入れ替わることはない。
どんな赤ちゃんも、お母さんはじめまわりの人のことばを浴び
そこから意味を見出し
大人が話すようなはっきりした音ではなくても
自分の意志を表すようになり
その語彙が増えると共に話し方もクリアになる。
その過程では、たとえば「トンネル」を「トンデル」と言うように
似たような音でいい間違いをしたり
エレベーターがエベレーターになったり
意味はわからないまま使っているのにタイミングがピッタリ!
なんていうことが起こったり…
大きくなるにつれて決して見聞きすることのできない
かわいくも興味深いコトバとの関わりがそこかしこに転がっている。
そして文字の存在を知るにつれてだんだん興味を持つようになり
日本人ならまずひらがなが読めるようになる。
そして自分の名前に含まれる文字に興味をそそられ
だんだんそれが書けるようになる。
つまり、何においてもまずは『音』――耳なのだ。
私は、フランス語の単語や文法を勉強したことはなかったけれど
音にだけは触れていた。
意味はわからないまま。
(多言語でやっているので、フランス語だけではないけれど)
するとどうだろう。
相手の話すフランス語が、ものすごくクリアに聞こえるのだ。
中学高校で英語を6年間勉強しても
英語を話すネイティブと会うと、たいていの日本人は聞き取れない。
「速すぎる!」
「(カタカナ音じゃないから)はっきり聞こえない!」
「モゴモゴ聞こえる!」
単語はたくさん知っているのに。
文法もたくさん勉強したのに。
そこで、このフレーズが登場する。
「すみません。もう少しゆっくり話してください」
でも意味はわからないまでもそのコトバの波に浸り、耳を育てておくと
これと逆のことが起こるのだ。
つまり
全部聞き取れる!
すごくクリアに相手のコトバが聞こえる!
全部知ってる音だ!
ただ、意味がわからないだけ。
(だって単語の意味は知らないから)
これはものすごく強い。
だって後は、意味さえわかればいいのだから。
意味なんて、相手とその時間を共有し、
自分がコトバに付随する体験をしてしまえば
あっという間に自分のものになる。
「聞き取れない~!」
「何言ってるかわからない~!」
「どうしよう、あんなに勉強したのに~!!」
なんていうこととは、まったく無縁の状態になる。
これはまさに、私自身、日本語を身につけたときにやってきたこと。
すべての人間が大人になる過程で経てきた経験だ。
だから今回も、私は言う必要がなかった。
「ゆっくりしゃべって」って。
だって相手が話すコトバはすべてクリアに聞こえているんだもの。
相手の話す速度は問題ではなかった。
意味がわからない単語はもともと知らないのだ。
だったら聞けばいい。
予測して確認すればいい。
実はこの、『意味はわからないけれど、全部聞き取れる』という現象は
フランス語だけではなく他の言語でも起こっている。
初めて体感したのはロシア語。
自分の中で起こった予想もしなかった現象に、
ものすごく興奮したのを覚えている。
だから
コトバと関わる上で、『耳を育てる』のは本当に大事だ。
ここでふと思った。
私はセラピスト&コーチという仕事をしているのだけれど
ここでもまず、大切なのは『聴くこと』だ。
そして『受け取ること』。
コトバを使ってコミュニケーションし、相手と心を通わせる。
心が開いたとき、世界は広がり次のステップが見えてくる。
うん、何も変わらない。
人の気づきを引き出し癒す会話も
能力や可能性を引き出すためにする会話も
異なる言語の者同士で交わす会話も。
『心を開いて聴く→受け取る→返す』
このくり返し。
耳って大事。
だって2つあるもんね。
口はひとつだもんね。
耳が開いていれば、もういらない。
「すみません、ゆっくりしゃべってください」
おもしろいな~♪
「フランス語オンリーみたいなの。楽しみだけどドキドキする!」
と言う私に、フランスに留学経験のあるCちゃんがアドバイスをくれた。
「ゆっくりしゃべってって言えば大丈夫だよ」
でも私は、フランス語で「ゆっくりしゃべって」って、
どう言うのか知らない(笑)
まぁいいや。
実は私は、あることが気になっていた。
そしてそれは、予想通りの結果を私にもたらした。
人間がことばを自然に習得する順番は
『聞く→話す→読む→書く』だ。
人によってこの順番が入れ替わることはない。
どんな赤ちゃんも、お母さんはじめまわりの人のことばを浴び
そこから意味を見出し
大人が話すようなはっきりした音ではなくても
自分の意志を表すようになり
その語彙が増えると共に話し方もクリアになる。
その過程では、たとえば「トンネル」を「トンデル」と言うように
似たような音でいい間違いをしたり
エレベーターがエベレーターになったり
意味はわからないまま使っているのにタイミングがピッタリ!
なんていうことが起こったり…
大きくなるにつれて決して見聞きすることのできない
かわいくも興味深いコトバとの関わりがそこかしこに転がっている。
そして文字の存在を知るにつれてだんだん興味を持つようになり
日本人ならまずひらがなが読めるようになる。
そして自分の名前に含まれる文字に興味をそそられ
だんだんそれが書けるようになる。
つまり、何においてもまずは『音』――耳なのだ。
私は、フランス語の単語や文法を勉強したことはなかったけれど
音にだけは触れていた。
意味はわからないまま。
(多言語でやっているので、フランス語だけではないけれど)
するとどうだろう。
相手の話すフランス語が、ものすごくクリアに聞こえるのだ。
中学高校で英語を6年間勉強しても
英語を話すネイティブと会うと、たいていの日本人は聞き取れない。
「速すぎる!」
「(カタカナ音じゃないから)はっきり聞こえない!」
「モゴモゴ聞こえる!」
単語はたくさん知っているのに。
文法もたくさん勉強したのに。
そこで、このフレーズが登場する。
「すみません。もう少しゆっくり話してください」
でも意味はわからないまでもそのコトバの波に浸り、耳を育てておくと
これと逆のことが起こるのだ。
つまり
全部聞き取れる!
すごくクリアに相手のコトバが聞こえる!
全部知ってる音だ!
ただ、意味がわからないだけ。
(だって単語の意味は知らないから)
これはものすごく強い。
だって後は、意味さえわかればいいのだから。
意味なんて、相手とその時間を共有し、
自分がコトバに付随する体験をしてしまえば
あっという間に自分のものになる。
「聞き取れない~!」
「何言ってるかわからない~!」
「どうしよう、あんなに勉強したのに~!!」
なんていうこととは、まったく無縁の状態になる。
これはまさに、私自身、日本語を身につけたときにやってきたこと。
すべての人間が大人になる過程で経てきた経験だ。
だから今回も、私は言う必要がなかった。
「ゆっくりしゃべって」って。
だって相手が話すコトバはすべてクリアに聞こえているんだもの。
相手の話す速度は問題ではなかった。
意味がわからない単語はもともと知らないのだ。
だったら聞けばいい。
予測して確認すればいい。
実はこの、『意味はわからないけれど、全部聞き取れる』という現象は
フランス語だけではなく他の言語でも起こっている。
初めて体感したのはロシア語。
自分の中で起こった予想もしなかった現象に、
ものすごく興奮したのを覚えている。
だから
コトバと関わる上で、『耳を育てる』のは本当に大事だ。
ここでふと思った。
私はセラピスト&コーチという仕事をしているのだけれど
ここでもまず、大切なのは『聴くこと』だ。
そして『受け取ること』。
コトバを使ってコミュニケーションし、相手と心を通わせる。
心が開いたとき、世界は広がり次のステップが見えてくる。
うん、何も変わらない。
人の気づきを引き出し癒す会話も
能力や可能性を引き出すためにする会話も
異なる言語の者同士で交わす会話も。
『心を開いて聴く→受け取る→返す』
このくり返し。
耳って大事。
だって2つあるもんね。
口はひとつだもんね。
耳が開いていれば、もういらない。
「すみません、ゆっくりしゃべってください」
おもしろいな~♪
さて。
今回は前回の記事『大興奮の多言語革命~序章』のつづき。
ガボンという国はアフリカの赤道直下にある。
52の地域言語が存在し、公用語はフランス語。
同じ国内でも、公用語であるフランス語で話さないと
コミュニケーションはできないと彼女たちは言っていた。
この状況、同じアフリカ大陸にあるブルキナファソと似ている。
「多言語国家のアフリカでは何十ヶ国語も話す人がたくさんいる」
という話と共に多言語活動を知った私としては
「あれれ?」という感じではあるけれど、それはそれ。
国によって、また植民地政策によっても
言葉のあり方は変わってくるから何とも言えない。
さてガボンからやってきたAさんとMさん。
2人が話す言語はフランス語。
「調査票に英語って書いてない!」
ということで、ドキドキしながら迎えたホームビジットの日。
対面は、「Bonjour!」とハグから始まった。
Aさんは英語が単語プラスα程度はわかる。
Mさんはほとんど話せない。
そして私たち夫婦はフランス語を勉強したことがない。
さて、どうなったか。
結果から言うと、何も困らなかった。
そう、何も。
驚くほど、何も困らなかったのだ。
相手がフランス語話者だと認識した途端、フル回転し始めた私の頭。
すると出てくるのだ。
私の中にいつの間にか溜まっていたフランス語の音たちが。
私、フランス語話してる!
私、彼女達が何を言ってるかわかる!!
我ながらびっくりした。
でも現実にそれは起こっていた。
それは何故か。
予測ができるのだ。
聴く方も、言う方も。
私はフランス語を学んだことはないけれど、多言語の活動は楽しんでいる。
ついでにコトバについての情報はゼロではない。
だからたとえばフランス語が
ラテン語圏の言葉だということは知ってるし
(言語学的にはロマンス諸語と分類されているみたいだけど)
だからスペイン語やイタリア語などと同じルーツだということはわかっている。
女性名詞と男性名詞があることは知っているし
主語によって動詞活用が変化することも知っている。
ひとつひとつの単語や文法は知らないけれど、
フランス語らしい全体の波は体に入っている。
ついでに、アルファベットをローマ字や英語の感覚で読んだら
全然フランス語にはならないことも知っている(笑)
あとはせいぜい名前、住んでいるところ、家族、好きなもの…
程度の自己紹介が言えるくらい。
そんな程度だったのだけれど、この情報&感覚は大きな意味を持っていた。
たとえば、札幌には有名な観光名所のひとつに『時計台』がある。
「これ、時計台。有名なの」と、私は彼女たちに伝えたかった。
時計台。
英語で言うと 「Clock Tower」。
う~ん…でもフランス語で「Tower」って何ていうのか知らないな。
ま、家みたいな形だからとりあえず「maison(メゾン)」でいいや。
で、時計…
時計かぁ…
イタリア語なら知ってるのよね、「orologio(オロロージョ)」
じゃ、これをフランス語っぽい波(イントネーション)で言ってみよう!
合ってるかどうか知らないけど…
というわけで言ってみた。
「C'est…、maison de オロロ~(ジ)」
こんな感じ。
文字にすると伝わりにくいけれど…^^;
するとすばやく反応が返ってきた。
「Oh! horloge!!」
通じた!
そう!そう!!『horloge』!
そっか~v
やっぱり『horloge』なんだ~♪
文字にするとスペルが違うから違うコトバに見えるかもしれないけれど
音を優先すると、とても似ている。
もとのコトバが同じで、その波なりイントネーションなりが
イタリア語らしいかフランス語らしいかだけの違いだ。
『有名』も同様に
英語の「famous」を使いつつ
イタリア語の「famoso」から予測して導き出すことができた。
全部が全部、そんな感じ。
これはとても楽しい作業だった。
もちろんすべての単語が共通なわけではないから
予測して言ってみて外れることもある。
でもそんなの、全然たいした問題ではない。
おおっ!
そうそう、それ!!
わっ!フランス語でもそう言うんだ!
そんな事柄の方が圧倒的に多かったから。
これは、普段からひとつの言語に偏らず
多言語に触れているからこそ
そしてコトバを分解せずに大きな波として捉えるクセがついているからこそ
起こったことなのだと思う。
もし私が、一言語に偏って、しかも“勉強”していたら
こんなに柔軟に予測したり、
フランス語っぽく言ってみたりはできなかったと思う。
でも多言語のおかげで、耳は開いている。
その言語らしい波も感覚で身についている。
他の言語ですでに知っているコトバがある。
これはすごい力になった。
そしてもっとも大事なこと。
“とにかく言ってみちゃえ!”
彼女たちは私が少しフランス語を話せる、わかるというだけで
すでにびっくりしてくれている。
間違っていたって全然気にしない。
わからなければわからないと言ってくれるし
私が適当に作っているコトバも予測してくれる。
評価されたり点数をつけられたりはしないのだ。
地球はひとつのまるい球体だ。
どこにも切れ目がなく繋がっている。
同様に、コトバもまた繋がっている。
国境のように切ってしまえば国もコトバも
『違い』を“わけて”しまうことになるけれど
もともと大地にも海にも境はない。
コトバだって、境界線がないまま世界各地で融合しているのだ。
日本国内の方言を見たって同じことが言える。
それを人間が勝手な都合でわけているだけなのなら
繋げて考えてそこにプラス、捉えた“らしさ”を付け加えればいい。
コトバは予測変換可能。
すごくおもしろい体験だった。
今回は前回の記事『大興奮の多言語革命~序章』のつづき。
ガボンという国はアフリカの赤道直下にある。
52の地域言語が存在し、公用語はフランス語。
同じ国内でも、公用語であるフランス語で話さないと
コミュニケーションはできないと彼女たちは言っていた。
この状況、同じアフリカ大陸にあるブルキナファソと似ている。
「多言語国家のアフリカでは何十ヶ国語も話す人がたくさんいる」
という話と共に多言語活動を知った私としては
「あれれ?」という感じではあるけれど、それはそれ。
国によって、また植民地政策によっても
言葉のあり方は変わってくるから何とも言えない。
さてガボンからやってきたAさんとMさん。
2人が話す言語はフランス語。
「調査票に英語って書いてない!」
ということで、ドキドキしながら迎えたホームビジットの日。
対面は、「Bonjour!」とハグから始まった。
Aさんは英語が単語プラスα程度はわかる。
Mさんはほとんど話せない。
そして私たち夫婦はフランス語を勉強したことがない。
さて、どうなったか。
結果から言うと、何も困らなかった。
そう、何も。
驚くほど、何も困らなかったのだ。
相手がフランス語話者だと認識した途端、フル回転し始めた私の頭。
すると出てくるのだ。
私の中にいつの間にか溜まっていたフランス語の音たちが。
私、フランス語話してる!
私、彼女達が何を言ってるかわかる!!
我ながらびっくりした。
でも現実にそれは起こっていた。
それは何故か。
予測ができるのだ。
聴く方も、言う方も。
私はフランス語を学んだことはないけれど、多言語の活動は楽しんでいる。
ついでにコトバについての情報はゼロではない。
だからたとえばフランス語が
ラテン語圏の言葉だということは知ってるし
(言語学的にはロマンス諸語と分類されているみたいだけど)
だからスペイン語やイタリア語などと同じルーツだということはわかっている。
女性名詞と男性名詞があることは知っているし
主語によって動詞活用が変化することも知っている。
ひとつひとつの単語や文法は知らないけれど、
フランス語らしい全体の波は体に入っている。
ついでに、アルファベットをローマ字や英語の感覚で読んだら
全然フランス語にはならないことも知っている(笑)
あとはせいぜい名前、住んでいるところ、家族、好きなもの…
程度の自己紹介が言えるくらい。
そんな程度だったのだけれど、この情報&感覚は大きな意味を持っていた。
たとえば、札幌には有名な観光名所のひとつに『時計台』がある。
「これ、時計台。有名なの」と、私は彼女たちに伝えたかった。
時計台。
英語で言うと 「Clock Tower」。
う~ん…でもフランス語で「Tower」って何ていうのか知らないな。
ま、家みたいな形だからとりあえず「maison(メゾン)」でいいや。
で、時計…
時計かぁ…
イタリア語なら知ってるのよね、「orologio(オロロージョ)」
じゃ、これをフランス語っぽい波(イントネーション)で言ってみよう!
合ってるかどうか知らないけど…
というわけで言ってみた。
「C'est…、maison de オロロ~(ジ)」
こんな感じ。
文字にすると伝わりにくいけれど…^^;
するとすばやく反応が返ってきた。
「Oh! horloge!!」
通じた!
そう!そう!!『horloge』!
そっか~v
やっぱり『horloge』なんだ~♪
文字にするとスペルが違うから違うコトバに見えるかもしれないけれど
音を優先すると、とても似ている。
もとのコトバが同じで、その波なりイントネーションなりが
イタリア語らしいかフランス語らしいかだけの違いだ。
『有名』も同様に
英語の「famous」を使いつつ
イタリア語の「famoso」から予測して導き出すことができた。
全部が全部、そんな感じ。
これはとても楽しい作業だった。
もちろんすべての単語が共通なわけではないから
予測して言ってみて外れることもある。
でもそんなの、全然たいした問題ではない。
おおっ!
そうそう、それ!!
わっ!フランス語でもそう言うんだ!
そんな事柄の方が圧倒的に多かったから。
これは、普段からひとつの言語に偏らず
多言語に触れているからこそ
そしてコトバを分解せずに大きな波として捉えるクセがついているからこそ
起こったことなのだと思う。
もし私が、一言語に偏って、しかも“勉強”していたら
こんなに柔軟に予測したり、
フランス語っぽく言ってみたりはできなかったと思う。
でも多言語のおかげで、耳は開いている。
その言語らしい波も感覚で身についている。
他の言語ですでに知っているコトバがある。
これはすごい力になった。
そしてもっとも大事なこと。
“とにかく言ってみちゃえ!”
彼女たちは私が少しフランス語を話せる、わかるというだけで
すでにびっくりしてくれている。
間違っていたって全然気にしない。
わからなければわからないと言ってくれるし
私が適当に作っているコトバも予測してくれる。
評価されたり点数をつけられたりはしないのだ。
地球はひとつのまるい球体だ。
どこにも切れ目がなく繋がっている。
同様に、コトバもまた繋がっている。
国境のように切ってしまえば国もコトバも
『違い』を“わけて”しまうことになるけれど
もともと大地にも海にも境はない。
コトバだって、境界線がないまま世界各地で融合しているのだ。
日本国内の方言を見たって同じことが言える。
それを人間が勝手な都合でわけているだけなのなら
繋げて考えてそこにプラス、捉えた“らしさ”を付け加えればいい。
コトバは予測変換可能。
すごくおもしろい体験だった。