私は“外国語”を“勉強”するのが苦手。
生きてない机上のコトバをただひたすら暗記して
人間の自然なコトバの習得とは逆の方法で
文法から分析→書いたり読んだり…がどうにも合わない。
翻訳家になるならまだしも、
「その国の人とその人の言葉で話せたら世界はもっと広がるし楽しいよね!」
という気持ちでコトバと触れ合いたい私にとって
難しい文章が読めることよりも
人と向き合って話せる、心を通じさせて楽しさを共有できることの方が大切。
そんなわけで、生きた人と向かい合えない、
紙と鉛筆の世界でコトバを学ぼうとするのが苦手なのだ。
ではそんな私が、単言語国家である日本において
どうやってたくさんのコトバと向き合う生活を送っているのかというと
キーは多言語を楽しむ活動にある。
その活動詳細は割愛するけれど、
たくさんの音の波を毎日浴びまくっているおかげで
今や何語の人と出会っても無敵な感じ。
でも、はじめてその活動を知ったときは「???」だった。
英語だけでも苦労している日本人。
20ヶ国語以上もの言語を同時にやるってどういうこと?! って。
でも世界を見れば、4ヶ国語 5ヶ国語…どころか
何十ヶ国語も自在に操る人たちが存在する。
しかも多言語国家で生まれた人たちは、いちいち“勉強”しなくても
自然に習得することをカラダでやってのけている。
うーん… 不可能、ではないか…
『誰かができている』ということは、『自分にもできる』ということだ。
要は、そこに辿り着くまでやるかやらないか。
それは自分次第だから。
というわけで、「???」とは思いつつも
本当にいろいろな国の言葉が話せるようになるのなら
願ってもないこのチャンス!
しかも基本的に文法や読み書きからの“勉強”スタイルではない!
何かがあるような気がして挑戦し始めたのが多言語活動だ。
実際やってみると、人間にとっての多言語の
ナチュラルさや楽さ、快適さに目からウロコ。
日本で普通に生活していたら普通にはなかなか出会えない
“外国語”の音やリズム、波が体の中に入って来るってこういうことか、と。
そして今まで経てきた海外での経験やコトバ体験、
日本以外の国の人との関わりで得てきたものが
自分の中で明確なものとして語れるようになった。
さらに国籍関係なく人と人として向き合うこと
セラピストやコーチとして人と向き合う中で得てきたこと
大きな病気をした経験でココロやカラダと人間を
一層観察できるようになったことなどが
すべて集約されて私の中でひとつの『核』となった。
多言語っておもしろい。
コトバっておもしろい。
世界っておもしろい。
人間の持っている能力ってすごい!
自分の中に多言語がベースとして存在していると
新たなコトバの発見ができるだけでなく、
自らが思わぬ能力を発揮したりする。
とにかく耳が育っている。
相手のコトバの真似がすぐできる。
真似がすぐできるから、すぐに自分のものになる。
“その言葉らしさ”を捉えられるから、ネイティブが驚くほど“らしく”話せる。
できる自分を実感できるから楽しい!
先日、アフリカのガボンという国からAさんとMさん、
2人のゲストが我家にやってきた。
調査票を見ると言語はフランス語オンリー。
おおっ!
とうとう…!
我家はこの2年ほど、海外ゲストのホームステイやホームビジットの受け入れをしている。
でもいざ受け入れをすることになると
意外とゲストは日本語を話せたり、日本語が話せなくても英語はOKだったりで
なかなか多言語活動の成果を体感できるチャンスがなかった。
さて。
多言語ってどうなのよ?
私の中に、フランス語は存在しているのか…
それが実践、証明される日がやってきた。
うふふ…(*^-^*)
長くなったので続きは次回v
「日本人はイエスかノーかはっきりしない」
「日本人は曖昧だ」
これまたよく言われる。
ただ私はいつも不思議に思う。
世の中、白黒はっきりしないことの方が多いじゃない!
0か100かしかないモノなんて、ほとんどないじゃない!
答えなんて、無数にあるじゃない!!
以前、あるイタリア人に聞かれた。
「ラジオ好き?」
ラジオ。
私は別に、好きでも嫌いでもない。
“ラジオ大好き!毎日聞いてる!”という人と比べれば
そこまで好きなわけではないということにはなると思う。
だって私、普段は聞かないから。
でも聞かないからといって、別に嫌いなわけではない。
そもそも嫌う理由がない。
何か聞きたい番組があれば聞くだろうし
かつてよく聞いていた時期もある。
好きな人が、聞きたい人が、聞きたいときに聞けばいい。
ラジオだってテレビだって、何だってそうでしょ?
だから好きか嫌いか、大きく大別しなければならないなら
おそらく『好き』に入ると思うのだ。
これから先、一生聞かないとは思えないし。
というわけで、私の答えはこうだった。
「うん。好きよ」
するとさらに質問がきた。
「どんな番組を聞くの?」
だから私は答える。
「今はラジオ聞かない」
すると彼が言った。
「それは嫌いって言うんだよ!」
え?どうして?
何故、『聞かない=嫌い』になってしまうのか。
さっぱりわからなかった。
やらないことは嫌いなことなのだろうか?
でも世の中なんて、自分の生活に“する”ことを選択していない事柄の方が多い。
人生においてだって、経験しないことの方が多い。
経験しないことすべてを『嫌い』と分類するなんて、ずいぶん極端じゃない?
世の中のことをすべて『好き』か『嫌い』かのふたつに分類する。
そのこと自体、そもそも不思議。
私にとって、世の中のほとんどのものは『好きでも嫌いでもないもの』だ。
『興味がない』場合もあれば
『必要なときだけ使う』ものもあるし
『知らない』ものの方が多いのだ。
モノゴトって、ほとんどはそういう感じでできているのではないだろうか?
答えがひとつしかないモノゴトなんて、ほとんどない。
人によって答えが異なる事象がほとんど。
イエスかノーかで割り切れるものの方が圧倒的に少ないのが世界だと思う。
優柔不断で自分で決めることをしなかったり、
考えるのを放棄して自分の意見を言わないことは問題だけれど
『どちらでもない』という意見は存在する。
「イエスなのか、ノーなのか?!」
「好きなのか、嫌いなのか?!」
いやいや、どっちでもいいよ。
本当に、好きでも嫌いでもないのよ。
すべてのものに対してそこまで強い思いを持ってはいないよ。
好きか嫌いか。
イエスかノーか。
日本人以外のすべての国の人がそうなわけでは、もちろんない。
でもその選択を迫ってくる相手と出会うと不思議に思う。
本当に彼らには『中間』が存在しないのだろうか?
それだけで答えが出るものが少ないということは
紛れもない事実なのだけれど。
「日本人はイエスかノーかはっきりしない」
「日本人は曖昧だ」
ビジネスや政治の世界において
それが致命的になることはもちろんある。
でも、それだけじゃない良さがあることが
もっと世界に発信できたら、いいのかもしれないよね。
「日本人は曖昧だ」
これまたよく言われる。
ただ私はいつも不思議に思う。
世の中、白黒はっきりしないことの方が多いじゃない!
0か100かしかないモノなんて、ほとんどないじゃない!
答えなんて、無数にあるじゃない!!
以前、あるイタリア人に聞かれた。
「ラジオ好き?」
ラジオ。
私は別に、好きでも嫌いでもない。
“ラジオ大好き!毎日聞いてる!”という人と比べれば
そこまで好きなわけではないということにはなると思う。
だって私、普段は聞かないから。
でも聞かないからといって、別に嫌いなわけではない。
そもそも嫌う理由がない。
何か聞きたい番組があれば聞くだろうし
かつてよく聞いていた時期もある。
好きな人が、聞きたい人が、聞きたいときに聞けばいい。
ラジオだってテレビだって、何だってそうでしょ?
だから好きか嫌いか、大きく大別しなければならないなら
おそらく『好き』に入ると思うのだ。
これから先、一生聞かないとは思えないし。
というわけで、私の答えはこうだった。
「うん。好きよ」
するとさらに質問がきた。
「どんな番組を聞くの?」
だから私は答える。
「今はラジオ聞かない」
すると彼が言った。
「それは嫌いって言うんだよ!」
え?どうして?
何故、『聞かない=嫌い』になってしまうのか。
さっぱりわからなかった。
やらないことは嫌いなことなのだろうか?
でも世の中なんて、自分の生活に“する”ことを選択していない事柄の方が多い。
人生においてだって、経験しないことの方が多い。
経験しないことすべてを『嫌い』と分類するなんて、ずいぶん極端じゃない?
世の中のことをすべて『好き』か『嫌い』かのふたつに分類する。
そのこと自体、そもそも不思議。
私にとって、世の中のほとんどのものは『好きでも嫌いでもないもの』だ。
『興味がない』場合もあれば
『必要なときだけ使う』ものもあるし
『知らない』ものの方が多いのだ。
モノゴトって、ほとんどはそういう感じでできているのではないだろうか?
答えがひとつしかないモノゴトなんて、ほとんどない。
人によって答えが異なる事象がほとんど。
イエスかノーかで割り切れるものの方が圧倒的に少ないのが世界だと思う。
優柔不断で自分で決めることをしなかったり、
考えるのを放棄して自分の意見を言わないことは問題だけれど
『どちらでもない』という意見は存在する。
「イエスなのか、ノーなのか?!」
「好きなのか、嫌いなのか?!」
いやいや、どっちでもいいよ。
本当に、好きでも嫌いでもないのよ。
すべてのものに対してそこまで強い思いを持ってはいないよ。
好きか嫌いか。
イエスかノーか。
日本人以外のすべての国の人がそうなわけでは、もちろんない。
でもその選択を迫ってくる相手と出会うと不思議に思う。
本当に彼らには『中間』が存在しないのだろうか?
それだけで答えが出るものが少ないということは
紛れもない事実なのだけれど。
「日本人はイエスかノーかはっきりしない」
「日本人は曖昧だ」
ビジネスや政治の世界において
それが致命的になることはもちろんある。
でも、それだけじゃない良さがあることが
もっと世界に発信できたら、いいのかもしれないよね。
「日本人は自己主張しない」
「日本人は自分の意見を言わない」
よく言われることだけれど、本当にそうなのだろうか?
確かに、『察する文化』などというコトバを盾にして
言わなさすぎる面はある。
意見を言わないのに「察して!」なんて言う人もいたりして。
それはそれでおかしい。
違う人間なんだから、言わなきゃ伝わらないじゃない。
“察したつもりが全然違ってた”
なんてよくあること。
察したつもりの押し付け
察してほしいという傲慢さ
どちらも図々しさを含んでいる。
そして食い違った結果そこに残るのは、
察したつもりの人間の不快感と
察してくれなかったと思い込んでいる人間の不快感。
『察する』という一見美しく聞こえがちな言葉の裏側には、
危険がたくさん孕んでいる。
ちっとも美しくなんかない。
まぁこの『察する』は置いておいて
『意見を言わない日本人』について。
日本人同士ではなく、世界において
たとえばオーストラリアにおける会話の中で観察してみると、
必ずしも『言わない』わけではない部分が見えてくる。
これはすなわち、『言えない』になる。
うーん…
誤解が生じそうだ。
言い換えてみようかな。
『口を挟む隙がない』のだ。
ここで『日本人は…』とひと括りにしてしまうことには多少抵抗があるけれど。
だって日本人にもいろいろいるから。
人の話を聞かない人、まくし立てる人、自分の意見のみを押し付ける人…
『聞かない人』『待たない人』は日本人にだって数多くいる。
一方でもちろん、話をきちんと聞いてくれるオーストラリア人もたくさんいる。
だからそういった個人単位でのことは、この際ちょっと脇においておく。
そこで大きく“日本人”と“オーストラリア人”の会話の違いを見てみると
やっぱり、全体的な気質が若干異なって見えてくる。
それはオーストラリアにいたときに体験した事実。
それまで、私の身のまわりにはなかった言葉の応酬だった。
何人かで話をしていたとき。
ひとりが話すと、その話がすべて終わる前に次の人が話し始める。
そしてその話が終わる前に、また次の人が話し始める。
彼らの会話はそのくり返しだった。
つまり、会話のすべてがオーバーラップしているのだ。
全部をきちんと聞いて、それに対する自分の意見を言おうとすると
すでに誰かが話し始めている。
『呼吸』や『間』が存在しない。
だから口を挟めない。
そして言おうとタイミングを図っていると
やっぱり違う人が、誰かの話が終わる前に話し始める。
また口を挟めない。
畳み掛けるようなオージーの会話。
まったく口を挟む隙がないのだ。
その場にいると、ただただ圧倒されるだけ。
言いたいことはあるのに、タイミングがまったく図れない。
あれはすごかった。
他人の話をさえぎって、掻き分け掻き分け自分の意見を述べたい!
とは思わなかったから、なおさらその速度についていけない。
そして気づくと、話題は別のものに移行してしまっていたというわけ。
しかも、3つも4つも先の話題に。
結果、『話さない人』『静かな人』の誕生につながっている気がした。
これが行き過ぎたものがきっと
『自己主張しない人』『自分の意見を言わない人』なのではないかと思ったのだ。
もちろん大人数のときに口をはさめなくても
1対1で向き合っていれば会話は成立するから
私はそれなりに自分の気持ちを伝えることはできた。
でも…
うーん…
世界の中の日本人。
コミュニケーションのあり方の本質を考えると
これまた言いたいことはいろいろ出てくる。
けれどとりあえず
国によって人との向き合い方そのものが違う場合があるということは、
わかっていたらいいのかもしれない。
わかっていれば、それに対する対策も打てるようになる。
今の私が、以前よりも上手に自分の意見を伝えるタイミングを
掴む術を見つけたように。
日本人も、意見がないわけでは決してないのよね。
「日本人は自分の意見を言わない」
よく言われることだけれど、本当にそうなのだろうか?
確かに、『察する文化』などというコトバを盾にして
言わなさすぎる面はある。
意見を言わないのに「察して!」なんて言う人もいたりして。
それはそれでおかしい。
違う人間なんだから、言わなきゃ伝わらないじゃない。
“察したつもりが全然違ってた”
なんてよくあること。
察したつもりの押し付け
察してほしいという傲慢さ
どちらも図々しさを含んでいる。
そして食い違った結果そこに残るのは、
察したつもりの人間の不快感と
察してくれなかったと思い込んでいる人間の不快感。
『察する』という一見美しく聞こえがちな言葉の裏側には、
危険がたくさん孕んでいる。
ちっとも美しくなんかない。
まぁこの『察する』は置いておいて
『意見を言わない日本人』について。
日本人同士ではなく、世界において
たとえばオーストラリアにおける会話の中で観察してみると、
必ずしも『言わない』わけではない部分が見えてくる。
これはすなわち、『言えない』になる。
うーん…
誤解が生じそうだ。
言い換えてみようかな。
『口を挟む隙がない』のだ。
ここで『日本人は…』とひと括りにしてしまうことには多少抵抗があるけれど。
だって日本人にもいろいろいるから。
人の話を聞かない人、まくし立てる人、自分の意見のみを押し付ける人…
『聞かない人』『待たない人』は日本人にだって数多くいる。
一方でもちろん、話をきちんと聞いてくれるオーストラリア人もたくさんいる。
だからそういった個人単位でのことは、この際ちょっと脇においておく。
そこで大きく“日本人”と“オーストラリア人”の会話の違いを見てみると
やっぱり、全体的な気質が若干異なって見えてくる。
それはオーストラリアにいたときに体験した事実。
それまで、私の身のまわりにはなかった言葉の応酬だった。
何人かで話をしていたとき。
ひとりが話すと、その話がすべて終わる前に次の人が話し始める。
そしてその話が終わる前に、また次の人が話し始める。
彼らの会話はそのくり返しだった。
つまり、会話のすべてがオーバーラップしているのだ。
全部をきちんと聞いて、それに対する自分の意見を言おうとすると
すでに誰かが話し始めている。
『呼吸』や『間』が存在しない。
だから口を挟めない。
そして言おうとタイミングを図っていると
やっぱり違う人が、誰かの話が終わる前に話し始める。
また口を挟めない。
畳み掛けるようなオージーの会話。
まったく口を挟む隙がないのだ。
その場にいると、ただただ圧倒されるだけ。
言いたいことはあるのに、タイミングがまったく図れない。
あれはすごかった。
他人の話をさえぎって、掻き分け掻き分け自分の意見を述べたい!
とは思わなかったから、なおさらその速度についていけない。
そして気づくと、話題は別のものに移行してしまっていたというわけ。
しかも、3つも4つも先の話題に。
結果、『話さない人』『静かな人』の誕生につながっている気がした。
これが行き過ぎたものがきっと
『自己主張しない人』『自分の意見を言わない人』なのではないかと思ったのだ。
もちろん大人数のときに口をはさめなくても
1対1で向き合っていれば会話は成立するから
私はそれなりに自分の気持ちを伝えることはできた。
でも…
うーん…
世界の中の日本人。
コミュニケーションのあり方の本質を考えると
これまた言いたいことはいろいろ出てくる。
けれどとりあえず
国によって人との向き合い方そのものが違う場合があるということは、
わかっていたらいいのかもしれない。
わかっていれば、それに対する対策も打てるようになる。
今の私が、以前よりも上手に自分の意見を伝えるタイミングを
掴む術を見つけたように。
日本人も、意見がないわけでは決してないのよね。
「日本人は英語が話せない」
「日本人は自己主張しない」
「日本人はイエスかノーかはっきりしない」
こういう主張はよく耳にする。
確かに、そういう部分はある。
「そんなことない!」とは言い切れない。
とはいえ、思うのだ。
うーん…
必ずしもそういうことではないのでは… と。
それを最初に思ったのは、ロンドンでの語学学校だった。
入ったのは下から2番目のクラス。
そこには数名の日本人とそれ以上のヨーロピアンがいた。
“同じレベル”と言われて入ったそのクラス。
でもヨーロピアンはよくしゃべる。
非常によくしゃべるのだ。
特に印象的だったのがイタリア人。
授業中でもよくしゃべる。
とにかくしゃべる。
ずーっとしゃべっている!
何なの?!この人たち。
どうしてこんなに話せるの?
こんなに話せるのに、どうしてこのクラスにいるわけ??!
そう思っていた。
…最初は。
でも徐々に慣れてくる中で気づいたのだ。
彼女たちが話している内容に。
それはこんなことだった。
「え~とね、何ていうのかしら。そうね~…
ほら、あれよ、あれみたいな…
んーとね、あのね…」
延々と…
それはもう、延々とそんなことを言っていた。
何か意味のあることを話していたり
先生の質問に対しての回答を述べていたわけではなかったのだ!
そしてこんな風に続いていく。
「そうそう、そういえばこの間、私のボーイフレンドがね…」
授業中に。
先生からの、質問の途中で。
いやいや、それ今、全然関係ないんじゃない?!
この時、気が付いた。
これって、日本人が自己主張しないとか、話さないとかいうのとは
そもそも次元が違う。
その『場』でのあり方が、すでに全然違うのだということに。
延々とひとりでみんなの時間を使って
「えっとね、えっとね…何て言ったらいいのかしら…
何だかうまく言えないんだけど…
そういえば私の彼氏がね…」
って、日本でやったらひんしゅくじゃない?
言ってしまえば、自分が話したいだけ話して
場の空気は読んでいないわけだから。
そんなこと、日本人は絶対に存在しない!とは言いきれないけれど
授業中にあの展開…というのはあまり遭遇しない。
少なくとも私の育ってきた環境において、
あまりお目にかかったことはなかった。
あの時、あのクラスで。
「日本人は話さない」
「日本人は自己主張しない」
少なくとも、そういう問題ではない部分が見えた。
延々と話し続けるイタリア人の彼女を
数名の日本人はぽかんとしながら見つめていた。
「日本人は自己主張しない」
「日本人はイエスかノーかはっきりしない」
こういう主張はよく耳にする。
確かに、そういう部分はある。
「そんなことない!」とは言い切れない。
とはいえ、思うのだ。
うーん…
必ずしもそういうことではないのでは… と。
それを最初に思ったのは、ロンドンでの語学学校だった。
入ったのは下から2番目のクラス。
そこには数名の日本人とそれ以上のヨーロピアンがいた。
“同じレベル”と言われて入ったそのクラス。
でもヨーロピアンはよくしゃべる。
非常によくしゃべるのだ。
特に印象的だったのがイタリア人。
授業中でもよくしゃべる。
とにかくしゃべる。
ずーっとしゃべっている!
何なの?!この人たち。
どうしてこんなに話せるの?
こんなに話せるのに、どうしてこのクラスにいるわけ??!
そう思っていた。
…最初は。
でも徐々に慣れてくる中で気づいたのだ。
彼女たちが話している内容に。
それはこんなことだった。
「え~とね、何ていうのかしら。そうね~…
ほら、あれよ、あれみたいな…
んーとね、あのね…」
延々と…
それはもう、延々とそんなことを言っていた。
何か意味のあることを話していたり
先生の質問に対しての回答を述べていたわけではなかったのだ!
そしてこんな風に続いていく。
「そうそう、そういえばこの間、私のボーイフレンドがね…」
授業中に。
先生からの、質問の途中で。
いやいや、それ今、全然関係ないんじゃない?!
この時、気が付いた。
これって、日本人が自己主張しないとか、話さないとかいうのとは
そもそも次元が違う。
その『場』でのあり方が、すでに全然違うのだということに。
延々とひとりでみんなの時間を使って
「えっとね、えっとね…何て言ったらいいのかしら…
何だかうまく言えないんだけど…
そういえば私の彼氏がね…」
って、日本でやったらひんしゅくじゃない?
言ってしまえば、自分が話したいだけ話して
場の空気は読んでいないわけだから。
そんなこと、日本人は絶対に存在しない!とは言いきれないけれど
授業中にあの展開…というのはあまり遭遇しない。
少なくとも私の育ってきた環境において、
あまりお目にかかったことはなかった。
あの時、あのクラスで。
「日本人は話さない」
「日本人は自己主張しない」
少なくとも、そういう問題ではない部分が見えた。
延々と話し続けるイタリア人の彼女を
数名の日本人はぽかんとしながら見つめていた。
言葉の“習得”と“勉強”の違い。
それはいろいろあるけれど、そのひとつは
“習得”の場合、順番が決まっていないということ。
無数のコトバが身の回りで飛び交い
体験しながらコトバの意味を掴んでいく。
そして自分に必要な言葉を自然に聞き取って真似してみる。
使ってみて、その状況に合っているのかどうかを感じ取り
それを繰り返しながら自分のものにする。
感覚を掴んでしまえば、それは自分の中から決して失われない。
それが“習得”。
一方“勉強”となると、どんなに『自然に』を心がけたところで
どうしたって人工的になる。
『「こんにちは。はじめまして。私の名前は○○です。
どうぞよろしくお願いします」
「ありがとう」
よく使うフレーズから順に、自然な流れで学びましょう!』
って、これのどこが自然?!
これは自然なのではなく、「知っているととりあえず安心できるフレーズ」だ。
もちろんダメじゃない。
だって“学んで”いるんだもん。
海外の人と出会って、その国の言葉を教えてもらいたいと思ったとき
「○○って何て言うの?」と尋ねるのは簡単だ。
相手も喜んで教えてくれる。
でもこれ、実は深い落とし穴。
何故かと言うと
意外と何を聞いたらいいのかわからないのだ。
なので結局、似たような質問になる。
1.あいさつ
(おはよう~おやすみなさい、ありがとう、どうぞなど)
2.『私は~です』
(名前、職業、日本人…などをとりあえず入れてみる)
3.『これは~です』
(目の前にあるモノを指さしてとりあえず言ってみる)
4.数字
(とりあえず1~10まで)
そしてもう少しいけそう!と思うとちょっと追加してこんな感じ。
5.思いついたフレーズ
(疲れた、おいしい、嬉しい、楽しい、好きなど)
6.思い浮かんだ動詞
(食べる、飲む、寝る、行くなど)
順番は多少入れ替わるかもしれないけれど
大抵はこんな感じではないだろうか。
私だけ…ではないと思う。
これをよくよく見てみると、結局は“勉強”するときに
学ぶ順番と大差ないように思える。
発想が貧困なのか
長年のうちにしみこんでしまっている思考回路のせいなのか…
わからないけれど。
“勉強”する時なら、これにあと疑問詞が加わるかな。
『これは何ですか?』
『~はどこですか?』
おもしろいほど、知らず知らずのうちにされているパターン化。
それはそれで別にかまわない。
だってやっぱり便利な気がするし、
こういう“基本”を感じるフレーズは安心するものね。
ただこれだけだとちょっと不便。
(もちろん充分な会話をするにはこれだけじゃ不便で当たり前なのだけれど)
「これ知ってたらすごくいいよな~!」
と思うフレーズがある。
そしてこのフレーズは、なかなか日本語以外の言語では質問&説明しづらい。
私の英語力などの問題もあるけれど。
(相手が英語とは限らないしね)
それはこれ。
『何だっけ?』
そう、『何だっけ?』 だ。
(さっき言ってた)あれ何だっけ?
さっきの(出来事)何だっけ~?
さっきの(もの)何だっけ?
あれ何(て言うん)だっけ?
(言おうとしていたこと)何だっけ?
『何だっけ?』には、たくさんの意味が含まれる。
これが言えたら、すごく便利じゃない?
一度で覚えられなかったものを聞きたいときも
思い出せないんだよと示したいときも
話題をふりたいときも
すべて『何だっけ』で相手に投げかけられる。
あいさつも、『私は~です』も、『これは~です』もいいけれど
『えーと、何だっけ?』があるだけで
会話にクッションが生まれるし、つながりがナチュラルになる。
だから『何だっけ?』は、私が多言語で知りたいフレーズのひとつ。
この便利フレーズ 『何だっけ?』
気づかせてくれたのは2歳当時の姪っ子だ。
「なんだっけ~~~っ??」
首をかしげて思い出そうとする彼女。
なるほど~!! と思った。
もしかしたら、気にもとめない小さなフレーズ。
でもネイティブの、こぼしてしまいそうなこういうフレーズこそ
ネイティブらしさが表れる。
いいよね♪ 『何だっけ?』 v(^-^)
それはいろいろあるけれど、そのひとつは
“習得”の場合、順番が決まっていないということ。
無数のコトバが身の回りで飛び交い
体験しながらコトバの意味を掴んでいく。
そして自分に必要な言葉を自然に聞き取って真似してみる。
使ってみて、その状況に合っているのかどうかを感じ取り
それを繰り返しながら自分のものにする。
感覚を掴んでしまえば、それは自分の中から決して失われない。
それが“習得”。
一方“勉強”となると、どんなに『自然に』を心がけたところで
どうしたって人工的になる。
『「こんにちは。はじめまして。私の名前は○○です。
どうぞよろしくお願いします」
「ありがとう」
よく使うフレーズから順に、自然な流れで学びましょう!』
って、これのどこが自然?!
これは自然なのではなく、「知っているととりあえず安心できるフレーズ」だ。
もちろんダメじゃない。
だって“学んで”いるんだもん。
海外の人と出会って、その国の言葉を教えてもらいたいと思ったとき
「○○って何て言うの?」と尋ねるのは簡単だ。
相手も喜んで教えてくれる。
でもこれ、実は深い落とし穴。
何故かと言うと
意外と何を聞いたらいいのかわからないのだ。
なので結局、似たような質問になる。
1.あいさつ
(おはよう~おやすみなさい、ありがとう、どうぞなど)
2.『私は~です』
(名前、職業、日本人…などをとりあえず入れてみる)
3.『これは~です』
(目の前にあるモノを指さしてとりあえず言ってみる)
4.数字
(とりあえず1~10まで)
そしてもう少しいけそう!と思うとちょっと追加してこんな感じ。
5.思いついたフレーズ
(疲れた、おいしい、嬉しい、楽しい、好きなど)
6.思い浮かんだ動詞
(食べる、飲む、寝る、行くなど)
順番は多少入れ替わるかもしれないけれど
大抵はこんな感じではないだろうか。
私だけ…ではないと思う。
これをよくよく見てみると、結局は“勉強”するときに
学ぶ順番と大差ないように思える。
発想が貧困なのか
長年のうちにしみこんでしまっている思考回路のせいなのか…
わからないけれど。
“勉強”する時なら、これにあと疑問詞が加わるかな。
『これは何ですか?』
『~はどこですか?』
おもしろいほど、知らず知らずのうちにされているパターン化。
それはそれで別にかまわない。
だってやっぱり便利な気がするし、
こういう“基本”を感じるフレーズは安心するものね。
ただこれだけだとちょっと不便。
(もちろん充分な会話をするにはこれだけじゃ不便で当たり前なのだけれど)
「これ知ってたらすごくいいよな~!」
と思うフレーズがある。
そしてこのフレーズは、なかなか日本語以外の言語では質問&説明しづらい。
私の英語力などの問題もあるけれど。
(相手が英語とは限らないしね)
それはこれ。
『何だっけ?』
そう、『何だっけ?』 だ。
(さっき言ってた)あれ何だっけ?
さっきの(出来事)何だっけ~?
さっきの(もの)何だっけ?
あれ何(て言うん)だっけ?
(言おうとしていたこと)何だっけ?
『何だっけ?』には、たくさんの意味が含まれる。
これが言えたら、すごく便利じゃない?
一度で覚えられなかったものを聞きたいときも
思い出せないんだよと示したいときも
話題をふりたいときも
すべて『何だっけ』で相手に投げかけられる。
あいさつも、『私は~です』も、『これは~です』もいいけれど
『えーと、何だっけ?』があるだけで
会話にクッションが生まれるし、つながりがナチュラルになる。
だから『何だっけ?』は、私が多言語で知りたいフレーズのひとつ。
この便利フレーズ 『何だっけ?』
気づかせてくれたのは2歳当時の姪っ子だ。
「なんだっけ~~~っ??」
首をかしげて思い出そうとする彼女。
なるほど~!! と思った。
もしかしたら、気にもとめない小さなフレーズ。
でもネイティブの、こぼしてしまいそうなこういうフレーズこそ
ネイティブらしさが表れる。
いいよね♪ 『何だっけ?』 v(^-^)
中学校のとき、『日本語英語』で有名な先生がいらした。
日本語英語。
つまり、カタカナ英語。
「This is a pen.」 が 「ディス イズ ア ペン」 に
「Good morning.」 が 「グッド モーニング」 になってしまう、あれだ。
発音もイントネーションも、ネイティブの英語とはかけ離れている、
まさに『日本語の音』になってしまっている英語モドキ。
中学生は厳しい。
たとえ自分たちが英語を話せなくても
教師の発音にはうるさいのだ。
かく言う私も、自分は話せないながらも
正しい音で学びたいという欲求はあった。
この『カタカナ音』の問題は、英語に限ったことではない。
中国語だろうとフランス語だろうと、同じこと。
最近は、「カタカナ英語にならないように!」だけでなく
「カタカナ中国語にならないように!」という広告も目につくようになった。
裏を返せば、それだけ
“日本人の外国語の学び方はカタカナ音に変換してしまいがち”
だといえる。
『音』は、コトバの持つ要素のひとつでしかない。
しかし、それだけに注目してみても
言語によって母音も、子音も、それらの数も
体系も、成り立ちも、発音も、イントネーションも全然違う。
言語ごとに、音に対する感覚そのものが異なっているのだ。
それがわかっていれば、
すべてを日本語の音に置き換えて考えようとすること自体
おかしいことに気づく。
日本語の51音(あいうえお)や
日本語の平坦な波になぞらえようとするから
いつまでたってもその言語が自分の中に入ってこない。
まったく異なるものなのに、無理にこちらのルールに当てはめようとする。
だからおかしくなるのだ。
カタカナは、便利。
でも時に、その便利さがコトバの習得の邪魔をする。
「でもやっぱり目安がほしい!
カタカナで書きたい!
書いたら覚えられる(ような気がする)!」
という気持ちはわかる。
特にその言語を表す文字で書けないのならば、なおさらだ。
別にそれは否定しない。
目安になるものね。
ただ私は、出会ってしまったのだ。
11年前。
『書く』ことを手放すしかない言語に。
ベトナム語
この言語を知ったとき
私は日本語の51音の脆さを痛感した。
もちろん世界を見渡せば、そんな言語はいくらでもある。
でも当時の私の世界はまだ非常に狭く、
『外国語=英語』だったのだ。
オーストラリアで同じホストの家にステイしていたベトナム人のKちゃん。
普段の会話は英語。
彼女との出会いで、日本人の英語が『カタカナ英語』になってしまうように
ベトナム人の英語もまた、ベトナム語訛りの英語になることを知った。
これはどの言語を話す人にも共通する。
実は私は、彼女の本名を知らない。
日本人にはあまり馴染みがないけれど
英語圏に行くと、自国の名前はみんなが発音できないからと
イングリッシュネームをつける人が多い。
特に中国人やベトナム人はほぼみんな。
韓国人もそう。
当然、ベトナム人である彼女もそうだった。
ある日、ベトナム語での本名を聞いてみた。
もちろんKちゃんは、嬉しそうに答えてくれた…のだ、が。
「※○%#”*※¥☆」
おわかりだろうか。
聞いた瞬間の私の脳内、
まさにこんな感じ。
あまりに未知の音すぎて何も聞き取れないのだ。
口をぽかーんと開けたまま数秒固まってしまった私。
ないの。
どこにもないのよ、知ってる音が。
ただの一音も。
「あ」も「い」も「う」も「え」も「お」も、
日本語で…カタカナで、目安にできるような音すら…
一音もないの!
彼女の表情が苦笑に変わる。
「難しいでしょ?」という彼女に
ただ黙って頷き返すことしかできなかった。
当時はまだ『真似する』ことの大切さを知らなかった私。
それに、今のようにその行為に慣れてもいなかった。
「聞いた音をそのまま真似して口に出してみる」なんてことは
当然できず、ただただ申し訳なさでいっぱいになった。
『名前』という、その人自身を表す大切なもの。
それすら口にできないなんて。
目の前の友達の名前を呼ぶことすらできないなんて。
この時私は
世界に存在する、コトバの多様さを知ったのだった。
書けないものは覚えようがない。
発音もできないし。
当時の私は、そんな狭い思考の中にいた。
今だったら、意味はわからなくても
とりあえず真似することができる。
それがいかに大切なことかも、知っている。
いつかもし、もう一度Kちゃんに会うチャンスがあったら
その時は、ベトナム語で彼女の名前を呼びたい。
そしてベトナム語で自己紹介をするのだ。
あなたの国の言葉、少しわかるよって。
日本語英語。
つまり、カタカナ英語。
「This is a pen.」 が 「ディス イズ ア ペン」 に
「Good morning.」 が 「グッド モーニング」 になってしまう、あれだ。
発音もイントネーションも、ネイティブの英語とはかけ離れている、
まさに『日本語の音』になってしまっている英語モドキ。
中学生は厳しい。
たとえ自分たちが英語を話せなくても
教師の発音にはうるさいのだ。
かく言う私も、自分は話せないながらも
正しい音で学びたいという欲求はあった。
この『カタカナ音』の問題は、英語に限ったことではない。
中国語だろうとフランス語だろうと、同じこと。
最近は、「カタカナ英語にならないように!」だけでなく
「カタカナ中国語にならないように!」という広告も目につくようになった。
裏を返せば、それだけ
“日本人の外国語の学び方はカタカナ音に変換してしまいがち”
だといえる。
『音』は、コトバの持つ要素のひとつでしかない。
しかし、それだけに注目してみても
言語によって母音も、子音も、それらの数も
体系も、成り立ちも、発音も、イントネーションも全然違う。
言語ごとに、音に対する感覚そのものが異なっているのだ。
それがわかっていれば、
すべてを日本語の音に置き換えて考えようとすること自体
おかしいことに気づく。
日本語の51音(あいうえお)や
日本語の平坦な波になぞらえようとするから
いつまでたってもその言語が自分の中に入ってこない。
まったく異なるものなのに、無理にこちらのルールに当てはめようとする。
だからおかしくなるのだ。
カタカナは、便利。
でも時に、その便利さがコトバの習得の邪魔をする。
「でもやっぱり目安がほしい!
カタカナで書きたい!
書いたら覚えられる(ような気がする)!」
という気持ちはわかる。
特にその言語を表す文字で書けないのならば、なおさらだ。
別にそれは否定しない。
目安になるものね。
ただ私は、出会ってしまったのだ。
11年前。
『書く』ことを手放すしかない言語に。
ベトナム語
この言語を知ったとき
私は日本語の51音の脆さを痛感した。
もちろん世界を見渡せば、そんな言語はいくらでもある。
でも当時の私の世界はまだ非常に狭く、
『外国語=英語』だったのだ。
オーストラリアで同じホストの家にステイしていたベトナム人のKちゃん。
普段の会話は英語。
彼女との出会いで、日本人の英語が『カタカナ英語』になってしまうように
ベトナム人の英語もまた、ベトナム語訛りの英語になることを知った。
これはどの言語を話す人にも共通する。
実は私は、彼女の本名を知らない。
日本人にはあまり馴染みがないけれど
英語圏に行くと、自国の名前はみんなが発音できないからと
イングリッシュネームをつける人が多い。
特に中国人やベトナム人はほぼみんな。
韓国人もそう。
当然、ベトナム人である彼女もそうだった。
ある日、ベトナム語での本名を聞いてみた。
もちろんKちゃんは、嬉しそうに答えてくれた…のだ、が。
「※○%#”*※¥☆」
おわかりだろうか。
聞いた瞬間の私の脳内、
まさにこんな感じ。
あまりに未知の音すぎて何も聞き取れないのだ。
口をぽかーんと開けたまま数秒固まってしまった私。
ないの。
どこにもないのよ、知ってる音が。
ただの一音も。
「あ」も「い」も「う」も「え」も「お」も、
日本語で…カタカナで、目安にできるような音すら…
一音もないの!
彼女の表情が苦笑に変わる。
「難しいでしょ?」という彼女に
ただ黙って頷き返すことしかできなかった。
当時はまだ『真似する』ことの大切さを知らなかった私。
それに、今のようにその行為に慣れてもいなかった。
「聞いた音をそのまま真似して口に出してみる」なんてことは
当然できず、ただただ申し訳なさでいっぱいになった。
『名前』という、その人自身を表す大切なもの。
それすら口にできないなんて。
目の前の友達の名前を呼ぶことすらできないなんて。
この時私は
世界に存在する、コトバの多様さを知ったのだった。
書けないものは覚えようがない。
発音もできないし。
当時の私は、そんな狭い思考の中にいた。
今だったら、意味はわからなくても
とりあえず真似することができる。
それがいかに大切なことかも、知っている。
いつかもし、もう一度Kちゃんに会うチャンスがあったら
その時は、ベトナム語で彼女の名前を呼びたい。
そしてベトナム語で自己紹介をするのだ。
あなたの国の言葉、少しわかるよって。
語学を“勉強”するとなると、必ずといっていいほど
最初に学ぶ流れが決まっている。
1.あいさつ
2.『私は~です』
『これは~です』
「 『This is a pen.』 なんてどこで使うんだ~!!
『これはペンです』って、知っとるわ~!!」
と声を大にして唱える人が多い割に
違う言語を始める際も実はあんまり変わらない。
おもしろい。
さてこの 『This is a pen.』、本当に使えないのだろうか?
実はそんなことないのでは? と私は思っている。
何故なら、実際の会話を振り返ってみると
『This is ~』 や 『That is ~』 は、かなりよく使っているから。
対象を『ペン』だと考えるから文句を言いたくなるのだと思う。
先日我家になってきたブルキナファソのBさん。
彼女は働きながら3人の子どもを育てている。
彼女はとてもがんばりやさん。
プレゼンが認められて国から派遣されたり
表彰された数人のうちの唯一の女性だったりした。
すると年齢も立場も上の職場男性が妬いて意地悪をしてきたりして
仕事がしにくくなると言う。
女性が働ける社会になったとはいえ、社会そのものはまだまだ男性優位。
このあたりは、似たような状況にある国がけっこう多い。
「この男性上司2人がこんなでね~…」
と、ホトホト参った様子のBさん。
ああ… 男ってそうだよね…
そう言いたくなる働く女性は多いのではないだろうか。
(もちろん、そうじゃない男性もいる。
今言いたいのは社会体制の問題点への指摘ではないので許してね)
このとき、私が言ったフレーズがこれ。
『That is the man!』
Bさんは一瞬目を点にした後、大笑いしていた。
『これは~です』 『あれは~です』
確かにその文章に囚われてしまうと、使わない。
日本語でだって
『これはペンです』 『あれは本です』
なんて言わないもの。
でもこの 『This is ~』 や 『That is ~』 の本質はそこではないように思える。
だからそこからちょっと離れて英語の世界を眺めてみると
意外と使い勝手のいい、便利なフレーズになる。
私がBさんに言いたかったのは
『あれは男性です』
ではなく
『それが男ってもんよね~』
ということ。
私は英語の専門家ではないし、ネイティブでもないから
それがいわゆる“正しい”言い回しなのかどうかはわからない。
でもBさんには通じていた。
「Yes!」と言って大笑いしたBさんの反応がすべてだ。
『それがコトバってもんよ!』
なーんて(笑)
最初に学ぶ流れが決まっている。
1.あいさつ
2.『私は~です』
『これは~です』
「 『This is a pen.』 なんてどこで使うんだ~!!
『これはペンです』って、知っとるわ~!!」
と声を大にして唱える人が多い割に
違う言語を始める際も実はあんまり変わらない。
おもしろい。
さてこの 『This is a pen.』、本当に使えないのだろうか?
実はそんなことないのでは? と私は思っている。
何故なら、実際の会話を振り返ってみると
『This is ~』 や 『That is ~』 は、かなりよく使っているから。
対象を『ペン』だと考えるから文句を言いたくなるのだと思う。
先日我家になってきたブルキナファソのBさん。
彼女は働きながら3人の子どもを育てている。
彼女はとてもがんばりやさん。
プレゼンが認められて国から派遣されたり
表彰された数人のうちの唯一の女性だったりした。
すると年齢も立場も上の職場男性が妬いて意地悪をしてきたりして
仕事がしにくくなると言う。
女性が働ける社会になったとはいえ、社会そのものはまだまだ男性優位。
このあたりは、似たような状況にある国がけっこう多い。
「この男性上司2人がこんなでね~…」
と、ホトホト参った様子のBさん。
ああ… 男ってそうだよね…
そう言いたくなる働く女性は多いのではないだろうか。
(もちろん、そうじゃない男性もいる。
今言いたいのは社会体制の問題点への指摘ではないので許してね)
このとき、私が言ったフレーズがこれ。
『That is the man!』
Bさんは一瞬目を点にした後、大笑いしていた。
『これは~です』 『あれは~です』
確かにその文章に囚われてしまうと、使わない。
日本語でだって
『これはペンです』 『あれは本です』
なんて言わないもの。
でもこの 『This is ~』 や 『That is ~』 の本質はそこではないように思える。
だからそこからちょっと離れて英語の世界を眺めてみると
意外と使い勝手のいい、便利なフレーズになる。
私がBさんに言いたかったのは
『あれは男性です』
ではなく
『それが男ってもんよね~』
ということ。
私は英語の専門家ではないし、ネイティブでもないから
それがいわゆる“正しい”言い回しなのかどうかはわからない。
でもBさんには通じていた。
「Yes!」と言って大笑いしたBさんの反応がすべてだ。
『それがコトバってもんよ!』
なーんて(笑)
新しいコトバを知ると、使ってみたくなる。
その状況がきたら言ってみて
「いえ~い♪」なんて思うことはもちろん。
ひとつのパターンが見えたらどんどん口にしてみたくなる。
ロシアのR君が来たときもそうだった。
「Do you like~?」のロシア語ver.を知った途端、
いろいろ言ってみたくて仕方がない私。
『あなたは食べるのが好きですか?』
『あなたは寝るのが好きですか?』
うーん…
日本語で書くと、なんて不自然(笑)
要は 『食べるの好き?』 『寝るの好き?』 ということだ。
自分の中にある、あらん限りのロシア語を使って
文章を作ってはR君に言ってみる。
苦笑しながら「うん、いい」とか「それはこう言う」なんて
教えてくれるR君。
『あなたは飲むのが好きですか?』
そう言ったとき、R君が大きく反応した。
「それはダメ!
ロシアでそれを言うと、お酒を飲まなきゃいけなみたいに聞こえる」
基本的に静かなR君のすばやく大きな反応だったので
私はかなりびっくりした。
そ…そうなんだ…
一瞬戸惑い、何でだろうと考えてみる。
この時、私はおもしろがって
知っている動詞を文章に当てはめていただけ。
だから『食べるの好き?』も『飲むの好き?』も
あまり深い意味を考えずに使っていた。
でも彼にとっては、日常に密接しているコトバ。
そこには必ず意味が伴う。
これがもし、日本語だったらどうか。
『飲むの好き?』
『飲める?』
『飲む人?』
振り返ってみると、確かに日本語でも『飲む』という動詞は
“何を”と示さなければ、暗黙のうちに“お酒”をイメージする。
日本語の場合、『飲むの好き?』と聞いて
イコールそれが『飲め!』ということにはならないけれど
シチュエーションによってはそう受け取られる場合だってありえる。
考えてみれば、英語でも 『Do you drink?』 は危険ワード。
『酒を飲む』という意味を含む英語の『drink』、
ネイティブにはこう聞こえる。
『あなた、アルコール依存症?』
言語によって、その意味合いがどのくらい強いかは異なるだろうけれど
何となく共通項が見えて、びっくりした以上に嬉しくなった。
さてロシア語に戻ろう。
『あなたはお茶を飲むのが好きですか?』
これなら何の問題はないという。
ホッと一安心。
でも…
日本語だと言わないことに気づく。
『お茶飲むの好き?』 も 『コーヒー飲むの好き?』 も。
日本語だったら 『お茶好き?』 『コーヒー好き?』 だ。
『お酒飲むの好き?』
『お酒好き?』
…あれ?
どっちも言う。
おもしろい!
その状況がきたら言ってみて
「いえ~い♪」なんて思うことはもちろん。
ひとつのパターンが見えたらどんどん口にしてみたくなる。
ロシアのR君が来たときもそうだった。
「Do you like~?」のロシア語ver.を知った途端、
いろいろ言ってみたくて仕方がない私。
『あなたは食べるのが好きですか?』
『あなたは寝るのが好きですか?』
うーん…
日本語で書くと、なんて不自然(笑)
要は 『食べるの好き?』 『寝るの好き?』 ということだ。
自分の中にある、あらん限りのロシア語を使って
文章を作ってはR君に言ってみる。
苦笑しながら「うん、いい」とか「それはこう言う」なんて
教えてくれるR君。
『あなたは飲むのが好きですか?』
そう言ったとき、R君が大きく反応した。
「それはダメ!
ロシアでそれを言うと、お酒を飲まなきゃいけなみたいに聞こえる」
基本的に静かなR君のすばやく大きな反応だったので
私はかなりびっくりした。
そ…そうなんだ…
一瞬戸惑い、何でだろうと考えてみる。
この時、私はおもしろがって
知っている動詞を文章に当てはめていただけ。
だから『食べるの好き?』も『飲むの好き?』も
あまり深い意味を考えずに使っていた。
でも彼にとっては、日常に密接しているコトバ。
そこには必ず意味が伴う。
これがもし、日本語だったらどうか。
『飲むの好き?』
『飲める?』
『飲む人?』
振り返ってみると、確かに日本語でも『飲む』という動詞は
“何を”と示さなければ、暗黙のうちに“お酒”をイメージする。
日本語の場合、『飲むの好き?』と聞いて
イコールそれが『飲め!』ということにはならないけれど
シチュエーションによってはそう受け取られる場合だってありえる。
考えてみれば、英語でも 『Do you drink?』 は危険ワード。
『酒を飲む』という意味を含む英語の『drink』、
ネイティブにはこう聞こえる。
『あなた、アルコール依存症?』
言語によって、その意味合いがどのくらい強いかは異なるだろうけれど
何となく共通項が見えて、びっくりした以上に嬉しくなった。
さてロシア語に戻ろう。
『あなたはお茶を飲むのが好きですか?』
これなら何の問題はないという。
ホッと一安心。
でも…
日本語だと言わないことに気づく。
『お茶飲むの好き?』 も 『コーヒー飲むの好き?』 も。
日本語だったら 『お茶好き?』 『コーヒー好き?』 だ。
『お酒飲むの好き?』
『お酒好き?』
…あれ?
どっちも言う。
おもしろい!
赤ちゃんことばにも方言がある。
それを知ったのは
子育て中の友人たちと同じ時間を過ごしているときだった。
「はい、ここにおっちゃんこして」
北海道出身のNちゃんが言う。
初めて耳にしたときは、冗談ではなく
口がぽかんと開いて目が点になってしまった。
今の、何?
耳慣れないコトバに、一時思考停止。
「聞き間違えたかな?」と、無意識になかったことにしようとする私がいた。
こういうときに起こる無意識の自分の反応っておもしろい。
なかったことになんかならないっつーの!
その後、彼女たち親子のやりとりを観察していくうちに
答えは自然に見つかった。
「おっちゃんこ」と口にするとき
Nちゃんは必ず、小さい椅子か床をぽんぽんと叩いている。
そして娘のYちゃんはそこにやってきて座るのだ。
なるほど~!
『おっちゃんこ』って、『おすわりして』っていうことか~!
納得納得。
でもこの『おっちゃんこ物語』、ここで終わらなかった。
同時期、同じ社宅内でもう1人
Aちゃんも子育て真っ最中だった。
「ご飯食べるよ~!おっちゃんして~」
NちゃんとAちゃん、2人の声が飛び交う…のだけれど。
ん?
『おっちゃん』?
『こ』は?
『こ』がない!
よくよく聞いていると、Nちゃんが『おっちゃんこ』と言うのに対し
Aちゃんは『おっちゃん』と言っているのだ。
同じようなコトバを使っている。
(私は知らない)
でも、微妙に違う。
何だろう、これ?
とても不思議だった。
不思議だったのは、2人の使うコトバが微妙に違っていたからだけではない。
Nちゃんが北海道出身なのに対し、Aちゃんは九州出身。
日本の北と南で、似たような言葉を使っているのだ。
その中間地点出身の私が、まったく耳にしたことのない言葉を。
『おっちゃんこ』と『おっちゃん』
どこから来たコトバなのか。
何故東京では耳にしたことがないのか。
不思議な気持ちを抱きながら、私は2人の娘たちと遊んでいた。
しばらくして帰京した際、義弟の家へ遊びに行った。
やはり子育て中だった義弟夫妻。
奥さんのCさんが言う。
「ちゃんこして」
衝撃が走った。
『ちゃんこ』?!
『おっちゃんこ』でも『おっちゃん』でもなくて、『ちゃんこ』??!
顔は平静を装いながら、私の頭の中はものすごいスピードで回転し始める。
Nちゃん → 北海道 → 『おっちゃんこ』
Aちゃん → 九州 → 『おっちゃん』
Cさん → 四国 → 『ちゃんこ』
『おっちゃん』+『ちゃんこ』=『おっちゃんこ』?
九州+四国=北海道??
もはや意味不明な計算式が頭の中を駆け巡っていた。
そして数年後の今年。
「東京で『ちゃんこしなさい』と言ったのに子どもが座らず
なんてお行儀の悪い子だろうと思っていたら 実は通じていなかった」
という体験談を耳にした。
そう。
おそらく東京の子は知らない。
知らないから、そのコトバに意味が伴われていない。
だから当然、言われても座らない。
おっちゃんこ、おっちゃん、ちゃんこ…
似た言葉は他にも日本各地にあるらしい。
この『おっちゃんこシリーズ(私が勝手に命名)』で日本地図を作ったらおもしろそう!
というわけで、各地の情報をいただければ嬉しいな♪
ちなみに我家は子どもに対して「座りなさい」と言うとき
『おすわりとん』と言うのだけれど…
これってどこかの地域のコトバ?
それとも、母の造語??
当然、我が妹は自分の子どもたちに使っている。
「おすわりとんして~!」
それを知ったのは
子育て中の友人たちと同じ時間を過ごしているときだった。
「はい、ここにおっちゃんこして」
北海道出身のNちゃんが言う。
初めて耳にしたときは、冗談ではなく
口がぽかんと開いて目が点になってしまった。
今の、何?
耳慣れないコトバに、一時思考停止。
「聞き間違えたかな?」と、無意識になかったことにしようとする私がいた。
こういうときに起こる無意識の自分の反応っておもしろい。
なかったことになんかならないっつーの!
その後、彼女たち親子のやりとりを観察していくうちに
答えは自然に見つかった。
「おっちゃんこ」と口にするとき
Nちゃんは必ず、小さい椅子か床をぽんぽんと叩いている。
そして娘のYちゃんはそこにやってきて座るのだ。
なるほど~!
『おっちゃんこ』って、『おすわりして』っていうことか~!
納得納得。
でもこの『おっちゃんこ物語』、ここで終わらなかった。
同時期、同じ社宅内でもう1人
Aちゃんも子育て真っ最中だった。
「ご飯食べるよ~!おっちゃんして~」
NちゃんとAちゃん、2人の声が飛び交う…のだけれど。
ん?
『おっちゃん』?
『こ』は?
『こ』がない!
よくよく聞いていると、Nちゃんが『おっちゃんこ』と言うのに対し
Aちゃんは『おっちゃん』と言っているのだ。
同じようなコトバを使っている。
(私は知らない)
でも、微妙に違う。
何だろう、これ?
とても不思議だった。
不思議だったのは、2人の使うコトバが微妙に違っていたからだけではない。
Nちゃんが北海道出身なのに対し、Aちゃんは九州出身。
日本の北と南で、似たような言葉を使っているのだ。
その中間地点出身の私が、まったく耳にしたことのない言葉を。
『おっちゃんこ』と『おっちゃん』
どこから来たコトバなのか。
何故東京では耳にしたことがないのか。
不思議な気持ちを抱きながら、私は2人の娘たちと遊んでいた。
しばらくして帰京した際、義弟の家へ遊びに行った。
やはり子育て中だった義弟夫妻。
奥さんのCさんが言う。
「ちゃんこして」
衝撃が走った。
『ちゃんこ』?!
『おっちゃんこ』でも『おっちゃん』でもなくて、『ちゃんこ』??!
顔は平静を装いながら、私の頭の中はものすごいスピードで回転し始める。
Nちゃん → 北海道 → 『おっちゃんこ』
Aちゃん → 九州 → 『おっちゃん』
Cさん → 四国 → 『ちゃんこ』
『おっちゃん』+『ちゃんこ』=『おっちゃんこ』?
九州+四国=北海道??
もはや意味不明な計算式が頭の中を駆け巡っていた。
そして数年後の今年。
「東京で『ちゃんこしなさい』と言ったのに子どもが座らず
なんてお行儀の悪い子だろうと思っていたら 実は通じていなかった」
という体験談を耳にした。
そう。
おそらく東京の子は知らない。
知らないから、そのコトバに意味が伴われていない。
だから当然、言われても座らない。
おっちゃんこ、おっちゃん、ちゃんこ…
似た言葉は他にも日本各地にあるらしい。
この『おっちゃんこシリーズ(私が勝手に命名)』で日本地図を作ったらおもしろそう!
というわけで、各地の情報をいただければ嬉しいな♪
ちなみに我家は子どもに対して「座りなさい」と言うとき
『おすわりとん』と言うのだけれど…
これってどこかの地域のコトバ?
それとも、母の造語??
当然、我が妹は自分の子どもたちに使っている。
「おすわりとんして~!」
12年ほど前、ロンドンの語学学校に2週間ほど通った。
初めて1人で海外へ行ったあの時。
その緊張といったら、ハンパなかった。
当然のことのように英語なんてまったく話せず
そもそもアルファベットのに触れるのなんて何年ぶりだっけ?
という状態だった私。
何とかもぐりこめたクラスは、下から2番目。
何人かの日本人と、ヨーロッパ勢で構成されたクラスだった。
イギリスは日本同様島国とはいえヨーロッパ。
おまけに世界共通語と認識されている英語の国。
そんなわけで、学校にはヨーロッパ各地からの学生が。
それまで世界各国の人が混在する場所にいたことがなかった私には
すべてが新しかった。
そんな環境での短いロンドン生活。
海外に行くと、それまで訪れたことのない地域出身の人であっても
日本人というだけで連帯感が生まれる。
私は九州出身の同い年のMちゃんと
四国出身の2人の男の子と過ごすことが多かった。
だがここで、私はロンドンにいながらにして
日本という国内のカルチャーショックを受けることになる。
Mちゃんも男の子たちも、普段は当たり前のように
九州や四国の方言を話すのだ。
当時『方言=大阪弁』くらいしか認識のなかった私には
彼らのコトバもイントネーションも衝撃的だった。
特に何が衝撃的だったかというと、たまにわからなくなるのだ。
今のが肯定文だったのか、否定文だったのか。
同じ日本人なのに…!
日本語なのに…!
さらに衝撃的…というか、ショックだったのは
四国から来ていた男の子Y君のひとこと。
「ひろのしゃべる言葉は冷たく聞こえる」
え…
え…?!
これは決して、私の言い方が悪くてきつく聞こえていたとか
そういうことではない。
私が話す標準語が、彼にはとても冷たく聞こえるらしいのだ。
でもそんなことを言われても、私はこの話し方しかできない。
生まれてこの方、私もまわりもみんなこの話し方だったから。
この時私は、地方の人が初めて東京に出てきて
まわりと自分の話し方が違うと感じて戸惑うのと
まったく同じ体験をしたということだ。
ロンドンにいながら。
あの場での“日本人の標準語”は、東京で話されているコトバではなく
四国や九州で話されているコトバだった。
そうか…
西の人にとって私の話す言葉は冷たく聞こえるのか…
帰国後、Y君が送ってくれた手紙を見て
私は更なるカルチャーショックを受けた。
て…手紙も全部方言…!
あたかも彼が話しているような。
そのまんまな手紙だった。
後日その話をMちゃんにすると
「普通、手紙はそこまで話しコトバでは書かないよ」
とのことだったので、
もしかしたらあれは彼のポリシーだったのかもしれないけれど。
ところで2日前の記事『ダンナサマから禁止令!』に
『やる』は九州のコトバなのかどうか…
ということを書いた。
あれに対して、福岡出身の友人が「なるほど!」な回答をくれた。
彼女によると、やはり『やる』と言うらしい。
「あとで、忘れたらいかんけん、今お金やっとこうか?」
という感じ。
『あげる』も同じ。
そして上から目線の感覚もない。
やっぱりね~
なるほどね~
さらに彼女が言う。
「払う、渡すの方が使わないかも。なんだか硬い感じがしちゃう」
これを聞いたとき、私はY君を思い出した。
“ひろのしゃべる言葉は冷たく聞こえる”
あれと同じだ。
西の方の人にとって、私が話し言葉として使っている日本語は
硬く冷たく聞こえるらしい。
なるほど。
もともとの出身地が東京近郊以外だと、
「自分たちが話している言葉とテレビの中で話されている言葉な違う」
という認識が子どもの頃からできるらしい。
でも東京で生まれ育つと、そういう感覚は培われない。
“冷たく聞こえる”
“硬く聞こえる”
そんなつもりはまったくない。
でも環境によって、『個人』とは関係なくそう受け取られるということだから―――
知っておけてよかった。
初めて1人で海外へ行ったあの時。
その緊張といったら、ハンパなかった。
当然のことのように英語なんてまったく話せず
そもそもアルファベットのに触れるのなんて何年ぶりだっけ?
という状態だった私。
何とかもぐりこめたクラスは、下から2番目。
何人かの日本人と、ヨーロッパ勢で構成されたクラスだった。
イギリスは日本同様島国とはいえヨーロッパ。
おまけに世界共通語と認識されている英語の国。
そんなわけで、学校にはヨーロッパ各地からの学生が。
それまで世界各国の人が混在する場所にいたことがなかった私には
すべてが新しかった。
そんな環境での短いロンドン生活。
海外に行くと、それまで訪れたことのない地域出身の人であっても
日本人というだけで連帯感が生まれる。
私は九州出身の同い年のMちゃんと
四国出身の2人の男の子と過ごすことが多かった。
だがここで、私はロンドンにいながらにして
日本という国内のカルチャーショックを受けることになる。
Mちゃんも男の子たちも、普段は当たり前のように
九州や四国の方言を話すのだ。
当時『方言=大阪弁』くらいしか認識のなかった私には
彼らのコトバもイントネーションも衝撃的だった。
特に何が衝撃的だったかというと、たまにわからなくなるのだ。
今のが肯定文だったのか、否定文だったのか。
同じ日本人なのに…!
日本語なのに…!
さらに衝撃的…というか、ショックだったのは
四国から来ていた男の子Y君のひとこと。
「ひろのしゃべる言葉は冷たく聞こえる」
え…
え…?!
これは決して、私の言い方が悪くてきつく聞こえていたとか
そういうことではない。
私が話す標準語が、彼にはとても冷たく聞こえるらしいのだ。
でもそんなことを言われても、私はこの話し方しかできない。
生まれてこの方、私もまわりもみんなこの話し方だったから。
この時私は、地方の人が初めて東京に出てきて
まわりと自分の話し方が違うと感じて戸惑うのと
まったく同じ体験をしたということだ。
ロンドンにいながら。
あの場での“日本人の標準語”は、東京で話されているコトバではなく
四国や九州で話されているコトバだった。
そうか…
西の人にとって私の話す言葉は冷たく聞こえるのか…
帰国後、Y君が送ってくれた手紙を見て
私は更なるカルチャーショックを受けた。
て…手紙も全部方言…!
あたかも彼が話しているような。
そのまんまな手紙だった。
後日その話をMちゃんにすると
「普通、手紙はそこまで話しコトバでは書かないよ」
とのことだったので、
もしかしたらあれは彼のポリシーだったのかもしれないけれど。
ところで2日前の記事『ダンナサマから禁止令!』に
『やる』は九州のコトバなのかどうか…
ということを書いた。
あれに対して、福岡出身の友人が「なるほど!」な回答をくれた。
彼女によると、やはり『やる』と言うらしい。
「あとで、忘れたらいかんけん、今お金やっとこうか?」
という感じ。
『あげる』も同じ。
そして上から目線の感覚もない。
やっぱりね~
なるほどね~
さらに彼女が言う。
「払う、渡すの方が使わないかも。なんだか硬い感じがしちゃう」
これを聞いたとき、私はY君を思い出した。
“ひろのしゃべる言葉は冷たく聞こえる”
あれと同じだ。
西の方の人にとって、私が話し言葉として使っている日本語は
硬く冷たく聞こえるらしい。
なるほど。
もともとの出身地が東京近郊以外だと、
「自分たちが話している言葉とテレビの中で話されている言葉な違う」
という認識が子どもの頃からできるらしい。
でも東京で生まれ育つと、そういう感覚は培われない。
“冷たく聞こえる”
“硬く聞こえる”
そんなつもりはまったくない。
でも環境によって、『個人』とは関係なくそう受け取られるということだから―――
知っておけてよかった。