私はクレープの食べ方がヘタ。
クレープに限らず、ソフトクリームやホットドッグなど
口のまわりにチョコやらケチャップやらがついて
くわんくわんになってしまう。
まるで子どものように。
『くわんくわん』
このコトバ、あなたは知っていますか?
ここに書いたように、口のまわりに食べ物(主にソース系のもの)が
ベタベタとくっついてお髭のようになってしまう状態。
これを『くわんくわん』と言うのだけれど
意外と知らない友人が多くてびっくりしている。
どうして?
使わないの?
じゃあ、何ていうの??
これが私の中で大事件になったのは、夫が知らなかったとき。
あれれ?
そして何故だか友人達も、この言葉を知らない人が多い。
これ、もしかして我家のみのコトバ?!
そう思って聞いてみた。
当然、母は使う。
当たり前だ、私の言葉は母からもらったものなのだから。
だから祖母に聞いてみた。
「言うわよ」
そうよね。母の母だものね。
じゃあやっぱりうちだけのコトバなのかな?
そう思ってあちこちで聞きまわると
小学校時代の同級生のお母さんから嬉しい反応が返ってきた。
「言うわよ~! え?! 言わないの??」
そうよね!
そうそう、その反応が欲しかったの。
これで“うちだけのコトバ”ではないことは、はっきりした。
でもここまで知らない人が多いと、とても気になる。
実はどこかの方言なり地域のコトバだったりするのだろうか?
出所が知りたい。
どなたかご存知の方がいらしたら教えていただきたいな!
小さな島国日本なんて言われていたのはいつの時代だったのだろう?
確かに日本は島国だから、
陸続きで異国へを足を踏み入れられる大陸とは感覚が異なるし
陸地単位で考えれば小さく見えるかもしれない。
とはいえ日本は結構広い。
それを痛切に感じるのは、自分が生まれ育った地を離れ
今までと違った環境に身を置いたときだ。
何年か前に、3家族でおうちパーティーをした。
我家がホストとなり、会費制での夕食会。
和気藹々おしゃべりしてお腹いっぱいご飯を食べて
そろそろお開きに…という頃。
九州出身のAちゃんが言った。
「あ、お金やらないと!」
途端に慌てたのは、彼女の旦那様。
「ごめん!この人今『やる』って言ったけど、悪気ないから!」
一瞬、空気が止まる。
その後、「ああ!」と彼女のご主人の焦りを理解した。
人にお金を渡すのなら、基本的に『やる』とは言わない。
言うならば『払う』とか『渡す』とか。
この状況で言うのなら
「お金払わなきゃ」なり、「お金渡さなきゃ」だ。
『やる』は感覚的に上から目線。
だからこそ、彼は焦ったわけだ。
「いつもダメだって言ってるんだけど…」
ただその頃、すでに私たちはAちゃんと仲良くなっていたから
誰かに何かを渡すときに『やる』と表現するのは“彼女の言葉”
という認識があった。
だから特に嫌な感じもせず、問題なくフォローもできた。
「大丈夫よ~。わかってるから」
ただ、確かにご主人の焦りは理解できる。
彼は埼玉出身。
これが初対面なり、あまり親しくない相手だったりしたら
相手とその状況によっては、失礼だと受け取られてしまうだろうから。
東京出身の私としては、彼のその感覚は理解に難くないのだ。
このあたり、地方によって言葉の常識が違うから
わかっていないと確かに難しい。
そんなことで人間関係に問題が生じる可能性があるのなら
気をつけておきたいという気持ちを持つことは不思議ではない。
その後何年も経って、つい最近。
その3家族の奥さん同士で再会する機会があった。
「そういえばあの時…」なんて、話に花が咲く。
するとAちゃんが言った。
「今でも『やる』って言っちゃうと叱られるのよね。
私もこれは直さなきゃな~と思っているんだけど…」
そうなんだ!
私はもう、それは“Aちゃんの言葉”だと思ってしまっているから
彼女の口からその言葉が飛び出しても特に気にならない。
むしろ 「懐かしい~!Aちゃんの言葉だな~」
なんて思うくらいだ。
方言なら方言だしね。
ただ、やっぱりご主人の気持ちはわかるから
彼女が直そうと思っているのなら、それはそれ。
私が口出しすることでもない。
でもちょっと気になって尋ねてみた。
「あれって九州の言葉じゃないの?」
それに対する彼女の答えが、なんとびっくり!
「んー…わからない。私だけかも」
……へ?
それは…
それはまた、意外な答えだ。
真実はわからない。
今度機会があったら、九州出身の他の友達にも聞いてみようと思う。
でももし本当に、あれが方言ではなく彼女だけの言葉なのだったら…
そりゃあ彼女のご主人は「直しなさい!」と強く言いたくなるかもね。
さて、九州のみなさま。
いかが?
確かに日本は島国だから、
陸続きで異国へを足を踏み入れられる大陸とは感覚が異なるし
陸地単位で考えれば小さく見えるかもしれない。
とはいえ日本は結構広い。
それを痛切に感じるのは、自分が生まれ育った地を離れ
今までと違った環境に身を置いたときだ。
何年か前に、3家族でおうちパーティーをした。
我家がホストとなり、会費制での夕食会。
和気藹々おしゃべりしてお腹いっぱいご飯を食べて
そろそろお開きに…という頃。
九州出身のAちゃんが言った。
「あ、お金やらないと!」
途端に慌てたのは、彼女の旦那様。
「ごめん!この人今『やる』って言ったけど、悪気ないから!」
一瞬、空気が止まる。
その後、「ああ!」と彼女のご主人の焦りを理解した。
人にお金を渡すのなら、基本的に『やる』とは言わない。
言うならば『払う』とか『渡す』とか。
この状況で言うのなら
「お金払わなきゃ」なり、「お金渡さなきゃ」だ。
『やる』は感覚的に上から目線。
だからこそ、彼は焦ったわけだ。
「いつもダメだって言ってるんだけど…」
ただその頃、すでに私たちはAちゃんと仲良くなっていたから
誰かに何かを渡すときに『やる』と表現するのは“彼女の言葉”
という認識があった。
だから特に嫌な感じもせず、問題なくフォローもできた。
「大丈夫よ~。わかってるから」
ただ、確かにご主人の焦りは理解できる。
彼は埼玉出身。
これが初対面なり、あまり親しくない相手だったりしたら
相手とその状況によっては、失礼だと受け取られてしまうだろうから。
東京出身の私としては、彼のその感覚は理解に難くないのだ。
このあたり、地方によって言葉の常識が違うから
わかっていないと確かに難しい。
そんなことで人間関係に問題が生じる可能性があるのなら
気をつけておきたいという気持ちを持つことは不思議ではない。
その後何年も経って、つい最近。
その3家族の奥さん同士で再会する機会があった。
「そういえばあの時…」なんて、話に花が咲く。
するとAちゃんが言った。
「今でも『やる』って言っちゃうと叱られるのよね。
私もこれは直さなきゃな~と思っているんだけど…」
そうなんだ!
私はもう、それは“Aちゃんの言葉”だと思ってしまっているから
彼女の口からその言葉が飛び出しても特に気にならない。
むしろ 「懐かしい~!Aちゃんの言葉だな~」
なんて思うくらいだ。
方言なら方言だしね。
ただ、やっぱりご主人の気持ちはわかるから
彼女が直そうと思っているのなら、それはそれ。
私が口出しすることでもない。
でもちょっと気になって尋ねてみた。
「あれって九州の言葉じゃないの?」
それに対する彼女の答えが、なんとびっくり!
「んー…わからない。私だけかも」
……へ?
それは…
それはまた、意外な答えだ。
真実はわからない。
今度機会があったら、九州出身の他の友達にも聞いてみようと思う。
でももし本当に、あれが方言ではなく彼女だけの言葉なのだったら…
そりゃあ彼女のご主人は「直しなさい!」と強く言いたくなるかもね。
さて、九州のみなさま。
いかが?
北海道に来るまで、私は方言というものにほとんど免疫がなかった。
“方言と言えば大阪弁”
そんな、あまりにもお粗末なイメージしかなかった。
「私たちが話している言葉は標準語ですよ」と学校で教えられ
家族も友人も、ほとんどが自分と同じ言葉を話す。
イントネーションも言葉遣いも。
以前の記事に書いたけれど、高校生くらいまでは特に
少しでも違った話し方をする友人がいれば「変なの~!」と思っていたくらい。
ましてや家の中では敬語が飛び交い、
おもしろがって男の子のような言葉を使えば叱られる。
知らず知らずのうちに、言葉に対する自分の基準は
育ってきた環境によって確立していくものだ。
北海道に来てしばらくの間、
私はたびたび女性の言葉遣いにぎょっとさせられた。
「~~~なのかい?」
特にこれ。
は?
『~かい』??
何、この人!
なんて言葉を使うのかしら!!
東京の方で「~~かい?」なんて言おうものなら
「なんて汚い言葉遣いをする人なんだろう」と思われる。
これはどちらかと言えば、男言葉だ。
それも何というか…オジサマなイメージ。
同世代の男性陣にでさえ、「~~かい?」なんて言われたら
私はちょっと、引くかもしれない。
でもそのうちこれが、“言葉遣いの汚い人”なのではなく
北海道弁なのだとわかるようになった。
そしてよくよく観察していると、
この『~~~かい?』に込められているのがあたたかい気持ちなのだと
感じ取れるようになってきた。
お母さんが子どもに対して 『寒いのかい?』
奥さんがダンナさまに 『何か飲むかい?』
看護師さんが患者さんに対して 『大丈夫かい?』
ああ、そういうことか。
じゃああの、初めて聞いた『行ってきたのかい?』も
同じだったんだ…。
自分の中に基準を持つのは大切なことだ。
でも自分の基準はあくまで自分の基準。
育ってきた環境の中で培ってきたものであって
絶対的に正しいものとは限らない。
自分の常識は、トコロ変われば非常識になる。
でもでも!
帰ればやっぱりお行儀やマナーの悪さに繋がることもある。
人に不快感を与えることだってある。
だからどっちがいいとか正しいとかいうことではなく
『こういう世界もある』
『ここはこういうところ』
と思えるかどうか。
自分とまわりが気持ちよく一緒にいられる環境を創るのは、自分たちだ。
トコロ変わればコトバも変わる。
それを知っていたらいいのよね。
“方言と言えば大阪弁”
そんな、あまりにもお粗末なイメージしかなかった。
「私たちが話している言葉は標準語ですよ」と学校で教えられ
家族も友人も、ほとんどが自分と同じ言葉を話す。
イントネーションも言葉遣いも。
以前の記事に書いたけれど、高校生くらいまでは特に
少しでも違った話し方をする友人がいれば「変なの~!」と思っていたくらい。
ましてや家の中では敬語が飛び交い、
おもしろがって男の子のような言葉を使えば叱られる。
知らず知らずのうちに、言葉に対する自分の基準は
育ってきた環境によって確立していくものだ。
北海道に来てしばらくの間、
私はたびたび女性の言葉遣いにぎょっとさせられた。
「~~~なのかい?」
特にこれ。
は?
『~かい』??
何、この人!
なんて言葉を使うのかしら!!
東京の方で「~~かい?」なんて言おうものなら
「なんて汚い言葉遣いをする人なんだろう」と思われる。
これはどちらかと言えば、男言葉だ。
それも何というか…オジサマなイメージ。
同世代の男性陣にでさえ、「~~かい?」なんて言われたら
私はちょっと、引くかもしれない。
でもそのうちこれが、“言葉遣いの汚い人”なのではなく
北海道弁なのだとわかるようになった。
そしてよくよく観察していると、
この『~~~かい?』に込められているのがあたたかい気持ちなのだと
感じ取れるようになってきた。
お母さんが子どもに対して 『寒いのかい?』
奥さんがダンナさまに 『何か飲むかい?』
看護師さんが患者さんに対して 『大丈夫かい?』
ああ、そういうことか。
じゃああの、初めて聞いた『行ってきたのかい?』も
同じだったんだ…。
自分の中に基準を持つのは大切なことだ。
でも自分の基準はあくまで自分の基準。
育ってきた環境の中で培ってきたものであって
絶対的に正しいものとは限らない。
自分の常識は、トコロ変われば非常識になる。
でもでも!
帰ればやっぱりお行儀やマナーの悪さに繋がることもある。
人に不快感を与えることだってある。
だからどっちがいいとか正しいとかいうことではなく
『こういう世界もある』
『ここはこういうところ』
と思えるかどうか。
自分とまわりが気持ちよく一緒にいられる環境を創るのは、自分たちだ。
トコロ変わればコトバも変わる。
それを知っていたらいいのよね。
友人宅に何組かの家族が集まって夕食会が開催された数年前。
生まれたばかりのWちゃんをみんなで眺めていると
何だかおさまりが悪いのか、Wちゃんがふにゃふにゃ動いた。
Nさん宅の旦那さんが言う。
「あ、いずがってる!いずがってる!」
そのコトバに対して、4つの声が見事なハーモニーを奏でた。
「「「「 『いずがってる』って、何?!」」」」
この4つの声の出所は
埼玉&佐賀出身のご夫妻と、東京出身の私たち夫婦。
あまりのハモリ具合に、笑ってしまったけれど
その反応に対して素っ頓狂な声をあげたのがNさん宅の奥様。
「えーーーっ?!『いずい』って、北海道弁なの~っ?!」
標準語だと思っていたらしい。
方言に限らず、自分の家や周辺のみで使うコトバは
そのコトバを使わない人に指摘されて始めてその事実に気づく。
そしてさらに、普段普通に使っているコトバを別の言葉に当てはめて
説明するというのは、意外に難しい。
『私は』と『私が』の違いとか
『時々』と『たまに』の違いとか…
ネイティブが感覚で使い分けていることを改めて説明するのは
なかなかに困難を極める。
日本語学習者が通う語学学校くらいでしか
そんなことを親切に教えてくれる場所もないだろうしね。
彼女たちにとって、『いずい』は『いずい』だものね。
そんなわけで、彼女達も説明に四苦八苦。
結局、私の中でピンときた説明はこれだった。
「ストッキングを穿いたときにしっくりこなくて気持ち悪い、あの感じ」
あの感じを『いずい』と言うらしい。
なるほど!
なんてわかりやすい!
おそらく別の言葉に当てはめられるようなものではない。
『ストッキングを穿いたときにしっくりこなくて気持ち悪い、あの感じ』なのけれど
『いずい=気持ち悪い』なわけではないからね。
“体験を伴う例を出す”ことの大切さ。
言葉に触れるときは欠かせない、大切な要素だな~と思った。
ちなみに、未だに私は自分の生活の中で『いずい』を使うことはない。
その感覚が言葉と一体化していないからだと思う。
先日、夫が何かの事象に対して『いずい』を使った。
でも私は、何だか違うような気がした。
「『ストッキング穿いたけど、しっくりこなくて気持ち悪い』
っていう感じじゃなくない?これ…」
私のツッコミは、こんなだった。
でもそういえば…
あの感覚、夫はわからないよねぇ…(笑)
生まれたばかりのWちゃんをみんなで眺めていると
何だかおさまりが悪いのか、Wちゃんがふにゃふにゃ動いた。
Nさん宅の旦那さんが言う。
「あ、いずがってる!いずがってる!」
そのコトバに対して、4つの声が見事なハーモニーを奏でた。
「「「「 『いずがってる』って、何?!」」」」
この4つの声の出所は
埼玉&佐賀出身のご夫妻と、東京出身の私たち夫婦。
あまりのハモリ具合に、笑ってしまったけれど
その反応に対して素っ頓狂な声をあげたのがNさん宅の奥様。
「えーーーっ?!『いずい』って、北海道弁なの~っ?!」
標準語だと思っていたらしい。
方言に限らず、自分の家や周辺のみで使うコトバは
そのコトバを使わない人に指摘されて始めてその事実に気づく。
そしてさらに、普段普通に使っているコトバを別の言葉に当てはめて
説明するというのは、意外に難しい。
『私は』と『私が』の違いとか
『時々』と『たまに』の違いとか…
ネイティブが感覚で使い分けていることを改めて説明するのは
なかなかに困難を極める。
日本語学習者が通う語学学校くらいでしか
そんなことを親切に教えてくれる場所もないだろうしね。
彼女たちにとって、『いずい』は『いずい』だものね。
そんなわけで、彼女達も説明に四苦八苦。
結局、私の中でピンときた説明はこれだった。
「ストッキングを穿いたときにしっくりこなくて気持ち悪い、あの感じ」
あの感じを『いずい』と言うらしい。
なるほど!
なんてわかりやすい!
おそらく別の言葉に当てはめられるようなものではない。
『ストッキングを穿いたときにしっくりこなくて気持ち悪い、あの感じ』なのけれど
『いずい=気持ち悪い』なわけではないからね。
“体験を伴う例を出す”ことの大切さ。
言葉に触れるときは欠かせない、大切な要素だな~と思った。
ちなみに、未だに私は自分の生活の中で『いずい』を使うことはない。
その感覚が言葉と一体化していないからだと思う。
先日、夫が何かの事象に対して『いずい』を使った。
でも私は、何だか違うような気がした。
「『ストッキング穿いたけど、しっくりこなくて気持ち悪い』
っていう感じじゃなくない?これ…」
私のツッコミは、こんなだった。
でもそういえば…
あの感覚、夫はわからないよねぇ…(笑)
英語を母国語とする人たちはどうして
初めて目にする単語の読み方がわかるのか―――
私は長らく不思議に思っていた。
だってそうではないか。
英語は日本語のひらがなやカタカナと違って
一文字に一音当てはめられているわけではない。
日本語は『50音』という言葉があるように
約50の音から成っている。
初めて出会うコトバであったとしても
ルビがふってあれば音を間違うことはない。
イントネーションは微妙だけれど。
そして漢字を教えてもらえれば
初めての語彙であっても意味すらわかってしまうこともある。
これ、考えてみたらすごいことだ。
でも英語は…
たとえば『BIKE』 という単語。
これがどうして『ビケ【bike】』ではなく『バイク【baik】』と発音すると
誰しもがわかるのか。
すでに知っている音(コトバ)だったのならまだわかる。
「ああ、こうやって書くのか~!」で終わる話だから。
でも知らない単語だった場合。
どうしてわかるの?
中学から本格的に学校での英語教育が始まり
大学を卒業しても、その疑問は私の中から消えなかった。
そんな疑問を頭の片隅に引っ掛けたまま
10年ほど前、私はオーストラリアで過ごしていた。
ある日、初めて目にする長い単語が書いてある看板を見つけた私。
現地の友人になんと読むのかを訪ねた。
もちろん答えてくれた彼女。
でもその単語を目にするのは初めてだと言う。
え?
じゃあどうして読めるの??
「だってたとえば 『BIKE』 の場合
最初の母音は i だから【i 】じゃなくて【ai】になるし
最後の母音は e だから【ke】じゃなくて【k】になるでしょ。
だから【bike】じゃなくて【baik】になる。
そういうルール、小学校でみんな習うから
初めて見る単語でも読めて当たり前よ」
えーーーーーっ?!
そうなの??
そんなの初めて聞いた~!!
私の長年の疑問が、突然解けた。
驚きを伝えると、さらにそれを上回る驚きが返ってきた。
「えっ?!学校で教えないの? じゃあどうやって読むの??」
だからさ、読めないわけよ…
ネイティブでもない私たち日本人には
ただでさえもハードルの高い英語の読み、発音。
ネイティブですら学ぶその読み方を
非ネイティブの私たちが学ばないまま英語を叩き込まれる。
何だろう、これは…。
せめて英語教育の始まった中1のはじめにそれを習うだけでも
“読めないコンプレックス”はだいぶ減りそうなものなのに…
なんて思った。
帰国後何年かして、私は本屋でそれが
『フォニックスルール』と呼ばれているものだと知った。
それでも私は幸いなことに、発音記号が読める。
中学1年のときの英語の先生が読み方をしっかり教えてくださったおかげだ。
辞書を見ればある程度読み方が予測できる。
それがなければ英語の読みや発音への戸惑いが
もっともっと大きく自分にのしかかってきただろうことを思うと
本当にありがたい。
でもやっぱり…何だか…
せっかく頭のやわらかい時期に触れる、初めての他言語。
もうちょっと楽に触れ合えれば、
こんなに英語アレルギーの日本人を作らなくてすむはずなのに。
英語が話せることがスペシャルなことではなくなるはずなのに。
なんかもったいないな~…
いろいろ工夫されてきているとはいえ
まだまだ英語教育に疑問を持っている日本人は多い。
凝り固まった“常識”が、根底から覆るといいのかもしれない。
初めて目にする単語の読み方がわかるのか―――
私は長らく不思議に思っていた。
だってそうではないか。
英語は日本語のひらがなやカタカナと違って
一文字に一音当てはめられているわけではない。
日本語は『50音』という言葉があるように
約50の音から成っている。
初めて出会うコトバであったとしても
ルビがふってあれば音を間違うことはない。
イントネーションは微妙だけれど。
そして漢字を教えてもらえれば
初めての語彙であっても意味すらわかってしまうこともある。
これ、考えてみたらすごいことだ。
でも英語は…
たとえば『BIKE』 という単語。
これがどうして『ビケ【bike】』ではなく『バイク【baik】』と発音すると
誰しもがわかるのか。
すでに知っている音(コトバ)だったのならまだわかる。
「ああ、こうやって書くのか~!」で終わる話だから。
でも知らない単語だった場合。
どうしてわかるの?
中学から本格的に学校での英語教育が始まり
大学を卒業しても、その疑問は私の中から消えなかった。
そんな疑問を頭の片隅に引っ掛けたまま
10年ほど前、私はオーストラリアで過ごしていた。
ある日、初めて目にする長い単語が書いてある看板を見つけた私。
現地の友人になんと読むのかを訪ねた。
もちろん答えてくれた彼女。
でもその単語を目にするのは初めてだと言う。
え?
じゃあどうして読めるの??
「だってたとえば 『BIKE』 の場合
最初の母音は i だから【i 】じゃなくて【ai】になるし
最後の母音は e だから【ke】じゃなくて【k】になるでしょ。
だから【bike】じゃなくて【baik】になる。
そういうルール、小学校でみんな習うから
初めて見る単語でも読めて当たり前よ」
えーーーーーっ?!
そうなの??
そんなの初めて聞いた~!!
私の長年の疑問が、突然解けた。
驚きを伝えると、さらにそれを上回る驚きが返ってきた。
「えっ?!学校で教えないの? じゃあどうやって読むの??」
だからさ、読めないわけよ…
ネイティブでもない私たち日本人には
ただでさえもハードルの高い英語の読み、発音。
ネイティブですら学ぶその読み方を
非ネイティブの私たちが学ばないまま英語を叩き込まれる。
何だろう、これは…。
せめて英語教育の始まった中1のはじめにそれを習うだけでも
“読めないコンプレックス”はだいぶ減りそうなものなのに…
なんて思った。
帰国後何年かして、私は本屋でそれが
『フォニックスルール』と呼ばれているものだと知った。
それでも私は幸いなことに、発音記号が読める。
中学1年のときの英語の先生が読み方をしっかり教えてくださったおかげだ。
辞書を見ればある程度読み方が予測できる。
それがなければ英語の読みや発音への戸惑いが
もっともっと大きく自分にのしかかってきただろうことを思うと
本当にありがたい。
でもやっぱり…何だか…
せっかく頭のやわらかい時期に触れる、初めての他言語。
もうちょっと楽に触れ合えれば、
こんなに英語アレルギーの日本人を作らなくてすむはずなのに。
英語が話せることがスペシャルなことではなくなるはずなのに。
なんかもったいないな~…
いろいろ工夫されてきているとはいえ
まだまだ英語教育に疑問を持っている日本人は多い。
凝り固まった“常識”が、根底から覆るといいのかもしれない。
日本語って、「おはよう」以外の挨拶がしづらい…
友人に会ったとき、それが朝なら「おはよう」ですむ。
でもそれがお昼以降だったら?
「こんにちは」?
「こんばんは」?
これ、親しい友人や実家の家族に会ったときに言うかしら?
職場の上司や取引先、ちょっと縁遠い親戚や目上の方相手になら
「こんにちは」や「こんばんは」は適切だ。
また子どもが一緒にいるときも、比較的使う。
“ごあいさつ”をすることが大切なことだから。
でも、同世代の親しい友人が相手のときは?
英語なら 「Hi ! (ハーイ!)」
イタリア語なら 「Ciao ! (チャオ!)」
スペイン語なら 「¡Hola ! (オラ!)」
ロシア語なら 「Привет! (プリヴィエッ!)」
ドイツ語なら 「Hallo ! (アロー!)」
などなど、世界の言語には気軽に言える挨拶がある。
でも日本語は…?
「よっ!」とか「おう!」とか…あるにはあるけれど
これはどちらかというと男性の言葉。
私が使うと、かなり違和感を感じる。
「やぁ!」も…
学校で英語を学んだときの訳くらいでしか使ったことがない。
「久しぶり~!」とか「元気~?」なんていう言い方もあるけれど
比較的よく会う相手に使うのはちょっと違う。
これは言葉通り、久しぶりに会った友人に使うコトバだ。
というわけで…、
…ない。
日本語に、こういう気軽な挨拶が、ないのだ。
結局私は、「こんにちは」や「こんばんは」を使ったり
相手によっては「はろー!」なんて言ってしまったりする。
この、「Hi ! (ハーイ!)」 「Ciao ! (チャオ!)」 「¡Hola ! (オラ!)」 「Привет! (プリヴィエッ!)」 「Hallo ! (アロー!)」に相当する言葉がないのは
一体どんな文化的背景からくるのだろう?
私には、まだわからないのだけれど。
誰か、ご存知の方がいらしたら教えていただきたい。
だからというわけではないけれど
私は昔から『おはよう!』という言葉が大好き。
気持ちいい!
友人に会ったとき、それが朝なら「おはよう」ですむ。
でもそれがお昼以降だったら?
「こんにちは」?
「こんばんは」?
これ、親しい友人や実家の家族に会ったときに言うかしら?
職場の上司や取引先、ちょっと縁遠い親戚や目上の方相手になら
「こんにちは」や「こんばんは」は適切だ。
また子どもが一緒にいるときも、比較的使う。
“ごあいさつ”をすることが大切なことだから。
でも、同世代の親しい友人が相手のときは?
英語なら 「Hi ! (ハーイ!)」
イタリア語なら 「Ciao ! (チャオ!)」
スペイン語なら 「¡Hola ! (オラ!)」
ロシア語なら 「Привет! (プリヴィエッ!)」
ドイツ語なら 「Hallo ! (アロー!)」
などなど、世界の言語には気軽に言える挨拶がある。
でも日本語は…?
「よっ!」とか「おう!」とか…あるにはあるけれど
これはどちらかというと男性の言葉。
私が使うと、かなり違和感を感じる。
「やぁ!」も…
学校で英語を学んだときの訳くらいでしか使ったことがない。
「久しぶり~!」とか「元気~?」なんていう言い方もあるけれど
比較的よく会う相手に使うのはちょっと違う。
これは言葉通り、久しぶりに会った友人に使うコトバだ。
というわけで…、
…ない。
日本語に、こういう気軽な挨拶が、ないのだ。
結局私は、「こんにちは」や「こんばんは」を使ったり
相手によっては「はろー!」なんて言ってしまったりする。
この、「Hi ! (ハーイ!)」 「Ciao ! (チャオ!)」 「¡Hola ! (オラ!)」 「Привет! (プリヴィエッ!)」 「Hallo ! (アロー!)」に相当する言葉がないのは
一体どんな文化的背景からくるのだろう?
私には、まだわからないのだけれど。
誰か、ご存知の方がいらしたら教えていただきたい。
だからというわけではないけれど
私は昔から『おはよう!』という言葉が大好き。
気持ちいい!
ブルキナファソから来たBさんは小学校の先生。
研修で、とある小学校を訪れたという。
そこで彼女がとっても気に入った日本語フレーズがあった。
それは、給食時のひとコマ。
「すごくおもしろかったの!」 と語り始めたBさん。
両手を合わせ、楽しそうにその場面を再現してくれた。
『「い い で す か?」』 (とてもゆったりしたフレーズで)
『「「「「「は い!」」」」」』
その瞬間、次に来る言葉がわかるのよね、日本人なら。
私も両手を合わせ、Bさんと同じ調子で声を合わせた。
『『い た だ き ます!』』
幼稚園や小学校など、集団で食べるときのご挨拶。
日本のそういった環境で育ってくれば
おそらくたいていの人は経験のある、あのご挨拶。
自分の口から、何のてらいもなく口から出てくる。
あの速度、あの語調で。
笑ってしまった(≧▽≦)
コトバは生活に密着している。
意味や体験をともなって生きてくる。
そして生きたコトバは、体の中に入っている。
ホント、おもしろい!
研修で、とある小学校を訪れたという。
そこで彼女がとっても気に入った日本語フレーズがあった。
それは、給食時のひとコマ。
「すごくおもしろかったの!」 と語り始めたBさん。
両手を合わせ、楽しそうにその場面を再現してくれた。
『「い い で す か?」』 (とてもゆったりしたフレーズで)
『「「「「「は い!」」」」」』
その瞬間、次に来る言葉がわかるのよね、日本人なら。
私も両手を合わせ、Bさんと同じ調子で声を合わせた。
『『い た だ き ます!』』
幼稚園や小学校など、集団で食べるときのご挨拶。
日本のそういった環境で育ってくれば
おそらくたいていの人は経験のある、あのご挨拶。
自分の口から、何のてらいもなく口から出てくる。
あの速度、あの語調で。
笑ってしまった(≧▽≦)
コトバは生活に密着している。
意味や体験をともなって生きてくる。
そして生きたコトバは、体の中に入っている。
ホント、おもしろい!
いつの間にか、自分自身に染み込んでいる“日本人らしさ”がある。
それは普段は意識していないのだけれど
外と関わったときに、初めて気づく。
ああ、私、日本人なんだなぁ…
ある時、インドネシアのDさんが教えてくれた。
インドネシアで大人気の日本の歌があるという。
「タイトル何だっけ?」と言いながら彼女が持っていた音源を聴く。
全然知らない曲。
でも、そのメロディは間違いなく日本の曲だった。
Dさん 「知ってる?」
私 「ううん。初めて聴いた」
Dさん 「あら?日本の曲じゃない?」
私 「ううん。日本の曲だと思うよ」
Dさん 「でもひろは知らないんでしょ?」
私 「うん、知らない。でもこのメロディは間違いなく日本のものよ」
おそらく日本全国どこで暮らす日本人が聴いても
あの曲は『日本の曲』だと断言したと思う。
ただ、あの曲を知っている日本人がどれだけいるのかというと
さっぱりわからないけれど。
…いるのかな?
「日本らしい曲を歌って」と言われても、なかなか咄嗟には出てこない。
子どもの頃から知っているから日本の歌だと思っていたら
実は海外の曲に日本の歌詞をつけて歌われているものだった…
なんていうこともあるくらいだ。
でも、曲を聴いたときに「これは日本のメロディライン!」と感じるものはある。
その存在は、その事実を突きつけられたときに初めて気づく。
“全然知らない。でも間違いなく日本の曲”
あの感覚、すごく不思議。
でもすごくおもしろい。
日本人なんだなぁというあの感覚。
体で感じたとき、私は幸せに満たされた。
それは普段は意識していないのだけれど
外と関わったときに、初めて気づく。
ああ、私、日本人なんだなぁ…
ある時、インドネシアのDさんが教えてくれた。
インドネシアで大人気の日本の歌があるという。
「タイトル何だっけ?」と言いながら彼女が持っていた音源を聴く。
全然知らない曲。
でも、そのメロディは間違いなく日本の曲だった。
Dさん 「知ってる?」
私 「ううん。初めて聴いた」
Dさん 「あら?日本の曲じゃない?」
私 「ううん。日本の曲だと思うよ」
Dさん 「でもひろは知らないんでしょ?」
私 「うん、知らない。でもこのメロディは間違いなく日本のものよ」
おそらく日本全国どこで暮らす日本人が聴いても
あの曲は『日本の曲』だと断言したと思う。
ただ、あの曲を知っている日本人がどれだけいるのかというと
さっぱりわからないけれど。
…いるのかな?
「日本らしい曲を歌って」と言われても、なかなか咄嗟には出てこない。
子どもの頃から知っているから日本の歌だと思っていたら
実は海外の曲に日本の歌詞をつけて歌われているものだった…
なんていうこともあるくらいだ。
でも、曲を聴いたときに「これは日本のメロディライン!」と感じるものはある。
その存在は、その事実を突きつけられたときに初めて気づく。
“全然知らない。でも間違いなく日本の曲”
あの感覚、すごく不思議。
でもすごくおもしろい。
日本人なんだなぁというあの感覚。
体で感じたとき、私は幸せに満たされた。
ブルキナファソという国をご存知だろうか?
西アフリカにある国で、公用語はフランス語。
国内には地域ごとに64の言語が存在しているという。
アフリカ各地の人たちと出会うようになって
多言語国家を目の当たりにしている昨今。
日本のようにたったひとつの言語しか話さないなんて、
彼らにとってはむしろ不自然。
環境的にありえないことだ。
でも彼らは彼らで、多言語国家ならではの悩みを抱えていた。
たとえば
どの言語で子どもを育てるか
地域言語しか話さないと受ける可能性のある差別
公用語がないと起こるコミュニケーションの問題
話せる言語がそのまま学校→社会での地位に直結してしまうという事実…
『多言語国家は夢の塊ではない』
ということもまた、私が学んだことのひとつだ。
さてブルキナファソからやってきたBさん。
彼女はとてもよくしゃべった。
とにかく、よくしゃべった。
「私の英語は全然ダメだけど~」
と言いつつ、8時間の中で口を開いていなかったのはほんの数分(笑)!
彼女の国では、必ずしも英語が話せる人は多くないらしい
おもしろかったのは、彼女の話す英語の中に
たくさんのフランス語が混ざっていること。
意識しているのかしていないのか…
英語とフランス語が混在の彼女の言葉は、私たちをワクワクさせた。
そのフランス語、こういうときに使うんだ!
あ、そのフランス語知ってる~!!
さらにBさんは小学校の先生をしているおかげで教えるのが大好き。
今までうちにやって来たゲストの誰よりも丁寧に、そしてしつこく教えてくれた。
たった8時間だったけれど、
自分の中のフランス語が格段に増えた感じが何とも嬉しかった。
そんな彼女が語った、印象的な言葉がある。
「フランス語はいつかなくなるよ」
何故か。
「だってビジネスの世界はすべて英語でしょ。
フランスは私たちだけでなくアフリカのいくつもの国を植民地にして
私たちはフランス語を話すことになったけれど
世界のビジネスは英語。
いつか世界は英語だけになる。
フランス語なんて、なくなるわよ」
このコトバに込められている想いは深い。
私は彼女の語る言葉から、彼女の想い、国の想い、歴史、文化など
たくさんの人が背負ってきた、たくさんのものを感じた。
これは私個人がどうのこうの言える問題ではないということも。
私が生きている間にフランス語がなくなることはないかもしれない。
でもITが進化し、グローバル化が進んで世界が狭くなった今
消えていく言語が数知れずあるのもまた事実。
コトバは生きている。
時代によって変化もするし、融合もする。
日本語だって、時代によって常に変化している。
10年、20年という短い時間で変化する口語もあれば
100年、200年という時間をかけて変化したものも。
だから流行言葉もあれば、古語もあるのだ。
そんな流れを見ると、消えかかる言葉というものは
無理矢理“保護”するものではないのかもしれない。
でもなんか…
なんか…
悲しいね。
西アフリカにある国で、公用語はフランス語。
国内には地域ごとに64の言語が存在しているという。
アフリカ各地の人たちと出会うようになって
多言語国家を目の当たりにしている昨今。
日本のようにたったひとつの言語しか話さないなんて、
彼らにとってはむしろ不自然。
環境的にありえないことだ。
でも彼らは彼らで、多言語国家ならではの悩みを抱えていた。
たとえば
どの言語で子どもを育てるか
地域言語しか話さないと受ける可能性のある差別
公用語がないと起こるコミュニケーションの問題
話せる言語がそのまま学校→社会での地位に直結してしまうという事実…
『多言語国家は夢の塊ではない』
ということもまた、私が学んだことのひとつだ。
さてブルキナファソからやってきたBさん。
彼女はとてもよくしゃべった。
とにかく、よくしゃべった。
「私の英語は全然ダメだけど~」
と言いつつ、8時間の中で口を開いていなかったのはほんの数分(笑)!
彼女の国では、必ずしも英語が話せる人は多くないらしい
おもしろかったのは、彼女の話す英語の中に
たくさんのフランス語が混ざっていること。
意識しているのかしていないのか…
英語とフランス語が混在の彼女の言葉は、私たちをワクワクさせた。
そのフランス語、こういうときに使うんだ!
あ、そのフランス語知ってる~!!
さらにBさんは小学校の先生をしているおかげで教えるのが大好き。
今までうちにやって来たゲストの誰よりも丁寧に、そしてしつこく教えてくれた。
たった8時間だったけれど、
自分の中のフランス語が格段に増えた感じが何とも嬉しかった。
そんな彼女が語った、印象的な言葉がある。
「フランス語はいつかなくなるよ」
何故か。
「だってビジネスの世界はすべて英語でしょ。
フランスは私たちだけでなくアフリカのいくつもの国を植民地にして
私たちはフランス語を話すことになったけれど
世界のビジネスは英語。
いつか世界は英語だけになる。
フランス語なんて、なくなるわよ」
このコトバに込められている想いは深い。
私は彼女の語る言葉から、彼女の想い、国の想い、歴史、文化など
たくさんの人が背負ってきた、たくさんのものを感じた。
これは私個人がどうのこうの言える問題ではないということも。
私が生きている間にフランス語がなくなることはないかもしれない。
でもITが進化し、グローバル化が進んで世界が狭くなった今
消えていく言語が数知れずあるのもまた事実。
コトバは生きている。
時代によって変化もするし、融合もする。
日本語だって、時代によって常に変化している。
10年、20年という短い時間で変化する口語もあれば
100年、200年という時間をかけて変化したものも。
だから流行言葉もあれば、古語もあるのだ。
そんな流れを見ると、消えかかる言葉というものは
無理矢理“保護”するものではないのかもしれない。
でもなんか…
なんか…
悲しいね。
ロシアからやってきたR君はクラシック音楽が大好き。
今通っている大学(医療系)の前は
2年ほど音楽の学校に通っていたらしい。
というわけで、札幌に来ても行きたい所はコンサートホール。
見たいものは楽譜。
「ロシアではよくクラシックコンサートを聞きに行くの?」
と尋ねれば
「うん。月に数回!」
と、かなりの筋金入り。
私も音楽は大好き。
クラシックも大好きだ。
「R君はピアノを弾くんだ~!私はマリンバを弾くよ」
「ショパン大好き~v」
なんて盛り上がって、ホッと一安心。
でも彼の音楽への想いと知識には遠く及ばない。
そんなR君。
やっぱり札幌でもクラシックコンサートに行きたいという。
「オーケストラでもピアノでもいいから、何かある?」
と聞かれ、探してみた。
ちょうどこの時期、札幌ではPMFが開催されている。
彼のスケジュールと講演スケジュールを照らし合わせて
あーでもない こーでもない。
「この日の演奏曲目教えて」
なんて言われて、必死に説明した。
まさかクラシック音楽について、英語で説明する日がこようとは~!
当たり前だけれど、『変ロ長調』とか『イ短調』なんて言っても通じない。
「合ってるかなぁ?」なんてちょっと不安になりながら
『ハー フラット メジャー』だの 『アー マイナー』だのと説明。
何とか通じた!
どんなことでもそうだけれど、
こういうときに付け焼刃の知識なんて何の役にも立たない。
私、音楽経験があってよかった。
母が音楽好きでよかった。
切々と思った。
コンサートホールの大きさや座席のことなど
彼の疑問は尽きない。
もともときっちりした性格の彼。
すべてをきちんと把握していたいようだ。
「小ホールなら、明日チケットを買いに行っても買えないかも?」
と心配そう。
ならば…とインターネットで調べてみると、案の定売り切れだった。
「ダメだ…、売り切れみたい」
そう説明するのだけれど、通じない。
どうやら 「Sold out」 が理解できないようだ。
ダメかも…と思いつつも、期待を込めた目で見つめてくる彼。
仕方ない。
それならいっそ、自分で確認してもらったらいいんじゃない?
そう考えた私と夫は、ローソンに行って見ることを提案。
近くのお店にスペシャルマシーン(Loppi)があるから、
売り切れてなければすぐに買えるよ!
すぐそこだから、行ってみよう!
でも、それが通じない。
困った。
それなら…
よし。
「パシュリー!」
外を指差して言い放った。
その途端、それまで理解できなくて困っていた彼が反応した。
即座に。
「今~っ?!」
それはそれは、絶妙なタイミングのツッコミだった。
一般的に共通語は英語。
彼も、日本に来たら英語を話さなきゃという意識があった。
(日本語でもいいんだけど~!)
でもしょせん、英語はどちらにとっても母国語ではないのだ。
「Let's go!」 と言っても伝わらないときは伝わらない。
でもそれが、ほんのひとこと
彼の母国語になった途端、コトバが生きた。
時間が動いた。
「今~っ?!」
あのリアルツッコミは間違いなく、ロシア語で言ったおかげ。
相手の言葉で話すってこういうことか! と、
またひとつ、オモシロイ発見ができたのだった。
ちょっと大変だったけど(笑)
今通っている大学(医療系)の前は
2年ほど音楽の学校に通っていたらしい。
というわけで、札幌に来ても行きたい所はコンサートホール。
見たいものは楽譜。
「ロシアではよくクラシックコンサートを聞きに行くの?」
と尋ねれば
「うん。月に数回!」
と、かなりの筋金入り。
私も音楽は大好き。
クラシックも大好きだ。
「R君はピアノを弾くんだ~!私はマリンバを弾くよ」
「ショパン大好き~v」
なんて盛り上がって、ホッと一安心。
でも彼の音楽への想いと知識には遠く及ばない。
そんなR君。
やっぱり札幌でもクラシックコンサートに行きたいという。
「オーケストラでもピアノでもいいから、何かある?」
と聞かれ、探してみた。
ちょうどこの時期、札幌ではPMFが開催されている。
彼のスケジュールと講演スケジュールを照らし合わせて
あーでもない こーでもない。
「この日の演奏曲目教えて」
なんて言われて、必死に説明した。
まさかクラシック音楽について、英語で説明する日がこようとは~!
当たり前だけれど、『変ロ長調』とか『イ短調』なんて言っても通じない。
「合ってるかなぁ?」なんてちょっと不安になりながら
『ハー フラット メジャー』だの 『アー マイナー』だのと説明。
何とか通じた!
どんなことでもそうだけれど、
こういうときに付け焼刃の知識なんて何の役にも立たない。
私、音楽経験があってよかった。
母が音楽好きでよかった。
切々と思った。
コンサートホールの大きさや座席のことなど
彼の疑問は尽きない。
もともときっちりした性格の彼。
すべてをきちんと把握していたいようだ。
「小ホールなら、明日チケットを買いに行っても買えないかも?」
と心配そう。
ならば…とインターネットで調べてみると、案の定売り切れだった。
「ダメだ…、売り切れみたい」
そう説明するのだけれど、通じない。
どうやら 「Sold out」 が理解できないようだ。
ダメかも…と思いつつも、期待を込めた目で見つめてくる彼。
仕方ない。
それならいっそ、自分で確認してもらったらいいんじゃない?
そう考えた私と夫は、ローソンに行って見ることを提案。
近くのお店にスペシャルマシーン(Loppi)があるから、
売り切れてなければすぐに買えるよ!
すぐそこだから、行ってみよう!
でも、それが通じない。
困った。
それなら…
よし。
「パシュリー!」
外を指差して言い放った。
その途端、それまで理解できなくて困っていた彼が反応した。
即座に。
「今~っ?!」
それはそれは、絶妙なタイミングのツッコミだった。
一般的に共通語は英語。
彼も、日本に来たら英語を話さなきゃという意識があった。
(日本語でもいいんだけど~!)
でもしょせん、英語はどちらにとっても母国語ではないのだ。
「Let's go!」 と言っても伝わらないときは伝わらない。
でもそれが、ほんのひとこと
彼の母国語になった途端、コトバが生きた。
時間が動いた。
「今~っ?!」
あのリアルツッコミは間違いなく、ロシア語で言ったおかげ。
相手の言葉で話すってこういうことか! と、
またひとつ、オモシロイ発見ができたのだった。
ちょっと大変だったけど(笑)