私は昔、欧米の方々はみんな英語が話せるのだと思っていた。
だから日本に来て英語で話しかける海外からの旅行者を見て
「日本なんだから日本語を話しなさいよ!
あなたの国に行ったら私たちだって英語でがんばるんだから!」
なんて思っていた。
お恥ずかしながら^^;
『白人さん=英語を話す人』 という
なんともお粗末な図式が私の頭の中にできていたわけだ。
いやはや…なんともお恥ずかしい。
でもこれは、私1人の問題ではないのではないだろうか。
『外国人=英語で言えば通じる』 なんていう思い込みは
学校教育なり何なりの、私たちが育ってくる環境によって
いつの間にか刷り込まれていたもののように思う。
『世界=英語』という図式は今だって多くの地域で健在だ。
でもいろいろな国の人たちと出会う中で
実はそうでもないのだということを知った。
たとえば今まで出会ったロシア語圏の人たち。
彼らは意外と英語が話せない。
もちろん人によるけれど。
“勉強はしたから文章を見れば少しわかるけど話す機会はない。
だからあまり話せない”
こんな人はけっこう多い。
これって、日本人にとっての英語と何ら変わりはないでしょ?
“TOEICの点数は高いけれど、会話は慣れてない。
だから聞き取れない”
なんていう韓国人の男の子にも出会った。
“英語が苦手なんだけど、これからでも話せるようになるかな?”
なんて言っていた中国人の女の子にも出会った。
彼女は中国語・韓国語・日本語が堪能だったのだけれど。
思っていたより、英語が話せない国の人は多い。
英語が話せれば世界は広がる。
でも、英語だけでは広がらない世界もある。
それがわかった時、また世界の見え方が変わった。
コトバが広げてくれる世界は無限。
ホント、おもしろい。
未知のものや自分の世界にないものに触れたとき
人は恐怖し身構える。
自分が物理的、精神的に傷つけられる可能性が
まったくないものであったとしても。
それがいい方向への変化であったとしても。
無意識に変化を恐れる。
ものの考え方、慣習、価値観の違い、相手の好きな世界…
今まで自分が築いてきた世界が転換する可能性がある限り
人は恐怖し、意図せずとも抵抗する。
そんなとき、日本人の多くが使う言葉がある。
『宗教』 と 『オタク』
私は、どうもこの感覚が受け入れられない。
たとえばメキシコに行った友人が語った話。
「マリアッチが演奏しながら、みんなで街をゾロゾロ練り歩いたの。
慣れてない日本人は危ないからって、
まわりをメキシコの人たちが囲んでくれて楽しかったよ!」
それに対して、ある人が言った。
「え…何それ。宗教っぽい。大丈夫なの?」
無宗教の人が多い日本。
ましてや、過去に新興宗教の起こした事件のイメージか、
『宗教=アヤシイ=洗脳=騙される』
みたいなイメージを抱いているのだろう。
何かにつけ、自分にとって未知の世界や考え方、
それまでの常識とは違うものや価値観に触れたとき
この言葉を口にする人たち。
「宗教じゃないの?」
自己防衛本能が働くのだろう。
おそらく悪意はない。
でも世界を見ると、無宗教の国の方が少ない。
世界には数々の宗教がある。
人間より大きなものの存在。
無宗教を謳う多くの日本人だって、「神様仏様…」なんて口にするのに。
そもそも自分の世界なんてとても狭い。
世界には、知らないことの方が多いのだ。
この、宗教への間違った認識から
蔑みを込めてこの言葉を口にする日本人と出会うたび
私はとてもがっかりする。
もうひとつ。
たとえばホームステイにやってきたゲストについて話していたとき。
「彼は文学とクラシック音楽が好きでね…」
「ああ、オタクなのね!」
「アニメやマンガが好きで日本語を覚えたらしいんだけどね…」
「日本だとマンガ好きな人はオタクだけど、海外だと違うのね~」
どちらも恐ろしいほど、偏見の塊だ。
この言葉を断定的に使う人たちは
ダンスやスポーツが好きな人のことを『オタク』とは言わない。
『好きな分野が文系=オタク』 なの?
『マンガ=オタク』 なの?
『何かがとても好き=オタク』 なの?
おそらく自分が知らない世界、触れたことのない世界だから理解できず、
思い込みの偏った目で見て平然とこの言葉を口にするのだろう。
『オタク=差別用語』だと、断定はできない。
でもこういう時に口にする人たちの言葉には
少なからず、相手を蔑んでいる音が含まれている。
これもやっぱり、耳にするたびとても残念に感じる。
マンガの影響で、世界中で日本語を学ぶ人が増えた。
日本に興味を持ってくれている人が増えた。
マンガに限らず、世界を牽引しているのは常に
その世界のプロフェッショナルたちだ。
Apple、Microsoft、Googleなどを創った人たち
IT関連の人たち
博物館の模型を作る人たち
職人さん
マンガ史を塗り替えてきた漫画家さん…
彼らの中に“自称・オタク”は多い。
コンピューターが好きだから
ゲームが好きだから
模型やフィギュアが好きだから
モノづくりが好きだから
絵を描くのが好きだから…
『オタク』レベルの人たちがいたから、世界は発展し続けている。
だからやっぱり私は、『宗教』と『オタク』という言葉を
差別用語のように使う日本人の感覚が理解できないし、したくない。
狭いよね。
見ている世界も、受け入れる心も。
すごい世界よ? どっちも。
人は恐怖し身構える。
自分が物理的、精神的に傷つけられる可能性が
まったくないものであったとしても。
それがいい方向への変化であったとしても。
無意識に変化を恐れる。
ものの考え方、慣習、価値観の違い、相手の好きな世界…
今まで自分が築いてきた世界が転換する可能性がある限り
人は恐怖し、意図せずとも抵抗する。
そんなとき、日本人の多くが使う言葉がある。
『宗教』 と 『オタク』
私は、どうもこの感覚が受け入れられない。
たとえばメキシコに行った友人が語った話。
「マリアッチが演奏しながら、みんなで街をゾロゾロ練り歩いたの。
慣れてない日本人は危ないからって、
まわりをメキシコの人たちが囲んでくれて楽しかったよ!」
それに対して、ある人が言った。
「え…何それ。宗教っぽい。大丈夫なの?」
無宗教の人が多い日本。
ましてや、過去に新興宗教の起こした事件のイメージか、
『宗教=アヤシイ=洗脳=騙される』
みたいなイメージを抱いているのだろう。
何かにつけ、自分にとって未知の世界や考え方、
それまでの常識とは違うものや価値観に触れたとき
この言葉を口にする人たち。
「宗教じゃないの?」
自己防衛本能が働くのだろう。
おそらく悪意はない。
でも世界を見ると、無宗教の国の方が少ない。
世界には数々の宗教がある。
人間より大きなものの存在。
無宗教を謳う多くの日本人だって、「神様仏様…」なんて口にするのに。
そもそも自分の世界なんてとても狭い。
世界には、知らないことの方が多いのだ。
この、宗教への間違った認識から
蔑みを込めてこの言葉を口にする日本人と出会うたび
私はとてもがっかりする。
もうひとつ。
たとえばホームステイにやってきたゲストについて話していたとき。
「彼は文学とクラシック音楽が好きでね…」
「ああ、オタクなのね!」
「アニメやマンガが好きで日本語を覚えたらしいんだけどね…」
「日本だとマンガ好きな人はオタクだけど、海外だと違うのね~」
どちらも恐ろしいほど、偏見の塊だ。
この言葉を断定的に使う人たちは
ダンスやスポーツが好きな人のことを『オタク』とは言わない。
『好きな分野が文系=オタク』 なの?
『マンガ=オタク』 なの?
『何かがとても好き=オタク』 なの?
おそらく自分が知らない世界、触れたことのない世界だから理解できず、
思い込みの偏った目で見て平然とこの言葉を口にするのだろう。
『オタク=差別用語』だと、断定はできない。
でもこういう時に口にする人たちの言葉には
少なからず、相手を蔑んでいる音が含まれている。
これもやっぱり、耳にするたびとても残念に感じる。
マンガの影響で、世界中で日本語を学ぶ人が増えた。
日本に興味を持ってくれている人が増えた。
マンガに限らず、世界を牽引しているのは常に
その世界のプロフェッショナルたちだ。
Apple、Microsoft、Googleなどを創った人たち
IT関連の人たち
博物館の模型を作る人たち
職人さん
マンガ史を塗り替えてきた漫画家さん…
彼らの中に“自称・オタク”は多い。
コンピューターが好きだから
ゲームが好きだから
模型やフィギュアが好きだから
モノづくりが好きだから
絵を描くのが好きだから…
『オタク』レベルの人たちがいたから、世界は発展し続けている。
だからやっぱり私は、『宗教』と『オタク』という言葉を
差別用語のように使う日本人の感覚が理解できないし、したくない。
狭いよね。
見ている世界も、受け入れる心も。
すごい世界よ? どっちも。
海外の人と触れ合うと、多くの日本人が
『日本のことを知らなさ過ぎる自分』に恥ずかしさを感じるようだ。
海外に行ってよく聞くのがこんな言葉。
「私、日本のこと全然知らなくて恥ずかしかった。
他の国の人たちって、自分の国の歴史とか文化とか
ちゃんとみんなわかってるんだよね…」
そして言う。
「帰ったら勉強しよう!」
そして帰国後、いつの間にか消えてしまうその想い…
日本人て本当に、こういうことに弱い。
何故だろう?
かく言う私も、日本のことを語れる自信はまだまだない。
日本文化も日本の歴史も日本語も大好きだけど
海の向こうで語れるほど、伝えられるほど
自分の中には浸透していないように思えてならない。
もちろん言えることはある。
年中行事やその言葉の意味も
源氏物語や枕草子も
歴史や文化やマンガも
「全然知らない~!」という人よりは多少知っている…と思う。
でも何だか…“海外の人たちが語る自国のこと”とは違う気がする。
そして自分の知識は、とても偏っているように思えてしまう。
私は本当に恥じ入るほど無知なのか、
それともこれは向上心の表れか…(自分で言うのもおかしいけれど)
できれば後者であってほしいけれど。
長い鎖国の歴史と島国であるという事実。
日本国内で日常を送るなら、海外の方々と触れ合わずとも暮らしていける。
むしろそっちが大多数。
だからこそ、自分の国や文化を外から見る機会が少ない。
でもそれは、とてもとても恥ずかしいことだ。
思えば「日本の文化を体験してみたい」というゲストの言葉に
いつも戸惑う自分がいる。
『日本の文化』
それは一体、何を指しているのだろう?
「日本人の普通の日常生活を体験したい」
と言ってもらえるのであれば、いくらでも提供できる。
一緒にご飯を作ったり、お買物に行ったり。
スペシャルなことをしなくても、日常の延長こそを喜んでもらえるのであれば。
でも『日本の文化』と言われたとき、とても困る自分がいる。
日本の文化って、何?
お茶?
お琴?
三味線?
生け花?
日本舞踊?
和太鼓?
着付け?
思い浮かぶのはこんなものたち。
でもどれも、私の日常生活の中には存在していない。
『日本文化』として思い浮かぶのに、どれも生活に浸透していない現代。
果たしてこれが海を越えて来日する彼らの求めているものなのだろうか?
これらは本当に、今を生きる日本の文化なのだろうか?
これらに興味を持っても、どれもとても高価。
本気でやろうと思ったら、一体いくらかかるのか…
考えるだけでも恐ろしい。
いいな~ 興味あるな~ やりたいな~ とは思っても、
なかなかに敷居が高いのもまた事実。
むしろ、海外ゲストを対象とした催しをしている方がいらっしゃる分
一般の日本人より、海外からの旅行者の方が
そういった日本文化に触れるチャンスに恵まれていたりもする。
事実、先日我家にやってきたロシアのR君のおかげで
私たちはたまたま居合わせた『野点』に参加させていただくことができた。
おそらくあの時、彼がいなかったら…私と夫だけだったら
あの機会は与えられなかったことだろう。
歴史的流れから見れば、どれも確かに日本の文化。
でも今の社会の中で、すべての日本人がこれらを当たり前に
『日本文化』として紹介し提供することはできない。
現代日本人の生活とはかけ離れすぎている。
それがとても残念。
日本を知らない日本人。
私は日本人だ。
日本を、知っていたい。
『日本のことを知らなさ過ぎる自分』に恥ずかしさを感じるようだ。
海外に行ってよく聞くのがこんな言葉。
「私、日本のこと全然知らなくて恥ずかしかった。
他の国の人たちって、自分の国の歴史とか文化とか
ちゃんとみんなわかってるんだよね…」
そして言う。
「帰ったら勉強しよう!」
そして帰国後、いつの間にか消えてしまうその想い…
日本人て本当に、こういうことに弱い。
何故だろう?
かく言う私も、日本のことを語れる自信はまだまだない。
日本文化も日本の歴史も日本語も大好きだけど
海の向こうで語れるほど、伝えられるほど
自分の中には浸透していないように思えてならない。
もちろん言えることはある。
年中行事やその言葉の意味も
源氏物語や枕草子も
歴史や文化やマンガも
「全然知らない~!」という人よりは多少知っている…と思う。
でも何だか…“海外の人たちが語る自国のこと”とは違う気がする。
そして自分の知識は、とても偏っているように思えてしまう。
私は本当に恥じ入るほど無知なのか、
それともこれは向上心の表れか…(自分で言うのもおかしいけれど)
できれば後者であってほしいけれど。
長い鎖国の歴史と島国であるという事実。
日本国内で日常を送るなら、海外の方々と触れ合わずとも暮らしていける。
むしろそっちが大多数。
だからこそ、自分の国や文化を外から見る機会が少ない。
でもそれは、とてもとても恥ずかしいことだ。
思えば「日本の文化を体験してみたい」というゲストの言葉に
いつも戸惑う自分がいる。
『日本の文化』
それは一体、何を指しているのだろう?
「日本人の普通の日常生活を体験したい」
と言ってもらえるのであれば、いくらでも提供できる。
一緒にご飯を作ったり、お買物に行ったり。
スペシャルなことをしなくても、日常の延長こそを喜んでもらえるのであれば。
でも『日本の文化』と言われたとき、とても困る自分がいる。
日本の文化って、何?
お茶?
お琴?
三味線?
生け花?
日本舞踊?
和太鼓?
着付け?
思い浮かぶのはこんなものたち。
でもどれも、私の日常生活の中には存在していない。
『日本文化』として思い浮かぶのに、どれも生活に浸透していない現代。
果たしてこれが海を越えて来日する彼らの求めているものなのだろうか?
これらは本当に、今を生きる日本の文化なのだろうか?
これらに興味を持っても、どれもとても高価。
本気でやろうと思ったら、一体いくらかかるのか…
考えるだけでも恐ろしい。
いいな~ 興味あるな~ やりたいな~ とは思っても、
なかなかに敷居が高いのもまた事実。
むしろ、海外ゲストを対象とした催しをしている方がいらっしゃる分
一般の日本人より、海外からの旅行者の方が
そういった日本文化に触れるチャンスに恵まれていたりもする。
事実、先日我家にやってきたロシアのR君のおかげで
私たちはたまたま居合わせた『野点』に参加させていただくことができた。
おそらくあの時、彼がいなかったら…私と夫だけだったら
あの機会は与えられなかったことだろう。
歴史的流れから見れば、どれも確かに日本の文化。
でも今の社会の中で、すべての日本人がこれらを当たり前に
『日本文化』として紹介し提供することはできない。
現代日本人の生活とはかけ離れすぎている。
それがとても残念。
日本を知らない日本人。
私は日本人だ。
日本を、知っていたい。
翻訳ソフトは便利。
でも実は、意外と使えない。
コトバとはとても複雑。
だから日本語と他言語を対比してみても
表裏一体の意味にはならない。
たとえば日本語の『はし』。
翻訳ソフトにローマ字で『HASHI』と打ち込んだら何が出てくるのだろう?
『はし』という日本語はいろいろある。
箸・橋・端…
私たちはこれを、体験の中で使い分けている。
食事中に 「お『はし』取って」 と言えば、箸のことだし
観光地の話をしていて 「有名な『はし』があるよ」 と言えば、橋のことだし
指さして 「その『はし』にあるから」 と言えば、端を意味する。
たとえば英語の『call』。
翻訳ソフトにかけると、訳として出てくるのは『呼び出す』。
でも初対面の人に 「Please call me Hiro.」 と言えば
「ひろって呼んでね」ということだし
「Call me later.」 と言えば、「あとで電話してね」だ。
他にも意味はいろいろある。
辞書をきちんと見れば、コトバとコトバが1対1なんていうことはほとんどない。
そして私たちは、そのコトバや音が持つ意味すべてを合わせて
いくつあるかなんて知らない。
学者でもない限り、数えるようなことはないから。
それだけコトバは複雑。
だから1対1の訳になりがちな翻訳ソフトは、
便利だけどとても危険な落とし穴も孕んでいる。
ロシアから来たR君は、医療系の大学に通っている。
話の内容から薬学部なのかな?と思い、
翻訳ソフトで『薬学部』をロシア語に変換。
途端に「NO!!」と言われた。
彼が言う。
「pharmacy と medical は違う!!」
へ…?
一瞬、彼が何に対してそんなにムキになっているのかわからなかった。
確かに pharmacy と medical は違う。
数分の逡巡の後、ああ…と思い至った。
たぶん彼は、「薬局じゃなーい!!」と言いたかったのだ。
でも私は、薬学部なんていうロシア語は知らない。
そもそもロシアの大学に『薬学部』というものが存在するのかどうかもわからない。
『薬学部』を翻訳ソフトにかけたら、「pharmacy」に相当する単語に変換され
それを彼に見せただけ。
正直、とても戸惑った。
R君、不満そう。
違うものだって言いたいんだろうな…
でも、日本語の『薬学部』を変換したらこの単語になっただけで
悪気はないのよぅ…
私は必死に考え、また入力した。
今度は日本語で 『薬の研究』。
すると彼は大きく頷いた。
なるほど。
私がイメージしたものは、大きく間違っていたわけではないのだと思う。
でも、翻訳ソフトが日本語とロシア語の隔たりを広げてしまった。
さらに、ロシアに限らず、その国によって大学のシステムは異なる。
日本の医療系大学の場合
医学部・歯学部・薬学部・看護学部…なんていう風に分かれているけれど
ロシア人の彼にとって、医学部と歯学部が別なのは理解できないことらしい。
「口だってカラダの一部でしょ?
ロシアでは歯を専門にやるドクターだってカラダのことはすべて学ぶ。
なのにどうして分かれてるの??
日本の“口の中専門医”は体のことを勉強しないの??」
確かにそうだ。
そんなの、私だって不思議。
でも私は医学部卒でも歯学部卒でもないから
そのあたりはわからないのよ…。
さらに言うなら、私の『セラピスト』という職業も、彼を混乱させた。
ロシアで『セラピスト』と言えば、完全に医療関係者を指すらしいのだ。
でも日本で一般的に「セラピスト」は、医療関係者ではない。
日本語とその他の言語のひとつひとつの単語は、表裏一体ではない。
それはわかっているけれど
コトバが専門的になればなるほど、誤解も生じやすい。
改めてそんなことを思った。
ちなみにその後、彼の話を聞いていてますますわからなくなった。
彼は医者になるのか、薬の研究者になるのか、薬剤師になるのか…
今になって思えば
「親は医者と歯医者らしい。たぶんそう言っていた」
という夫の言葉が、私の中に何かしらの思い込みを育んでいたのかもしれない。
だから今は、わからない。
いつかわかる日がくるといいな!
でも実は、意外と使えない。
コトバとはとても複雑。
だから日本語と他言語を対比してみても
表裏一体の意味にはならない。
たとえば日本語の『はし』。
翻訳ソフトにローマ字で『HASHI』と打ち込んだら何が出てくるのだろう?
『はし』という日本語はいろいろある。
箸・橋・端…
私たちはこれを、体験の中で使い分けている。
食事中に 「お『はし』取って」 と言えば、箸のことだし
観光地の話をしていて 「有名な『はし』があるよ」 と言えば、橋のことだし
指さして 「その『はし』にあるから」 と言えば、端を意味する。
たとえば英語の『call』。
翻訳ソフトにかけると、訳として出てくるのは『呼び出す』。
でも初対面の人に 「Please call me Hiro.」 と言えば
「ひろって呼んでね」ということだし
「Call me later.」 と言えば、「あとで電話してね」だ。
他にも意味はいろいろある。
辞書をきちんと見れば、コトバとコトバが1対1なんていうことはほとんどない。
そして私たちは、そのコトバや音が持つ意味すべてを合わせて
いくつあるかなんて知らない。
学者でもない限り、数えるようなことはないから。
それだけコトバは複雑。
だから1対1の訳になりがちな翻訳ソフトは、
便利だけどとても危険な落とし穴も孕んでいる。
ロシアから来たR君は、医療系の大学に通っている。
話の内容から薬学部なのかな?と思い、
翻訳ソフトで『薬学部』をロシア語に変換。
途端に「NO!!」と言われた。
彼が言う。
「pharmacy と medical は違う!!」
へ…?
一瞬、彼が何に対してそんなにムキになっているのかわからなかった。
確かに pharmacy と medical は違う。
数分の逡巡の後、ああ…と思い至った。
たぶん彼は、「薬局じゃなーい!!」と言いたかったのだ。
でも私は、薬学部なんていうロシア語は知らない。
そもそもロシアの大学に『薬学部』というものが存在するのかどうかもわからない。
『薬学部』を翻訳ソフトにかけたら、「pharmacy」に相当する単語に変換され
それを彼に見せただけ。
正直、とても戸惑った。
R君、不満そう。
違うものだって言いたいんだろうな…
でも、日本語の『薬学部』を変換したらこの単語になっただけで
悪気はないのよぅ…
私は必死に考え、また入力した。
今度は日本語で 『薬の研究』。
すると彼は大きく頷いた。
なるほど。
私がイメージしたものは、大きく間違っていたわけではないのだと思う。
でも、翻訳ソフトが日本語とロシア語の隔たりを広げてしまった。
さらに、ロシアに限らず、その国によって大学のシステムは異なる。
日本の医療系大学の場合
医学部・歯学部・薬学部・看護学部…なんていう風に分かれているけれど
ロシア人の彼にとって、医学部と歯学部が別なのは理解できないことらしい。
「口だってカラダの一部でしょ?
ロシアでは歯を専門にやるドクターだってカラダのことはすべて学ぶ。
なのにどうして分かれてるの??
日本の“口の中専門医”は体のことを勉強しないの??」
確かにそうだ。
そんなの、私だって不思議。
でも私は医学部卒でも歯学部卒でもないから
そのあたりはわからないのよ…。
さらに言うなら、私の『セラピスト』という職業も、彼を混乱させた。
ロシアで『セラピスト』と言えば、完全に医療関係者を指すらしいのだ。
でも日本で一般的に「セラピスト」は、医療関係者ではない。
日本語とその他の言語のひとつひとつの単語は、表裏一体ではない。
それはわかっているけれど
コトバが専門的になればなるほど、誤解も生じやすい。
改めてそんなことを思った。
ちなみにその後、彼の話を聞いていてますますわからなくなった。
彼は医者になるのか、薬の研究者になるのか、薬剤師になるのか…
今になって思えば
「親は医者と歯医者らしい。たぶんそう言っていた」
という夫の言葉が、私の中に何かしらの思い込みを育んでいたのかもしれない。
だから今は、わからない。
いつかわかる日がくるといいな!
ロシアから来たR君を見送る道すがら
新たに覚えたロシア語を次々と口にする私。
「数字は?」と聞かれ、数えはじめる。
「1、2、3、4、5… …あれ?」 なーんて。
笑ってるんだか呆れてるんだか、
「100は簡単でしょ?」とR君。
うん、そうだったそうだった。
えーとね…
………あれ?
何だっけ?
困った顔して見上げれば、やはり笑ってるんだか
呆れてるんだか…な表情で教えてくれる。
R君 「『スト』だよ」
私 「そうだ!『スト』だった。
あ、じゃあもしかして200は『ドゥバスチ』?」
R君 「違う。『ドゥヴィスティ』」
私 「そうか(笑)」
末尾の『百』だけじゃなくて『2』も変化するから難しい…
私 「あ!じゃあ300は『トゥリスティ』?」
R君 「違う。『トゥリスタ』(笑)」
私 「えーーー!!何で~~~っ?!」
R君も苦笑い。
女性名詞、男性名詞によって活用が変化する言語は多い。
ましてやロシア語には中性名詞も存在している。
加えて単数形・複数形という数の概念。
すべて日本語にないものだから感覚としての馴染みがない。
このあたり、外国語を学ぶ日本人が躓きやすい部分よね。
この前日、ロシア語の単語は「1」の時と「2~4」の時と「5以上」の時で
すべて単語の末尾が変わるという話は聞いていた。
『10』と『20・30・40』と『50~90』だって、表現の仕方が違うのだ。
でも100単位で数字だけを見たら、また違った法則があった。
まぁ10単位でも言い方がいろいろな言語はたくさんある。
日本語のようにわかりやすい法則の言語ばかりじゃないのは
わかってはいるのだけれど。
でも何で100、200、300がそれぞれ
『スト』『ドゥヴィスティ』『トゥリスタ』なの~?!
『スト』『ドゥバスト』『トゥリスト』でいいじゃない!
なーぜーーーっ!?
なんて思ったのだけれど、ふと気がついた。
日本語も、そうなんじゃない?
『100(ひゃく)』『200(にひゃく)』…ときて、300は『さんひゃく』にはならない。
『さんびゃく』だ。
600や800なんて、『ろくひゃく』や『はちひゃく』じゃなくて
『ろっぴゃく』や『はっぴゃく』。
『ひゃ』 『びゃ』 『ぴゃ』
おまけに小さい『っ』が入ってしまったりして。
日本語もわけわからんではないの!
もちろん私たち日本人は、それを自然に使い分けている。
でも日本語を“学ぶ”人にとっては…
「どうしてそうなるのーーーっ?!」
という声が聞こえてきそう^^;
ロシア語のこの『スト』『ドゥヴィスティ』『トゥリスタ』も
結局そういうことなわけだ。
きっと法則がある。
言語学的に言えば、何かしら、ある。
でもやっぱり、こういうのって
自然に身につけられることほど強いことはない。
だって私は、法則なんか知らなくてもこの日本語を絶対間違わないもの。
環境ってすごいね。
環境っておもしろいね。
新たに覚えたロシア語を次々と口にする私。
「数字は?」と聞かれ、数えはじめる。
「1、2、3、4、5… …あれ?」 なーんて。
笑ってるんだか呆れてるんだか、
「100は簡単でしょ?」とR君。
うん、そうだったそうだった。
えーとね…
………あれ?
何だっけ?
困った顔して見上げれば、やはり笑ってるんだか
呆れてるんだか…な表情で教えてくれる。
R君 「『スト』だよ」
私 「そうだ!『スト』だった。
あ、じゃあもしかして200は『ドゥバスチ』?」
R君 「違う。『ドゥヴィスティ』」
私 「そうか(笑)」
末尾の『百』だけじゃなくて『2』も変化するから難しい…
私 「あ!じゃあ300は『トゥリスティ』?」
R君 「違う。『トゥリスタ』(笑)」
私 「えーーー!!何で~~~っ?!」
R君も苦笑い。
女性名詞、男性名詞によって活用が変化する言語は多い。
ましてやロシア語には中性名詞も存在している。
加えて単数形・複数形という数の概念。
すべて日本語にないものだから感覚としての馴染みがない。
このあたり、外国語を学ぶ日本人が躓きやすい部分よね。
この前日、ロシア語の単語は「1」の時と「2~4」の時と「5以上」の時で
すべて単語の末尾が変わるという話は聞いていた。
『10』と『20・30・40』と『50~90』だって、表現の仕方が違うのだ。
でも100単位で数字だけを見たら、また違った法則があった。
まぁ10単位でも言い方がいろいろな言語はたくさんある。
日本語のようにわかりやすい法則の言語ばかりじゃないのは
わかってはいるのだけれど。
でも何で100、200、300がそれぞれ
『スト』『ドゥヴィスティ』『トゥリスタ』なの~?!
『スト』『ドゥバスト』『トゥリスト』でいいじゃない!
なーぜーーーっ!?
なんて思ったのだけれど、ふと気がついた。
日本語も、そうなんじゃない?
『100(ひゃく)』『200(にひゃく)』…ときて、300は『さんひゃく』にはならない。
『さんびゃく』だ。
600や800なんて、『ろくひゃく』や『はちひゃく』じゃなくて
『ろっぴゃく』や『はっぴゃく』。
『ひゃ』 『びゃ』 『ぴゃ』
おまけに小さい『っ』が入ってしまったりして。
日本語もわけわからんではないの!
もちろん私たち日本人は、それを自然に使い分けている。
でも日本語を“学ぶ”人にとっては…
「どうしてそうなるのーーーっ?!」
という声が聞こえてきそう^^;
ロシア語のこの『スト』『ドゥヴィスティ』『トゥリスタ』も
結局そういうことなわけだ。
きっと法則がある。
言語学的に言えば、何かしら、ある。
でもやっぱり、こういうのって
自然に身につけられることほど強いことはない。
だって私は、法則なんか知らなくてもこの日本語を絶対間違わないもの。
環境ってすごいね。
環境っておもしろいね。
ロシアからR君がやってきた。
日本語は話せず、英語も話し慣れていないという彼。
おかげで私たちのロシア語が少し増えた。
最終日。
「ロシア語の単語、いくつか覚えたよ~」
なんていう話をしながらお見送り。
「パシュリーでしょ、ダバイ イェスチでしょ、スパティでしょ、ウスタルでしょ…」
思いつく限りのロシア語を口にする私。
「あ、『カク パルスキー?』っていうフレーズも!」
と言った途端、彼が変な顔をした。
何?
何??
何か言っている。
でもよくわからない。
ただ、何だかどうも通じていないということだけはわかった。
何だろう?
少し考えて気がついた。
『カク パルスキー?』
つまり
「ロシア語で何ていうの?」
彼は、それを私からの質問だと受け取ったらしい。
“何について聞いているの?”と言いたかったようだ。
でもこの時、私は特に何かを指してそのロシア語をたずねていたわけではない。
「『カク パルスキー?』というフレーズを覚えたよ!」
という話をしていただけ。
それが通じていなかった。
実はこういうことって、けっこうある。
母語以外のことばがカタコトの人との会話の最中に
単語というよりフレーズ…文章についてたずねると
文章そのものへの回答がきたりして会話がかみ合わなくなるのだ。
それと同じ現象が、この時も起こった。
何とか説明し、理解してくれた彼。
直後、ひとこと言われた。
「それは『単語』じゃない」
わかってるよ~!!(笑)
フレーズでしょ?
どうやら『word』は聞き取れても『phrase』は聞き取れなかったみたい。
何事にもきっちりしたい性格の彼。
こういうのって、国民性の違いというよりも性格の問題だ。
ソコ突っ込むんだ!
…と、ちょっと笑えた(笑)
日本語は話せず、英語も話し慣れていないという彼。
おかげで私たちのロシア語が少し増えた。
最終日。
「ロシア語の単語、いくつか覚えたよ~」
なんていう話をしながらお見送り。
「パシュリーでしょ、ダバイ イェスチでしょ、スパティでしょ、ウスタルでしょ…」
思いつく限りのロシア語を口にする私。
「あ、『カク パルスキー?』っていうフレーズも!」
と言った途端、彼が変な顔をした。
何?
何??
何か言っている。
でもよくわからない。
ただ、何だかどうも通じていないということだけはわかった。
何だろう?
少し考えて気がついた。
『カク パルスキー?』
つまり
「ロシア語で何ていうの?」
彼は、それを私からの質問だと受け取ったらしい。
“何について聞いているの?”と言いたかったようだ。
でもこの時、私は特に何かを指してそのロシア語をたずねていたわけではない。
「『カク パルスキー?』というフレーズを覚えたよ!」
という話をしていただけ。
それが通じていなかった。
実はこういうことって、けっこうある。
母語以外のことばがカタコトの人との会話の最中に
単語というよりフレーズ…文章についてたずねると
文章そのものへの回答がきたりして会話がかみ合わなくなるのだ。
それと同じ現象が、この時も起こった。
何とか説明し、理解してくれた彼。
直後、ひとこと言われた。
「それは『単語』じゃない」
わかってるよ~!!(笑)
フレーズでしょ?
どうやら『word』は聞き取れても『phrase』は聞き取れなかったみたい。
何事にもきっちりしたい性格の彼。
こういうのって、国民性の違いというよりも性格の問題だ。
ソコ突っ込むんだ!
…と、ちょっと笑えた(笑)
お気に入りのカフェで
これまたお気に入りの珈琲ゼリーパフェをいただいていた。
ふと気になって手に取った雑誌の特集テーマは
『北欧の家具と器』。
私は何となく、北へと…そして過去へと思いを馳せた。
北欧のデザインは素晴らしい。
洗練されているというだけではない何かがある。
ただ実は、何かがあるのは何となくわかるのだけれど
自分がそれに惹かれているのかどうなのかは
ずっとわからないままきていた。
北欧デザインが好きとか北欧家具が好きとかいう友人と話すと
何故だか感じる違和感。
あれ?
私、そんなに好きじゃないのかな?
なんて思ったり。
私は北欧というといつも、シチューのCMのような
家の窓からもれるあたたかい白熱球の色を思い浮かべる。
あの中で、何がが生み出されている。
そんなイメージ。
思えば家具や照明だけでなく、
優れた文学も芸術も、北の国から生まれることが多い。
カラーセラピーも、システムが生まれたのは
イギリスやカナダなど、北に位置する国々だ。
雪に閉ざされる期間が長いからこそ、想像を膨らませたり憧れたり。
そこから色彩豊かなモノが生み出される。
北の大地にはそんな力があると聞いたのはいつのことだっただろう?
確かに、南は想像しなくてもそこにある。
色彩豊かな自然が。
だから人間は開放される。
オープンになる。
さて、手に取ったこの雑誌。
ページをめくっていると、ある名前が目についた。
思わず手が止まる。
大学時代にお世話になった教授だ。
そういえば先生は、日本で初めて北欧に留学した方。
世界に名だたるデザイナーたちと交流をお持ちだった。
本や作品でしか目にしない有名デザイナー達の名前を
次々と先生の口から 友人として 生きた人間の話として
聞いていたあの頃。
私はあまりに遠い世界のことで、よく理解できなかった。
世界と、目の前にいらっしゃる教授を介して自分が繋がらない。
そんな先生のコトバが、誌面に綴られていた。
『デザイナーも企業家も、共有しているのは生活体験。
北欧デザインは北欧の心でつくられたもの。
過去を知らない人間は未来を語れない』
あの頃、私は教授の話を聞くのが好きだった。
でも思えば、好きだったのはデザインの話ではなく
しつらいや文化、人の暮らしそのもの。
そんな話を耳にするとき、私の心はワクワク躍った。
今私は、様々な国の人達と出会い、交流し
また様々なコトバに触れている。
興味あるのは人間そのもの。
人間そのもののココロとカラダ。
人と人のつながり。
だから選んだのであろう、この仕事。
たった1ページに綴られた先生のコトバが、
私が抱えてきた北欧への不可思議な想いと今の自分を
繋いでくださったような気がした。
『デザイナーも企業家も、共有しているのは生活体験。
北欧デザインは北欧の心でつくられたもの。
過去を知らない人間は未来を語れない』
ヒトがいて、生活があって、モノは生まれる。
ヒトがいて、家族がいるから、人間はつながっていく。
そういえば先生、留学したときは
どんなコトバで北欧のデザイナー達と語り合っていらしたのだろう?
英語?
デンマーク語?
スウェーデン語?
フィンランド語?
ノルウェー語?
学生時代から不思議に思っていたことを思い出した。
デザインよりも何よりも
私が一番関心を寄せていたのはそんなことだった。
なんだ私、変わってないな…(笑)
これまたお気に入りの珈琲ゼリーパフェをいただいていた。
ふと気になって手に取った雑誌の特集テーマは
『北欧の家具と器』。
私は何となく、北へと…そして過去へと思いを馳せた。
北欧のデザインは素晴らしい。
洗練されているというだけではない何かがある。
ただ実は、何かがあるのは何となくわかるのだけれど
自分がそれに惹かれているのかどうなのかは
ずっとわからないままきていた。
北欧デザインが好きとか北欧家具が好きとかいう友人と話すと
何故だか感じる違和感。
あれ?
私、そんなに好きじゃないのかな?
なんて思ったり。
私は北欧というといつも、シチューのCMのような
家の窓からもれるあたたかい白熱球の色を思い浮かべる。
あの中で、何がが生み出されている。
そんなイメージ。
思えば家具や照明だけでなく、
優れた文学も芸術も、北の国から生まれることが多い。
カラーセラピーも、システムが生まれたのは
イギリスやカナダなど、北に位置する国々だ。
雪に閉ざされる期間が長いからこそ、想像を膨らませたり憧れたり。
そこから色彩豊かなモノが生み出される。
北の大地にはそんな力があると聞いたのはいつのことだっただろう?
確かに、南は想像しなくてもそこにある。
色彩豊かな自然が。
だから人間は開放される。
オープンになる。
さて、手に取ったこの雑誌。
ページをめくっていると、ある名前が目についた。
思わず手が止まる。
大学時代にお世話になった教授だ。
そういえば先生は、日本で初めて北欧に留学した方。
世界に名だたるデザイナーたちと交流をお持ちだった。
本や作品でしか目にしない有名デザイナー達の名前を
次々と先生の口から 友人として 生きた人間の話として
聞いていたあの頃。
私はあまりに遠い世界のことで、よく理解できなかった。
世界と、目の前にいらっしゃる教授を介して自分が繋がらない。
そんな先生のコトバが、誌面に綴られていた。
『デザイナーも企業家も、共有しているのは生活体験。
北欧デザインは北欧の心でつくられたもの。
過去を知らない人間は未来を語れない』
あの頃、私は教授の話を聞くのが好きだった。
でも思えば、好きだったのはデザインの話ではなく
しつらいや文化、人の暮らしそのもの。
そんな話を耳にするとき、私の心はワクワク躍った。
今私は、様々な国の人達と出会い、交流し
また様々なコトバに触れている。
興味あるのは人間そのもの。
人間そのもののココロとカラダ。
人と人のつながり。
だから選んだのであろう、この仕事。
たった1ページに綴られた先生のコトバが、
私が抱えてきた北欧への不可思議な想いと今の自分を
繋いでくださったような気がした。
『デザイナーも企業家も、共有しているのは生活体験。
北欧デザインは北欧の心でつくられたもの。
過去を知らない人間は未来を語れない』
ヒトがいて、生活があって、モノは生まれる。
ヒトがいて、家族がいるから、人間はつながっていく。
そういえば先生、留学したときは
どんなコトバで北欧のデザイナー達と語り合っていらしたのだろう?
英語?
デンマーク語?
スウェーデン語?
フィンランド語?
ノルウェー語?
学生時代から不思議に思っていたことを思い出した。
デザインよりも何よりも
私が一番関心を寄せていたのはそんなことだった。
なんだ私、変わってないな…(笑)
言葉遣いに気をつけていたり敏感だったりすると
乱れた日本語が気になるもの。
「ら」抜き言葉であったり
自分の意志を疑問形で伝えたり
自分の気持ちなのに語尾に「かも」をつけたり
イントネーションが逆さまになってしまっていたり。
10年くらい前には、過去形で言う若者たちが
社会的に問題になった。
レストランでの注文時
「こちらでよろしかったですか?」
スーパーのレジにて
「以上でよろしかったですか?」
『よろしかったですか?』って…
私は今、あなたと初めて話しをしているのに。
『よろしかったですか?』は“前”があってこそだ。
「こちらでよろしいでしょうか?」
「以上でよろしいでしょうか?」
って、どうして言えないの?
言われるたびに感じる違和感。
変な日本語…
何でみんな、違和感を感じないんだろう…?
そう思っていたのに。
北海道に来たらそれが普通だった。
「こちらでよろしかったですか?」も
「以上でよろしかったですか?」も。
びっくりした。
ひょえ~~~っ!!
標準語では「間違っている」ものが、ここでは『方言』になってしまうんだ~!!
さらに夫いわく
「電話も過去形で名乗る人が多いよ」
は?
つまり
「△△会社の○○です」ではなく
「△△会社の○○でした!」…と。
ほ…ほんとに??
私それ、ギャグネタとして読んだことあるよ…
トコロ変わればコトバも変わる。
でもまさか、「間違い!」と思ってるものが『方言』としてそこに存在しているとは。
世界って広いね~^^
自分の世界って、狭いね~^^;
乱れた日本語が気になるもの。
「ら」抜き言葉であったり
自分の意志を疑問形で伝えたり
自分の気持ちなのに語尾に「かも」をつけたり
イントネーションが逆さまになってしまっていたり。
10年くらい前には、過去形で言う若者たちが
社会的に問題になった。
レストランでの注文時
「こちらでよろしかったですか?」
スーパーのレジにて
「以上でよろしかったですか?」
『よろしかったですか?』って…
私は今、あなたと初めて話しをしているのに。
『よろしかったですか?』は“前”があってこそだ。
「こちらでよろしいでしょうか?」
「以上でよろしいでしょうか?」
って、どうして言えないの?
言われるたびに感じる違和感。
変な日本語…
何でみんな、違和感を感じないんだろう…?
そう思っていたのに。
北海道に来たらそれが普通だった。
「こちらでよろしかったですか?」も
「以上でよろしかったですか?」も。
びっくりした。
ひょえ~~~っ!!
標準語では「間違っている」ものが、ここでは『方言』になってしまうんだ~!!
さらに夫いわく
「電話も過去形で名乗る人が多いよ」
は?
つまり
「△△会社の○○です」ではなく
「△△会社の○○でした!」…と。
ほ…ほんとに??
私それ、ギャグネタとして読んだことあるよ…
トコロ変わればコトバも変わる。
でもまさか、「間違い!」と思ってるものが『方言』としてそこに存在しているとは。
世界って広いね~^^
自分の世界って、狭いね~^^;
人には喋り方のクセがある。
よく使う単語とか、言い回しとか。
日本人同士でも気づきやすい話し方をする人はいるけれど
日本語を話す海外ゲストの場合、その気づきは顕著になる。
韓国の女子大生Eちゃんはよく「本当に」を使っていた。
「韓国には○○が本当に多い」
「日本は△△が本当に少ない」
こんな感じで。
おそらく日本人だったら、ここで「本当に」は使わない。
「多い」「少ない」だけでも充分だから、そんなに強調語を多様しないし、もし強調したかったとしても、使うのは「すごく」か「とても」だ。
でもそういえば、以前メキシコから来たRくんもよく「本当に」と言っていた。
Eちゃんのように使うこともあれば、
「本当に?!」と使うことも。
自分たちが使わないからこそ、
今の彼らにはその言葉が使いやすいんだな~
と思えておもしろかった。
考えてみれば、彼らが「本当に」を多用してしまう気持ちが
私にはよくわかる。
私も日本語以外を話すときに
そういう強調語彙をよく使っているような気がするから。
例えば英語で言うと、「very」や「so」。
なんとなく…それをつけないと正確に伝わらないような気がして。
「『very』」や『so』」より『really』の方がナチュラルでいいよ」
なんて聞いて以来、そちらを使う頻度が上がったけれど。
(もちろん、シチュエーションによるけどね。)
そして、「そうなんだ~!」「へ~!」「本当!」なんていうときも、やっぱり「really!」を使っている。
英語の『really』は、日本語では『本当に』と訳される場合が多い。
というか、まず、そう学習する。
だからこそなのかな?
彼らが日本語で「本当に」を使うのは。
たまたま辞書に載っている表現
最初に学ぶ表現
というだけのことなのかもしれない。
でもこういうのって、おもしろい。
私も誰かに外側から見てもらったら
「ひろがよく使う言葉」が発見できるんだろうな~^^
よく使う単語とか、言い回しとか。
日本人同士でも気づきやすい話し方をする人はいるけれど
日本語を話す海外ゲストの場合、その気づきは顕著になる。
韓国の女子大生Eちゃんはよく「本当に」を使っていた。
「韓国には○○が本当に多い」
「日本は△△が本当に少ない」
こんな感じで。
おそらく日本人だったら、ここで「本当に」は使わない。
「多い」「少ない」だけでも充分だから、そんなに強調語を多様しないし、もし強調したかったとしても、使うのは「すごく」か「とても」だ。
でもそういえば、以前メキシコから来たRくんもよく「本当に」と言っていた。
Eちゃんのように使うこともあれば、
「本当に?!」と使うことも。
自分たちが使わないからこそ、
今の彼らにはその言葉が使いやすいんだな~
と思えておもしろかった。
考えてみれば、彼らが「本当に」を多用してしまう気持ちが
私にはよくわかる。
私も日本語以外を話すときに
そういう強調語彙をよく使っているような気がするから。
例えば英語で言うと、「very」や「so」。
なんとなく…それをつけないと正確に伝わらないような気がして。
「『very』」や『so』」より『really』の方がナチュラルでいいよ」
なんて聞いて以来、そちらを使う頻度が上がったけれど。
(もちろん、シチュエーションによるけどね。)
そして、「そうなんだ~!」「へ~!」「本当!」なんていうときも、やっぱり「really!」を使っている。
英語の『really』は、日本語では『本当に』と訳される場合が多い。
というか、まず、そう学習する。
だからこそなのかな?
彼らが日本語で「本当に」を使うのは。
たまたま辞書に載っている表現
最初に学ぶ表現
というだけのことなのかもしれない。
でもこういうのって、おもしろい。
私も誰かに外側から見てもらったら
「ひろがよく使う言葉」が発見できるんだろうな~^^
韓国からEちゃんがやってきた。
Eちゃんは日本語学習暦1年。
でもほとんど、会話には困らない。
たった1年で…
韓国や中国で、日本語がどう学習されているのか
私は本当に不思議。
「最初に何を学ぶの?」とたずねれば
必ず彼らは「ひらがな」と言う。
まぁそれは想像の範囲。
私が知りたいのは、その先だ。
でもなかなか、その先の学習法が見えてこない。
漢字を200~300回書いて覚えた!とか
日本語と韓国語は基本的な文法は同じだけど
日本語はあいまいな表現が多いから難しい!とか
そういう話は聞けるのだけれど…
ただ、ひとつ彼女が言ったことで印象的だった言葉がある。
「韓国では日本のドラマやアニメがたくさん流れていますから
日本語はよく耳にします」
そして彼女のような日本語学習者じゃなくても
そのおかげで日本語が堪能な友人が多いらしい。
うーん…これ、以前聞いたスウェーデンやエリトリアの英語環境と似ている。
やっぱり “普段から自然にたくさん耳にすること”
そして “好き” が、まず大切なんだな~。
それにしても“あいまいさ”って、微妙。
日本は『あいまいの文化』だと言われている。
言わんとしていることは、私もわかる。
でも『言語表現』としてみたとき
日本語は本当にあいまいなのかな?
彼女が、どの文法を指して“あいまいさ”を感じたのかはわからない。
だからこれは全然違うかもしれないのだけれど…
日本語を母国語として使っている私たちは
普通に区別して使っている言葉に対して
『あいまいさ』なんて感じていないように思う。
例えば文章構造。
基本的に日本語は『主語~修飾語~述語』。
「私は昨日、公園に行きました」
でも必ずしもこうはならないことだってある。
「私行ったよ、昨日。公園に」
これを私たちは自然に使い分けている。
どちらもアリ。
でもこれによって「日本語の文法はあいまいだ」とは思っていない。
ではこれは、日本語でしか起こらない表現なのか…?
答えは否だ。
こんな表現、他の言語でもいくらでも起こる。
ネイティブの話すナチュラルな言葉は、教科書とは違う。
基本は基本としてあっても、
会話になると教科書のように話すことなんてほとんどない。
ということは
うん…
ルールがあるようでないような感じだからこそ、
あいまいさを感じるのかもしれない。
それをすべて“勉強”して“理解”しようとするのは
それはそれは大変。
まるごと「そういうものだ!」と受け取っちゃって
使っているうちに身についていく…
なんていう方が、やっぱり楽だし自分のコトバになるんだろうな~。
それには溢れんばかりのコトバの環境が必要だけれどね。
そういえばオーストラリアで一人旅をしていたとき
イギリス人夫婦に言われた。
「ひろこと喋ってると、いかに普段自分たちが
崩れた英語を話しているのかがよくわかるよ」
そういうことね。
Eちゃんは日本語学習暦1年。
でもほとんど、会話には困らない。
たった1年で…
韓国や中国で、日本語がどう学習されているのか
私は本当に不思議。
「最初に何を学ぶの?」とたずねれば
必ず彼らは「ひらがな」と言う。
まぁそれは想像の範囲。
私が知りたいのは、その先だ。
でもなかなか、その先の学習法が見えてこない。
漢字を200~300回書いて覚えた!とか
日本語と韓国語は基本的な文法は同じだけど
日本語はあいまいな表現が多いから難しい!とか
そういう話は聞けるのだけれど…
ただ、ひとつ彼女が言ったことで印象的だった言葉がある。
「韓国では日本のドラマやアニメがたくさん流れていますから
日本語はよく耳にします」
そして彼女のような日本語学習者じゃなくても
そのおかげで日本語が堪能な友人が多いらしい。
うーん…これ、以前聞いたスウェーデンやエリトリアの英語環境と似ている。
やっぱり “普段から自然にたくさん耳にすること”
そして “好き” が、まず大切なんだな~。
それにしても“あいまいさ”って、微妙。
日本は『あいまいの文化』だと言われている。
言わんとしていることは、私もわかる。
でも『言語表現』としてみたとき
日本語は本当にあいまいなのかな?
彼女が、どの文法を指して“あいまいさ”を感じたのかはわからない。
だからこれは全然違うかもしれないのだけれど…
日本語を母国語として使っている私たちは
普通に区別して使っている言葉に対して
『あいまいさ』なんて感じていないように思う。
例えば文章構造。
基本的に日本語は『主語~修飾語~述語』。
「私は昨日、公園に行きました」
でも必ずしもこうはならないことだってある。
「私行ったよ、昨日。公園に」
これを私たちは自然に使い分けている。
どちらもアリ。
でもこれによって「日本語の文法はあいまいだ」とは思っていない。
ではこれは、日本語でしか起こらない表現なのか…?
答えは否だ。
こんな表現、他の言語でもいくらでも起こる。
ネイティブの話すナチュラルな言葉は、教科書とは違う。
基本は基本としてあっても、
会話になると教科書のように話すことなんてほとんどない。
ということは
うん…
ルールがあるようでないような感じだからこそ、
あいまいさを感じるのかもしれない。
それをすべて“勉強”して“理解”しようとするのは
それはそれは大変。
まるごと「そういうものだ!」と受け取っちゃって
使っているうちに身についていく…
なんていう方が、やっぱり楽だし自分のコトバになるんだろうな~。
それには溢れんばかりのコトバの環境が必要だけれどね。
そういえばオーストラリアで一人旅をしていたとき
イギリス人夫婦に言われた。
「ひろこと喋ってると、いかに普段自分たちが
崩れた英語を話しているのかがよくわかるよ」
そういうことね。