ことばの魔法 ことばのチカラ~ことば探検家ひろが見つけたコトバと人間 -14ページ目

ことばの魔法 ことばのチカラ~ことば探検家ひろが見つけたコトバと人間

ことばに宿る、不思議なチカラ。
人間の言語習得やコミュニケーション能力の奥深さはまだ解明されていないけれど、とんでもなくおもしろい。
気づいたら私のコトバ探検は本格化されていた。

北海道の人はモノの名前の後に『こ』をつける。

『ぼっこ』とか、『こっこ』とか。

何故だか知らないけれど。
この環境で育った人たちは、その理由を知っているのだろうか?

そして、この『こ』をつけるものに法則があるのか…
今のところ、私はわかっていない。



『ぼっこ』と初めて聞いたとき
やっぱり私は「変なの~!」と思った。
(毎回で申し訳ない…^^;)

「そのぼっこ取って」
「ぼっこ拾ってきた~!」
「アイスのぼっこが…」

こんなフレーズをよく耳にする。
そのうち、私にもわかってきた。


 ふーん…『ぼっこ』って、棒のことか。

 どうも話し言葉で使うみたいだな~…


そんなある時、講師をしていた専門学校の学生たちに
私が東京出身だとバレた。

いやいや…別に隠していたわけではないのだけれど(笑)

そして方言やイントネーションの話から、『ぼっこ』の話になった。

 「私は『ぼっこ』って言わないからさ…」
 「えーーーっ?!じゃあ何て言うんですか?!」
 「え…?『棒』」
 「へ~っ!!変なの~!!」

彼らにとっては、『ぼっこ』より『棒』の方が“変”に聞こえるらしい。
おもしろい!

 「あのね…素朴な疑問なんだけど、文章に書くときは何て書くの?」
 「え…?それは、『棒』」
 「………」
 「……あ」
 「ねv」

どうも彼らは、『ぼっこ』という言葉が使えないと
『棒』というものを表現する単語がなくなってしまうと思っていたらしい。

かわいい!(≧▽≦)


これが“その土地に根ざした言葉”というものなんだな~…


この『こ』をつけるものに法則があるのか…
やっぱり私はわからない。
小さいものとかかわいいものにつけるのかな…?
と思ったけれど、『ぼっこ』って、かわいい…か??
ということで、とりあえず却下。


ついでに…
『こっこ』は卵を指すときに使っていた。

何でかな?
鶏の鳴き声??

でも蟹の卵も『こっこ』なのよね…
じゃあ違うか~。

わからない。

でも、おもしろい!


ということで☆
知っている方がいらしたら、ぜひ教えてください♪
どこまで引っ張るんだ!という声が聞こえてきそう。
今日も『サビオ』から派生したお話(*^-^*)

私は小さい頃、『バンドエイド』のことを『バンドエド』だと思っていた。
だから大きくなって、誰かが言った『バンドエイド』を聞き取れたとき
ものすごい違和感を感じた。


 なんか…

 なんか、文字が増えてる…

 名前が長くなった…


耳から聞いて日常的に使っているコトバが
必ずしも正しいとは限らない。

正しく言えていなくても
正しく発音できていなくても
相手に通じれば、そこで会話は成立する。

ましてや子どもの頃は
「『バンドエド』じゃなくて『バンドエイド』よ!」
なんて直されない。

『エレベーター』 を 『エベレーター』
『トンネル』 を 『とんでる』
と小さな子どもが言っていても、親はほほえましく見守るだけ。

いつの間にか自然に直っていくことを知っているから。
その瞬間しかない、かわいらしい時期を親も楽しみたいと思うから。

直ってしまえばもう二度と、間違っていた頃には戻らない。

私は姪っ子たちの言葉ですら、
いつの間にか正しい日本語になっているのを聞いて残念に思ってしまう。



でもたまに、全然気づかないままいい年齢を迎えてしまうことがある。
そしてある日、真実を知ったときに愕然としてしまったり。

私の例で言えば、プリンセスプリンセスの代表曲『ダイヤモンド』。
あの曲が発売された当時、私は中学生だった。

意識しなくても覚えてしまえるほど、あちこちで耳に入ってくる。
メロディもサビの歌詞も、自然と私の中に溜まっていった。


『ダ・イ・ヤ・モ・ン・ドだね~♪ ああ、い・く・つ・かのば~めん~♪』


もちろん歌えた。
そして私はこの歌詞を聴いて、なんてキレイなコトバだろうと思っていた。

『いくつかのばめん』


 『かのばめる』ってどういう意味かな?

 なんか、キラキラしたイメージ。

 キレイだな~♪


『かのばめる』なんていう言葉、他で聞いたことはなかったけれど。
とにかくキレイだと感じた私は、いつもうっとり聴いていた。


だが数年後。

真実が私を襲う。


『ダ・イ・ヤ・モ・ン・ドだね~♪ ああ、い・く・つ・かの場面~♪』


 ……え…っ?!

 いくつかの“場面”??

 いくつ“かのばめん” じゃなくて?!


ショックだった。

ものすごーーーくショックだった。

 ぜ…全然気づいてなかった…


コトバというものは、何より先に音がある。
音があって、体験が伴って、口から発して自分のものになる。

だから子どものうちは、意味なんてわからないまま
口にしていることが実は多い。

口にしてみて、まわりの反応を体で感じて
使うタイミングや感覚を掴んでいく。

そして意味がわかり
だんだんそのコトバが自分のものになっていく。


“音が先。意味は後”


まったくその通り。

そして私の『タイヤモンド』も、まさにそれだった。


音が先。

意味が後。


ただアレは歌だったから…
自分の日常で体験を通して気づけることではなかった。

だから、私に気づかせてくれたのはテレビ字幕の歌詞だったのだけれど…


『コトバは何より音が先。意味は後』


人がコトバを習得していく上で
それがゆるぎない、間違いのないものであるという確信を
私にもたらしてくれたのは紛れもなく『ダイヤモンド』だ。

多少のショックを伴ったけれど(笑)
昨日登場した『サビオ』と『バンドエイド』。

これらは実は商品名。
なので、正確さを求めるなら『絆創膏』と言う必要がある。


そして『バンドエイド』と同様、言えば通じるけれど
 それって実は商品名なのよ
 その商品以外に使うのは、本当はヨシとされていないのよ
というものは他にもある。


代表格が 『ポストイット』 と 『タッパー』。


これらはそれぞれ 『付箋』 『密閉容器』 と言うのが正解。

普段は気にせず使う人が多いけれど
「違ーう!」と主張する人たちは確かに存在する。

その商品を扱っている会社、およびそこに属している人たちだ。

特にタッパーはよく耳にする。
「『タッパー』って言っていいのは『タッパーウェア』の商品だけよ」
って。

まったくその通りなので、これに関してどうのこうの言うつもりはない。

でももしこんな会話が展開されたら、ちょっとおかしい。


「バンドエイド持ってる?」
「ごめん。救急バンしかないや」

「ポストイットある?」
「他の付箋じゃダメ?」

「タッパーに入れといて」
「他社の密閉容器しかないんだけど…」


こんな会話、あんまり展開されないかもしれないけれど
間違っちゃいない。

というか、正しい。


でも…

これじゃただの嫌なヤツになっちゃうな~…
知らなかった言葉が理解できるようになると
ちょっと得意な気持ちが沸いてくる。

外国語であっても、日本語の方言であっても。

でもおそらく、現地の人にとっては私が何故その時
得意気なのかはサッパリわからないんだろうな。



私は学生時代から10年ほどキャンプのリーダーをしていた。

主な活動は夏に子ども達をキャンプに連れて行くこと。
その団体の職員と一緒に、企画から運営までに携わる。

生きること、人と関わることの根底を
楽しみながら学び身につけた場だったように思う。

まだ北海道に来て1年も経たない頃、
あるご縁をいただき、大学の野外活動の場に関わらせていただいた。

どんなに気をつけていても
野外活動に多少のケガはつきもの。

その日も、ひとりの男の子が私のもとにやってきた。


「すみません!サビオありますか?」


“サビオ”

それは私が、北海道に来てから知ったコトバ。

初めて聞いたときの感想はご多聞に漏れず
「なんじゃそりゃ~?変なの~!!」
だった。

まだ私にその地のコトバを受け入れる器がなかったから。

そして何故かその言葉を聞いたとき、
私の頭の中には大きな魚が浮かんでいた。

サバとトビウオが混ざった感じ?
(意味がわからないけれど…^^;)


でもその頃は、少しずつ器が広がりだしている頃だった。


「サビオ!サビオね!私知ってるよ~!!」


嬉しくなってその男の子の前で興奮をあらわにする私。
キョトンとしている彼。

そんな彼にかまわず、私は続けた。


「知ってるよ!サビオって、絆創膏のことでしょ♪」

「はぁ… ???」


何故そんなに私が嬉しそうなのか、当然彼にはわからない。

当たり前だ。
生粋の道産子なんだもの。

困ったように眉を寄せている彼に、多少落ち着いた私が説明する。


「サビオってね~、北海道でしか言わないよ」

「えええ~~~っ?!そうなんですかっ?!」


もし他でも言っている土地があるのなら、
私が知らないだけなのでごめんなさい。

でもまぁとにかく、彼はとても驚いていた。


「じゃ…じゃあ、何て言うんですかっ?!」


この言葉、実はよく言われる。

北海道の人は比較的、自分達が標準語を話していると思っている。
北海道弁は西日本や東北の方言ように、
明らかにテレビで見聞きする言葉とは違うと認識しやすいものではないから
尚更なのだと思う。

そして生活に根付いた言葉は、
それがその土地でしか使われていないものだなんて気づきようもない。

だから日本全国、みんなが話していると思っていた言葉が実は
自分たちの土地でしか通じないと知ると驚くのだ。


でもそれは、別にそれは北海道に限ったことではない。
もっと言うと、地方に限ったことですらない。

東京も同じだ。

東京は首都だし標準語と呼ばれる言葉を話しているということで、
自分たちが基準になっていると錯覚してしまいがち。

テレビ番組にも東京ローカルがあることとか
東京でしか通じない言い回しがあることなんて
東京人はまったくわかっていない。

…お恥ずかしながら^^;

ちょっと脱線するけれど、テレビが地デジ化される前
日テレを「4チャン」、TBSを「6チャン」、フジテレビを「8チャン」etc...
なんて言っていたけれど、あれは東京近郊でしか通じない。

東京人は、それを知らない。

少なくとも私は知らなかった…。



…というわけで、私は彼に説明した。

「うーん…絆創膏かな。
 東京だとバンドエイドとか言うこともあるけど
 北海道だと言わないのかなぁ?」

「へ~…」

要するに、サビオもバンドエイドと同じ。
絆創膏というカテゴリーに属するもののひとつの商品名というわけだ。

つまり、私が小さい頃に「バンドエイドちょうだい」と言っていたのと
彼が「サビオください」と言ってきたのは、同じこと。

何も、おかしなことではない。

ただ私が、「それ知ってる~!」と大興奮したことによって
彼も新たなことを知るきっかけとなったというお話。



でもだって
知らなかった言葉が理解できるようになったら嬉しいじゃない!

だから多少得意気になっても許してほしいわ♪
一時期、日本の最北端・稚内に住んでいたことがある。

生まれも育ちも東京の私にとって、ある意味あの地は
言葉も文化も違う異国よりもカルチャーショックを受けた場所だった。

街の雰囲気も、人の振舞いも、よそ者の扱い方も
価値観も、行動力も、向上心も。


風の強い稚内は、雪が降れば吹雪となる。

札幌からJRで5時間半。
猛吹雪の中、コートの襟を握りしめて南稚内駅に降り立つ。

私はさながら映画の中にいるように感じた。
戦後の日本。
人々が下を向き、地面ばかりを見ているあの光景。

稚内の人に言わせれば、新宿や池袋などの
そびえ建つビル郡こそが映画の世界。

同じ国内とはいえ日本は広い。

今にして思えば、育った環境の違いだな…と思えるけれど
渦中にいるときはショックとストレスでいっぱいいっぱいだった。

それでも何とかそこで生きようとする。

私は一時期、市内のプールに通っていた。



平日の昼間は、元気なオバサマ方がたくさん。
ひとつのコースで数人が、譲り合って泳ぐ。

ある日、プールの端で立ち止まり休んでいると
ひとりのオバサマが両手で二の腕をさすりながら大きな声で言い出した。

「あー、こわい! あー…こわい、こわい!」

突然怖がりだしたオバサマ。


 え?!

 この人、どうしたの??


ぎょっとしつつ、私の頭の中は「?」でいっぱいになった。

「あ~…こわいわね~。こわくないの?」


 ???


「こわくないの~?若いからいいわね~」

何だかさっぱりわからない。
ここはプールだし、何も怖いことなんてないと思うのだけれど…

そこでハタ、と思った。


 まさか…

 まさか、“また”、近くで殺人事件が??!


実は少し前に殺人事件があり、
そのプールの近くの海に凶器を捨てたということがあったのだ。

警察が捜索していたときも
たまたま私はプールに来ていた…という経緯があった。


 …また?

 いやいや…

 だってそれならニュースになってるはずだし

 こんな小さな町でそんなにしょっちゅう殺人事件なんてないでしょ!?


コワイ発想を必死に否定する私。


 あ、もしかして仲間のオバサマ方と何か話していたのかな?

 でもだとしたら、いきなり話を振られても 私わからないんだけどな~…


いろいろ いろいろ、逡巡する。


 でもそれを若さと、一体何の関係が??


すると何故か突然、


 あっ!!

 もしかして!


閃いた!

 『こわい = 疲れた』 か~~っ!!


何故閃いたのかはわからない。
でもその状況と、オバサマの表情としぐさで何かが繋がった。

その瞬間、体中から力が抜けた。


 なんだぁ~…

一体何に恐れ慄いているんだろうと
真剣に考えていた自分がおかしかった。


 『こわい』が『疲れた』だなんて、知らないよ~!


私にとって『こわい』は『怖い』でしかなかったんだもの。

でも、おかしな表情をして適切な反応を返さない私に
オバサマも焦れていたんだろうな~…^^;

ごめんね、オバサマ。

あれ以来、北海道人の『こわい』は私の中にインプットされた。
自分じゃ使わない(使えない)けどね☆



ちなみに今、私にとってのターニングポイントとなった土地として
稚内には愛と感謝を感じている。

大好きな友人と出会えた場所として。
自立して仕事をするきっかけとなった土地として
人生において大切なものに気づくために赴いた最果ての地として。

ありがとう!
イギリスの北にシュールズベリーという街がある。
ゆったりと緑の広がる酪農地帯。
私の印象だけれど。

イギリスを訪れたとき、そこで1週間ほどファームステイをした。
ファームステイと言っても、ファームが生業のおうちでのホームステイ。
牛舎には一度しか入らなかった!(笑)


ステイ先の家族は30代後半の若いご夫妻と3人の子ども達。
当時の私は25歳。
確かホストマザーは37歳で、一番上の女の子が13歳。
私はちょうど、彼女達の年齢のど真ん中だった。

イギリスの北ということで、彼女たちの英語にはスコットランド訛りがある。
ただでさえ英語にはまったく慣れていなかった私。
その前に滞在していたロンドンで耳にしていたものとは
また違った英語に少々戸惑った。

ホストマザーの言っている内容が理解できないとき
おもしろかったのは、たびたび長女が通訳してくれたことだった。


 同じ英語を話してるのに、何で彼女の通訳でわかるの?


私は首を傾げた。
共に過ごしている時間の違い…と言うには無理がある。

2人とも、同じ家で過ごしていたし、
どちらかといえば私はホストマザーと過ごす時間の方が長かったのだから。

今思えば、かなり英語のつたなかった当時の私には
子どもの使う簡単な英語の方がかえって理解しやすかったのかもしれない。


そんなある日のこと。
困ったことが起こった。

言っても言っても伝わらない!

 どうしてだろう?

 ほんの一語なのに。

 単語、間違っていないはずなのになぁ…


よくわからないながらも、発音を変えてみたり(自己流だけど)
声の高低を変えてみたり、何とか伝えようとする私。

するとしばらくして、彼女の表情がハッと変わった。


「Oh!『early』!」


 そう! 『early』 よ!

 さっきからそう言ってるじゃないの!


そう。
私は何度も何度も、『early』と言っていた…つもりだった。

でもおそらく、私はこう言っていたのだ。


 『アーリー』


きっとその音は、決して『early』ではなかったのだ。
英語圏の人にとっては。

確かに、彼女の言う『early』と私の『アーリー』は違っていた。


 やだ… 全然違うんだ…


そして彼女は、何度も 『early』 とくり返し
私は何度も練習させられた。

そう、“させられた”。
それは非常に……苦痛なひとときだった。


もちろん、彼女は親切心。
“こう言わないと通じないよ”と伝えてくれているのはわかっている。
事実、彼女には全然通じなかったわけだから。

でも当時の私の中には、そこになくてもいい羞恥心が存在していた。


日本人は、英語アレルギーの人が多い。

ネイティブの英語は、ネイティブが話すもの。
日本人はいくらそれっぽく言えても、カタカナ英語の延長。
そんな感じで、当時は日本人がネイティブとまったく同じ発音で英語を口にしたら
まわりはおかしな反応をするイメージの方が強かった。

もしかしたら、今もそうかな?

テレビのバラエティ番組で、キレイな英語を話す人がいると
必ずツッコミを入れておちゃらけようとする司会者、多いものね。


だからなのか、無意識に私も
英語らしい英語を口にすることに恥ずかしさを感じていた。

そんな不要な羞恥心のせいで、なかなか『early』と言えない。

それでも根気強く続けてくれる彼女。
やめられない私(笑)

そしてある瞬間、私の口からあの音が出た!
『early』が!!


「YES!!」


その瞬間、彼女の表情が輝いた。


「『early』」 → 「YES!!」

ほんの一瞬の出来事。

でもそのたったひとことが、私の中にあった羞恥心の殻を破ったように思う。

その後、私の中でネイティブの話す英語は
“ネイティブのもの”ではなく
“私も話せるようになりたいもの”になった。


少し考えればわかることだ。

海外の人の話す日本語が、まるで日本人のようにナチュラルなものだったら…
日本人の私たちは、感動したり感嘆したり。
「すごーい!」とは思っても、「変!」なんて決して思わない。

私に起こったのは、その逆のこと。


英語を話すのは、まわりにいる日本人に対してではない。
日本語より英語での方がコミュニケーションがとれる相手に対してだ。

まわりにいる日本人に対しての羞恥心なんて
そこにはまったく必要ない。

まったく…
誰の目を気にしていたのか…

人の目なんて、たいていの場合、自分が創った妄想に過ぎない。
勝手に恥ずかしくなって、勝手に殻を作るのは自分。


ああ、バカみたい。

気づいてよかった。
韓国語の番組を眺めているといつも、つまらなくなる。

韓国語が、ではなく、勉強の仕方が。
実につまらなくさせてくれる。

学んだことにある方ならご存知の通り
韓国語には『パッチム』というものがある。

ウィキペディアによるとパッチム(받침、patchim)とは、
『ハングルにおいて〈子音+母音+子音〉などで構成される音節(閉音節)で
 最後の音をあらわす子音』


 …何ソレ?!


この時点で「もう無理っ!」と投げ出したくなる人がいても不思議じゃない。
事実、「パッチムで挫折しました~」という声は結構聞く。

なのにパッチムって、実はけっこう初めの方で学ぶのよね。


ハングル文字は基本的に母音と子音の組み合わせ。
でもいくつかは(…“いくつか”と言うには多いような気がするけれど^^;)
子音+母音+子音の組み合わせになる。

このパッチムがあるかないかで、次の言葉への繋がり方が変わってくる。


…のだけれど。


私はいつも不思議になる。

だってこれ、つまりは 『スペルを知ってるのが大前提』 っていうことでしょ?
それって本来は、かなり上のレベルの話じゃない?


『単語を覚えました
 → 文字を覚えて書けるようになりました
 → 最後の文字にパッチムはありますか?
 → あるならこう、ないならこういう風に変化します
 → 後ろの言葉と繋げて言ってみましょう
 → 文章がひとつ完成です』

これではいつまで経っても、韓国語は話せるようにならない。

韓国語で論文を書きたいとか通訳さんになりたいとか
そこまでではなくても韓国語の本を読みたいとか
そういう人なら、それはそれで必要なんだろうなと思う。

でも、ちょっと話してみたい、
韓国の人と少しでも韓国語で話せたら楽しいだろうな♪
というくらいの気持ちで韓国語に触れ始める人の入口がこれってどうなんだろう?


たくさんの音(韓国語)が自分のカラダに溜まった上で文字にしていく…
つまり、日本語と同じように 聞く→話す→読む→書く の順番で入れたら
もっと楽でしょうに。

私たち日本人が、日本語の動詞やら形容詞やらの活用を
使いこなしている上で学び、分解していくように。

「でもそれじゃあ勉強のしようがないじゃない!」 と思うのかな?

まぁ確かにね。
“勉強”したいならそうよね。


でも例えば、韓流ドラマが大好きで
見ているうちに何だか韓国語がわかるようになってしまった人がいる。

彼女達が、その上で韓国語を学ぶことにしたらどうだろう?

最初に音がある。
聞き取れている。

そして真似しているうちにけっこう話せちゃったりもする。

その上で“勉強”してみようと思ってとりかかるのは、
小学校で国語を学び始めるのと似ている。


『正しい韓国語』にのみこだわるのなら、パッチムはきっと欠かせない。
でも、『多少間違っていてもいいから話したい』のなら、パッチムは後でもいい。

少なくとも私だったら、日本語で「おもしろいでした」と言う韓国人がいても
「間違ってるからダメ!」とは思わない。
 (※ これについては一昨日の記事『おもしろいでした!』 を見てね♪)


な~んか、順番が逆。

だから語学で挫折する人が多いと思うんだけどな。

かく言う私も、そのパターンで学ぶのなら
早々に挫折する自信がある。

…残念ながら(笑)
私は『多言語を自然習得しよう♪』という活動を楽しんでいるので
基本的に語学の“勉強”はしていない。

でもことばに興味がある以上、いろいろなことが知りたくなる。

そこでたまにぼんやり眺めてつまみ食っているのが語学番組。

「覚えるぞ~!」とか
「構文を理解するぞ!」とか
そんな気合いはまったくなく…^^;
「○○法という文法表現で…」なんていう説明もスルー。

だって私の場合、
文法表現の名前を覚えても話せるようにはならないんだもの。



例えば英語の授業に出てくる『仮定法過去』。
覚えてますか?

そんな表現もあったな~…なんて思い浮かぶ方はスバラシイ!

私は一時期オーストラリアの語学学校に通っていたときに
その言葉を口にした日本人の女の子に衝撃を受けた。


 何それ??


その時やっていたのは
「If I (現在形)~, I will ~」 と 「If I (過去形)~, I would ~」の違い。

 「If I (現在形)~, I will ~」 だと、可能性のある未来。
 例えば 「明日もし晴れたら、私は公園に行きます」

 「If I (過去形)~, I would ~」 だと、ありえないこと。
 例えば 「もし私がイタリア人だったら、毎日パスタを食べるのに!」

私は語学学校でこれを対比的に学び、「へ~!」と感心した。

 こりゃおもしろい。

 初めて知った~!!

でも実は、どうやら初めてではなかった。
高校の頃に学んでいたらしい。

思い返してみれば、そんな言葉もあったような…なかったような…
そんな私を横目に、その言葉をさらりと口にした彼女にびっくり。

私は人生で初めて聞いたと思っていたのに。
しかもそんなものに構文名があるなんて、考えてもみなかったというのに。


この仮定法現在と仮定法過去の違いがおもしろくて
私はワクワクしながらホストマザーに話した。

「If I ~ の後が現在形だと I will ~ ってなって可能性のある未来で
 If I ~ の後が過去形だと I would ~ で可能性がない未来でしょ?」

すると彼女は眉を寄せ、ひとこと

「わからない」


 え?

 わからないの??


びっくりした。


 ネイティブなのに、わからないの~~~?!


でもその後、すぐに思い返した。


 ネイティブだから、わからないんだ!!


だって彼女達は、そんなこといちいち考えて話していない。
私たちが文法的なことを考えながら日本語を話していないように。

例えばこう。

「『時間』は名詞だから、形容詞『楽しい』の活用は『楽しい』のままで『楽しい時間』。
 でも『過ごす』は動詞だから『楽しい』の『い』は『く』に変化して『楽しく過ごす』になる。
 だから 『私は楽しい時間を過ごしました』 か 『私は楽しく過ごしました』 って言うんだ!」

こんなこと、いちいち考えていない。
ちなみにこれに構文名がついているのかどうかは知らないけれど
名前がついていないとも言い切れないのが言語学。

そう考えると、何ともオソロシイ…。



ただでさえ、長年問題になっている“語学の勉強”は
人間が赤ちゃんの頃から自然に習得する母国語とは真逆の学び方をする。

その上、構文の名前そのものまで難しい。

本来はカンタンなはずのものが難しくなっている。
そんな気がする。



ちなみに私のホストマザーは南アフリカ出身。
南アフリカも英語圏なので、彼女も英語ネイティブだ。

そんな彼女が私に言った。


「ひろと暮らしはじめてから、私の英語がすごく上達した!(笑)」


今、私はいろいろな国からのゲストを受け入れ触れ合うことで
彼らの言葉だけではなく、日本語を見返す機会をたくさん得ている。

彼女の言っていたあの言葉。

10年経って、私は今、実感している。
海外の人と話すから気づかされる日本語がある。
なるほどな~…とよく思うのが、とある過去形の言い回し。

我家にホームステイに来てくれた人との別れ際
彼らがよく口にするのがこの言葉。


「おもしろいでした!」


ここで「なるほど!」と気づかされることは2つある。



ひとつめは、過去形の使い方。

おそらく彼らは『~た』が日本語の過去形の基本だと学ぶのだろう。
それは間違いではない。

でもこの『おもしろい』に関しては『おもしろいでした』とは言わない。
『おもしろかったです』が、日本語としてはナチュラルだ。

そこで考えてみた。

何が違うのだろう…?

見えてきたのはまず、過去形で言いたい言葉の品詞が何かということだ。
つまり、動詞なのか形容詞なのか、ということ。

例えば動詞なら
 食べる → 食べた 食べました
 寝る → 寝た 寝ました
 歩く → 歩いた 歩きました
 行く → 行った 行きました
 言う → 言った 言いました

それに対して形容詞は
 おもしろい → おもしろかった おもしろかったです
 楽しい → 楽しかった 楽しかったです
 大きい → 大きかった 大きかったです
 悲しい → 悲しかった 悲しかったです
 きれい → きれいだった きれいでした

あれ?
形容詞の中にも『~た』で終わっている言葉がある?

あ、違うか。
『きれい』は、文法的にわければ『きれいな』という形容動詞だ。

これ、考えてみれば私たちは学生時代にやっている。
国語の、文法の時間に。

でもそんなこと、日本人は意識していない。

そもそも学生時代が終わってしまえば
「形容詞って何?」「形容動詞って何?」と言い出す人が多いし。

しかも私たちは、学ぶとき、すでに答えを知っている。

「おもしろい」は「おもしろかった」にしかならないし、
「きれい」は「きれいだった」にしかならない。

その、もともと持っている言語感覚に対して
『文法的にわけると…』と、活用などを後づけで学ぶわけだ。

だから間違いようがないし、どうしてそうなるのかもわからない。

「おもしろい」は形容詞だし、「きれい」は形容動詞。
普段、品詞なんて意識していないけれど、そういうことなわけだ。

 そんなの、私たちが生まれて育ってくる中でずっとそうだった!

という、ただそれだけのこと。

 “こういう風にしかならないもん!”

これがネイティブの感覚。

でも日本語を“勉強”する人にとっては、そうはいかないようだ。

先に品詞ありき。
活用ありき。

やっぱり言葉に関して、ネイティブとは逆を辿っている。

これに関しては、韓国語のパッチムでも同じことが言えると思うので
この話は、また後日ね。



そしてふたつめ。

ホームステイでいろいろ体験して交流して、
とてもいい時間を過ごしてくれる彼ら。

彼らが最後にくれるひとこと。
それが『おもしろいでした』なわけだけれど…

もし、日本人だったら『おもしろかった』という言葉を使うだろうか?

私は使わないんじゃないかな? と思っている。
私だったら『楽しかった』を使うから。

『おもしろかった』は、一瞬の出来事を指したり
何か特定のものごとを示すときの方がよく使う。

「今日のあれ、おもしろかったね」 とか
「あの映画おもしろかったよ」 とか。


共に過ごした時間に対して、
「いい時間を過ごせたわ~!どうもありがとう」
の気持ちを伝えるときに『おもしろかった』を使うと
ニュアンスが若干違ってくる。

もちろん、ステイに来てくれている彼らの日本語がどうのこうの…
ということではなく。

日本人的感覚だとこうだろうな~ ということ。

だからもしかしたら、彼らが母語でならこう言う!という言葉の“訳”が
日本語にすると『おもしろい』になってしまっているのかもしれない。

“こういうときはどう言うかな?” と
自然習得的に日本人を観察して言葉を口にすれば
「楽しかった」が出てくるかもしれない。

でも“辞書”からの言葉だと、こうなるのかも。


これがふたつめの『なるほど』。


『おもしろかった』って、おもしろい!
北海道に来て「?!」と思ったコトバはいろいろあるけれど
今やニンマリしてしまうレベルにまでなったのが『~さる』。

代表例は 『押ささる』

初めて聞いたときの違和感といったら、それはそれは半端なかった!

 「どうして『さ』、いっぱい言ってるの~?!」

 「『さ』が多い!多すぎる!!」

って。

 「押ささっちゃった!」 って、「押しちゃった」 でいいじゃん!!

 『さる』って何??!


最初は、特定の人のおかしな言い方なのかと思った。
でもそのうち、これが北海道弁なのだとわかってきた。

 こういうときにも使うのか~…

なんて思う一方で、イマイチその法則性がわからない。

何で『さ』を連発するのかもやっぱりわからない。


そんなとき、友人夫妻が実に簡潔に、明確に『さる』について教えてくれた。

『~さる』というのは、自分の意志ではなく
アクシデントのように起こってしまったときに使うらしい。

だから北海道人は
「あ!押ささっちゃった!」 とか
「撒かさっちゃった!」 とか言っている。

 なるほど~!!

それを知ったとき、何かがパーーーッと晴れたような気がした。

 コトバに意味が伴うって、こういうことか!

方言というものは、そこで育った人間にとっては
当たり前にそこにあるものだ。

そのコトバを使わない人間に指摘されて(質問されて)
初めてそのコトバの意味を考えるという。

そういうものを説明するのは難しい。

それを明確に簡潔に伝えてくれたあの夫婦はすごかった!



ある年の初め、夫の実家家族と共に食事に行った。
ちなみに夫も東京出身。

宴もたけなわ、最後に記念撮影をしようという話になり
ひとりの女性スタッフにデジカメを渡した。

 みんな集まって~!
 いい? 撮るよ~!

…なんていうところで、彼女が叫んだ。

「あ!押ささっちゃった!押ささっちゃった!!
 ごめんなさい。どうしよう…押ささっちゃった!」

その瞬間。


 ???

 ………。


みんなの頭の中は、一様にこんな感じになった。

「…押ささる…?」

義兄がポツリと呟いた。


そんな中、私と夫だけは
「北海道の方なんだね~」 とのん気に彼女を眺めていた。



そして今
私は叫べるようにまでなった。

「きゃーーーっ! バラ撒かさっちゃったーーーっ!!」


ちなみに、『押ささる』はパソコンで変換されない。

「面倒なんだよね(笑)」と言っていた友人の気持ちが
今日、このブログを書いて初めてわかった。

…っていうか、北海道人は書くときも使ってるのね(笑)