メキシコ人の朝は遅い。
というか、すべてが遅い。
「時間通りにいくことはほとんどない」と、聞いてはいたけれど
ここまでかっ!?という感じ。
でもたまに、きちんと動くこともあるから
ひとことでは言い切れないのが難しいところ。
それにしても、我がステイ先の家族は起きてこなかった。
まぁわかってはいたことなので、私もリビングで絵日記を書いて朝の時間をそれなりに過ごしていた。
「Hola! Buenos días.」
S君が起きてくる。
そういえば彼、挨拶だけはスペイン語だった。
家族が起きてくるとき、大抵私は絵日記の真っ最中。
こんな感じ。

基本的には日本語で書いているけれど、固有名詞や覚えた言葉などはスペイン語で書きたい。
でも私は、辞書も指さしも何も持ってはいなかった。
だから必然的に家族に質問することになるわけだけれど、ここで『訳』に対する戸惑いが発生することになる。
先に言わせていただくと、これは日記に限らず、日常の多くの場面で同じことが起こった。
たとえば私が、相手の言った内容を理解できなかったとき。
たとえば私が、そのスペイン語単語を知らなかったとき。
決まって彼らはその言葉や言い回しに対応する英語か、または知っていれば日本語の単語で説明してくれた。
もちろん彼らは親切心。
時には「うちの息子、よく日本語を知ってるでしょう!」なんてママが嬉しそうに笑っていた。
気持ちはありがたい。
でも残念ながら、これをされるとその一瞬は「へ~…」と思えても、次の瞬間にはその言葉は私の中から抜けていってしまうのだ。
それはさながら単語の暗記のような感覚。
体験を通して、子どものように「ああ!これが○○かぁ!」という感覚には到底及ばないというわけだ。
言葉というものは、感覚的に自分の中に落とし込めたら、一発で自分の中に定着する。
でも「Buenos días=おはよう」のように、表裏一体の二元論的に教えられてしまうと、私の中では「日本語に置き換える」という作業を行わなくてはならなくなる。
これは言葉と向き合う上では非常にシンドイ。
試験勉強のために必死に単語を暗記するのとたいして変わらないのだから。
もし相手が同じ母国語を話す子どもだったら…
たとえば自分の子どもに「○○って何?」と聞かれたらどう答えるだろうか?
おそらく私たちは
言い回しを変えてみたり、
ジェスチャーをしたり、
例を出してみたりと、
あの手この手を使って相手に“そのこと”を伝えようとする。
そこに『訳』は存在しない。
事実、メキシコでもそのように私に対応してくれる人たちはいた。
(というかステイ先の家族以外は、みんなそうだった)
そのように対応された場合。
おもしろいことに、私の理解度やわかったときの喜び、通じた感はグンと跳ね上がる。
ワクワクして顔がにやける。
「なるほどー!!!」と思えるから、強烈な感覚と共にその体験は私の中にストンと落ち、残り続ける。
言葉すら、向こう側から寄ってきてくれるような感覚。
でも訳されてしまうと、その時点で「こっち側と向こう側」という、二元論的対立の関係が生じてしまう。
この時私は、多言語という概念を提唱したある男性が話していたという言葉を思い出していた。
「『apple』の裏は『りんご』じゃないよ。
『apple』は『apple』でしかないし、『りんご』は『りんご』だ」
この言葉は奥が深い。
様々な意味に受け取れるし、ここから読み解けるものもひとつとは限らない。
でも
『訳』の“便利さ”と“恐ろしさ”を体感したとき
私はこの言葉の意味をひとつ、掴んだ気がした。