初対面が苦手だったり、人見知りが激しいくせに、私は妙なところで行動力がある。
手話を学び始めて半年経つか経たないかの頃
地元のろうあ協会主催の1泊旅行があった。
「ああいうのは中級とか上級の人が参加するものよ」
同じクラスの人にそう言われる。
そうなの?
けれど私は何故だか行ってみたいと思い、あまり深く考えずに申し込んだ。
ろう協主催なので、参加しているのは耳の不自由な方や手話サークルの方が多い。
中級や上級クラスの方もいらしたかもしれないけれど、それよりもっと上の…そう、通訳養成クラスの講師の先生とか、そういうレベル。
私なんて、赤ちゃんのようなものだった。
そんな赤子同然の私をみなさんは快く、そしておもしろがって迎え入れてくださった。
「いや~…、よく参加してくれたよね~!」
やっぱり初級クラスの受講生がこういったものに参加するのは珍しいらしい。
そこで私は、それまでの常識がひっくり返る体験をすることになる。
そう、この場で一番コミュニケーションをとることに苦労したのは、目が見えて 耳が聞こえて 話す事もできる私だったのだ。
すごいスピードで展開される手話の会話。
全然読み取れない。
伝えたくても自分の持っている語彙の絶対数が少なすぎる。
遠くから聞こえてきた指示をどういったタイミングで聞こえていない方に伝えたらいいのかわからない。
つい普段と同じように動こうとしてしまい、相手には伝わっていなかったことに気づかされる。
世界がひっくり返り、必死についていった。
社会の中で生きていて、耳が聞こえないのは聞こえるよりも大変とされている。
事実、聞こえないことで不自由な思いをすることだって多々あると思う。
予想できる孤独感と、実際に体験する孤独とは、まったく異なるものだ。
おそらくそれと同じ体験を あのとき私は少しだけさせてもらったのだ。
毎日なんかじゃない。
たった1泊2日だったけれど。
旅行から戻り、次の手話講習会のとき
同じクラスの受講生の前で報告してほしいと頼まれた。
私はもちろん、手話を使って報告する。
え…?
みんなが驚いている。
私も驚いた。
たった1泊2日だったのだけれど。
私の手話は、驚くほど上達していたのだ。
その言葉の環境にどっぷり浸かること。
それが自分の言語能力・コミュニケーション能力を上げていく。
もっと知りたい
もっと話したい
だから必死にくらいついていく
それは英語や韓国語といった外国語だけではなく、手話の世界も同じだった。