『語学スクールの体験レッスン②』のつづき
3度目の体験レッスンは、多言語活動だけだと物足りなくなった頃。
そしてメキシコにホームステイに行く前。
スペイン語はじめ、自分の語学レベルが一体どの程度なのかを知りたかった。
ネイティブに通じるのか
きちんと相手に伝えられるのか
理解できるのか…
だって勉強していない上に、ネイティブと話すチャンスが全然なかったんだもの。
というわけで、この時は英語だけではなく、スペイン語や中国語も体験した。
自分の体験上、言葉の習得は、まずは耳からだと思っている。
私たちが自然に言葉を習得した過程を思えば、聞く→話す→読む→書くという変遷をたどっているから。
聞いて話して、土台ができたとき初めて、私たちは『国語』として日本語を学んだ。
「言葉」としては明確に話せない赤ちゃんが、生まれて初めて言葉に対して使う感覚は『聞く』ことだ。
たくさん聞いて、徐々に不明瞭に『話す』ようになる。
話せるようになった子どもたちは、絵本などを通して「文字」を知る。
そこから『読む』ことが始まる。
そして最後に『書く』ことをしはじめるのだ。
私はこの自然習得の流れが大切だと思っているけれど、だからといって『語学を勉強する』こと自体は反対じゃない。
むしろある程度土台ができたら『学び』は必要だと思っている。
だって私たちも、すべての日本語を自然習得してきたわけではないからね。
親・学校・メディアなど自然に触れる中で育った日本語と、国語という授業を通して学び身につけてきた日本語。
だから日本人だって、人によって日本語レベル・国語レベルは様々だ。
ただゼロからある言語を学ぶ際、言葉を分解したところからスタートすることにはやっぱり私は疑問を感じてしまう。
どんな音とリズムを持つ言葉なのかを知らないのに、「あいうえお」を無理やり覚えるのって、苦痛じゃない?
ネイティブの自然習得の環境とは程遠い。
少なくとも私にはシンドイ。
そのギャップが埋まらない限り、外国語アレルギーは消えないんじゃないかなぁ…なんて思うわけ。
音のベースがあるかどうかで、『言語の勉強』は全然質の違うものになると思うから。
そんなわけで私は『入口は絶対音!』派。
しかも『最初は意味がわからなくても真似する』派。
最初から正確さやあれこれ小難しい文法を正しく理解することを求められると、萎縮するし混乱する。
そして新たな言語に触れるのが嫌になってしまう。
さて。
そんなこんなで数ヶ国語のレッスンを体験した3回目。
自分の中に意味はわからずとも音が溜まっていて真似ができる言語ほど、相手が何を言っているのか理解できている自分がいた。
ただ問題は、その言語を自由に話す環境が自分のまわりにない、ということだ。
『語学スクールの体験レッスン④』につづく