今の世界は、さまざまな願望が強く願わずとも、自然と叶いやすい状況なんですかね。文章を書くことを再び習慣にしたいと思ったら、自然な形で、チャンスが巡ってくるし、東アジア史の研究が念願でしたが、友人から、素晴らしい書籍を紹介いただき、改めて日本史の誕生は、中国朝鮮、もっというと、シルクロードを通じて、中央アジア、ペルシア、トルコ、果てはローマ帝国!の影響を強く受けていることを感じはじめているわけで、結婚もこんな感じで、自然に行けばと思っているわけですが、今のところ、相手はいませんね。笑

文章を書く習慣が確実なものになってきたら、情報配信を積極的に行っていきたいですね。歴史研究、映画演劇研究、もちろん新陰流剣術など、さまざまなジャンルで問題提起をしていくことで、興味を持ってくださる方がいれば、意見交換して、自分の考えをさらに明確にしていくことが大切ですよね。巷はYoutubeなど、ネットによる動画配信が絶好調で、求めれば、意識変容が容易な世の中になっていることを実感しています。本当にテレビ、新聞の終焉が現実のものになってきました。世の中いろいろありますが、心が照るも曇るも己次第だと思います。どうせなら、楽しくいきたいですね。

12月。今年もあと一月。振り返りつつ、残りの1ヶ月を価値あるものにしたい。春先は大学の勉強を頑張り、ようやく教育実習ができるところまでこぎつけました。レポート、テストを終わらせるのに必死でしたが、政治学との出会いは僕にとって価値があるものでした。昨年からテレビはほとんど見なくなり、Youtubeで情報をとるようになりましたが、世界の各国との間で繰り広げられる政治の表裏を洞察することは、兵法を学ぶことにつながると感じます。残すは、法学、社会学、心理学、授業研究。少なくとも2科目のレポートは終わらせて、今年を締めたい。


講師業は、夏にかけて、オンラインで、文学部志望の生徒に推薦入試の指導を担当、本当に貴重な体験をしました。オンラインの授業は、回線状況により、コミュニケーションがとりづらいこともありましたが、それだけに、生徒の思いを想像しようという気持ちも高まりました。生徒にアドバイスをするために、心理学、文学、美術など、大学の図書館から、資料を取り寄せながら研究し、学生気分を満喫する機会となりました。満足な指導ができないこともありましたが、生徒の笑顔に本当に勇気づけられました、来年もできれば、指導の機会を得たいですね。

ライフワークである新陰流剣術は、秋に新たな仲間を迎え、大きな刺激を受けているところです。自分もまだまだ未熟ではありますが、そろそろ、教えるという立場に身を置かなくてはと思っています。そのためには。伝書の解釈、指導法の模索、刀の研究など、できるだけ剣術について考える時間を作ることが大切となります。欲張らずですが、今年中に何か一つでも具体的に形にして、来年の飛躍につなげたいですね。来年は新陰流の和を大きく広げることに貢献します。


その他、ここには書きませんが、来年以降につながりそうな経験を得ることができ、まさに、「爪を磨く」一年となりました。来年は大飛躍の年にします。もうそう言い切ります。それくらいの強い意志が必要です。来年と言わず、今日から俺は!って、どっかで聞いた言葉 笑

来年のことを考えるのは早すぎるかもしれないが、なんといっても、来年5月に、教育実習という大きなイベントを迎えるため、今からさまざまな準備をすることに迫られている。授業設計の方法を学ぶ、グループワークについて学ぶ、経済や政治、地理など、社会科に関連する知識について学ぶ、および、学んだことを、仕事の中で、実践していくことも日々意識しなくてはならない。兎にも角にも、この半年は、非常に大切な時期であるが、大きな成長の機会にもなるだろうから、ワクワクもしている今日この頃である。

教育についてがっつり学ぶ、この数年の体験は、新陰流や演劇を伝えていく上でも、大きく貢献するであろうと考える。新陰流については、まだ見えないが、演劇については、授業の中でも、俳優のトレーニングや、スキル、役作りのメソッドが、教育効果を大きく高めることがわかってきた。今は「教育方法としてのドラマ」という書籍を読みながら、研究を進めているが、いずれは、自分独自のメソッドを作って、事業化したいと考えている。

来年、40代も半ばを迎える、これから、50代にかけて、一表現者だけでなく、教育者、演出家、作家、そして、事業家として、マルチに働いていくことになるのかな。これ一つだけというのが、カッコいいと思ってはいるが、人生を生きていくなかで、さまざまな立場で働くことは、人としての厚みを作る上でよいことだと思う。肩書はどうでもよい。世のため、人のために役立ちたいと思う。

今日は、この後、仕事もあるが、久しぶりに心がゆったりしている。教職過程も、来年、教育実習を迎えることとなり、3年前の入学当時の行き詰まりが、ウソみたいに急ピッチで進んでいる。今週は、予定通り、大学の経済学レポート、政治学の在宅試験も片付け、ホッとしている。
ふと、本棚を読むと、読みたい本がたまっている。立原正秋という稀有な才能と出会ったことがきっかけで、平安時代の女流文学や和歌に興味が出たのが3年前。蜻蛉日記、更級日記、紫式部日記など読んできたが、今年は、大学のレポートを毎月書き続けていたせいか、とまっている。本棚にある建礼門院右京大夫集からまだ読み進めていこうか。
立原に影響を与えた川端も気になっている。美しさと哀しみと。どこでみたんだか忘れたが、美しい題名と、設定の斬新さに惹かれる。中公文庫でフランス語版が出ているが、日本語はないか。
石川雷蔵の文芸作品。歌行燈、婦系図、ぼんち、炎上と立て続けに視聴。原作である小説と映画の差異について考えるというテーマ。泉鏡花の歌行燈からやっていこうと思い、先日再読したが、文語体のせいもあり、やや難解。ただ、朗読してみると、独特の言い回しが、とても気持ちが良い。音読することから何か開けてくるかもしれない。
昨年、現在の騒ぎの間隙をぬって、ひさびさに旅に出た。金はほどほどだが、時間は有り余るほどあるので、各駅停車の電車に揺られながら、窓に映る景色を見ながら、ちょっぴり?酒を飲みつつ、浸る旅、なによりもぜいたくに思える。木曽川の流れはとりわけ美しかった。
泉鏡花の歌行灯も、能役者の旅の話から始まり、東海道中膝栗毛を気取った2人が冗談めかした話をし始めるところから始まる。私は、正直江戸文学は、近松と秋成をかじった程度で、あまりよくはわからないが、泉鏡花の作品の中に出てくる登場人物から、江戸の「粋」を感じ取ろうとしながら読んだ。背中が張っている様子を「身を皮も石になって固まりそうな」とか、この現代なら冗長的とも取られそうな言い回しでたとえるのも相手をクスッとさせようとする話術の一工夫。ちょっとした人とのやりとりを大切にしようとする心配り。いいねえ。
映画は、市川雷蔵と山本富士子の二大キャストで、衣笠貞之助という監督が作った作品があるのを知り、DVDを購入して視聴。こちらは喜多八とお袖の、仕舞を通じた師弟関係がやがて恋に転じる点をクローズアップしており、少し小説とは視点がずれた気がしたが、雷蔵好きとして、純粋に楽しめた。神社の森で稽古するシーンは、さすが大映!やりすぎとも思えるぐらいの、映像美。ラストシーン、雷蔵のなんとも艶かしい表情。雷蔵といえば、眠狂四郎、机龍之介などの殺し屋者のイメージが強いが、源氏物語、三島の金閣寺など、文学作品を原作とした作品も多く出演しており、今後追っていきたい。

春だ。そんな風流なタチではないが、いやでも桜が目にちらつく季節となった。桜は散っているところが好きだねえ。

だからと言うわけではないが、小津安二郎の「早春」を見直した。既婚の男が美貌の女性に浮気してしまう話。池部良、な、何で足が長いんだ。ジェームスディーンかと思ったぞ。岸惠子きれいですなあ。淡島千景、妙に色っぽい。この映画だけでいえば、淡島千景の方がいいな。ま、どうでもいいのだが、この映画、大勢で歌うシーンがやけに多い。小津映画の他の作品でもそうだが、同期会とか、仲間うちで、友情を確かめ合うような歌、昔の思い出にひたる歌、別れを惜しむ歌、場を盛り上げる歌、この映画は1956年の映画だが

昔の人はよく歌ったんだな、と思う。このご時世では、なかなか難しいのだが、日本じゃ古代から歌垣っていって、男女でわいわい歌ったんだな。歌垣文化の復活を密かに期している。それにしても、圧巻は、三井弘次と、加東大介の酔っ払いコンビ。もはやほんとうに飲んでるとしか思えないほどの乱れっぷり。池部良を見事にかき回す。2人ともほんとに好きな役者です。今後もなつかしき昭和映画についておりを見て書いていきたい。

最近、太極拳のまねごとみたいな身体の動きを、トレーニングに多く取り入れている。新陰流の方の動きを何も手にもたずにやってみたり、舞や、カンフーっぽい意識で動いてみたり、意識で動きもいろいろ変わる気がして、面白い。カンフーといえば、ジャッキーチェンは昔から好きだった。蛇拳の動きとか取り入れてみたい。まあとりあえずは適当にやる。なにより、家より外でやるのは気持ち良い。全身で動いている感じは家でやるよりもつかみやすいかもね。

子どもの前でやったら、何やってんの?って言われたから、空気押してるって答えといた 笑
少しずつだが、武術も創造の道に入れるといいな。

本当に久々にブログを書く気になった。振り返ると、2017年の舞踏公演が終わって以来である。舞踏からは離れ、本格的に、新陰流剣術を追究しはじめて、3年の月日が過ぎていった。その間、個人的にもいろいろなことがあったが、昨年は、世の中が大きく変わってしまう姿を目の当たりにし、新時代が開いていくことを実感している。数年前より、よき安息の地を得たことで、剣術をはじめ、文学、演劇、歴史、映画、音楽など、誰に請われるまでもなく、自分なりの探求を生涯続け、そのうちに良き伴侶を得て、たまに、仲間も交えて、旨いものをつまみつつ、酒を嗜み、いつか死を迎えれば良いと思っているし、今でもその思いに変わりはないが、一方で、ささやかではあるけれど、自分が学んできたことを、志ある後進の人たちに伝えることも、また道と思う。新陰流については、まだ道半ばにあるが、必ず会得して、弘流する立場に立ち、よき弟子を得たいという思いはかわらず、私の閉ざされた心を開き、魂を導いてくれた演劇や文学を、多くの悩める魂のために役立て、伝えたいと希求する。芸術は世界を救う。と、ブログのサブタイトルに書いたが、肩肘張らず、ものぐさな気質に鞭打って、毎日更新は難しいかもしれないが、また書いていきたいと思う。

日々の個人稽古について。新陰流を初めて、5年になるが、毎日続いている訓練がある。四股である。なぜ剣術に四股が?と思う人もいるかもしれないが、踊りや武術をやっている人ならわかるかもしれないが、下半身の鍛錬こそが、撓(しない)を扱う際の肝だからである。新陰流では、撓(しない)を振るという言葉を厭う。だからあまり素振りという言葉は使わない。振るという言葉はどうしても腕を使った動きが連想されるからである。上半身を全く使わないわけではないが、振るのではなく、撓を一定の位置に「納め」、足裏から伝える力を、下半身、腰、肩、腕を通じて、撓に伝える。撓に限らないが、刀を扱うための稽古は、自分が刀の媒体となることを、身体に叩き込む稽古である。男性はどうしても上半身に頼るので、下半身がどうしてもおろそかになる。私も時間がかかったが、ようやく下半身を使う意識が身体に備わってきたことを感じる。最近、少し、人に教える機会も増えてきたので、個人稽古中に気づいたことをメモしたり、教えるときに気を付けなくてはいけないことを、ノートにまとめたりという機会が少しは増えてきた。生業である講師の仕事でも何度も経験していることだが、教える相手がいると、格段に向上のスピードがあがる。どうすれば理解してもらえるかを考え、工夫もするし、教えている時に自分が言っていること、教えている人の言葉から、逆に気づかされることもある。もちろん、師匠が何をポイントとして、教えているかも見るようにしている。下半身を鍛えることには苦労したし、今も苦労しているのだが、日々少しずつでもいいので、身体系の訓練を継続することだろう。最初はきついものもあるが、だんだん慣れてきて、慣れてきたら、また少し負荷をかける。すぐに成果がでるわけではなく、悶々とすることもあるが、続けていくことで、気づいたときにあれ、俺の動き変わった?と思える瞬間が、やりがいかもしれない。

先週日曜日、舞踏公演が終わり、明けた今週はずっと仕事でした。公演翌日は、放心状態で、正直仕事にならず、蓄積した疲れからか、体調も崩して、どうなることやら、という感じでしたが、後半巻き返し、ようやくつかの間の休息です。だが、しかし、全く眠れず、ブログを書くことに。。。

公演は、5年ぶりで、仲間とワイワイ、とても楽しく、素晴らしい時間が過ごせました。見に来ていただいた方からも、好意的な感想が多かったようです。やっぱり最上先生はすごいな、と。控えからで、本番は見れなかったのですが、ゲネとは一風かわった、かなり激しい踊りをされたようで、あとで映像見るのが楽しみです。
そして、ゲネ、本番前と、押井守監督とご一緒できた、というのは、今思いかえしても、胸がワクワクするという。ミーハーではないつもりなんですが、人とお話しして、緊張するという経験は、久しぶりで、話されることも面白く、やはり並外れた方だな、と思いました。
自分のパフォーマンスといえるものは何もないのですが、お役をとりあえず無事つとめ、ほっとしてます。一方、公演に向けて、さまざまな面でもっとできたかも、とも思いますが、あまりくよくよ後悔しても仕方がないので、先の課題とします。
公演が終わっても、当然なんですが、目立った変化というのはなく、仕事に追われ、最初はこれまで、公演に向かっていた自分はなんだったんだ、という思いにかられました。やはり見返りを求めていたのかとも思います。人からの評価とか、人生における大きな変化とか。まだまだこれからなんでしょうね。
一方、さまざま、人生を変えたい、という思いはあります。まだまだ自分には可能性があると思っています。自分の可能性をもっと試したい思いです。これまでは、できない理由、自分にとって都合の悪いことばかり、目を向けていたけど、そうじゃなくって、もうそういうことすら、突き抜けたい。すぐには変わらないかもしれないけど、長い目で志を貫き通そうというか。芸事にしても、短い時間でも日々取り組むことなんだなと思います。教える、という仕事についても、今後さらに充実させていきたい。もっとがむしゃらに、欲を大いにもって、自ら運命を切り開こうとすることに意識を向ける。

アドレナリンまわりまくって、テンションあがりすぎた文章になったけど、内省的な文章は今は書きたくない。
さあ、ねようか。
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じゃーん。
すっかり放置状態が続いている当ブログ。文章書くのは好きだけど、持ち前のものぐさが更新することを邪魔している。

久しぶりの更新で、いきなり宣伝になってしまいますが、約5年ぶりに、舞台に立つこととなりました。今回は、なんと舞踏公演です。おそらくほとんどの方が馴染みのない分野だと思います。ひらたくいえば、踊りです。我のことながら、まさか人前で踊る日が来るとは夢にも思わなかったです。この舞踏、数十年前は、大野一雄さん、土方巽さんといった大スターがいて、一世を風靡したこともあったようですが、今は風前の灯火といったところでしょうか。ヨーロッパでは、かなり人気があるそうですが、日本発祥とはいえ、現状かなり厳しいようです。

舞踏に関わったのは、冒頭写真にいらっしゃる、最上和子先生をご当人のブログを通じて、知ったことがきっかけでした。今だから言えるのですが、ブログを知ったのも、ものすごい偶然で、黒川能をインターネットで調べようとしたが、その黒川という名前がど忘れて、出てこず、あ、山形だから、最上か、と、唐突に出てきた言葉と、能で検索したところ、ヒット。演劇をしていたころから、身体については、興味がありましたが、最上先生ほど強靭な思想につらぬかれた文章を見たのは初めてでした。祭りや儀式ということに触れられていたことも親和性を感じた理由の一つです。

2014年からご自宅のある野田市まで、月に2.3回のペースで稽古に通い始めて、早もうすぐ4年に。なんやかんやで、劇団に在籍した期間を超えたんですね。劇団をやめて、3年くらいは、舞台に立ちたい、また演劇の世界に戻りたいという衝動が強く、最近もたまに未練を感じることがあります。今回、人前でやるとなると、やはり、本性なのか、血が騒ぎます。ただ、一方で、これは、剣術の影響が強いのかもしれませんが、とにかく日々の稽古が第一で、人に見せるということは、今の現状を確認する機会に過ぎないという気持もあります。そういう冷めたことを言ってると、誰も来なくなる 笑 かもしれませんが、芸の道は果てしなく険しく、簡単に確かな成果が出るものではないと、骨身にしみ類日々です。なぜ続けるのか。わからなくなる時もあるけど、やはり好きだから、何かが先にあるから、としか言いようがない。

長くなってきましたが、もう一言。舞踏は、身体の演劇です。と、偉そうに語れる立場にありませんが、言いかえれば、身体そのものが時にはストーリーを超えた何かを物語る力があるのだと思います。

さあ、出番です^_^
11月5日、蒲田の工場跡でお待ちしています。

芹沢耕太郎拝