本当に久々にブログを書く気になった。振り返ると、2017年の舞踏公演が終わって以来である。舞踏からは離れ、本格的に、新陰流剣術を追究しはじめて、3年の月日が過ぎていった。その間、個人的にもいろいろなことがあったが、昨年は、世の中が大きく変わってしまう姿を目の当たりにし、新時代が開いていくことを実感している。数年前より、よき安息の地を得たことで、剣術をはじめ、文学、演劇、歴史、映画、音楽など、誰に請われるまでもなく、自分なりの探求を生涯続け、そのうちに良き伴侶を得て、たまに、仲間も交えて、旨いものをつまみつつ、酒を嗜み、いつか死を迎えれば良いと思っているし、今でもその思いに変わりはないが、一方で、ささやかではあるけれど、自分が学んできたことを、志ある後進の人たちに伝えることも、また道と思う。新陰流については、まだ道半ばにあるが、必ず会得して、弘流する立場に立ち、よき弟子を得たいという思いはかわらず、私の閉ざされた心を開き、魂を導いてくれた演劇や文学を、多くの悩める魂のために役立て、伝えたいと希求する。芸術は世界を救う。と、ブログのサブタイトルに書いたが、肩肘張らず、ものぐさな気質に鞭打って、毎日更新は難しいかもしれないが、また書いていきたいと思う。

日々の個人稽古について。新陰流を初めて、5年になるが、毎日続いている訓練がある。四股である。なぜ剣術に四股が?と思う人もいるかもしれないが、踊りや武術をやっている人ならわかるかもしれないが、下半身の鍛錬こそが、撓(しない)を扱う際の肝だからである。新陰流では、撓(しない)を振るという言葉を厭う。だからあまり素振りという言葉は使わない。振るという言葉はどうしても腕を使った動きが連想されるからである。上半身を全く使わないわけではないが、振るのではなく、撓を一定の位置に「納め」、足裏から伝える力を、下半身、腰、肩、腕を通じて、撓に伝える。撓に限らないが、刀を扱うための稽古は、自分が刀の媒体となることを、身体に叩き込む稽古である。男性はどうしても上半身に頼るので、下半身がどうしてもおろそかになる。私も時間がかかったが、ようやく下半身を使う意識が身体に備わってきたことを感じる。最近、少し、人に教える機会も増えてきたので、個人稽古中に気づいたことをメモしたり、教えるときに気を付けなくてはいけないことを、ノートにまとめたりという機会が少しは増えてきた。生業である講師の仕事でも何度も経験していることだが、教える相手がいると、格段に向上のスピードがあがる。どうすれば理解してもらえるかを考え、工夫もするし、教えている時に自分が言っていること、教えている人の言葉から、逆に気づかされることもある。もちろん、師匠が何をポイントとして、教えているかも見るようにしている。下半身を鍛えることには苦労したし、今も苦労しているのだが、日々少しずつでもいいので、身体系の訓練を継続することだろう。最初はきついものもあるが、だんだん慣れてきて、慣れてきたら、また少し負荷をかける。すぐに成果がでるわけではなく、悶々とすることもあるが、続けていくことで、気づいたときにあれ、俺の動き変わった?と思える瞬間が、やりがいかもしれない。