昨日は台風とやらが、関東地方の近くを通り、世間は早く帰れ〜!とさまざま騒がしくわめきたおし、携帯も何度となく悲鳴をあげるが、うるせえよ、といきり倒して。新横浜近辺で用事を済ませた後、そのまま横浜駅西口に向かう。

五番街。台風だからまったく人もいないと思いきや、いやいや、台風の中、街に繰り出す人の波がある。サハラ砂漠の熱風に立ち向かう巡礼者と同じように、困難があればあるほど、なせか、ますますあゆむことへの必然性が見えてくるのである。大げさではあったが、いろんな人々をながめているだけで、ただただ楽しい。

ちょっとやさぐれモードでお送りしました(^^)

続きはまた?

移動するという美学、2年ぶりに復活である。最近いただいた社会科の授業で、移動をテーマに授業を展開できることになった。チャンスはどこに眠っているか、わからない。特別努力した気はしないが、これを機に一気に文筆家の道を切り拓く。

人類の移動はアフリカを起点にあゆみをすすめた200万年前から今もとどまることを知らない。人間とはあゆみ続ける存在なのだと思えてならない。交通機関が豊かになった現代においてもそれは変わらないのだ。あゆむなかでさまざまなものを目にして、耳に聞き、味わい、人々と交歓する中で、何かが生み出されつづける。ぼくたちはその豊穣さに魅了されながら生きているのだ。

人類史上の移動について詳しく調べることから始めていく。数万年前にアフリカから全大陸を走破したいわゆるグレートージャーニー、ユーラシア大陸を駆け抜けたフン族、東西をつなげたアレキサンドロス、海の道を駆け巡った鄭和も忘れてはいけない。そしてもちろんモンゴル帝国。

神仏をもとめて、真理をもとめて、そして人のしあわせのためにあゆんでくださった人がいる。空海、玄奘、義浄、イブン・バットウータ、そして。。。

久しぶりに文章を書く。今年は時のめぐりがいかに早いかを実感しながら過ごしてきた。気がつけばもう9月だ。来年の今ごろになればもう50の年に突入する。

今、何よりもありがたいのが、この年になっても身体の衰えを感じないこと、むしろもっともっとやれる、と思える状況にいられることである。

日常は特別に語ることもない平凡な日々、仕事終わりの酒が至福と思い、時を刻んできたここ数年。

物理的、経済的な限界はきっとあるのだろう。

かといってやさぐれているわけでもない。自分の中に半グレキャラがあることは自覚している。かっこよく言えば、虚無的で退廃的な何か。手に入れたくてもつかみきれずに指からこぼれ落ちる煩悩にとらわれることももうなくなった。叶わぬことにこそ美しさがあるのだと思う。

剣術、新陰流に出会えたことが何よりも大きい。術の向上うんぬんではなく、ぜったいにぶれない不動の心へと導いてくれている。むろん人生そんなにあまくないだろうし、揺り動かされる局面はあるだろう。いや、むしろもっともっと人生を予想外の方向に揺り動かしたい自分も存在する。しかし、それは虚無とか退廃ではない、違う何かだ。

人生は戯曲である。欲求することは目の前から去っていき、思ってもいないことこそ立ち現れる。

ただ、ただ、道を征く。もっともっとよき道へと導かれよ。



人待ちで少し時間があったので、物思いする。季節がわり。花粉が舞う。とにかく眠い。

眠さと闘い、なんとか忙しい今週を乗り切って、ほっとしているせいか、ぼぅーとしていたい衝動が振り切れない。年のせいか。

その割には朝はゆっくりしようと思いながら、なぜか大方の予想を超えて、6時に目が覚めてしまう。

年のせいか。

せっかくだから、ということで、洗濯、アイロン、書類の整理整頓、筋トレ、ストレッチをこなす。

年甲斐もなく、よく身体は動くのは両親に感謝。


今年もありがたいことに仕事がガツガツ増えているだけでなく、学力の高い生徒を多く受け持つことになった。英語、国語、そして自分が専門とする社会科社会科。全てにおいてレベルアップを図らなくてはと思う。


3月は夕方以降、少しは時間が取れそうだ。自分のライフワークも含め、向上への努力を進めるいい時期だ。眠いけど。

少し暇になった気がするので、例によって、物思いしてみたいと思う。この際「物思いシリーズ」を作ってしまうか。


今年になって、生徒の論文作成や面接対策の指導をする機会が多い。

毎回毎回、生徒の考えとか思いを対話しながら引き出して、適切と思われるテキストを提案することに悪戦苦闘している。


現代は幸いなことに、インターネットを使えば、いくらでも情報は引き出せる。情報と、一定の思考する力さえあれば、言葉はいくらでも生み出せる、と思っていた私はあまりにも甘すぎたのか。


生徒たちは、情報を目の前にしても、なかなか自分の言葉で表現するのが難しいようである。

むしろ悩みが深まるのか。


生徒にはとにかく表現してみろ、と言いたい。


ちなみに論文テーマはAI創薬、ハプスブルク家、台湾鄭氏、陰陽道、心理学と多岐にわたるが、ある意味、今までの努力や経験が生かされるいい機会だ。


またの機会に。

元旦、2日と深夜1時に目が覚める。元日は前日の食べ過ぎの影響。今夜は用意していた鍋料理をつまみに酒を嗜みつつ。20時過ぎに寝た。

昨年から夜9時前後に食事をすると、深夜目が覚めてしまい、そのまま眠れなくなり、朝を迎える日が何度かあった。おそらく消化が追いつかないらしく、胃腸に残食感があることで起きてしまうようだ。以前から夜食はなるべく避けてきたが、如実に身体に出てきたのは老化の一現象かもしれないが、いい変化だと思う。夕食はかならずしもとる必要がないのだろう。

酒も、いまだに深酒する時はするが、昨日もそうだが、これでよし!とすぱっと切れる日が出てきた。

今夜はせっかく起きたので、そのまま昨年からのテーマ、高校地理の勉強をした。気候に変化が起こる要因、現象を理解した上で気候区分を捉えて、植生や土壌との関連性を覚える。

植生や土壌の種類も、気候の特徴から理解していくから、丸暗記じゃないところが楽しい。昨年秋はまったく進まず、焦っていたが、思い切って仕事をセーブして年末から挑んだ結果、共テレベルの問題もポイントを理解しながら解けるようになってきた。

今年で40代も最後の年となるが、まだまだ成長できる余地があると感じている。若い頃と違って、構想していることを着実に進めている自分がいる。あゆみは遅けれど、やり続ければかならずどこかに辿り着く。そんな人生の醍醐味を満喫したい。

年明けまであと1月。12月は師走という言葉もある通り、一気に疾走するように過ぎていく。

この年末で、来年への新たな、確かな足掛かりを作っていきたい思いで、珍しく少し焦っているかもしれない。

やりたいことがたくさんあって目がくらみそうだが、日々やるべきことを全力でやるだけだ。


日本史の大学受験の過去問を読みこむ時間が今までになく増えた。史料問題では自分が今まで知らなかった知識に出会えてためになる。論述問題もあるトピックで触れておくべき出来事を整理できて、有意義である。

世界史は第一次世界大戦前の英仏協商交渉について、生徒と学んでいる。先日はモロッコ問題について、大学の論文のテキストを題材に授業したが、現在の台湾問題とも通ずるところもあり、地政学的な観点を養う必要性を痛感している。

という中で、今月から本格的に地理を学び、教える機会に恵まれた。来年は世界史と並行して地理を研究する一年になるだろう。世界史といっても現代史を掘り下げながら、地理の知識を付け加えながら、現在の世界の諸問題について考える力を向上させたい。世界を理解するためには諸地域の自然や地形、気象、産業、宗教、あらゆることへの見識が重要である。系統地理を一通り学んだら、特定の地域に絞って調査研究しても面白い気がしている。


先週末、秋の演武会を終えた。抜刀演武と今年から稽古し始めた型を演じた。

まだまだ上があると思うのはいつものことだが、自分の演武を映像で確認したが、もっといける、と欲が出るのは今後の稽古の糧となる。

今年は素晴らしい人材が次々と入塾したため、稽古も充実したものになった。演武会も今までに感じたことのないようないい意味での緊張感があった。

来年にかけて、打太刀と小太刀の稽古に重点を置きたい。特に打太刀は師範より長く期待をかけられているのでもういい加減なんとかしたい。

年を重ねて体力の衰えがあるにせよ、なお年を重ねたゆえの芸の境地を目指して精進したい。


11月に入った。秋なのか?天気を味わっているといっきに冬に突入していきそうな気もする今日この頃。1年の中では珍しくのんびりできる時期なので、ぼーっとしながら今後何しようかと妄想する。


昨日は剣術のちょっとした演武会。初めて公開する型だったが、中身はともかく、完遂できたのはよかった。普段から必要な手順をいかに細かくイメージするか、そしてそのイメージを身体に落とし込むか。稽古時間をもっと確保したいところ。

刀や拵の研究もぼちぼち進める。


読書。あんまり出来てないのだが、世阿弥の伝記を細々と読んでいる。先日は泉鏡花の天守物語を読了。泉鏡花が戯曲書いていたのか、と思って思わず買ったが、新派や歌舞伎の戯曲として有名らしい。まだまだ知らないことたくさんあるのね。

福田恒存の戯曲「龍を撫でる男」を年末までには読みたい。


映画。図書館でソビエト時代の映画の本を読んでいたら、セルゲイ・パラジャーノフという映画監督がいることを知った。ジョージア出身。ウクライナのことも描いている。「ざくろの色」という作品を買ったがまだ見ていない。

イブン・バットゥータもそうだが、名前がすごい人は響くね。


物思いシリーズはまだ続く。

かつてベルクソンの「笑い」という本を読んだことがあるが、いまさらながら、笑いについて思索した哲学者がかなりいたことに驚いている。古代ギリシャの哲学者からカント、ニーチェ、アラン、フロイト、さがせばまだまだいるだろう。

各人、笑いについての評価はさまざまで、それは笑いの機能の多様性に依拠するのだと思う。人々が笑うという行為をすることにはさまざまな理由がある。喜びを表現する、緊張感をほぐす、余裕を見せる、なんらかの感情を隠す。共同体の視点からみれば、笑顔が見せ合うことは安心感、信頼感を作り上げることにつながるが、強制的になるとまたおかしくなる。

とこんなことを考え始めたきっかけは、見事大学の一次選考を突破した生徒の二次選考の課題「大学で勉強したいこと」というテーマ作文を一緒に考えたことからだった。明るい生徒だが、大学行くのにどこかふらふらして、今後心配だが、持ち前の笑顔を大切にして、笑いについて4年間じっくり研究してほしいと切に祈る。