昨夜は新陰流の稽古だった。燕飛六箇之太刀の型の細かいところを師とおさらいした。手順はさすがに10年やっていると忘れないが、拳を高く掲げる教えがあるのに動いている内に下げてしまったり、手の内の効きが甘かったり、余計な動きをしてしまっていたりと、人それぞれさまざまな癖が出てくる。
こんなことを書いても剣術をやっていない人にはちんぷんかんぷんかもしれないが、料理やモノづくりに関わる職人さんならわかってくれるかもしれない。例えばお寿司屋さんが寿司を握る動作もはためには同じ動きをただ繰り返しているように見えるけど、シャリの分量、にぎりの強さ、ネタののせ方など、常に師匠の教えが守れているか自分で自分の動きを見守りながら寿司を握っているのではと寿司に関しては素人ながら想像してしまう。たまにはあ、やっちまったなあ、なんて思いながら客に寿司の皿を差し出すこともあるのかもしれない。
長年やっているとわかるが、身体はわかっているが意識では把握しきれていないことがある。
自分ではやってるつもりになっているが師のようなわかる人からみるとやれていない。流儀の鍛錬で身につけた身体知を常に意識の力で顕在化して実現する。フランスの哲学者、ベルクソンの言葉を借りれば「意識の純粋持続」である。だいぶ前に読んだが、何が書いてあったかはもう忘れた。今読んだらまた違う感銘を受けるだろうか。
師にも周りの塾生にどんどん教えるように諭された。未熟だから、という段階は過ぎた。未熟で上等である。生業が講師業などでよくわかるが教えるということは上達の早道なのである。人に教えるとなるとこれで大丈夫か、と重箱の隅をつつくようにあれこれ考える。教えてみてこれはよかった、あれはちょっと違った、自分で考えてわからない時は師に聞いて納得して成長、このサイクルを繰り返すことで気づいてみたら自分が思ってもいなかったところに達していることかある。
泉鏡花原作、衣笠貞之助監督作品「歌行灯」のラストシーンで桑名の芸者宿で山本富士子演じるお袖と旅の老人2人、実は東京の能の宗家、恩地流の家元と鼓打なのだが、一緒に仕舞を演ずる。その仕舞の前に信欣三演ずる鼓打の老人が「相変わらずの未熟」と発する言葉が見るたびに胸を打つ。流祖流儀の前においては何年何十年、死ぬまでやっても結局は未熟なのだ。自分の未熟さに負けずにどこまで自分の芸を生きている間に高められるのか。思えばこんなに有難い道はないはずである。