すっきりしました。状況はまだ決していいとはいえないだろうが、自分が夢中になって打ちこめられるものがみつかったおかげで、心が安定している。だいたい人生は自分でいいと思えばいいんだ。人が決めるものじゃない。人生において「悩み」は決してネガティブではないと心から言える。僕は「悩み」に対して、常に今まで以上にポジティブに向かえる自信をつけつつあると思う。もっともっと自分の豊かさを発見する。もっと悩まなあかんわ。


悩み1・・・ソーシュルの言語学の概略を理解した後の構成に迷っています。一越えでラカンにいくか、フロイト等の心理学を経由するか、はたまた「言語哲学」の領域にいくか。デリダにはいつたどり着けるのでしょうかw


悩み2・・・昔の日本映画の評論をぶちまけようと思いましたが、一般のお店では映像が見つかりません。たぶん図書館か映画撮影所でも行かないとないのでしょう。閲覧可能かどうかが微妙ですが。


とりあえず、こんな悩みが頭を巡っていますが、ソーシュル、映画監督のエピソードぐらいは今週中に書かないと単なる愚痴にしかならんわいw


トルストイの「復活」を読んでいます。ロシア文学の真髄のほんの端っこが見えた気がしました。人の魂を救済しようとすることが自分の魂の救済にもつながっていく。陰惨な時代背景、悲惨な人間の姿は歴史書を読めば足りるでしょう。主義・思想に仮構された背景にばかり眼がいってしまうと、本質を見失ってしまうことがよくわかりました。その観点からいっても、トルストイの仕事は見事というしかありません。ロシア文学は本当に深いです。

芥川の「戯作三昧」を買った。坂口安吾の「反抗の大阪」を読む中で、「戯作」という言葉に出会った。いや、出会いは初めてではないが、その言葉の意味を私はよくわかっていない事に気づいた。それが購買に至った理由である。いや待て、芥川に触れてみたいという気持ちも強かったことも一応ここで白状しておかなくてはなるまい。内容については、このブログでまた触れると思う。先日「新明解国語辞典」と「類語辞典」を買ったにもかかわらず、なかなか使う習慣までにいたらず、現状、宝の持ち腐れになっている。、インターネットの辞典に頼ってしまう癖がついてしまっているためだろう。インターネットと辞書を、自分の意識の中で定位付けて、使い分けをはっきりさせておくことが必要だと思う次第である。そのためには先ず辞書を使ってみない事には差異がわからないだろう。全神経を使って辞書を使う・・・というには少し大げさだろうか。ただ、紙の辞書の匂いと手触りは昔からなぜか好きなのである。まあ単純な話、家では紙、会社ではインターネットでいいのかもしれないが。

昨日、読売ジャイアンツのことをこのブログでけなしたら、なんと、我が阪神タイガース、手負いの相手に連敗しやがった。生き返らせてどうすんねんwWカップは欧州の国でベスト4が決まりましたね。地の利といってしまったらそれまでなんですけど、最近、欧州かぶれの私としては自分のことのようにうれしいです。注目はフランス。ブラジルに勝ったし、勢いは一番なのではないでしょうか。代表を引退するジダンのためにもチーム一丸となって頑張って欲しいです。


■文芸評論について


文芸評論は、日本では微妙な立場ですね。私もこの年まで「文芸評論家」という文筆業があることを知りませんでした。また、イデオロギーに先験的なアレルギーがあるこの国では、イデオロギー論に走りやすい文芸評論の作品自体が大衆の目にふれることが少ないのかもしれません。


坂口安吾は、評論を読まないと理解できない文芸など、芸術ではないといってます。彼の気持ちはよくわかるんですけど、そこまで完璧なコミュニケーションができるほど、読み手・書き手ともに成熟していないのが日本文芸の課題ではないかと思います。もっといえば読み手のレベルがどこまで向上しようとも、読み手が書き手の思想を完璧に理解することなど、究極不可能です。であればこそ、書き手と読み手の橋渡しをして、読み手の思索を書き手の思想に近づけようとすることが文芸評論の目的として求められると思います。


上記のような考えを得たのも、奥野武夫の「太宰治」を読んだためかもしれません。太宰治については、世間一般では「斜陽」「人間失格」が代表作とされ、その内容があまりにも陰鬱であるため、彼への誤解も多いように思います。本作では、太宰の精神分裂症の面も認めながら、そのような状況に至った彼の人生、時代背景をまじえながら同情的に考察しています。実際、彼の創作活動の中では明るい希望に満ちた作品もたくさんあるのです。イデオロギーについての記述も少ないので、イデオロギーに関する詳しい知識のない方でも読みやすいと思います。ちなみに、奥野は三島由紀夫、伊藤整についても研究している文芸評論家です。


ちなみに個人的には太宰について深く掘り下げることはしたくないというのが今の正直な気持ちですね。どうしても同情的に読んでしまうからです。今回の評論からも、自分と似た性質を発見することがあり、そのことが自分を陰鬱な気分にさせるのです。ただ、作家と向き合うことは、自分が創作する上での思想を成長させていく助けになるので、しばらくは続けていきたいです。

今日はなぜか5時半起床です。少々お疲れモードですが、近所の民家の鉢植えを見て、心が休まっています。さらに、カノンを聴くことで心を動かし、洗濯することで身体を動かし、文章を書くことで頭を動かす。

今年は、昨日で半年が過ぎました。上半期は「休」だったので、残りの下半期は「動」で行きます。


昨日の読売ジャイアンツの負け方は本当にひどかった。うち(阪神タイガース☆)も容赦ないけど、読売の点の取られ方は暴投、エラーがらみなど、およそプロとは思えないものだった。打線も沈黙。10連敗してて黙ってる場合やないだろwたぶん読売系のメディアの圧力で誰も言わないと思うけど、今日の試合でエース上原を投げさせて負けるならいよいよ身売りを考えた方がいいよ。本気でチームを再建するつもりがないなら日本の野球界の損失だからさ。中途半端に他メディアに放映権ばらまいて、せこいビジネスやるなっつうの。最大のライバルチームのファンとして言わせていただいた。

□「言語の可能性」序章 

論理は、あくまで人間の一様体にしか過ぎない。論理で人間が説明できると考えるならばあまりに傲慢だ。
人間には身体がある。感情がある。さらに、人間の意識にさえ立ちのぼらない「宇宙」がある。その宇宙を明示することが哲学の目的のひとつなのかもしれない。「宇宙」を明示するのに、人間は論理的道具である言語の可能性に頼る他ないのは悲しき性である。ただ、言語がなかった場合のことを考えてみれて欲しい。もし、言語がなければ、人間は、論理はおろか、「論理化できない概念」の存在すら気づけなかっただろう。よって、言語の可能性を追うことは、人間存在を明らかにするためにはどうしても必要なのだ。まずは言語学を研究したソシュールについて書きたいと思っている。


☆「日本に在った映画と今」はじめに

いいかげん、忘れられないうちに日本映画の評論を始めますわい。映画にたずさわる「人間」を見つめていくことで「作品」を明らかにしていきたいなんて思っておりますわい。まずは昭和初期から活躍した監督から乱れ撃ちしてみます。成瀬巳喜男、山中豊雄、稲垣浩、伊丹万作など。知らない人多いだろうなw軽いタッチで書くので読みにくかったら言って下さいませ。

「先ず与えよ、されば道は開かれん」という格言の意味をかみ締めています。人や世界に何かを還元するために、何かを与えつづけようと思うのと同時に、毎日自分は何かを与えられていることを自覚し、そのことに感謝をしなくてはいけない。前記の格言は、宗教の教義のようで、抵抗のある方もおそらくいるかもしれません。ただ、この言葉から概念を認知することと、概念を体験知することの差異を考えさせられています。いうまでもなく、その差異とは、経験の有無なのですが、その差異は底なしであります。経験は、概念を意識に立ち上らせます。そして、経験を積み重ねていくことで、その意識はやがて無意識となっていく。しかし、この無意識こそが、人間を硬直化させる怪物であります。人間は、無意識という怪物と何としても向き合う挑戦をし続けなくてはなりません。


東京で今年初めての真夏日だそうです。外にいるだけでとけてしまいそう。なぜか榊原郁恵の「夏のお嬢さま」を思い出します。夜も暑さのあまり寝苦しいです。ここ数日は、眠るまでの時間に相当の時間を要します。クーラーを使いたいところですが、今の時期から頼っていては、夏を乗り越えられる気がしません。クーラーと怪談話を奥の手にして、辛抱の季節を待ちます。


体調もすっかり良くなり、むしろタフになってきました。この1週間はその勢いのままにいろいろなことをとことん片付ける週になりそうです。本も週末を利用して、相当量読まなくては。それにしても、長編小説・哲学書には、どうしても読むのに時間を要してしまうので悩まされます。哲学書は、時間効率を考えると、原典には手がつけられないことを悟ったので、最近は、インターネットの力も借りながら、哲学史や解説書を読むことが多くなりましたが、ただなぞっているだけで意味がないという気分になることもあります。そんな気分をふっきろうと、読書に没頭するのみかもしれません。しかし、ただでさえ読まなくてはいけない本があるのに、ソシュールとラカンの書籍を買ってしまいました・・・こりゃラカンがなw

創作活動に本腰入れます。毎日、ブログはもちろん、詩、評論、エッセイ、何らかの形で表現しつづけること。ある方から小説を書くチャンスも頂いていますが、先ずは日々書くこと、考える事の積み重ねをし続けなければ、本当に小説で書きたい事、書くことの意義はいつまでたっても見出せないだろう。


☆映画鑑賞評 「羅生門」と「視線のエロス」

「羅生門」は、日本の平安期末期(と思われる)のある殺人事件に関わった複数の人間が事件について語っていくストーリー。1人1人語る内容はそれぞれ異なり、自分を守る者、力、美を誇張しようとする者、そんな事実を歪曲しようとする姿から人間の醜くも悲しいエゴが感じられるのである。志村喬演じる男が、羅生門に捨てられている子供を自分の家に連れて帰っていくラストシーンを創ることで、次代の人間にそのエゴとの和解を託そうとするのだが、このことが投げやりで嘘っぽくさせてしまうのは残念。京マチ子の女夜叉を思わせるような妖艶な演技は印象に残りすぎて忘れられない。一方、フランス映画「視線のエロス」は妻子持ちの男と若い女性の不倫関係を通じて、自己のエゴを越えようとする人間の姿が生々しく描かれる。結局お互いに自らのエゴを超えることができず、二人の関係は破綻する。破綻後、残りつづける男性の未練を、手紙というラストシーンにこめる。エゴを描ききろうとした作家の創作姿勢が伝わってきた。男性視点から描かれている点には賛否両論だと思うが、僕は賛成です。なぜならこれも作家のエゴだからね。ただ、男性の鑑賞者は、「見る」ことに執着しすぎて、女性から「見られている」視点を見失うかもしれない。ミュリエルという女性を演じるイザベルカレーの瞳の中に吸い込まれそうになるからですw。鑑賞者にもエゴの存在を感じさせる試みだと思うけど。エゴを見つめ続けるか、突き放すか。ここが差異かな。

今日は朝から部屋の掃除をしております。自分の手に届く範囲を規則正しく、清潔に保つことは、男性といえども必要であります。ましてや「美しいとは何か」ということを追究するのであれば、なおさらのことです。

しかし、残念ながら完璧な美などはありえないとも高をくくっています。自分の裸体をまじまじとみました。昔からコンプレックスを持っているお腹以外は、細くもなく太くもなく、絞まっている体型で、割と気に入ってます。特に二の腕は、好きです。欲を言えば、胸の筋肉をつけて、腹の出っ張りを目立たなくさせればもう少しバランスのいい体になるのですが。

しかし、自分の身体はこのように毎日見ようと思えば見ることができるのですが、自分の内面はなかなか見えないものです。それでも自分を見たいと思えば見ることができる身体を見るしかありません。見返してみると、顔が少し痩せたようです。友人と電話で話をしました。昔から俺の事を良く見ていてくれている親友です。彼と話すことで今まで自分では気づかなかった自分に気づけた気がしています。そして、少しだけ自分の内面がわかった気がしています。自分だけでは自分を知ることができない。これが人生の皮肉である気がします。「無意識」について考えています。無意識である以上、頭では考えられない概念であるのかもしれません。先が見えてくるか否や。今日はDNAについての本を読みます。

昼・・・


昨日通読した板坂元の「考える技術・書く技術」は僕にとっては掘り出し物でした。昼の休憩時間を使って読み直しています。要は、よい文章を書くためには思考、読書、取材を通して、普段から頭のトレーニングを常々行っておくこと。これを行わずして、表現技法ばかり身につけても、何の説得力のない空虚な文章にしかならないということがよくわかりました。ちなみに具体的なトレーニング法や読書法もいくつか紹介されています。中でも印象に残ったのが三角測量法というトレーニングで、自分から離れたものに視点を設けることで、自分の考えや位置を修正するというものです。見えるようでなかなか見えない自分を見ようとする努力。それなくして他者などわかりようがない。この本を読んだあと、「文章読本」を読み直しましたが、これを読んでも小説は書けないと思い直しました。まさにタイトル通りの「読本」で、読み物としては面白いかもしれませんが、莫大な量の読むべき本を目の前にしては、当分読まなくてもいいかもしれません。


夜・・


会社を出る前に、デリダのエルクチュール論に関するネット上の文章 を読みましたが、いまいちピンとこないまま。哲学から小説のことに頭を切り替えるために、本屋で「小説の書き方」という明治書院の本を1時間ほど読んでました。小説の書き方というより心構えといったところです。繰り返し心構えの足らなさを認識し、戯曲「かもめ」も購入して、店を後にしました。思いつきで、新宿駅構内にある「Berk」というカフェで軽食。ここには「早稲田文学」と女子美のパンフが置いてあるため、たびたび訪れます。「早稲田文学」から、フロイトに関する文章を発見。「抽象的思考言語ができあがってはじめて、言語表象の感覚的残滓は内的事象と結びつくようになり・・・」という文章から、フロイトが指摘したことが理解。少年の凶悪殺人事件もこれで説明がつく気が一瞬しました。「殺人」という概念を幼年期から感覚するがゆえに、内的事象として知覚される時間が早まる。しかし、今考えると、概念化→外面化の過程については説明できない気がしています。


それにしても夜になったというのに、暑苦しさはおさまりません。今年はなんでも400年間で一番暑いとか。シャワーでも浴びて、見終わっていない映画でも見ながら寝ることにします。