心地好し。何が?ってうち(虎さん)の守護神、藤川球児投手である。本日もジャイアンツの中軸を相手に、3つのアウトは全部三振。しかも三振を取った打席は全てストレート。彼の登板までは、家の仕事をしながら、なんとなく野球を見ていたが、さすがに釘付けにならざるをえない。私も野球はかれこれ20年以上見ているが、あれほどストレートが切れるピッチャーを見たことがない。今後も真っ向勝負で頼むわ!!小細工を必要とせずに勝負できる何かを、人生において必ず手にいれたいと、歯も折れよとばかりに食いしばりながら誓うのであった。前歯はだめよ☆それにしてもジャイアンツ、好投していたエースを見殺しか。今年はもう起きてこなそうだな・・・ジョージ(アリアス)帰ってきた!!讀賣にだけどwまた見れるのはうれしいんだけど、その無鉄砲なやり方によって、チームのムードがさらに悪化するリスクに、フロント・首脳陣は気づいているのだろうか。気づいてねえだろうな。悪い時ほどじたばたせん方がいいよ。

■言語学とは-講談社現代新書の「ソシュールと言語学」(町田健著)を読む①

言語学の祖であるソシュールは、話し手と聞き手の間に、コトバが通じる仕組みに着目した。そして、コトバという「音声」から概念という「意味」に変換されるメカニズムが存在することを指摘し、それこそがコトバの本質だと考えた。そのメカニズムを解明する方法として、彼は、意味伝達と無関係な要素を排除していくことを計画する。そのためには、まずコトバ=単語の意味とは何かについて想像を膨らますことは重要である。当書籍では、ソシュールが、「意味」を事物の集合の性質だと考えたという立場をとっている。たとえば「ネコ」という単語の意味を知るということは、その性質を知っているということである。性質を知っていればこそ、ネコという単語が含まれた表現が正しいか否かも判断できる。「ネコはねずみをつかまえる」は正で、「ネコはコトバを話すことができる」は否というわけである。もちろん、コトバは話し手から聞き手に伝達される以上、その伝達が、誰にとっても同じ意味であるという前提が不可欠である。その同じ意味が伝達される過程に本質的にかかわってくる要素を「ラング」と名づけた。逆に、同じ意味の伝達に関係してこない要素を「パロール」、ラングとパロールをあわせた全体像を「ランガージュ」という。このランガージュを意味する全体像とは日本語・英語・フランス語といった具体的に実現された言語を指す。ソシュールはコトバの本質は具体的言語の中にしかないと考えたのである。


(次回)ラングとパロールに属する要素、性質の違い、コトバを「記号」とすることの意味、コトバの原則


(メモ)

ソシュールについては、日本では、丸山圭三郎という言語学者が第一人者。Amazonでの彼に対する評価を見ると、どれも大絶賛で、現代思想を知る上で欠かせないとまで言われている。他には、澤田允茂(さわだ のぶしげ)という人がいる。人間理性、生命科学の観点から言語を解き明かそうとした哲学者だ。「澤田允茂」って聞いたことあるなあと思ったら母校の教授だった。文学部の友人から名前だけ聞いた記憶がある。今年の4月に亡くなられたようだ。おそらく私の在学中に、教壇に立つことはなかったのだろう。ご冥福をお祈りしたい。いずれにしても、今後の私のビジョンを考えた時に、言語学は避けて通ることはできないことを実感している。そう気づかせてくれた空間に感謝したい。まだ緒についたばかりであるが、論文を書くつもりで研究をすすめていくつもりだ。本業もあるので、ゆっくりしかしこつこつと。

昨日は、私が在住する区で最も大きな図書館を回覧してきた。大変ありがたいことに、文学、思想、文芸に関する書籍が非常に多い。研究者向けのハードカバーの書籍も蔵書の中にいくつかある。私が今の調査テーマのレベルなら、当分ここで事足りそうな気もする。いや、映画関連の書籍は少し足りないかもしれない。洋書の蔵書もある。仏書も数は少ないが、置いてある。翻訳の練習書として使えそうだ。作家にこだわるようになったら国会図書館に行くか、購入するかもしれないが、なるべく金はかけたくないので。三角測量法の実践として、気になったテーマが建築、法律。建築は遠い将来だが、現在、研究し始めているプログラミング・数学とつながる気がした。しかし当然全くの素人。法律は、永遠の最優先課題であるはずだが、法律文書を読解するのか非常に困難であるため、なかなか手がつかない。二つのテーマを知る上での取っ掛かりをつかむ方法はないかと考えたりした。


塩水を毎日飲むようにして非常に体調が良くなりました。これから暑さはまだまだ続きそうです。塩とウコンの力で無事に乗り切りたいです。何より、普段から節制することが健康維持には大事であることを身をしみて感じています。

数年ぶりに朝飯を家で作って食べています。おかずはありあわせのものですが、お米が味わって食べるには十分です。食事が難しくなりすぎている気がしますね。普段の食事は質素でシンプルなものでいいと思います。豪華なものはたまに食べれは十分です。


☆横尾忠則主演「東京泥棒日記」

Gyaoで配信されていた1970年ごろの映画です。横尾忠則には、春の展覧会で彼の書いたポスターという形で出会いました。衝撃を受けました。形式的に上手に描ける作家は他にもいるかもしれない。ただ、彼のポスターを見ていると、不思議な笑いがこみ上げてくるのです。世の中を嘲け笑うようなそんな笑い。横尾忠則ってどんな人間なんだろう。ずっと思っていたさなか、Gyaoの番組表から見つけて、気づいたらplayボタンを押していた。そんなところです。横尾は自分の予想していたのに近い顔でしたね。顔はいいとはいえないけど、女がほっとかない、独自の雰囲気を持った男。思ったより優男でした。

性をテーマとした映画です。昭和50年代生まれの私は、ストーリーを追って楽しむというより、制作に携わった人間たちの挑戦を観察して、その自由さにただただ「すげえ」って驚いていました。世代ギャップのせいなのか、正直理解できない部分もありました。いや、途中から「性とは何か、彼らは何を言いたいのか」という答えを探すのがアホらしくなってきたのかも。映画という映像芸術の中に、文章、討論、音楽、舞台芸術など、様々な表現方法が出現します。今風の言葉であらわすならクロスメディアとでもいったところですね。興味深い表現方法ですね。現代にもこのような「ごった煮」表現法があってもいい気がするけど。「その場ですぐに答えは出ないかもしれないけど、そのうちあとでわかってくるよ」みたいな。現代は、作り手側もそれを受ける側も、表現する意味とか、答えを出したり、理解することに性急すぎるのかもしれません。だから、この頃のような「ごった煮表現」が出てこないのかあって私は思いました。現代の方が経済的にははるかに豊かなはずなのに、表現が貧困というのは、おかしな話ですけどね。この世界は生きてきた世代によって、様々な感覚を得る映画だと思います。横尾忠則に少しでも興味がある人、唐十郎のへんてこな歌を聞きたい人、1970代に興味がある人はとにかく見てみましょう。あと、横尾忠則が手にする書籍には注目です。私はフランスのジャン・ジュネとバタイヤに目がつき、早速Amazonで注文してしまいましたw

熱中症の影響か、けいれんと頭痛が断続的に起こります。ただ、辛抱辛抱です。規則正しく、普通の生活を送るしかありません。この年になって栄養バランスということをはじめて考えました。今までの一人暮らしの食生活は、偏りすぎていたなあと振り返っています。ひどい時は、一週間中華ばかりということもありました。今までは外食が多すぎたので、自炊する日を増やそうと思います。米、味噌さえあれば、あとは納豆、のり、漬物があれば最悪なんとかなるし。料理は、実家にいた時は苦手意識があったせいか、ほとんどやらなかったのだけれど、いざやってみると意外とできるものです。特に、おいしいおかずを作れた時は、最高の気分です。失敗も多いっすけど。この前作ったにゅー麺は悲惨な味でしたw次は魚メニューのレパトリーを増やしていこうっと。魚さばきは結構難関かなあ~。


話はがらりとかわるが、TVプログラムを簡単に作成するための言語というのがあるらしい、TVML。HTMLに名前が似ている。難易度もHTML程度とのこと。それにしてもテクノロジーの進歩のスピードにはびっくりする。個人がTVプログラムがやがて作れる時代がくるのか。まあすぐに完成度の高いコンテンツが作れはしないだろうけど。プログラミングは中期テーマとして、プログラミングに必要な数学の知識からじっくり学ぶつもり。表現方法をたくさん持つことは僕にとってのミッションだし、特にプログラミングを知ろうとすることは僕の新たな可能性を追うことになると思っているから。欲張りすぎるのは僕の悪い癖だけど、好奇心が向かうのだから仕方がない。まあTVML覚えて、YouTubeに参戦するつもりもない。表現方法のひとつとして仕事のプロジェクト、アートイベントなどで提案できるレベルまでわかれば、現状では良い気がする。


TVMLについては詳しくは
http://www.nhk.or.jp/strl/tvml/

軽い熱中症のようです。明日からの3連休、家でゆっくり療養します。まあこの暑さじゃ出かけたくもないですが。体は本当に大事にしなければ。今、次々といろいろな問題が目の前にせまってきて、混乱しそうになることがあります。そういう時は、頭の中でごちゃごちゃ考えていてもだめですね。まず、問題を考えやすいように整理整頓する。そういうことをしないでただ悩むだけでちっとも答えに近づかないのでは「考えている」とはいわないですね。ネガティブな悩みではありがちなんですけど、悪循環になるだけで。まあ悩んでいる姿だけでよしとするナルシストもいますけど。まあなんとなくでうまくいくこともありますし、適当でいいかなと。ああ、はやくすっきりしたいな。

最近、歩いている時に目まいがする時があります。貧血が原因であればまだいいんですが、脳に原因があるならかなり問題です。いろいろな疲れからきているのかもしれません。疲れを軽減するためにも、食事・睡眠・生活習慣など、身体の維持にかかわるあらゆることを見直す時期にきているのなあと最近思います。20代でそんな事いってるのは早い気もするけど、、、、。「体によい食事、ダメな食事」を通読しながら眠りにつこうとしています。自分の身体に合う食習慣を見つけるのって難しいですね。日々の食事のなかで、口にする食事が歯で噛み砕かれる時の感覚、胃に落ちていき、消化される時の感覚、食後感、口に残る感覚、排出物の状況を常に意識することが大事なのかもしれません。そんなことできるのかいって書きながら笑っていますw


ジダン頭突き事件、マスメディアで頻繁に報道されていますね。今までに何度か試合中に暴力行為をしていたことは初めてしりました。見た目は温厚そうにみえるんですけどね。人は見た目では判断できないものですね。一方、マテラッティも大人気ないですよね。人種差別的な発言があったという憶測もあるみたいだけど、内容はともかく、プロスポーツなんだから、口じゃなくてプレーで勝負しろよ。ラグビーは相手を口で挑発している暇なんてなかったけどなあ。口よりもタックル一発、あたり一発で黙らせる。そんなラグビーが僕は好きです。

来年の合唱サークルの曲目でフランス合唱曲を歌うことになった。はっきりいって願ったり叶ったりである。この歌詞を使って、フランス語の文法と発音を学習できるチャンスだ。語学は話す前にまず読み書きからしっかり学ぶ必要がある。特にフランス語は、言葉を重んじる国の言葉らしく、文法と発音にはとてもうるさいらしい。一見遠回りのようだが、ここさえしっかり抑えておけば後は実践あるのみで楽になると思う。マスターしたと言い切るためにはたぶん相当の月日を要すると思われるが、英語学習の失敗を内省しつつ、学習に取り組みたい。もちろん英語学習もやめません。短期間でもいいから、欧州を見て、現地で勉強したい。もちろん現地で勉強するだけの研究テーマが浮かばない限りは行けないので、日本で何かを突き詰めて研究する必要がある。何をバカなと笑われるかもしれないが、このかすかな夢が、僕の閉塞感を開こうと抵抗していることは間違いない。夢想家。いや、この際、それでもけっこう。今夜は、なぜかW杯決勝、フランス-イタリアが始める時間に目が覚めた気がした。もしかしてこのことも夢だったのか。

自分の世界だけに閉じこまらない。自分の「世界」を自分で認知するためにも、形にして表現!表現!表現することにはいつも不安がつきまとう。だけど、人間の可能性は意外とすごい。誰でも、外に出たがっている「魂」をたくさんもっているはず。「きっかけ」があればすぐ出すことができるのだけど、自分で無理に取り出そとするのは意外とやっかいなもので。自分探しではなく、きっかけ探し。気をつけなくちゃいけないのは、きっかけは色々な形で現れるってこと。テレビ、インターネットなどのメディアかもしれないし、両親、友人の言葉かもしれないし、自然、美術作品、人のしぐさ、表情などの、言葉にしづらいことかもしれない。どこから、どのような形で来るかわからない。そのためには普段から自分の中から何を出したいか、そのためには何が必要なのかを概念化、もしくは強く、強くイメージすることしかない。そうすることで、五感の動きが確実に変わってくる。俺もまだまだ五感の全てを使いこなせないのが悔しい。どうしても目と耳に頼ってしまう。究極は五感ではなく、魂で感じる。まずは、五感についてはもっと知りたい。ちょっとだけスプリチュアルな話。

北朝鮮がミサイル7発日本海に向けて打ち込んできたらしいが、マスコミの過剰反応は相変わらずバカの一言しかない。あげくのはてにエセインテリを出演させて、 むやみに大衆の不安をあおりたてる。某局では悪法の立法を声高に唱える。日本のマスコミは沈黙という言葉をしらないのだろうか。むしろ、どこも報道せずに北朝鮮をびっくりさせてやれっつうの。極論かもしれないが、マスコミの役割は伝えるべきことを選択し、その事実を正確に伝えるだけでよい。大衆を洗脳するのは少なくともマスコミの役割ではない。まあそのおつむも気概もないんでしょうけどw本気でこの国からの離脱を考えている今日このごろ。


バカといえば、私の今までの「読み手」としての姿勢もそうであった。言葉は、表現された瞬間から書き手の意思を離れて一人歩きを始める。一人歩きした言葉は読み手によって様々な解釈がなされることで、書き手の主観が捨象されていくのだ。これが言葉の宿命であるならば、だからこそ、読み手は言葉に含まれる書き手の主観を必死でつかみ取ろうとする姿勢が必要なのである。その姿勢を学ぶ意味でも、柄谷行人の「マルクス その可能性の中心」は読むに値する本だ。マルクスという大天才が書いた原理を苦慮しながらも、主観客観を超えた複眼的観点から見つめる柄谷の思想家としての謙虚さが伝わってくる。もちろんマルクスを知る上でもお勧めである。ただ、柄谷という読み手を経由してマルクスと相対するわけだから精読に精読を重ねなければ分かった気にもなれないと思う。自分のバカにも気づかされるという意味で、世の中のバカをみるという意義はあるのかしれないと、今思い返している。