北朝鮮がミサイル7発日本海に向けて打ち込んできたらしいが、マスコミの過剰反応は相変わらずバカの一言しかない。あげくのはてにエセインテリを出演させて、 むやみに大衆の不安をあおりたてる。某局では悪法の立法を声高に唱える。日本のマスコミは沈黙という言葉をしらないのだろうか。むしろ、どこも報道せずに北朝鮮をびっくりさせてやれっつうの。極論かもしれないが、マスコミの役割は伝えるべきことを選択し、その事実を正確に伝えるだけでよい。大衆を洗脳するのは少なくともマスコミの役割ではない。まあそのおつむも気概もないんでしょうけどw本気でこの国からの離脱を考えている今日このごろ。


バカといえば、私の今までの「読み手」としての姿勢もそうであった。言葉は、表現された瞬間から書き手の意思を離れて一人歩きを始める。一人歩きした言葉は読み手によって様々な解釈がなされることで、書き手の主観が捨象されていくのだ。これが言葉の宿命であるならば、だからこそ、読み手は言葉に含まれる書き手の主観を必死でつかみ取ろうとする姿勢が必要なのである。その姿勢を学ぶ意味でも、柄谷行人の「マルクス その可能性の中心」は読むに値する本だ。マルクスという大天才が書いた原理を苦慮しながらも、主観客観を超えた複眼的観点から見つめる柄谷の思想家としての謙虚さが伝わってくる。もちろんマルクスを知る上でもお勧めである。ただ、柄谷という読み手を経由してマルクスと相対するわけだから精読に精読を重ねなければ分かった気にもなれないと思う。自分のバカにも気づかされるという意味で、世の中のバカをみるという意義はあるのかしれないと、今思い返している。