創作活動に本腰入れます。毎日、ブログはもちろん、詩、評論、エッセイ、何らかの形で表現しつづけること。ある方から小説を書くチャンスも頂いていますが、先ずは日々書くこと、考える事の積み重ねをし続けなければ、本当に小説で書きたい事、書くことの意義はいつまでたっても見出せないだろう。
☆映画鑑賞評 「羅生門」と「視線のエロス」
「羅生門」は、日本の平安期末期(と思われる)のある殺人事件に関わった複数の人間が事件について語っていくストーリー。1人1人語る内容はそれぞれ異なり、自分を守る者、力、美を誇張しようとする者、そんな事実を歪曲しようとする姿から人間の醜くも悲しいエゴが感じられるのである。志村喬演じる男が、羅生門に捨てられている子供を自分の家に連れて帰っていくラストシーンを創ることで、次代の人間にそのエゴとの和解を託そうとするのだが、このことが投げやりで嘘っぽくさせてしまうのは残念。京マチ子の女夜叉を思わせるような妖艶な演技は印象に残りすぎて忘れられない。一方、フランス映画「視線のエロス」は妻子持ちの男と若い女性の不倫関係を通じて、自己のエゴを越えようとする人間の姿が生々しく描かれる。結局お互いに自らのエゴを超えることができず、二人の関係は破綻する。破綻後、残りつづける男性の未練を、手紙というラストシーンにこめる。エゴを描ききろうとした作家の創作姿勢が伝わってきた。男性視点から描かれている点には賛否両論だと思うが、僕は賛成です。なぜならこれも作家のエゴだからね。ただ、男性の鑑賞者は、「見る」ことに執着しすぎて、女性から「見られている」視点を見失うかもしれない。ミュリエルという女性を演じるイザベルカレーの瞳の中に吸い込まれそうになるからですw。鑑賞者にもエゴの存在を感じさせる試みだと思うけど。エゴを見つめ続けるか、突き放すか。ここが差異かな。