今日、久しぶりに人から本気で期待をかけられた気がして、とてもうれしい気持ちです。期待をかけられているだけで、まだ一歩も進んでいないのですが、想像だけで人間はここまで楽になれるのかとも思いました。想像の世界が今までになく明確なものとしてイメージできたからかもしれません。しかし想像の世界で楽になっている単純な自分も嫌なのですが。私はひねくれものです。


今日は少し疲れました。明日は4時に起床しようと思うので、今日買った「考える技術・書く技術」を読みながら眠りにつきます。ちなみにブラジル-日本戦を見るのではありません。明日のブログは身の程知らずにもデリダと格闘してみます。ではお休みなさい。


ポレポレ東中野というミニシアターに昨日偶然にも遭遇した。ミニシアターとは、若手映画監督の作品を中心に、大きな映画館では扱われないような映画を多く取り扱う映画館である。ポレポレは、東中野駅から歩いてほど近くの線路沿いのビルの中にあるのだが、ビルの奥まった所に入口があるため、外から見ても入口がどこにあるかわからず、目立たない。それでも、中野区唯一の映画館であるためか、地元ではわりと知名度が高いようだ。唯一の映画館がポレポレというのも、なんだかこの区らしい。

それにしても、僕は本当についていると思う。少しでも映画評論の構想が頭にあったからだろうか。


映画を見る時間の余裕のなかった僕は、それでも訪れた理由をあとから自分で確認したいのか、館内で販売していた「映画芸術」という評論雑誌を購入することにした。現代映画の思潮と、(評論家の書いた映画評論から)映画評論例を学ぶ上では役立つと思う。内容は、それほど難しくないし、一般の映画ファンでも十分に楽しめると思う。それにしても、この雑誌を読んでみても、改めて思うのだが、評論界とは、科学のように緻密な世界だと思う。例えるなら、虫眼鏡で虫をなめるように調べまわすような感覚に近い。先日読んだ柄谷氏の「近代日本の評論」を読んでみた時も、同じ感覚を得た。


そんなことを想像しているうちに、割とおおざっぱにしか仕事ができない僕には、評論は向いていないかもと、少し弱気になる。しかし、評論することを通じて、文芸について深く知ることができるという期待はいまだ捨てきれない。方法としては、個別作品の感想を書いていきながら、少しづつ全体に近づいていく方法をとっていこうと思う。自分なりのこだわりとしては、できるだけ古い映画作品から取材していきたい。あまりに古いと、映像が残っているかどうかは不安だが、まずは、戦前作成された映画を探してみるつもりだ。

情熱が冷めないうちに早いところとりかかろっと。


【一口メモ】

過去に「パンツの穴」などポルノ映画や暴力を題材とした映画などアウトローな作品を多く手がけたことで知られる若松幸二監督が、以前このブログでもとりあげた「連合赤軍事件」を映画化するために、現在、資金を募っているらしい。「光の雨」とは一味違った、異色の経歴を持つ若松監督ならではの「今」から見た連合赤軍を描いてくれるのでないかと期待している。

資金が順調に集まれば、上映予定は2008年1月。


ブログを一週間休ませていただきました。理由は「書く」ということについて、一週間考えていたということにさせてくださいましw完全な結論など出るはずもないのですが、「今」の時点での結論は出た気がします。このように、思考に翻弄され続けるのが俺の生き方などと軽口をたたいたりしています。


日本語の文章表現を体系だてて学ぶこととしました。読み手にとって、わかりやすい文章を作ることは、書く訓練とともに、その方法も学ぶ必要があると思ったからです。最高学府を卒業しながら、母国語も満足に書けないとは、全く情けない限りです。インターネットの出現により、表現すること自体は容易になりました。しかし、拙い表現は、しばしば相手の理解を妨げたり、誤解を生むことがあることを忘れてはいけないと思います。とくに言語に対しては、表現の手軽さゆえに、ともすれば傲慢にさえなるのです。


 文章を学ぶ参考として、谷崎潤一郎の「文章読本」を購入しました。その本の著書紹介で、谷崎の素顔を初めて目にしました。おそらく晩年の谷崎だと思いますが、口元がいやらしい爺さんだなと思いました。官能の世界を書き続けたことが、彼の顔をそうたらしめたのかもしれません。私の顔はこれからどうなっていくのかという考えが頭に浮かびます。正直、谷崎のようにはなりたくないが。そう思いながら、視線をあげると部屋の壁に貼ってある高杉晋作の写真が目に入るのだった。

ロシアの小説家チューホフの「ワーニァ叔父さん」の演劇を見てきた。思わずため息が出るような暗いテーマの作品にもかかわらず、今まで頭の中を巡っていたもやもやが全てふきとんだ気がした。劇中の様々な登場人物の心情を、表情やしぐさ、せりふから読み取ろうと想像を働かせたからかもしれない。エゴも人間、未練も人間、嫉妬も人間、ずるさも人間。人間は死ぬまでに様々な不条理に直面するが、それでも生きていくことでしか救われない。


日本映画を題材とした長編文章を書くにあたっての構成を修正する。まず、映画表現が出現する以前の表現世界における限界状況を明らかにしていく。次にその限界状況を克服するために、日本の初期の映画表現がどのように寄与したかを明らかにする。そうなると、戦前のサイレント映画、トーキー映画までさかのぼる必要があるだろう。さらに、戦前の映画表現が残した、もしくは新たに生み出した課題を明らかにして、戦後の映画がその課題をどう克服しようとしたかを探っていく。ここで初めて小津、黒澤、今村などの映画監督の作品の創作背景、内容にも触れていくこととなる。思索を繰り返す中で、また変わるかもしれないが、その際はそれを案内することとする。しばらく時間を頂きたい。

日曜の朝は、部屋の掃除。僕は、昔から自分の周辺をきれいにしておかないとなんとなく落ち着かない性格である。机の周りに置く、よく使う書籍も入れ替えた。一年前とは全く違う気がする。そういえば、いらないものも増えてきた。来週は、一気に整理しようか。売れれば金策にもなるし。玄関の掃除をしながら、玄関のあいているスペースに何かを置きたいとふと思った。今も、展覧会の写真とかCDジャケットはおいてあるのだけれど何かが足りない。キャンドルはちと不気味だろうか。


昼は、地元の図書館に行く。蒸し暑いが、風は心地好い。ダンスの練習にいそしむ若者たちがふと目に入る。最近、頭の中にあった作家の小説を借りられるだけ借りることにした。一冊、文芸評論の書籍を借りた。そういえば、本格的な文芸評論は読んでなかった。爪の垢をせんじて飲む心積もりで、早速、次の目的地へ向かう間に、少し目を通してみたが、なるほど、と思った。いろいろな書き手のタイプはあるが、中でも、文芸評論家は、自分の考えの芯というか根源を論理的に表現できないとなりたたない。自分の怪しさがよくわかった。


夜は合唱団の活動。この時期は、団に所属し続ける限り、例年、来春の定期演奏会の選曲に時間を費やすことになる。来年は、10回目の定演で、区切りの演奏会。Brucunerという、19世紀に活躍したオーストリアの音楽家をとりあげることは、すでに決定。Brucknerは、合唱団の名称の由来となった「Locus iste」という曲を作曲した音楽家で、団にとっては特別な存在。歌詞は、神を賛美する内容で、いわゆる宗教曲。高音から急に1オクターブ下の音に切り替わる旋律、8分音符、16分音符といった短い音符が連続する旋律は厄介だが、階名でなんとか歌えている所を見ると、全体的にそれほど難しくないのか。歌詞は、全てラテン語で書かれており、発音には、苦しめられることになりそうだが。演奏会ではBrucknerの他に、聴く人に親しみやすい日本の曲も含めて2,3ステージ演奏させて頂くことになる。


音楽との触れ合いが再開したことで、生活のバランスが取れそうな気がしている勘違いを利用して、他のことも一気に進めてしまおうと思う休日の一日。

ブログのコメントにレスを入れて、いざ投稿すると、、ことごとくサーバーダウンの憂き目に合い、うまくUPできないことが最近多くないか?藤田氏が、自分のブログで、サーバー状況の改善をはかるためにも、技術者を募集すると語っていたが、この発言からも、藤田氏が自社の長期経営計画を描く中で、ユーザ視点が勘定に入っていなかったことはもはや自明である。サーバーは構築すれば確かに動きますけどねえ。

さらにいえば、サーバーの管理業務は、技術者にとって、かなり退屈な仕事である。あわてて急募したところで集まるのは、SAの熱狂的ファンの技術者ぐらいな気がするし。これ以上いうと、袋叩きにされそうなので、このあたりでやめておく。


今日は赤坂へ。編集についての勉強会に2000円を支払い、受講。講師の方に、編集の定義・ノウハウを言語化していただいたことで、自分がなんとなく頭に描いていた編集へのイメージとの差異が明確になったこと、ワークショップで、短時間ではあるが、自分の頭と体で実践できたこと、さらに、勉強会会場に向かうまでに、旧乃木邸など、赤坂周辺の街並みを堪能できたことを含め、そのセミナーの終了時点では、元はとれたと感じた。しかし、いうまでもなく、時間の経過とともに、その価値は増減することを覚えておかなければならない。理由は明かすまでもないが、六本木まで歩く羽目になった時点ではやくも価値低減がはじまっている。


誰に要請されているわけでもないと思うが、長編の文章を書いてみたいと思い立った。結論から言うと、「日本映画」ということで考えていきたいと思う。今村昌平監督がなくなった事を受けてかと言われそうだが、まあ聞いて欲しい。そう決めた理由は三点。一点目。自分が日々生きていく中で、何らかの手段で、世界に存在する国家と接していたいという願望を考えた時に、フランス、ドイツ、そして自分が生まれ、育った日本を現時点では頭の中に浮かべている。しかし、現状を鑑みたときに、このままだと、「日本」という国家に接する機会が希薄になる気がしたと自分ではしたということ。おいおい、お前が生きているこの国の有様がまさに「日本」だろ、と言われそうだが、あいにく、そのことも僕は疑ってみたいと思っている。

一点目に派生して、では、真の日本とは何なのかという、大変難解なテーマに達するのだが、今の自分のレベルでは、そのテーマの答えを即座にだせるはずもない。とはいえ、このまま手をこまねいてもおられず、自分が書けそうな題材は何かと考えた。駆け出しの分際で、暇にあかして、いろいろな分野に触手を伸ばした。小説、美術、演劇、音楽などなど。しかし、どれを扱ったとしても、付け焼刃で、今の自分では、中途半端な表現が関の山だろう。その中で、映画は小学生の時、親父と「男はつらいよ」を見て以来、何らかの形で休みなく接してきており、他の題材よりは扱いやすいと思ったこと。また、映像の力が、自分の未熟さを補ってくれるのでないかという淡い期待も正直ある。これが二点目である。

また、嫌テレビ生活に突入しつつある現状から、自分が接するメディアのバランスを考えた時に、映像と接する機会が減り続けるのはどうかと考えた。これが蛇足だが三点目。どれも、自己中心的な理由だが。


とにもかくにもテーマを決めなくてはいけない。書きながら、考えながら、いろいろな方の意見を伺いながら、自分の考えを固めていくことを許されるのが、ブログというメディアの性質だとするなら、そうであればこそ、最終的に、何らかの答えを出すことが当然の使命だ。


ここで先に、次回の題材をばらすと、小津安二郎から書いていこうと思う。彼が活躍した時代が日本映画界の黎明期であり、起源だと考えるからである。それを前提として、現代の映画を見た時に、その頃のエッセンスが受け継がれているのか否かをテーマとするのはどうだろうか?まだ迷いはあるが、とりあえず今の時点ではそういうことにさせて頂きたい。このテーマに限らず、ご意見、反論、遠慮なく言っていただきたい。


すでに、小津作品は「東京物語」と「秋刀魚の味」を見た。この両作品の違いを考えているが、「東京物語」は、少々人間を描こうとしすぎたのはないか。正直うんざりした。ここから、次回まで考察を続けていきたいと思う。

今日はあっというまでした。平日は、サラリーマンですから、会社にいる時間がほとんどです。少々忙しい一日でした。今日は前向きな言葉が何一つかけそうな気がしません。なんとか書いてみようとは試みてはみたのですが、出てくるのはなぜか後ろ向きな言葉だけ。それではあまりにも・・・


あ!そういえば今日はおいしいラーメン屋を見つけました。さっぱり味とこってり味の両方を味わえる店。自宅から歩いていける距離にあります。今日は、こってり味!はちょっと胃が受け付けそうもなかったので、さっぱり味で注文。でも激辛で!!


このあと、激辛ラーメンで都内では有名な「蒙古タンメン中本」についての文章を書くのが、僕の得意なストーリーなのですが、今日はそれを語るのもちょっと躊躇する。何度も書いてるし、もうjベタベタだし。興味ある人はぜひ挑戦してみてはいかが。


ここで再度、自分の文章を読み返してみても、何も書けている気がしないが。

果たして、今日は何も書かないほうがよかったのか。いやこうやって何かを書こうと思ったことの方がよかったのか。

先程、家に着きました。洗濯物を下ろし、これからアイロンがけにかかるところです。


昨日のブログで頂いたコメント、もう一回読みました。読んでいて正直痛いと感じる部分も多々ありました。しかし、それは頂いた全てのコメントが、僕が、今の状況におかれている原因となっていて、しかも、そのことが、自分の意識のどこかにはあるのに直視せず、逃げている部分だからだと思います。本当にこのブログでも再三悩ましい、痛々しいブログを書いては、このブログを読んでくれた友人からも心配されたり、自分でも一体いつまでこんなことを続けるのかと思うこともあります。しかし、逆に大きな励ましを頂けたりすることもあり、それが大きな力になっていることも事実です。先日ブログで「晴耕雨読」という言葉を引用しましたが、私の志を果たすには、まだまだ「晴耕雨読」の姿勢が足らず、これは、今後も続けて追究していくところと思っています。今後もご心配をおかけすることがあるかと思いますが、日々思うことを大切にして、このブログで表現していくつもりです。そしてこのブログの題名通り、自分の道を開くことこそが、皆様へのせめてもの恩返しになるのだと思います。今後とも遠慮なく叱咤激励お願いします。それを素直に受け止めて、応えていきたいということが、僕の正直な今の気持ちです。


5月も、もうすぐ終わりを迎えます。今年に入ってから、月末を迎えると、毎回、月日の経過の早さを感じている気がします。また、ここ数日、天候の良い日と悪い日が交互に続く、不安定な天気が続いています。自分の至らなさを天候の良し悪しのせいにしている自分がいることにふと気づき、空しさを覚えます。こんな日が数日続いて、やがて入梅の時期を迎えるのでしょう。そのことは毎年変わらないのになぜ自分はこんなにも揺らぐのか。段々とじめじめとして、長袖では寝苦しくなってきました。会社に向かう際も、冬服では暑くなってきたので、夏物に「衣替え」しようと思います。あら!また?どうせこんな風に天候に左右される自分なら、いっそうのこと、「衣替え」したいなどと思っている。愚かしい自分を嘲け笑っています。

タイトル通りの心境です。もう一回0に戻らなくてはいけない。いや今はもしかしたらマイナスなのかもしれない。そうであるなら、まず0まで上らなくてはいけない。これ以上現実から逃げて、自堕落の中に身を置いたところで、何も変わりはしない。マイナスを増やしていくだけ。まず0に戻す。0から1を作って、また0に戻って・・・死ぬまでの繰り返し。そういってしまうと、人生って単調なものにも思えてしまうけど、人間はコンピューターとは違う。人間には、コンピュータよりももっと複雑な機能を持つ脳、そしてコンピューターにはない身体がある。その力を最大限に活用しようとすることで、単調に見える人生を、いくらでも多様で、複雑なものに変えることができるはずだ。

それがわかってるのになぜやらない?何を恐れている?自分の可能性を強く信じろ。

これ以上酒飲んで、バカになってもしょうがないぞ。今を生きろ!このバカたれが。


せっかくの休日だというのにあいにくの雨。もともと出不精な上に、この雨では、外出する気もめいる。全く恨めしい雨である。こんな日は、読書するに限る。晴耕雨読。昔の人は、本当にいいことを言ったものである。


いや、晴耕の方はどうなのと、すかさず突込みが入る。はっきりいって仕事そっちのけで、自堕落な生活をしている。会社との関係は打算の境地だ。そんなもの極めて何になるのか知らないが、お金を頂いて、Web系の勉強をする時間ととらえている。だんだん独学ではしんどくなってきているのが目下の悩みだが。自堕落というのは、最近、一時期より酒量が増えたことだ。僕は、何度かこのブログでも書いているが、もともと酒場、スナック、バーといった社交の場がたまらなく好きである。酒は弱いが、やめられる気がしないし、お店の人やお客さんと世間話するのが何より楽しい。ただ、調子にのって、自宅の近くで店を見つけすぎたようだ。しかも、僕という人間が、周りの人の目には珍しく映るのか何だか知らないが、お店の人やお客さんとなじみになってしまい、顔も覚えられていたりするので、じゃーかけつけ一杯飲んで帰るという訳にもいかず、ついつい長居してしまう。住む前に自分が思っていたよりも、私にとってはあまりにも魅力的な住環境だったようだ。


今週もよく酒を飲んだ。昨日は新卒で入社した会社の時の友人と深夜3時まで。当然、電車など動いているはずもなく、タクシーで帰る。その割には、体調はまずまずである。明日も合唱サークルの仲間と新入会員歓迎ということで、飲みそうな雰囲気なので、今日は休肝日とする。音楽やっている人は、とにかく酒が好きな人が多い。しかもよく飲む。日曜の夜にあんなに飲む人たちはそういないだろう。話は脱線しかかったが、まあそれにしても、友人たちは本当に一生懸命働いているし、自分の将来についても、みんなそれなりに地道に考えているようだ。みんな年相応だし、当たり前なのだが、少なくとも今の僕にはそんなに熱く、会社の仕事を語れやしないし、自分の将来について、希望は持っているが、どうやら他の人とはちょっと違う生き方をするのかもと思ってみたり、まだよくわからない。みんなからは僕が薄く透けて見えているのではとふと思った。


それにしても、友人と話していても、人間のいろいろな特徴が見えることがわかる。やたら場を仕切りたがる人間、ひたすら優等生発言に徹する人間、自分の思ったことをそのまましゃべってるような人間。言おうとしていることを常に持っていてひたすらそのタイミングを待っている人間。しかも、そうやって目で見える建前の表層の奥底には、本音が隠されており、表層と複雑に絡み合う。いいとか悪いとか、二項対立の単純な世界を超えて、人間そのものが開示される場。酒席は、一種の芸術の場でないかというのは少し虫が良すぎるか。