ロシアの小説家チューホフの「ワーニァ叔父さん」の演劇を見てきた。思わずため息が出るような暗いテーマの作品にもかかわらず、今まで頭の中を巡っていたもやもやが全てふきとんだ気がした。劇中の様々な登場人物の心情を、表情やしぐさ、せりふから読み取ろうと想像を働かせたからかもしれない。エゴも人間、未練も人間、嫉妬も人間、ずるさも人間。人間は死ぬまでに様々な不条理に直面するが、それでも生きていくことでしか救われない。
日本映画を題材とした長編文章を書くにあたっての構成を修正する。まず、映画表現が出現する以前の表現世界における限界状況を明らかにしていく。次にその限界状況を克服するために、日本の初期の映画表現がどのように寄与したかを明らかにする。そうなると、戦前のサイレント映画、トーキー映画までさかのぼる必要があるだろう。さらに、戦前の映画表現が残した、もしくは新たに生み出した課題を明らかにして、戦後の映画がその課題をどう克服しようとしたかを探っていく。ここで初めて小津、黒澤、今村などの映画監督の作品の創作背景、内容にも触れていくこととなる。思索を繰り返す中で、また変わるかもしれないが、その際はそれを案内することとする。しばらく時間を頂きたい。