ブログのコメントにレスを入れて、いざ投稿すると、、ことごとくサーバーダウンの憂き目に合い、うまくUPできないことが最近多くないか?藤田氏が、自分のブログで、サーバー状況の改善をはかるためにも、技術者を募集すると語っていたが、この発言からも、藤田氏が自社の長期経営計画を描く中で、ユーザ視点が勘定に入っていなかったことはもはや自明である。サーバーは構築すれば確かに動きますけどねえ。

さらにいえば、サーバーの管理業務は、技術者にとって、かなり退屈な仕事である。あわてて急募したところで集まるのは、SAの熱狂的ファンの技術者ぐらいな気がするし。これ以上いうと、袋叩きにされそうなので、このあたりでやめておく。


今日は赤坂へ。編集についての勉強会に2000円を支払い、受講。講師の方に、編集の定義・ノウハウを言語化していただいたことで、自分がなんとなく頭に描いていた編集へのイメージとの差異が明確になったこと、ワークショップで、短時間ではあるが、自分の頭と体で実践できたこと、さらに、勉強会会場に向かうまでに、旧乃木邸など、赤坂周辺の街並みを堪能できたことを含め、そのセミナーの終了時点では、元はとれたと感じた。しかし、いうまでもなく、時間の経過とともに、その価値は増減することを覚えておかなければならない。理由は明かすまでもないが、六本木まで歩く羽目になった時点ではやくも価値低減がはじまっている。


誰に要請されているわけでもないと思うが、長編の文章を書いてみたいと思い立った。結論から言うと、「日本映画」ということで考えていきたいと思う。今村昌平監督がなくなった事を受けてかと言われそうだが、まあ聞いて欲しい。そう決めた理由は三点。一点目。自分が日々生きていく中で、何らかの手段で、世界に存在する国家と接していたいという願望を考えた時に、フランス、ドイツ、そして自分が生まれ、育った日本を現時点では頭の中に浮かべている。しかし、現状を鑑みたときに、このままだと、「日本」という国家に接する機会が希薄になる気がしたと自分ではしたということ。おいおい、お前が生きているこの国の有様がまさに「日本」だろ、と言われそうだが、あいにく、そのことも僕は疑ってみたいと思っている。

一点目に派生して、では、真の日本とは何なのかという、大変難解なテーマに達するのだが、今の自分のレベルでは、そのテーマの答えを即座にだせるはずもない。とはいえ、このまま手をこまねいてもおられず、自分が書けそうな題材は何かと考えた。駆け出しの分際で、暇にあかして、いろいろな分野に触手を伸ばした。小説、美術、演劇、音楽などなど。しかし、どれを扱ったとしても、付け焼刃で、今の自分では、中途半端な表現が関の山だろう。その中で、映画は小学生の時、親父と「男はつらいよ」を見て以来、何らかの形で休みなく接してきており、他の題材よりは扱いやすいと思ったこと。また、映像の力が、自分の未熟さを補ってくれるのでないかという淡い期待も正直ある。これが二点目である。

また、嫌テレビ生活に突入しつつある現状から、自分が接するメディアのバランスを考えた時に、映像と接する機会が減り続けるのはどうかと考えた。これが蛇足だが三点目。どれも、自己中心的な理由だが。


とにもかくにもテーマを決めなくてはいけない。書きながら、考えながら、いろいろな方の意見を伺いながら、自分の考えを固めていくことを許されるのが、ブログというメディアの性質だとするなら、そうであればこそ、最終的に、何らかの答えを出すことが当然の使命だ。


ここで先に、次回の題材をばらすと、小津安二郎から書いていこうと思う。彼が活躍した時代が日本映画界の黎明期であり、起源だと考えるからである。それを前提として、現代の映画を見た時に、その頃のエッセンスが受け継がれているのか否かをテーマとするのはどうだろうか?まだ迷いはあるが、とりあえず今の時点ではそういうことにさせて頂きたい。このテーマに限らず、ご意見、反論、遠慮なく言っていただきたい。


すでに、小津作品は「東京物語」と「秋刀魚の味」を見た。この両作品の違いを考えているが、「東京物語」は、少々人間を描こうとしすぎたのはないか。正直うんざりした。ここから、次回まで考察を続けていきたいと思う。